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愚息の独り言「フランスでの生活 第26話 パリでの毎日 6」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第26話 パリでの毎日 6」

2016年3月11 日



Vitry の暮らしも慣れてきた。
お隣のJuve さんは世界で1、2、と言われる靴のデザイナー。
一般にファッションの都、芸術の都パリと言われるが、フランス人は定規で線を引くような絵しか描けない。 音楽もだが芸術には程遠い人が殆どだ。
それに比べ、スペイン人の子供たちは皆さんピカソの生まれ変わりかと思う程、絵が天才的に上手だった。

我々が引っ越して間も無い頃に Juve さんは靴のデザイナーを辞めた。
無責任な人たちが そそのかした。「あなたは世紀末の革命的な天才画家」だと。
そんなよいしょにのっかてしまい、彼は絵を描き始めた。
抽象画だが、一枚も完成を見ない。 今度こそ悟った、今度こそ書ける、今度こそ完成すると言いながら 今既に50年経っている。

当時シトロエンの一番高い車を乗り回し、悠々自適の暮らしをしていたが 我々が知っているのは 衛生助士の奥さんのひも生活。ただ人懐っこくてよく我が家に遊びに来てくれた。
時々パエリアを作ってくれたが、美味しかった。御飯がパサついていたが日本人にとって 食べやすく消化の良い料理だった。 僕の母が作るのはいつも和食だったが、材料がパリでは揃わない。 お米も一番安い南仏のお米がかろうじて日本の米に近いが魚に至っては食べられたものではない。

姉に寿司を作ってもらったが、お寿司なんてしろものではなかった。
刺身になるものがなくイカばかりを食べていた。しかもタコも無かった。
キリスト教徒の多いフランスでは金曜日は市場でも魚が中心、
裏を返せば普段は市場でも肉しかない。
学校給食でもキャフェのランチでも魚などは出てこない。

そのかわり色んな種類のステーキ。 僕にとっては呼び名が違うだけ、きっと部位、料理の仕方が違うだけ、バヴェット、アントロコット・・ 何と魚文化の稀薄な国だろう。
中華料理屋にお隣のオーシャンさんをご招待した時などは、
魚一匹の塩焼きが出て来るとみんなから、おお!と言う声が上がった。
珍しいのだろう。豪華に見えるのだろう。
僕の生まれた八幡浜では猫にあげたり捨てたりするような魚が こちらでは 超高級食材だったのだろうか?
ただお隣さんという知り合いが出来て 右も左も分からない我々にとって有難い存在の出現であった。 父の生活も少し余裕が出て来たのだろうか?
新しい住まいには金色のベルベット・ソファーに 大理石のボード、(写真の後方部)少しリッチになった気分。

新しい住まい

そのボードの中にはお酒がずらり。 ウイスキーにコニャック、ワインは風呂場の後ろにある風通しがよい涼しい所に大事に保管されていた。
お客さんが来たときもっぱら食前酒はウイスキー。
大きなコップにストレートでジョニーウォーカーの黒ラベルをなみなみと注ぐ。
さすがにお酒に強いフランス人でも顔を赤色させていた。
父の弟子が来た時 僕が彼に水を注いでいたら 叱られた。
お酒を注いでも水を注いではいけないと。

父がいない時にはボードにある酒をこっそり飲んでいた。
空いているボトルを均等に少しずつ飲んだ。
物を盗む事が出来ない僕だが、父の酒は特別だった。
何が美味しいんだろうと 疑問を感じながらも人生勉強と称して 喉の焼けつく感触を噛み締めていた。 時には角砂糖にコニャクをたらし舐めるとまるでウイスキーボンボン。

ただ父のワインを飲む事は出来なかった。
父はいつも飲み切ってしまうのと 数をしっかり把握していたからだ。
ある日父が「お酒が減ってる感じがするな」と言ったときは内心ドキドキした。

母の肩もみをして もらった小遣いで、キャフェでワインを 買って来てこっそり飲むのが関の山。 当時のフランスのガキどもは8歳ぐらいでタバコを吸っている子もいたし10歳過ぎると堂々と吸っていた。 基本的には煙草は20歳まで吸ってはいけない事になっていた。 しかしコ―ヒーは制限がなかった。日本では子供はコーヒーは飲んではいけなかったので ビックリしてしまった。

その内 近所の不良たちと付き合うようになった。
フランス語の出来ない母の言う事は もう聞かなくなっていた。
父のいない時には何でもやり放題だった。

一度その不良たちと一緒に映画を見に行った。
仲間の一人が、映画館で映画を見ないで連れて来たかわいい女の子と ずうっとディープキスをしていたのには驚いた。 何もこんなところでやる事も無いのに・・・。
しかも11~12歳ほどの年齢で・・・。

その頃リーバイス・ジーンズがフランスで出現!格好良かった。
早速母からのお小遣いでジーパンを買った。それが父に見つかってしまった。
その固いジーパンで何度も往復びんたを受けた。
何故だか分からなかった。

父はコカ・コーラなどアメリカの物は嫌っていた。
ましてやガキの僕がファッションに拘るような事を極端に嫌った。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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