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「古武士(もののふ)第11話 結婚」


「古武士(もののふ) 第11話 結婚」

2014年5月2日



上海へ行くには 二つの関門が有った。
旧制高知高校在職二年になろうとしていた頃、
校長は長岡から山内雄太郎に代わっていた。
山内は哲学専攻の几帳面で官僚的な男だった。

道上伯が退職願いを 出したところ
「せめて3年間勤めてほしい。だからあと一年間はいてくれ」
「石倉(最初の校長)さんとは 二年の約束だった」
「そんな約束は聞いていない。どうしても辞めると言うなら懲戒免職にするぞ」
「懲戒免職が怖くて人生が渡れるか」

他の教職員の慰留にも首を縦に振らず、伯は退職した。
そのとき懲戒免職になったのかどうかは今でも分からない。

次に父安太郎の説得である。
父安太郎は上海へ行くなら結婚して、妻を連れて行けと言う。
折から第一次、第二次上海会戦、(上海事変)、南京侵攻、
北支での戦闘の激化と日中戦争は激しさを増していた。

せめて女房でも連れて行けば無茶な事はやらないだろうと言う親心だったが、伯は困ってしまった。
一番弱い所を突かれてしまった。
結婚しても良い年回りだったが伯には全くその気は無かった。

しかし安太郎は強硬だった。伯が単身で上海へ行くなら勘当だと息巻いた。
当然数々の栄誉を得て、有名であった伯には嫁の来手には不自由しなかった。
いかに当時柔道家の社会的地位が高かったのかがわかる。
養子に欲しがる旧家も多かった。
女性に関して初心だった伯は両親の思わぬ強制に頭を痛めていた。
そんな時に友人の体育教師から思わぬ紹介が有った。

高知県の副知事の長女で背は高く(164.7cmだったということだから当時としてはかなりの高身長)、 伯と同じ1912年生まれ。 名古屋の私立金城女学校在学中陸上選手として200m、400m、走り幅跳びなどで注目を集め、 体育専門学校では600mの日本記録保持者で、のちにベルリン・オリンピックの 総監督への打診があったほどの本格的アスリートだった。
しかも金城女学院の院長に成ってくれとの誘いの最中であった。

(ちょっと変な話:近森小枝は金城女学館で1933年から1938年まで教鞭をとって居た。
その生徒の中にキムジョンスクと言うおとなしい女性が居た。小枝は彼女の担任教師だった。
彼女は、後に金・正日と言う子供を授かった。ニューオータニの同窓会には自動車の送り迎え付きで小枝は行ったが、北朝鮮のマスゲームには招待されながらも行かなかった。)

住まいは高知市内の広い洋館。
食事の際には上女中が御膳で三回に分けて料理を運んでいた。
大阪城の家老の末裔で天皇家との血縁でも有ったそうだ。
典型的な「お嬢様」である。

後に伯があまり良い所の娘は貰わないように、と言ったか言わなかったか、
愚息雄峰は憶えていない。

ただ彼女の父親は毎朝四時に起床し、畑仕事をしてから県庁に出勤していた。
十分なお金が有るにもかかわらず質素で勤勉な人であった。
実直に働く父親の姿を見るに至って伯は深く感じ入っていた。
そして、こういった人の娘ならと ようやく結婚に踏み切った。

道上家の両親の許可も出て高知、八幡浜両方で披露宴を挙げ いよいよ上海へ。
1940年の5月だった。 そんなスピード結婚で良かったのか?
3月退職、4月結婚、5月上海。

伯は愚息雄峰と会うたびに、あるいは電話をするたびに必ず
「子供はまだか?」と言った。
雄峰「まだ女性が見つからない」 
伯「女なんか誰でも良いんだ!」
本当にそうだろうか? ついに愚息雄峰の子供を見る事無く、あの世に行った。
今さらながら父に子供を見せられなかった事を雄峰は後悔している。

ところで、雄峰は父伯と一緒に外食する際には中華しか食べたことが無い。
伯はよほど中国の思い出が良かったのだろう。
文化大革命後の中国には何度誘っても行きたがらなかった。
きっと良き日の思い出を崩したくなかったのだろう。
道上のロマンチックな一面何だろうか?

さて来週はいよいよ初の外国生活上海である!!!






【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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