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古武士(もののふ) あとがき



「古武士(もののふ) あとがき 」

2015年9月11日

道上は立命館時代剛柔流の 宮城長順、武専時代合気の植芝盛平 達とも一緒に武道を探究した。
当時は柔道、空手道、合気道、剣道、にさほどの違いは無かった。
むしろ共通点の方が多かった。 武道から空手、合気道が生まれたと言っても過言ではない。

和道流の創始者大塚博紀も道上の柔道を見て、道上の武道家としての価値を見て取り「道上先生和道流八段を授与させて下さい」と願い出た。
決して道上が空手道場に通ったわけでは無い。

空手にも足払いなど今ではあまり見慣れない技が有った。柔道にも当て身は有った。命のやり取りの中では何でも有りだった。その緊張感の中で理にかなった物だけが残っていった。そして常に新しい技が開発されていった。

忘れていけないのは、武専の教授たち。
彼らが多くの柔術の中から柔道を作っていった。
皆生前、又は没後十段であった。 道上が十段を拒否した理由でもある。

達人は達人をみる。達人の動きは自ずと様式美そのものとなる。
武道の達人だけに限ったことではなく、達人のレベルに到達しなければ理解できないことも多い。 今の私には到底理解できないことの方が多い。
理解したいのであれば自分がどの道であれ達人にならなければいけない。

「もののふ」もいったんここで終わらせ、書き直し付け足しを試みてみようと思う。
本を読まない男が、苦しんで×苦しんで=八十一話書きました。
現在英語と中国語に訳しているが、決してレベルの高い代物ではない。
フランス語はかなりのレベルだと思う。

しかしながら早急にアラビア語、ロシア語にも訳していきたいと思っている。 日本人が思っている以上に海外では武士道に注目が集まっている。
柔道は最も世界に普及されているスポーツである。
しかしながら世界では物足りなさを感じているものが多い。

現在日本の柔道人口は30万人と言われている。 フランスは80万人。
道上が教えた弟子、孫弟子、そのまた弟子たちを合わせると現存しているフランス人だけでも1000万人を超える。
ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを合わせるとゆうに1億人を超えるのではないか。

この数年、国際柔道連盟の理事には日本人はいなかった。
最近やっとのことで2人ほどが就任するようになった。
道上がその気になればいつでも国際柔道連盟の会長に納まったはずだ。

そして世界はそれを望んでいた。
世界各国の柔道連盟会長の大半は道上の弟子であった。
しかし道上は柔道政治を試みなかった。反対するのは日本柔道界だけだったが。
一方道上は己の分をわきまえていたのであろう。
柔道をさらに日本の文化の普及に寄与したが、商売にはしなかった。

現在スポーツはビジネスであるが。道上は柔道を通じて日本文化の伝道者としての生涯を全うした。 ある人が道上先生が亡くなって、小野田寛郎さんが亡くなって もう日本には侍がいないと言っていた。

しかしこんなことがあった。
ある日、京都の賢者に末期がん患者だった友人を助けてくださいと私がお願いに上がった事がある。 その患者が治してもらったらどのようにお礼をすれば宜しいのでしょうかとその賢者に尋ねると、 治ったら私と貴方はもはや何の関係もない他人だと言った。
私は武士は多くはないかもしれないが、まだまだいると感じた。
賢者は無料で治療をしている。格好良過ぎる。
武士ほど格好良い呼び方は無い。そしてこれは世界共通語。

道上が命懸けで試合している姿を生で見たかった。
さぞかし格好良かったであろう。

下記は、道上が亡くなり、フランスでの葬儀の時にボルドー道上家で書斎の机に敷いてあるデスクマットの下から 見つかったものである。
日付は1984年 4月10日。亡くなる18年以上も前に書かれている。
常に死を覚悟していた人生であった。


遺 言 状    1984年4月10日

人生は降り積る悲しみを払いのけながら進む旅だと思はれる。
明治維新の英傑 坂本竜馬が10代の頃作ったと云はれる歌に
"世の中の人は何んとも云わば云え 我がなす事はわれのみぞ知る"と
自分も又我のみぞ知る だ。
鉄の如き固く強い意志を持たずにどうして異民族の中で彼等を思うが如く
(その本来の姿、哲学的崇高なる理念の方向へ)
導くことが出来ようか。異文化間のはざまで右往左往せず毅然として
"俺は日本人"と胸を張って生き抜き現在に至ったものだ。
今更思い残すこと無し。
然し死後皆さんへすっきりしない思いを与え ご迷惑を懸ける事を恐れて
ここに記して遺言とす。

死骸があれば火葬にしてGironde河へ流してください。
尚一握りは(yahatahama-shi,kanjo)道上家歴代の墓へ入れてください。
(この歴代の墓は私が14,5才の頃の夏休み中、父と小野力蔵さんと三人で
作ったもので私は主としてセメントや砂を河岸から墓場まで背負いあげたのである)
理由は亡父の存命中道上家の四代目を継ぎ歴代の墓へ入れと言い渡たされた為である。
子孫の為に美田を買わず 主義で財産らしいものは無い

遺言状




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