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「古武士(もののふ)番外編 ボルドーの古武士 3/5」



「古武士(もののふ)番外編 ボルドーの古武士 3/5」


■上海皮切り、海外で数々の武勇伝
■身長215センチの海兵も投げ飛ばす
■感覚派・反復型・・・国ごとに反応異なる


【1938年に京都武専を卒業後、旧制高知高教員を経て軍に。夜間演習で塹壕(ざんごう)に落ち、右膝に重症を負って3ヶ月で除隊となる。40年から上海の東亜同文書院大で柔道を指導。海外での武勇伝はここから始まる】

 赴任して間もない頃、上海の日本総領事館から東亜同文書院大の学長に電話がかかってきた。イタリアの軍艦「コンテベルデ」が上海に寄港している。ついては、海兵向けに柔道の教師を派遣してもらえないかとの依頼でした。

 当時、日本はイタリアと同盟国。学長は「日伊親善の意味もあるから行け」と。数日後、出向くと、柔道を多少やったことがあるという大男が10人ばかり待っていました。ひときわ目立ったのが、215センチくらいの海兵。聞けば、米国の太平洋艦隊とのレスリング大会で優勝した猛者で、他の日本人の柔道教師は引き受けなかったと聞きました。

 さっそく軍艦の上で対戦しました。私は173センチしかありません。その男は腕も長く、襟が取れないので、袖を持つしかない。大内刈や小内刈りも効果なし。そこで、逆に相手との間合いを生かし、巴投げを打つと、相手が勢いよく飛んでいきました。

 すると、通訳が近づいてきた。「あの投げはやめてくれ。川に落ちたら、助からないから」という。軍艦はワンプタン川に停留中で、そこは水圧の加減で、死体が上がらないと言われていた。「どんな技をかけるかは、相手の体の大きさや姿勢で決まるものだ」と反論しながらも、その次からは別の技で海兵たちを投げました。


【53年にフランスに渡ってからも、勝ち続けることで指導者として信用を得ていった。】

 「海外で一度でも負けたら、柔道生命が終わる」と言ったのは、当時のフランス柔道連盟顧問、川石造酒之助さんでした。おそらくそうした人をたくさん見てきたのでしょうが、私は頓着しなかった。挑戦を受けないのは、柔道の精神に反しますから。

 フランスに行った当初はひどいもんでしたよ。欧州がアジア諸国を植民地支配していた頃の空気を残していた時代。日本人の柔道家と言っても、本当にそんなに強いのかと半信半疑だった。勝って証明しないと、とても指導はできません。

 あいつはなかなか強いと噂が広がると、毎月のようにお呼びがかかる。畳の上に立つと、「バット・ジャポネ」(日本人をやっつけろ)の声。そこで十人抜き、十二人抜きをやって初めて「ハァー」とため息が漏れる。その繰り返しでしたね。

 負けたことは一度もありません。高段者もいたが、柔道をあまり知らない者を投げるのはそう難しくない。彼らは小さな私がなぜ大きな者を投げられるのか、不思議でしょう。極意なんて有りません。相手の技をかわし、反動を利用して投げる。そうやって、力に頼らない「アクション・リアクション」の柔道を教えていきました。

 指導してみて感じたのは、国ごとの反応の違いでした。一つの技を教えると、フランス人はパッパッと試して、すぐ「ああ、わかりました」という感覚重視派。一方、オランダ人は、こちらがやめろと言うまで、二十分でも三十分でも打ち込みを続けて体で覚える。60年代に柔道本家、日本の強敵となるアントン・ヘーシンクはまさに後者の典型でした。

(聞き手は 運動部 岩本一典)
日本経済新聞(夕刊)/2002年7月24日(水)掲載


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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