愚息の独り言 第48話「心の叫び 2」
愚息の独り言 第48話
「心の叫び 2」
2016年8月12
日
僕が帰って来た当時の日本は外国帰りに非常に冷たく、就職も困難でした。
僕は就職が出来なかったので学生時代に会社を興し、今日まで一度もサラリーマンの経験がありません。 その事は長きに渡って僕のコンプレックスになっていました。

【TV ヤング・オ・オ!】
Rene Simard (中央)道上 (右)三枝
Rene Simard (中央)道上 (右)三枝
日本語が出来なく、フランス語が出来なく、半端者の自分ではありますが、 当時僕以上にフランス語会話が出来る者はいなく、また僕以上に日本語が 出来るフランス人もいませんでした。
そのお蔭で通訳なんぞをやり、高校時代からしこたま稼いだものです。誰も僕の訳に反論できなかったのです。
ただ通訳なんて職業はあまり好きでは無く、しかも自分にとっての将来性を感じていませんでした。 なぜなら、英語の通訳をやっていた人たちは日本語がそこらの日本人以上に堪能で、 なおかつ英語が一般のアメリカ人以上に使いこなせるという人たちばかりを見て来ていたからです。
一方フランス語の個人レッスン、特に会話を教えていましたが、生徒さん達は憶えるより忘れる方が早い。 何とか上手くなって欲しいとの願いでフランス人家庭のベビーシッターのアルバイトを勧めたり日常フランス語を使える環境を指導しました。
当時フランス人の少ない東京でした。 中には、僕がフォローしてあげるから通訳をやってみないかと勧め、何とか頑張ってくれた生徒たちもいました。
その通訳フォローがきっかけで知り合ったフランスの宝石屋の代理店になりました。
しばらくは全然売れなくてお客さん詣でばかりの毎日でした。 当時日本ではプラチナ製品しか売れず、金製品は全く売れなかったのです。
しかし貯金が底をつき、いよいよと思っていた時 突然金製品が売れるようになりました。 日本でヨーロッパの金製品を扱う者は僕一人でした。 そしてその後は輸入金製品業界を作ったのは僕だと言われてきました。僕しかいなかったのです。
何が功を奏するか分からないものです。
日本初のフランス宝飾展を大阪で開催し、日本初のイタリア宝飾展を東京で開催したりしました。 全てにおいて、前例が無いということは人間を不安にさせるものです。 しかし実際は前例通りに世の中は動いていない。
大きな会社ならそのマイナスは あまり目立たないですが、小さな会社(僕の会社のように)は 多少のフライングを覚悟で行動しなければ生きていけません。 ひょっとしてその方が正しいのかもしれません。 僕の会社が小さいのは、僕の器のせいだと思っています。
世界の成功者が口を揃えて言っている事は 「失敗を後悔した事は無い。挑戦しなかった事の後悔は大いに有る」 。 そんな前例のない中で自分を信じて生きた人間がいます。
父道上伯は2002年の8月4日、日本に一時帰国中亡くなりました。
その後ボルドーの彼の書斎で見つけた紙切れ。 何と彼が亡くなる17年前に書かれていた遺言状でした。
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幼年時代の旅行
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