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「古武士(もののふ) 第17話 一時帰国」


「古武士(もののふ) 第17話 一時帰国」

2014年6月13日



現在も香港の某ホテルにて この独り言を書いている。
二泊二日の滞在だが四月に比べていろいろな情報が飛び込んできた。

倍々ゲームで上がっていた香港の店舗賃料が3年前から上げ止まりを見せた。
中国人観光客の消費、前年度割れが続く。 にわかにバブル崩壊を匂わせて来た。
香港のでも200万人を超え、友人に早くアパートを売れと言ったのだが、3年前から買い手がつかないとの事だった。

面白い話を聞いた。
中国人が一番嫌っているのは日本人では無く、香港人だそうだ。
海外から入ってくるものは全て香港経由。要所要所で香港、シンガポールに抑えられている。
本土の人間が羨む香港への移民は中々受け入れられない。一日140人の制限があるためだ。

一方香港在住の香港人は野蛮な中国本土人を一番嫌っているとか。
文化大革命以降、逃げて来た香港人から見ると、生活の為、生きて行くためとは言え平気で嘘をつき、 平気で人を騙して でなければ生きていけなかった本土人、しかも親からそういった教育を受けているので身にしみついている人種には違和感を感じると言うのだ。 50万人だった香港人口も今や一挙に700万人を超えた。

弊社道上商事もアジア展開を考える上で中国語が欠かせない。
ここ数週間に中国人の求人応募者数十人と面接を行っている。 その中で話を聞いていると何と中国批判の多い事やら。 我々の想像以上に国内問題を抱えている。

なんとなく昔の中国人と今の中国人の違いが分かって来たようだ。
では戦時中の中国にタイムスリップして見よう!

1945年の事である。 既に機雷が日本国を覆っていて安易に船が横行出来なくなっていた。 制空権も制海権も失われていた。
道上伯の妻小枝は長女三保子をつれ1944年に帰国していた。 その際に道上は小枝に貴重な稀覯本、写真等を持って帰るように頼んだが 小枝は自分の物しか持って帰らなかった。
この事を道上は生涯忘れる事無く残念がっていた。 今あるのはポケットに入って居た写真一枚のみである。 道上が生涯もっとも思い出深い年月の証であった。

道上はまだ単身上海に残っていたが、本間東亜同文書院学長から帰国を命ぜられたのは 昭和20年(1945年)7月の初め。既に帰国の便を確保する事が困難な時期となっていた。 しかし富山での東亜同文書院再建計画があった。

そこで武専の一期先輩の陸軍少佐に、搭乗可能な飛行機があったら便乗させてくれるよう頼み込んだ。 その陸軍少佐から連絡があったのは、7月31日だった。 午後11時に電話があって、翌朝5時に飛行機が離陸するので、午前3時に迎えに来るという。

結局、半袖シャツに短パン、手提げかばんにリュックサック、肩から水筒といういでたちで、 陸軍九七式重爆撃機に乗り込んだ。 飛行機は予定通り八月一日午前五時に上海の大場鎮飛行場を離陸した。伯32歳の夏だった。
この頃はアメリカのP51戦闘機が飛び回っていたので、足の遅い爆撃機は格好の標的だった。 もし主翼でも撃たれたら墜落しかない。 日本の爆撃機にはもう落下傘も積んでいなかったから、そうなったら飛び降りるしかない。

航空距離の問題からまず青島へ。青島では三日足止めされた。
P51が飛び回っていて離陸できなかったのである。 四日目に間隙を縫って飛び立ち、今度は京城(現ソウル)へと向かう。 途中台風に遭って飛行機が損傷を受け、その修理などをして、京城を離陸したのが8月7日午前5時だった。

日本本土はこの日もアメリカ軍の激しい空襲を受けていた。
その空襲地域を避けて迂回しながら、福岡雁ノ単飛行場に着いたのはもうその日の午後になっていた。 上海を発ってから丸々一週間が過ぎていた。

離陸する前に上海の市場を任せていた若い青年に(当時24歳位)、上海に戻って来たら市場の半分は君の物だ。もし戻って来なかったら全て君の物だと言って別れを告げた。
その資産、今の金で数百億かそれ以上である。 

結局道上は生涯上海に戻る事は無かった。彼に気遣ってのことだろうか?
愚息雄峰にもその男の名前を一切口にする事は無かった。


次回は「焼け野原」




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。







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