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フランス在住、早大柔道部OBの著者の柔道に明け暮れた学生時代、そして柔道の指導の為、フランスへの1ヶ月に渡る船旅、各国の様子、現地での就職、営業活動など当時の写真とともに振り返ります。

私と柔道、そしてフランス…

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私と柔道、そしてフランス…

【 安 本 總 一 】
早大柔道部OB フランス在住



私と柔道、そしてフランス… - 最終回 「日本ロレアル株式会社」設立  -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年11月2日

- 最終回 「日本ロレアル株式会社」設立 -

 1995年、ロレアルは筑波研究学園都市にフランス国外で唯一の基礎研究所を開設しました。翌年には 、化粧品およびヘアケア製品の研究開発業務を統合して、かながわサイエンスパークの研究施設を大幅に拡充しました。

 そんな時に、日本におけるロレアル・グループの総括責任者としてLoïc Armand (ロイック・アルマン)が赴任してきたのです。

 彼は、エリート校中のエリート校・ENA(国立行政学院)出身で、卒業とともに大蔵省会計監査局に入局。ロレアルに転職後は、ロレアル・ベルギーのコンシューマー事業部、ロレアル・メキシコのトップを歴任。当時、44歳で、ロレアル・グループの中では唯一のファッション・メーカーであるLANVIN(ランヴァン)の社長を務めていた大物中の大物です。

 これらの動きから、ロレアルは「関連企業を統合して独立しようとしている」と誰の眼にも明らかになっていたに違いありません。

 コーセーの小林社長は人一倍敏感にそれを察知して、強引なロレアルがコーセー本体に手をつけることを恐れていたはずです。相手は、途方もない財力をもって、数々のM&A(企業間の合併・買収)を繰り返して巨大になったロレアルですから、それも当然でした。 

 すでに20年も前、1977年の国際会議の夕食会で、たまたま、ダル社長とベタンクール取締役(注1)のテーブルについた私に、初めて会うベタンクール取締役 から色々な質問が飛び出しました。その一つに「なぜコーセーを買収しないのか?」がありました。突然で答えに詰まる私に代わってダル社長が「検討はしているが、コーセーは非上場企業なので、現在は難しい」と答えてくれたことを思い出します。

 ロイック・アルマンが赴任して間もなくの1996年の春だったと思いますが、コーセー小林社長との会議から戻ったデイヴィッド・アシュレーに呼ばれました。ロイック・アルマンとともに、彼は“ロレアルの独立”について小林社長と話し合ってきたのです。

 彼は「話が思いのほかスムースに進んだので驚いたよ。小林社長は覚悟していたと見え、日本に於けるすべてのロレアル関連企業が設立予定の日本ロレアル㈱へ統合されることに、簡単に合意してくれた。もちろん、ロレアル側からは、コーセーがロレアル発展に貢献したことを高く評価して、破格の条件を提示したからね。とても喜んでもらった」と 満面に笑みを浮かべていました。 

 こうして、1996年7月1日に「日本ロレアル株式会社」が設立されたのです。

日本ロレアル発足 合同記者説明会
【日本ロレアル発足 合同記者説明会】
右から、コーセー小林社長・アルマン・アシュレー
 新会社の概要は:
 
・代表取締役会長:デイヴィッド・アシュレー 
・代表取締役社長:ロイック・アルマン
・株主構成;ロレアル S.A.(フランス) 98% / 株式会社 コーセー 2%
・事業部:
コンシューマー・プロダクツ事業本部 : ロレコス(旧コーセーコスメタリーを含む)が移行
プロフェショナル・プロダクツ事業本部 : コスメフランス/コーセー・ロレアル事業部/アレクサンドル・ドゥ・パリ(注2)が移行
ラグジュアリ・プロダクツ事業本部 : ランコム/ヘレナ・ルビンスタインが移行

 忘れてはならないのは、旧コーセーコスメタリー/コーセー・ロレアル事業部に約230名のコーセー社員が在職していましたが、ほぼ全員が日本ロレアルに転籍したことです。

 私自身はと言いますと、木村睦本部長の補佐役として、本部長室室長に任命されました。彼はコーセー・ロレアル事業部部長から日本ロレアル副社長兼プロフェショナル事業本部長にスライドした、コーセー生え抜きの人物です。 私は、100%日本企業のコーセーから独特の雰囲気のあるフランス系企業に突然放り込まれることになった木村本部長を初め、旧コーセー社員の戸惑いに気を配りながら、楽しく仕事ができる雰囲気作りに努力し、あらゆる面でアシュレー会長、アルマン社長、及びパリ本社との調整役を務めました。

 しばらくすると、「設立されたばかりの会社なのに社員に高齢者が多い」という フランス人幹部の声が聞こえてきました。ロレアルとコーセーが提携したのが35年ほど前ですから、当然といえば当然ですが。

 そこで、人事が提案したのが50歳以上の社員を対象にした「早期退職優遇制度」でした。その時、すでに57歳を越えていた私は、アシュレー新会長と相談して応募することにしました。

 そして、退社を決断した直後、アルマン社長から、退職後、社長付顧問としてアドヴァイスを続けて欲しいとの要請があり、喜んで承諾しました。  

 こうして22年間お世話になったロレアルを1998年3月に退職しました。社長付顧問役は、その後一年間続けました。

 因みに、コーセーは、2000年12月に東京証券取引所市場第一部に上場されました。また、日本ロレアルの社員数は、1100名を数えるまでになっていました。

 さて、当初はこのエッセーは、イギリスでの柔道指導を終えて帰国するあたり(第四十三話)で完結させる心算でしたが、周りの奨めで今日まで続けてきてしまいました。ロレアル退社後現在までの経験をさらに語るとなると、またかなりの日数が必要となるでしょう。このあたりで一旦閉めることにいたします。

  長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。

  最後に、これまで毎回文章をチェックして下さった翻訳家・田中千春さんに心からお礼を申し上げます。

(注1)
ベタンクール取締役:ロレアルの創設者・シュエレールの娘婿

(注2)
アレクサンドル・ド・パリ:1992年に日本で誕生した美容室流通で唯一の高級化粧品


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私と柔道、そしてフランス… ー 第八十話 特殊な世界 「美容業界」(その二) ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年10月15日

- 第八十話 特殊な世界 「美容業界」(その二) -

 美容業界未経験の私のために、コーセー・ロレアル事業部もレクチャーを何回も開いてくれ、かなりのスピードで斯界の状況を掴むことができるようになりました。

 その中で、日本独特の流通システムには大変驚かされました。 欧米では、ロレアルは自社の営業マンが直接美容室に売り込む「直接販売(直販)システム」を施行しています。日本では、美容室がメーカーから直接購入することはなく、卸問屋 を介して調達するのが一般でした。それは現在でもあまり変っていないようです。

 このシステムは、元々日本の地形とコストパーフォーマンス(費用対効果)から生まれた慣習のようですが、その後、卸問屋の力が強くなるとともに、その既得権ができ上がっていました。

 また、メーカーとしても敢えて直接美容室と取引せず、卸問屋に任せていたのは、それだけ、卸問屋の力を評価していたのです。

 理由は、卸問屋が商材の安定供給、美容室のスタッフの技術や接客の教育、美容室経営のアドバイスなどを懇切丁寧に行なっていたからでしょう。

 さらに、卸問屋はメーカー別に系列化されていました。メーカーは契約している卸問屋が他のメーカーを扱うことを禁じていたのです。さすがに、最近はこの慣習はかなり曖昧になっているようです。

 コーセーも卸問屋と深い信頼関係で結ばれていました。一般の呼称である“ディーラー”ではなく、“エージェント(代理店)”と呼んでいるほどでした。そのコーセーに対して、ロレアル本社は直販に移行するように強く圧力をかけますが、コーセーは頑として聞き入れませんでした。

 こういう状況の中でも、コーセー・ロレアル事業部は独自の教育方法で勉強熱心な美容師を支え、これを「教育産業」と呼んでいました。これこそがロレアル成功の第一要因だったのでしょう。

 ロレアル/コーセー提携以前から、日本の美容師は“美容とファッションはフランス/パリから”の意識が強かったようで、ロレアルが教育の一環としてフランスから有名美容師を招いて開くヘア・ショーには、驚くほど多くの美容師が集まったものです。

 圧巻だったのは、世界の美容界の帝王「アレクサンドル・ ドゥ・パリ」によるヘア・ショーです。オートクチュールの衣装をふんだんに使ったこのイヴェントには、東京と大阪それぞれの会場に1500人以上の美容師が詰めかけました。アレクサンドルもノリに乗って、予定時間を大幅に超え、20人以上のモデルの髪を衣装に合わせて作り上げます。 素晴しいフィナーレに感動しながらロレアルにいることを誇りに思ったのがまるで昨日のことのようです。

アレクサンドル・ドゥ・パリアレクサンドル・ドゥ・パリを迎えて
【アレクサンドル・ドゥ・パリ】【アレクサンドル・ドゥ・パリを迎えて】
鋭い眼光が印象的
【鋭い眼光が印象的】
作品集
【作品集】

 日本の美容師のフランス/パリに対する思いを如実に表わしたのが、1997年2月3日、パリのカルーゼル・ドュ・ルーヴルで開催された「ヘアスタイリスト協会(注1) 20周年記念 1997年ニュー・ヘア・モード発表会&東京・パリ -ヘアコレクション」です。

会場はルーヴル美術館の地下
【会場はルーヴル美術館の地下】

 前年の7月頃、当会の創立者・井上陽平会長から連絡がありました。

 「メーカーやエージェントが、それまで不可侵とされていたヘア・モード創作にまで手を出してきているが、何とかそのような風潮をヘア・モード創作団体に取り戻したい。また、日本の美容師の実力を欧米に示したい。ついては、当会20周年を記念して、ニュー・ヘア・モード発表会をパリで開催したい。準備に協力して欲しい」というものでした。

 それから約半年間、井上会長のアシスタントになったような形でお手伝いしました。 もちろん、ロレアル本社、及び会長と親しい在仏日本人美容師の協力も仰いだことは言うまでもありません。

 美容師20名、オートクチュール衣装をまとったモデル69名を駆使するショーの成功の鍵を握るのは演出家です。私は、前述のアレクサンドルのショーを担当したベルナール・トゥリュックスを推薦しました。

 開会に当たり、関係者が一番心配したのは、どれだけの観客が集まるかでした。しかし、それは杞憂に終りました。日本から遠路一万キロ、極寒のパリに、何と450名以上が駆けつけたのです。やはり、フランス/パリの魅力が大きく作用したのでしょう。

  さらに、国際美容連盟会長を初め、アレクサンドルなどのフランス人招待客120名を加え、会場は立ち見も出るほどの盛況でした。

満席状態の会場
【満席状態の会場】
最前列左から4人目:アレクサンドル、8人目:アシュレー社長 
グランド・フィナーレ
【グランド・フィナーレ】

 ショーは大成功に終わり、夜の食事会でもブラヴォーの声が絶えませんでした。

(注1)
ヘアスタイリスト協会:美容室に直結したヘア・スタイルを提唱し、若い美容師の活動の場所とチャンスを作っている。

次回は -最終回 「日本ロレアル株式会社」設立- です。 


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私と柔道、そしてフランス… ー 第七十九話 特殊な世界 「美容業界(その一)ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年10月1日

- 第七十九話 特殊な世界 「美容業界」 (その一)-

 「美容業界(注1)」は、ロレアルにとっては生れ故郷のような存在です。

 1907年、パリ・オペラ座にほど近いアパルトマンで、創始者ウージェンヌ・シュエレールが、画期的な染毛剤(ヘアカラー)を開発して、これをパリの美容室に自ら売り歩いたことが、ロレアル誕生の起源といわれています。

 それ以来、ロレアルが進出を図る国々では、まず、ヘアカラーを中心とした技術製品を美容室に売り込みます。そして、その国に教育センターを作り、売り込みに成功した美容室で働く美容師たちを招き、徹底的に使用技術を教え込んできたのです。

 もともとパリ本社には、創業者が世界中の美容師のために設立した教育センターがあり、日本からも多くの美容師が教育を受けに訪れていました。その結果、1960年代初頭の日本の美容業界ではロレアルの日本進出を期待する声が高まる一方でした。

  こうした中で、コーセーがロレアルとの技術提携契約に成功したのです。1963年のことでした。

  コーセーは、ロレアルの指示に忠実に従って、教育センターを作り、デモンストレーター(インストラクター)を採用して、製品を教育と組み合わせて美容師に使ってもらったのです。こうして「教育のロレアル」という呼び方が定着します。

 それに加え、1974年に発売した新しいタイプのパーマ剤“ミニバーグ”が大ヒット!翌年には、店販品(注2)として発売したシャンプー/トリートメント・ライン“トレタン”も大ヒット。

 その結果、ロレアルの「美容室向け製品部門」は日本の業界トップに育ちました。

 この活発な美容業界に私が本格的に係わり始めたのは、1991年、ロレアル関連会社が代々木の新築ビルに集結してからです。

代々木オフィスにて
【代々木オフィスにて】

 それまでこの業界と接触する機会がまったくなかった私はにわか勉強に没頭するしかありませんでした。第六十二話で記述したとおり、日本、フランス、イギリス何れでも、散髪は床屋で済ましていましたから。 

理容室(床屋)を示す3色のサインポールはインターナショナル
【理容室(床屋)を示す3色のサインポールはインターナショナル】

 やむなく、生れて初めて六本木の美容室に足を踏み入れることになりました。若い男性美容師がカットをしながら私の質問に丁寧に答えてくれただけでなく、閉店後にも説明の時間を作ってくれました。

(注1)
美容業界:1983年頃の日本全国の美容室数は、約17万店舗に上りました。

(注2)
店販品:美容室で消費者に販売されている物品。シャンプーやトリートメントのようなヘアケアー商品を販売するのが一般的だが、化粧品、食品、アパレル、アクセサリーなどを販売するケースも増えている。究極の推奨販売ができるメリットがある。

 次回は -第八十話 特殊な世界「美容業界」(その二) - です。


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私と柔道、そしてフランス… ー 第七十八話 合弁会社化、そして合併へ...ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年9月17日

- 第七十八話 合弁会社化、そして合併へ -

 ロレコス/コーセーコスメタリーの合併を前提とした同居の予行演習が始まりました。

 100%コーセー出資の㈱コーセーコスメタリーでは、そのころ、初代旗振り役の佐野堅治常務が亡くなり、その後任に、アシュレーも私も、コーセー埼玉営業所所長時代にロレアル製品拡売に力を注いでくれた河村博文氏を推薦していました。それをコーセー小林禮次郎社長が聞き入れて、河村氏の常務就任が決まったところでした。

 アシュレーと小林社長の目論見通り、ロレコス/コーセーコスメタリーの協力関係が日毎に高まっていく中で、小林社長自身も問屋(代理店)ルートのイヴェントに積極的に参加してくれるようになりました。

 当時は、ロレアルに関して相反する評価が斯界に交差していました。山陽スコット問題に端を発した不信感が根強く残っている一方、スタイリング・ムース“フリースタイル”のような新しい市場を作り出す開発力が高く評価されていました。そういう中で、小林社長の動向はとくに注目されたのです。なにせ、コーセーは日本の化粧品業界第三位の大企業で、その経営手腕は業界随一と定評があったのですから。

 小林社長は、問屋(代理店)の幹部にロレアルをより深く知ってもらうために始めたヨーロッパ研修旅行にも喜んで参加してくれました。2回目だったと思いますが、夫人と、前年コーセーに入社したばかりの長男(小林一俊現コーセー社長)も参加されたことを思い出します。

第2回代理店幹部研修旅行 ロンドン・ロレアル社前
【第2回代理店幹部研修旅行 ロンドン・ロレアル社前】
小林社長:中央で腕を組む、 河村常務:右端
小林一俊現コーセー社長:左端、 アシュレー:最後列右端
安本:中腰
第2回代理店幹部研修旅行 カーディフ駅 ホームにて
【第2回代理店幹部研修旅行 カーディフ駅ホームにて】
河村常務:右端、 安本:右から二人目
小林現コーセー社長:右から三人目
コーセーコスメタリー・山下部長:左端

  この研修旅行は、他社には真似のできないものとして評判となり、7回に渡って実施されました。また、これには毎回、コーセーコスメタリーの社員が何人か同行し、これによって築かれた担当問屋との絆は貴重な財産になったようです。

 一方、話は前後しますが、この問屋ルートの「ヨーロッパ研修旅行」に先駆けて、制度品ルート・コーセーの全国の営業所を対象に、「ロレアル製品売上げ伸張率コンクール」を行ない、その優秀賞として、毎年5営業所の所長と美容部長をヨーロッパ研修旅行に招待していました。

 これらのヨーロッパ研修は、パリ本社でのレクチャー、ウエールズ工場見学、各地での販売店見学の外に、ドイツ・イタリア・スイス・スペイン・ギリシャなどの観光を盛り込んだ豪華旅行ですが、これを毎回企画・引率するのもアシュレー/安本のコンビでした。

 こうした販売促進策の成果として、1984年に開発された制度品ルート専用の「エクセランス」ラインの拡売は順調に進み、一時、コーセーの自社ブランド「リザルタン」シャンプー・ラインの影に隠れていたロレアル製品が、コーセーのカウンターに戻ってきていました。

 さらに、エルセーヴ増量版やフリースタイルなどが、問屋(代理店ルート)専用商品になって以来大躍進を遂げ、飛躍的な売上げを記録していました。

 その結果、㈱コーセーコスメタリーが、1990年にロレアル/コーセー対等出資の合弁会社となり、社名も㈱コスメタリーに変更されます。また、河村常務が社長に昇格します。

 翌年(1991年)には、コーセー・ロレアル事業部(注1)と、ロレコス、コスメフランス、コスメタリーの3社が代々木の新築ビルに移転。“日本のロレアル関連企業の統合”・“ロレアルの独立”というゴール点が、近い将来に見えてきました。

 1994年には、計画通り㈱コスメタリーは㈱ロレコスに吸収・合併され、㈱ロレコスのコンシューマー事業部として再出発します。事業部長は、外資系飲料会社から移ってきた人で、事業部員は70名(内54名ほどは旧コスメタリー出身者)ほどになっていました。この時点で河村社長は惜しまれながら退職。私も、当新事業部への関与はできるだけ控えるようになります。

 それでも、相変わらずアシュレー社長の補佐役として、ロレコスのみならずコスメフランスの業務も担当し、制度品ルート用に開発された「エクセランス」ラインの動向を追うことはもちろん、コーセー・ロレアル事業部とアシュレー社長、及びロレアル本社との調整役で忙しい日々を送っていました。  

(注1)
コーセー・ロレアル事業部:1963年のロレアル/コーセー提携以来「ロレアル・美容室向け製品部門」を日本の業界トップに育て上げた。

 次回は「第七十九話 特殊な世界 「美容業界」」です。 


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私と柔道、そしてフランス… ー 第七十七話 コーセーコスメタリーの活躍ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年9月3日

- 第七十七話 コーセーコスメタリーの活躍 -

 1984年、エルセーヴ・ラインの順調な伸びとフリースタイルの発売で、問屋を通してこれらの商品を仕入れている店(スーパー・薬局など)では活気を帯びてきましたが、コーセーから直接仕入れているデパートや化粧品店では、売れ行きが伸び悩んでいました。

 主な理由は、スーパー・薬局などでの相変わらずの値引きです。同じ商品を定価販売で買う客が減ってくるのは当然でしょう。

 スーパー・薬局などでは、売れれば売れるほど、目玉商品として値引きの対象になります。場合によっては、乱売(注1)合戦に巻き込まれることもあります。この頃、エルセーヴ/フリースタイルなども、この合戦に巻き込まれる危険性を常にはらんでいました。

 そこで、ロレコスはしばらく前から検討していた新戦略を、思い切って導入することにしました。それは原点に戻って、制度品ルート(注2)/問屋ルート(注3)について、それぞれのルートの特徴を活かせる商品政策/ブランド開発の導入を図るというものでした。

 手始めに、それまで両ルートで販売していたエルセーヴ/フリースタイル/レシタル(染毛剤)などを問屋ルート専用としました。また、同時に、エルセーヴ・シャンプー/リンスの増量版を発売して、 その頃から始まっていた“朝シャン(注4)”ブームに対応したのです。

 そして、定価販売をモットーとする制度品ルートには、新しいトータル・ヘアケア・ラインを導入するという思い切った販売戦略の変更を決定しました。

 この新しいラインを“エクセランス”と名付けました。シャンプー・リンス・トリートメント・ムース・染毛剤・ヘアスプレーなどを揃え、価格に関しては、エルセーヴ・ラインなどよりも20%ほど高く設定しました。

 この新戦略は、両ルートから受け入れられ、順調な滑り出しをしました。

 こうして、ロレアルとコーセーの関係が深まる中で、ロレコス初代社長のアルナルが定年で帰国したこともあって、例のカナダから来た大物ディレクターは、ロレアル関連企業の統合と“ロレアルの独立”に向けて、あからさまに事を進めていました。

 こうした強硬なやり方は、コーセー社員だけでなく顧客にも悪影響を及ぼすとして、コーセーの小林禮次郎社長が再び動きました。1976年の山陽スコット問題でロレアル・ダル社長に直訴したとき以来です。1985年10月頃だったでしょうか、今度は書状でダル社長に窮状を訴えました。それが功を奏して、ほどなくこのディレクターは更迭されます。

 しかしながら、この更迭によって、ロレアル本社の本音が代わるわけでもありません。小林社長はこの時点ですでに、コーセーにとって、如何により良い条件で”ロレアルの独立”を認めるかを真剣に考え始めていたと思います。

 一方、アシュレーも、前任者と同じように“ロレアルの独立”を本社から命じられていたはずですが、その穏やかな性格やコーセーの功績に対する高い評価から、手をこまねいていました。

 それでも、前任者の更迭を機に、アシュレイ/小林社長との間で腹を割った話し合いが始まりました。

 その結果、まず、ロレコスの事業を成功させることが肝要ということで一致したとのこと。その上で、10年先を見据えた戦略を練っている、とアシュレーは私に話してくれました。

 そして、その大きな波が1987年にやってきます。やっと落ち着いたばかりの森ビルから、ロレコス/コスメフランスは一番町FSビルに移転するというのです。驚いたことに、コーセー本社に拠点を構えていたコーセーコスメタリーも同ビルに移り、同居状態になるということでした。

 アシュレーの説明によると、小林社長と合意した戦略の骨子のなかに、“ロレコスとコーセーコスメタリーの合併”という計画が盛り込まれてはいるが、全く異質の二社が突然合併しても成功は望めないので、まずはこの二社を同居状態に置き、合併に向けての予行演習を開始したい、とのことでした。

(注1)
乱売:採算を度外視してむやみに安く売ること

(注2)
制度品ルート:コーセーから直接仕入れるルート。定価販売をモットーとする。

(注3)
問屋ルート:問屋を仲介して仕入れるルート。値引きによる競争が熾烈。

(注4)
朝シャン:1980年代中盤から、朝早く起きて、シャンプーをしてから通勤、通学する「朝シャン」が若い女性のあいだに流行し、中には一日数回シャンプーする高校生/大学生が現れたりした。また、シャンプーが手軽に、短時間でできるような商品が開発された。シャンプーとリンスが一度で済む、リンスインシャンプーのほか、裸になって風呂場まで行かずとも、洗面台で髪を洗えるシャプー・ドレッサーが登場した。 

 次回は、「第七十八話 合弁会社化、そして合併へ」です。


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私と柔道、そしてフランス… ー 第七十六話 スタイリング・ムース ”フリースタイル” 発売!ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年8月20日

- 第七十六話 スタイリング・ムース“フリースタイル”発売! -

 待望のデイヴィッド・アシュレーが、ロレコス/コスメフランスの常務取締役として来日すると同時に、この二社も銀座から麻布台の「メソニック39森ビル」に移転し、ここでまた、新たな出発をしました。

 私は、アシュレーの補佐役として、ロレコスのみならず、コスメフランスの業務も担当することになりました。

 まだ30歳代(?)のアシュレーは、生粋の英国人ですが、フランス語をフランス人のように話し、おまけに、美声の持ち主で 、かつトロイ・ドナフュー張りの美男子でした。その上、温厚な性格の持ち主ときていますから、あっという間に周りを魅了していきます。

  また、父親のシリル・アシュレーは英国・ロレアルの大幹部で、かつて、ロレアル/コーセー提携時にロンドンに滞在していた小林禮次郎氏が大変お世話になったという!その影響か、息子のデイヴィッドはコーセーとの協力関係を深めたいという希望を公言して、小林社長を喜ばせました。

 そして、カナダからのお土産として持ってきてくれたのが、ムース(泡)状のスタイリング剤(整髪剤)でした。

 早速、コーセーのサロン事業部(美容室向け製品部門)に提案したところ、その時点では、興味を示されなかったので、ロレコスとして、一般市場で発売することに決定しました。

 これが、ロレアル自慢の“セット力のある”スタイリング・ムース“フリースタイル”なのです。その当時の日本ではヘアムースは資生堂が販売していましたが、これは強いて言えば“艶出し”ムースで、”フリースタイル”のようなセット力のあるスタイリング・ムースは日本市場には皆無でした。「ベタつかず、自然な感じにしっかりセットするスタイリング剤」がうたい文句でした!

スタイリング ムース “フリースタイル”
【スタイリング ムース “フリースタイル”】

 さて、日本では、エアゾール製品(注1)の製造は、エアゾール製造専門会社に外注しなければならず、その際、“企業の命”としている処方も開示しなければならないことから、日本での製造はあきらめざるを得ませんでした。そして、英国・ロレアルのカーディフ(ウエールズ地方の首都)工場で製造し、完成品を輸入することになりました。因みに、このカーディフ市は、ラグビーのウエールズ・チームの聖地としても知られていますね!

 この輸入ムースは1984年夏に発売し、9月には、川島なお美を起用したCMを流し始めました。それまでは、本社が指定する映像を日本語に吹き替えたものしか使えなかったのですが、アシュレーのお陰で、日本独自のCMを制作することができました。

CM撮影中手タレ(手のタレント=パーツモデル)活躍中
【CM撮影中】【手タレ(手のタレント=パーツモデル)活躍中】

 問屋ルート/制度品ルート共に、反応は上々で、第一回輸入分はすぐにアウト・オブ・ストック!輸入計画を大幅に練り直さなければならない事態になり、しばらくは空輸で凌ぎました。

  しばらくして、業界紙などで“フリースタイル”の成功が話題になった頃、コーセーの商標担当者から連絡がありました。驚いたことに、仏語では一般名詞である“スタイリング・ムース”の“ムース”を、資生堂が商標として登録していて、我々が品目名として使用しているこの“ムース”が資生堂の商標権を侵害するというものでした。できるだけ早く“スタイリング・フォーム”に変更するようにとの指示でした。

 社内では大騒ぎになりました。ところが、数日後に同じ担当者から再度連絡があり、商標管理が厳しい資生堂から「ロレアルには特別に“ムース”という言葉の使用を許可する!」との報告があったことを伝えられました。理由は、“スタイリング・ムース”という新しい市場を創出した功績に対する“お礼”なのだそうです。

 資生堂の“大きさ”を感じた瞬間です。

 このとき、頭をよぎったのは、日本電子のパリ時代に知り合った当時の資生堂ヨーロッパの責任者・星野史雄さんのことでした。彼とはこの頃も親しくしていて、この件では、恐らく彼が相当動いてくれたものと、今でも思っています。本人は否定していましたが。

 と言いますのも、1982、3年の頃、ロレアルのダル社長が「前年度もロレアルの連結売上げは化粧品業界では世界一」と発言した記事を、当時の資生堂社長が目にして異論を唱え、ロレアルに抗議せよと、外国部に指示したことがあったのです。

 星野さんも当時は既に帰国してこの外国部に勤務していて、私がロレアルにいることを思い出し、銀座のオフィスに訪ねてみえました。

 両社長が、主張を変えることは絶対あり得ないというのが二人の一致した考えでした。やむなくこの問題は次世代に任せ、両社長にはそのまま仲良くつきあってもらおう、との結論に達しました。そして 、星野さんの提案で、まず、相互の工場見学の実現を目指すことで合意しました。

 その後、ダル社長の来日の折に、資生堂の工場見学が実現しました。このとき工場を案内してくれたのは、当時の外国部部長の福原義春氏。かの有名な後の資生堂社長です。 お返しに、福原氏訪仏の折にはロレアルの工場見学も実現しました。

(注1)
エアゾール製品:気化した液化ガスまたは圧縮ガスの圧力によって、内容物を容器の外に自力で霧状や泡状などにして放出させる製品

次回は、「第七十七話 コーセーコスメタリーの活躍」です。


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私と柔道、そしてフランス… ー 第七十五話 ロレアルの気になる動きー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年8月6日

- 第七十五話 ロレアルの気になる動き -

 さて、いよいよカナダ・ロレアルの大物が赴任してきました。日本のロレアル・グループの代表という位置づけでした。ロレコスのアルナル社長によると、彼はパリ本社の立てた長期計画の“執行者”としてやってきたのであり、それだけに強引にことを進めるだろう、ということでした。

 その彼のアシスタント役を私が負うことになりました。

 アルナル社長の言葉通り、1982年~1983年に、彼は次のような数々の大きな動きの采配を取ります:

その前、1978年に、㈱ニコフランス(ロレアルの高級化粧品部門とコーセーとの合弁会社)が設立されていました。この合弁会社が、日本の高級化粧品市場で苦戦していて、 コーセーにとって重荷になっていたのを彼は見抜き、コーセーの持株をすべてロレアルが買い取り、ニコフランスを“独立”させます。
ロレアルの関連会社すべて(新ニコフランス/ロレコス/コスメフランス)の拠点を東 京・麻布台の「メソ ニック39森ビル」に置こうとしました。しかし、ロレコスのアルナル社長とコーセーは「移転の必要性は全く無い」として拒否、ロレコスとコスメフランスはそのまま銀座オフィスにとどまり、取りあえず、新ニコフランスのみを1982年9月に森ビルに入居させます。
日本で最初の研究開発施設を同ビル内に開設します。
ヘレナルビンスタイン社を買収。同社の御殿場工場を手に入れることにより、ロレアルとして、独自の生産体制を整えました。

メソニック39森ビル日本で最初の研究施設
【メソニック39森ビル】 右側手前から4棟目
【日本で最初の研究施設】
ヘレナ ルビンスタイン 御殿場工場
【ヘレナ ルビンスタイン 御殿場工場】

  こうした一連の動きを知ったコーセーの小林禮次郎二代目社長が、あるとき私に「これでロレアルはいつでも独立できる体制に入った!」と警戒を強めていたことを思い出します。

  折しも、ロレアルの二代目社長のフランソア・ダルが、ロレアル・カナダの美容室向け製品部門で活躍しているデイヴィッド・アシュレーを伴い、1983年2月に来日する、との知らせが入りました。

  アシュレーは、大物ディレクターの補佐として、とくに、ロレコス/コスメフランスの責任者として赴任するという!

  この人事の重要性は、この年がロレアル/コーセー提携20周年を祝う年で、様々なイベントが計画されているにも拘らず、ダル社長はアシュレーをコーセーに自ら紹介することを、何よりも優先させたことでも分かります。

 このことを一番喜んだのは、コーセーの小林社長でした。デイヴィッド・アシュレーは、他でもない、数十年前に研修で訪れた英国・ロレアルで世話になったシリル・アシュレーの息子だったのです。しかも、ダル社長が、儀礼を尽くして、自ら彼を紹介するというのですから。

 アシュレーの赴任に備え、ロレコスとコスメフランスのメソニック39森ビルへの移転が、急転直下、アルナル社長及びコーセーの了承を得ました。ただ、ニコフランスとの同居は避け、別の階に入居します。これはアルナル社長とコーセーの移転了承の条件でもありました。この2社はあくまでもロレアルとコーセーの合弁会社であり、100%ロレアルのニコフランスとは立場が違うからです。

 また、ロレコス/コスメフランスの新体制下で、コーセーは、ロレコスに、雨宮慎一(注1)さんを取締役として送り込んで来ました。かつて1967年末に、小林禮次郎専務(当時)の懐刀として専務に同行し、山陽スコット問題を討議するためにロレアル本社に乗り込んだ異才です。彼は、合弁会社のパートナーとしてのコーセーの立場で、経営に参画するだけでなく、ロレアルの動きを監視する役目も負っていることは明らかでした。

 この合弁会社2社には、日本人男性社員は私一人だけの状態が続いていましたので、相談相手としての雨宮さんの参入は私にとって願ってもないことでした。

 こうして、日本のロレアルは大きく変わっていきます。

(注1)
雨宮慎一:現在、化粧品・美容関連のマーケティング情報誌「beauty buisiness」などを制作・発行する「ビューティビジネス・グループ」代表

次回は「第七十六話 スタイリング・ムース“フリースタイル”発売!」です。


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【安 本 總 一】
現在




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私と柔道、そしてフランス… - 第七十四話 ロレアルの“機を見るに敏” -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年7月22日

- 第七十四話 ロレアルの“機を見るに敏” -

 ロレアルとコーセーとの関係改善を進めるため、コーセーコスメタリーの佐野常務をパリに案内していたときのことでした。アジア担当ディレクターから、改めてヴィリエ前専務の後任派遣は不可能であることを言い渡されました。その上、前専務が担当していた業務は私が引き継ぐよう、命ぜられました。

 東京で「しばらくは、誰も送れない!後をよろしく!」 とディレクターから言われたときから、すでに心の準備はできていました。

 ただ、当時、㈱ロレコスの人的体制はアルナル社長以下たったの3人。社長はコスメフランス㈱(注1)のマネージャーでもあり、それだけでも多忙な人。あとは、女性秘書、新製品開発部員(女性)と私で、3人とも日本人です。この体制では私に様々な仕事が覆いかぶさってくることは明らかでした。

 営業、マーケティング、総務、広報(業界紙対応など)、すべてを一挙に抱えこむ訳です。その上、アジア担当ディレクターへ毎月、仏語で業務報告、本社指定フォームによる年度末報告書や新年度計画書の提出などなど、多岐に亘りました。ただし、経理は外部の経理代行会社に依頼していました。

 幸い、ヴィリエ専務は、約1年半という短い期間でしたが、まるで、このような事態を予期していたかのように、私をアシスタントとしてよりも後継者としてのように、丁寧に指導してくれていました。お陰で、あわてることなく新たな出発点に立つことができたのです。

銀座オフィスにて
【銀座オフィスにて】

 前専務の重要任務の一つであった流通問題は、“雨降って地固まる”のことわざ通り、全国66の問屋の受け皿として設立された(株)コーセーコスメタリーが積極的に営業活動を展開し始めていて、良い方向に向かいつつありました。この時点では、当社の社員は僅か十数名でした。

 また、ヴィリエ専務が得意としていたマーケティング、とくに、新製品開発については、彼が手掛けた「エルセーヴ・バルサム・シャンプー/リンス」ラインが順調な売れ行きを見せ、これに1978年中に8品もの新製品を追加発売する準備ができていました。その中の日本独自で開発した強力ヘアトリートメント「ヘアパック」は大ヒットし、エルセーヴ・ラインの牽引役を務めることになります。また、これは一人歩きのできる商品にも成長します。

 ロレコスは、ヘアカラー(毛染め)の色味を増やすことにも力を入れていました。とくに、染めにくい白髪を“カラスの濡れ羽色”に染めるのではなく、濃いブラウン系、アッシュ系の色味を与える方向で開発を進めました。

 さて、マーケティングの重要な一要素である“広告宣伝”に関して、ロレアルとコーセーの考え方は、ロレコス設立時から明らかな相違がみられました。ロレアルは広告やプロモーションで消費者を自社製品に引っ張っていくことを追求し、コーセーは、流通機構に商品を押し込んで、商品が買われるチャンスを増やすことが先に立つ、との考え方です。

 また、広告代理店の扱い方でも正反対の立場にありました。ロレアルは、広告枠の仕入れ・買い付け、広告素材の制作、プロモーションなどを一貫して特定の広告代理店へ外注しており、コーセーは全て、あるいは大半を自社で行う、インハウス化を目指していました。

 そして、ロレアルは当時世界最大の広告代理店「マッキャン・エリクソン社」と国際契約を結んでおり、日本では自動的に博報堂との合弁会社「マッキャン・エリクソン博報堂」が使われました。

 実際、その営業マンが毎日、まるで社員のようにロレコス社に現れ、どんなに少額の注文でもひきうけて帰るのです。ヘアカラーの色味見本帳から商品のディスプレー台まで。さらに、マネージャーもしばしば訪れて貴重な相談相手になってくれました。

 第六十三話で紹介したように、研修初日に訪れた本社マーケティング部の部員の数の少なさを思い出しましたが、そうなのです、こうやって外部の協力によって少人数で効率よい結果を生んでいるのだとやっと納得しました。

 ロレコスのあの人的体制でなんとか仕事を続けられたのも、マッキャンの誠意ある対応によるところ大であり、今でも感謝しています。

 こうして、ロレアル関連事業(業務用製品部門・パブリック製品部門・ランコーム)が、すべてコーセーの元で成長していくのです。

 とくに、小林禮次郎専務が吐露したように、1979年には、群馬県伊勢崎にロレアル製品製造を中心にした近代的な工場が完成!

群馬工場
【群馬工場】

  そして、機は熟し、誰しもが“そろそろ、誰かが送られてくるだろう”と思うようになった1982年初頭、ロレアル・カナダの大物ディレクターが日本のロレアル・グループ(注2)の代表として赴任するとの報が入りました。

(注1)
コスメフランス㈱:業務用製品のマーケティング活動の推進を目的に設立された合弁会社(出資比率:ロレアル50% / コーセー50%)。

(注2)
ロレアル・グループ:㈱ロレコス/コスメフランス㈱/㈱ニコフランス(ロレアル50%/コーセー50%の合弁会社で、ランコームのマーケティング担当)

次回は<第七十五話 ロレアルの気になる動き>です。


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【安 本 總 一】
現在




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私と柔道、そしてフランス… - 第七十三話 君子危うきに近寄らず -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年7月9日

- 第七十三話 君子危うきに近寄らず -

 「我々は、日本でミスを犯しました」は、マーケティングのエクスパートとして自信を持って日本市場開拓に挑戦したレヴィー副社長の言葉だっただけに、反響は大きかったようです。

 この冒頭の「ミス」というのは、合弁会社「㈱ロレコス」設立の際に、小売店への直接ルートはコーセーに任したものの、問屋ルートは山陽スコットに、それも総代理店として遇したこと。その上、コーセーに対してはなかった仕切値に対して20%の割引まで、コーセーと相談せずに与えてしまったことを指しています。当然、これによって、それまでのロレアル/コーセーの信頼関係が一挙に崩れてしまったのです。

 結局、コーセーの猛反発を受けて、ロレアルはスコットとの契約破棄に追い込まれ、多額の遺失利益の保障などで、ロレコスの経営状態はかなり逼迫していました。

 来日していた新任のアジア担当ディレクターによると、パリの若いエリート社員の間では、副社長の演説以来、“君子危うきに近寄らず” という風潮が流れているとのことでした。それまで、人が羨むほど嘱望されていたポストが、こうしてあっという間に、危険な場所になったのです。 

 ディレクターは「しばらくは誰も送れないので、後をよろしく」と言ってパリに帰ってしまいました。この“しばらく”は、なんと約4年間続くことになります。

 新しい局面に立たされた私は、とりあえずコーセー本体の小林禮治郎専務と設立間もない(株)コーセーコスメタリー(注1)の佐野堅治常務(注2)に会い、協力を要請しました。

 二人からは、非常に前向きの反応があり、特に専務は、近い将来、群馬にロレアル製品製造を中心にした最新式の工場建造計画を吐露し、ロレアルに対する期待の大きさを披露してくれました。

 また、佐野常務からは、「長らく高級化粧品を手掛けてきたので、一般品については不案内であり、ロレアルについても無知で戸惑っている!」との心内を明かされました。

 そこで、私は常務に「フランスにロレアルの勉強に行きませんか?」と問いかけてみました。すると、「それはありがたい!是非!」と雰囲気は一転、最後は破顔一笑「頑張るよ!」

 “善は急げ”とばかり、数ヶ月後、二人はパリにいました。数日間、本社でレクチャーを受けた後、パリとロンドンの市内・近郊の化粧品店・薬局・スーパー・ハイパーなどを案内しました。合間には、もちろん観光も。

佐野常務(右)パリ・モンマルトルにて
【佐野常務(右) パリ・モンマルトルにて】

 日本で発売した「エルセーヴ・バルサム・シャンプー」が、ハイパー(注3)では壁を作るが如く並べられているのを見て、度肝を抜かれていました。これだけで、ロレアルのとてつもない強さ・大きさを感じ取ってもらえたようです。

 帰国すると、今度は常務が私を誘って一緒に各地の問屋訪問となりました。

(注1)
コーセーコスメタリー :全国66問屋からの注文を受けるために設けられた「パブリック部門」を、コーセーが100%出資して、発展的に別会社として設立した会社。コスメティックの“コスメ”とトイレッタリーの“タリー” を合わせて“コスメタリー”としたもので、“化粧品”を意識した“トイレタリー製品”を指す。

(注2)
佐野堅治常務:それまでは、コーセー傘下の高級化粧品会社・アルビオン化粧品の営業本部長を務めていた。

(注3)
ハイパー:売り場面積2500m²以上で、食品・雑貨・住関連用品などのセルフサービス業態。

 次回は「第七十四話 ロレアルの“機を見るに敏”」です。


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