外交官 第11話 旧ソ連という国の奇々怪々(その1)

2013/12/20

【小川 郷太郎】
東大柔道部OB
丸の内柔道倶楽部
外交官

第11話 旧ソ連という国の奇々怪々(その1)

1988年の夏の終わりころ、急にモスクワに赴任することになった。外務省の人事ではときどき予想外のことが起こる。

それより少し前、まだもう少し日本での勤務が続くと思っていた頃であるが、出張先のオランダに朝早く上司から電話があり、「すまないけど近いうちにモスクワに赴任してほしい」と言われた。
青天の霹靂ともいうべき異動の知らせだったが、任務には従うべきことと思っていた私はすぐ、「わかりました」とお答えした。

実はその後しばらく妻と相当もめた。
妻は当時自分のやりたかったインテリア・デザインの仕事を見つけ、まだ私の東京勤務が続くと思っていたので1年契約で仕事を始めて間もない時だった。

私の方は妻も一緒にモスクワに赴任するのを当然と思い込んでいたが、妻からは「一生のお願いだからしばらく東京で仕事を続けさせて」と嘆願された。紆余曲折はあったが、私が強引に押し切って家族そろってモスクワに赴任した。もちろん子供たち3人もそれまでの学校をやめてモスクワに向かった。
あとになって、やはり妻には悪いことをしたと反省はしたのだが。

それはともかく、いまのロシアは、当時は「ソヴィエト社会主義共和国連邦」という名前のガチガチの共産主義国家であった。
レーニンのロシア革命を経て約70年ぐらい前から共産党独裁政権が国家と国民を支配し続けていたのだが、それは日本人には想像しがたい、とんでもなく奇々怪々の国の仕組みであった。
その奇々怪々さが外国人の私には「面白い」のだが、ソ連国民にとっては実に気の毒な国家の制度である。

この国のイメージをひと口で言うと、驚愕するほど非効率的で非合理的な経済社会のシステムのもとで人間不信の統治が行われていたという感じである。

クレムリンを臨む(1988年10月8日)
クレムリンを臨む(1988年10月8日)


最初の大きな驚きは、市場経済の原則が全く働かない経済体制であった。当時はアメリカとソ連が超大国として覇を競い軍備拡張競争をしていた時代で、国の経済政策も共産党が独裁的に決めていた。その政策は、国民の生活を豊かにするためではなく、核兵器や戦車・大砲などの生産量などを決めてそれを達成させることを最優先した。

だから、街のデパートや国営商店には日常生活に必要な石鹸が無かったり、肉や野菜もほとんどないことが多かった。粗末な僅かな品物が店頭に出ると、皆が長い行列を作って並ぶ。物がないから、市民はいつも手提げ袋を手に持って歩き、どこかに行列を見つけると何を売っているかわからなくてもまず並ぶ。とにかくあるものを買って貯めておくしかないからだ。雪の深い冬でも辛抱強く何時間も行列に並ぶのをよく見かけた。

驚いたことが多いが、例えば、画家が絵具を買おうと思っても通常は品物がない。すべての色がセットで売っていることはないのでバラ売りで買うが、その個別の色も不足で、たまに店に出ても量が少ないのですぐなくなる。絵具屋に毎日のように足を運んで、この色が出たら教えてほしいと言ってお願いする状態だ。

物不足なので、市民や業者は物を秘蔵するようになり、ますます店頭に物が出なくなり、手に入れるには、いろいろ工夫して賄賂を出さなければならなくなる。 価格は需要と供給の関係で決まるのではなく、国(共産党)が決める。
パンや地下鉄料金などは低く設定されているが、賄賂その他いろいろな要素で価格体系に奇妙な歪みが出てくる。素晴らしい芸術が楽しめるボリショイ劇場の切符の値段と、なかなか手に入らないキュウリ1本の値段とが同じだったことも経験した。

軍事優先の生産体制なので生活必需品が圧倒的に足りない。水道の栓に使うパッキングが磨滅しても新しいパッキングは店に見つからないので、多くの人はゴム製品をどこからか探して自分でナイフで削って間に合わせる。車の部品も同様だ。
ホテルに行っても風呂や洗面所の栓がないことが多いので、タオルか何かで排水口を埋めて水を貯める。気の利いた外国人はホテルに泊まるときは、ゴルフボールを持っていき、それで穴を塞いで水を貯める。

物不足の世界なので買う物がすくなく、安い給料でも10年20年するとお金は貯まってくる。車を買いたくても、発注してから届くまで数年かかる状態だった。

人々が欲しがる物を作り、同業者が競争して顧客を喜ばす品物を開発していく世界ではなく、作る物も生産量も軍事優先の共産党が決める。生産者もほとんどが国営企業なので効率も低い。
市民の消費生活への配慮に乏しく、不要なものを大量に作ったりする。上意下達の命令システムなので、それぞれの持ち場の人間は上からの指示を待つだけで、自分の意志で動こうとはしない。売り子のサービス精神のなさには怒るより呆れることもよくあった。

生産体制も縦割りで連携が少ない。モスクワでの最初の冬に、スキー(平地が多いので歩くスキー)の用品をソ連製で揃えようと決心した。
ソ連をよく知る大使館の同僚から「そんなことは無駄だからやめた方がいいよ」と言われながらも、ソ連製品の品質も確かめようと思って市内のスポーツ用具店の何軒かを毎週巡回して調達を試みた。

見栄えのしないスキー靴、スキー板はそれなりにあったものの、それぞれが品揃えが少なく自分のサイズに合うものがなかなかない。スキー靴とスキー板を結ぶ金具となると、両者が合うサイズが何度足を運んでも出てこない。
数週間も続けたが冬がどんどん過ぎていくので、遂にソ連商品の調達を断念した。癪に障ったが、ソ連生産体制のお粗末さがよくわかって参考になった。ストックホルムのスポーツ店に行ったら、きれいな品物一式が1時間ぐらいで揃った。

ソ連の社会経済の体制のこのような非効率で非合理さもあって、1985年に共産党書記長になったゴルバチョフは「ペレストロイカ」という政治経済社会の全面的な大改革を始めた。
その結果、硬直的で強固なソ連社会はようやく流動化してきた。私が過ごした1980年代末はソ連邦が崩壊に至る歴史的な大変化の時代であったため、社会主義体制の現実と変化が併存する極めて興味深い経験をすることができた。


筆者近影

【小川 郷太郎】
現在





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