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「古武士 (もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」


「古武士(もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」

2015年3月6日



道上の生まれ育った八幡浜、
古き良き時代。

古代、豊後佐賀関が大宰府の秘密港だった時代に上陸地点として最も適していたのが八幡浜であったことが史実として記されている。
江戸後期には宇和島藩の秘密港として藩の求めに応じ長崎交易を営む者が生まれた。以降、商人等によって建造された買出船で海産物を持ち出し、帰りには米などを持ち帰る商業活動が興り九州・中国・関西の品物が豊富に集積されていたことが長い間 伊予の大阪と呼ばれていた所以である。

古くから八幡浜が栄えて来たのはリアス式の湾の奥に位置した大時化に強い天然の良港だったこと。豊後水道に面した宇和海という豊饒の海の資源を上手く活用して来たからだ。

そして何よりも日本の三大難所の一つで「速吸瀬戸」の潮の流れを読める海の男衆がいたからだろう。海の男は気性が荒い。八幡浜に与太者は育たなかった。

道上はトロール船を7隻持っていた。1940年代の事だった。

トロール船

食後の会話にはよく八幡浜の話題になった。
八幡浜は戦前まで刺網や四ツ張網によるイワシ網漁が盛んで、漁獲されたホータレ(カタクチイワシ)は煮干しイリコとして中国・兵庫方面へ販路を拡大していた。
1950年代には貧乏人が毎日食する魚の代名詞だったホータレも現在では高級品の一つになった。余談だが指で割いて作るホータレの刺身は実に実に美味い。
大平町にあったうどん屋はイリコで3回出汁をとっていた。
あまりの旨さに北は北海道南は九州から食通が通った。
1960年代一杯15円だった。

また、戦前戦後の食糧難の時代に大切なタンパク源の供給という大きな役割を担っていた政府の臨時措置で許可されていた底引き網漁業は昭和22年に正式な漁業として認められ27統54隻になった。

その後、沿岸漁民との対立が増加し昭和26年には漁業法が改正に伴って減船整理を経て基幹産業として基礎が確立し、四十数年前まで八幡浜と言えばトロール漁業(沖合底引き網漁業)が主役の町として隆盛の時代が続き魚市場は毎朝活気に溢れていた。1950年代八幡浜は西日本有数の漁港として全国に名を轟かせていた。

魚市場

底引き網で水揚げされる魚種は200種類を超え、その多くは一般消費者には見たことも聞いたこともないような魚ばかりだが、それこそが戦後の地域経済の源泉の一つになっていた。フランスでは考えられない程の種類の多さだった。

鯛、平目、海老類に代表される棚ものと言われる高級魚は上送り専門の仲卸業者の手で東京・大阪等の消費地市場で販売されるため売上げを伸ばしたが、水揚げ量的には圧倒的に「つぶし物」かまぼこやちくわの高級原料エソ、グチ、更にてんぷら(最近はじゃこ天と呼ばれている)の下級原料の雑魚であった。

近海で操業する底引き網漁船の漁獲物は全て市場に水揚げされていたため新鮮で安価な雑魚を加工する製造業が栄えたのである。
愚息もトロール船に乗った事があるが塩と油の臭い。
釣りに行くと魚の臭いが加わる。素人はこれで酔ってしまう。

八幡浜を代表する名産品は「かまぼこ」であった。
それは主原料のエソ、グチ、が地元で大量に水揚げされていたからこそである。
のどごしが勝負と言われるほど良いエソを使って作られた蒲鉾は一切れ噛み砕いて飲み込むと違いがわかるのである。
次女志摩子は高校卒業まで八幡浜で過ごした。
今でも八幡浜に帰ると谷本かまぼこ店で大量に買い物をする。

そんな練り製品業界だが今やフレッシュな雑魚を原料にする「じゃこ天」の人気が高い。 使用原料の違いで味が異なるだけに「じゃこ天」も奥が深い。くずし屋さん巡りでもして味の違いを楽しむのも一興だ。

一番のお薦めは地元ではハランボ(学名ホタルジャコ)と呼ばれる小魚を使ったもの。
昔からハランボしか使わない老舗の二宮てんぷらはファンが多い。
定番なら八幡浜港前に在る萩森かまぼこのてんぷらが原料はヒメジ。

ヒメジは最近有名シェフの手でオイルルージュとしてダボス会議のパーティーで振る舞われ高い評価を受けたことがメディアで紹介された金太郎という魚の事だ。
山口県ではヒメジのことを金太郎と呼ぶ。
小魚ではあるが少し大きめのヒメジを三枚に下ろし刺身で食すのは絶品だ。
オイル漬けにして美味いのは当然だろう。

一押しはくずしや鳥津の無添加じゃこ天。
原料はハランボ100%(ホタルジャコ)、つなぎは塩のみと言うこの技術は 二代目康孝氏以外例を見ない。間違いなく価値ある一品である。

また特筆すべきことは日本最初の魚肉ソーセージの開発に成功し製造販売を行った人物がいる。1900年栗ノ浦に生まれた紀伊敏雄氏がその人だ。
1951年に西南開発株式会社を創設、日持ちのしない加工品の中にあって長期保存できる画期的な商品、明治屋スモークミートとして多くの食卓に乗った。

その技術は全国に広がり、昭和40年代の終わりまで国内大手水産会社が軒並み参入し競った時代が懐かしい。 何しろ肉のソーセージは高くて手には入らない時代の苦肉の策だった。

八幡浜の底引き網漁業を支えていたのは「かまぼこ屋さん」や「くずし屋さん」と呼ばれる水産練り製品業者であると同時に、彼らを支えていたのも底引き網漁業であったことを忘れてはならないと思う。
(スケトウダラが主原料になってしまった蒲鉾にはかつてのアイデンティティが見えにくい。互いに無くてはならない存在だと感じる)。


愚息の追言:
道上が話しだすとスケールが大きくなる。日本一はすなわち世界一になってしまう。
「まち、ひと、しごと創生」有識者12人のメンバーの一人である清水志摩子(道上伯次女)は各省庁の官僚の前で 「昔漁師はサラリーマンの6倍の給料は取っていた。 今じゃ油も高くて船も出せない。 政府も支援するべきだ・・・(これ以上は書けない)。」

鞄持ちで同行した弟は顔をひきつらせ、うつむいていた。
この親にしてこの娘有り。
(彼女は清水園代表の他、埼玉観光国際協会会長、全国おかみさん会理事長、陸上自衛隊大宮駐屯協力会会長、元公安委員・・・。)



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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