外交官 第13話 カンボジアでの発見 (その2) 援助(ODA)はたいへん役に立っている

2014/06/09

【小川 郷太郎】
東大柔道部OB
丸の内柔道倶楽部
外交官

第13話 カンボジアでの発見
(その2) 援助(ODA)はたいへん役に立っている

私の在任期間中、日本はカンボジアで最大の援助国であった。私は日本が、全世界で他国には見られないとても日本らしい良い援助をしていることを誇りに思っている。

しかし、近年、「ODAは無駄が多い」というイメージが創られ、巨額の財政赤字もあって日本政府が大幅に援助を減らしてきたのをとても悔しく思っている。 カンボジアではODA でどんなことをしているのか。幅広く多様な援助を展開しているので詳しくは語れないが、いくつかの例を見てみよう。

日本の援助は相手国の自立支援が主目的だ。その国の人々が自分たちで国の発展を担えるように支援すること。だからまず、人材育成である。人材育成はまさに人を通じた援助だ。

日本から各分野の専門家やボランティア(青年海外協力隊、シニア・ボランティア)がカンボジアを含む世界の途上国に行って、現地の人に技術移転を図る。途上国の技術者や官僚等を日本に招いて国内で研修をしてもらうこともやっている。技術を身につけた人々は自国の発展のために努力する。
多くの先進国と比べて日本の人材育成は幅広く多様である。欧米諸国には、直接物資や資金などを供与するような援助の形が多い。

日本はもちろん資金も提供する。無償でお金を出すと言っても、カンボジアなどそれぞれの国に必要な病院、上下水道、道路、橋、洪水防御施設などのインフラを造るわけで、現金をそのまま供与するのではない。インフラの整備は社会や経済の発展の基盤を作ることである。
橋が出来ると周辺の街や村の経済が大いに活性化する。病院を造る場合には、同時に医師や看護師の養成や病院の運営のための現地の人材育成に協力する。

トンレサップ川河岸の小舟で生活する家族
【トンレサップ川河岸の小舟で生活する家族】


援助は、農業、工業、保健衛生、教育、通信等々はもちろん、文化についても協力する。カンボジア国民が心の誇りにしているアンコール遺跡の修復のためにカンボジア人技術者を養成して支援することがその好例だ。援助によって例えば、妊婦や乳幼児死亡率の改善、疫病への罹患率の減少、経済の発展などが目に見える形で現実に起こっていることを現地で確認できた。

裸で遊ぶ子供
【裸で遊ぶ子供】


カンボジア人は日本に対し、絶大な感謝と信頼の気持ちをいつも表明してくれる。例えば、在任中私がシハヌーク国王(当時)にお会いするたびに、国王は、次のように言って日本に心から感謝して下さった。

「日本はいつもカンボジアの真のニーズを調べてカンボジアに必要な援助をしてくれる」
「日本は他国が手が回らない橋や道路などの大型のインフラをも整備してくれる」
「日本はカンボジアの意向を尊重しながら、カンボジア人と相談しながら助けてくれる」
「カンボジア人の魂である文化遺産の修復にも協力してくれる」
と繰り返す。

「カンボジア人と相談しながら」行った支援の良い例として、日本がカンボジア民法の新たな法制化に協力したことがある。

ポルポト時代にプノンペン市民を強制疎開させたためプノンペンの所有権や土地制度が崩壊した。民法を作り直す作業において、日本から弁護士や民法学者など多数の法曹家が何年もかけてカンボジアに行き来しカンボジア側の担当者たちと民法の1条1条を議論しながら創り上げた。
こういう条文をつくったらこの国の文化や実情に合うのか、実施可能かなどとカンボジア側と相談しながら練り上げていった。

もちろん何年もかかったが、こうした長いプロセスを通じてカンボジアの民法を担う人々が育成されていったのである。日本的アプローチの効果でもある。民法ができると民事訴訟法や商法にまでフォローアップをしていった。
フランスが刑法策定に協力したが、総じて欧米諸国では、自国の専門家が処方箋を書き、「これでやるように」と提示することが多い。

2003年、私の着任前から始まっていたメコン川に橋を架ける工事が日本の無償援助で完成した。それまでこの国を何百キロにわたって縦断するメコン川に一本の橋もかかっていなかったのである。

フンセン首相は大変喜んで、私に日本語の名前を付けてほしいと言ってきた。熟慮して、「きずな橋」を提案した。日本語の「絆」とは心の通い合う人間の強い結びつきであると説明し、日本とカンボジア、そしてメコン川の西岸と東岸の心の結びつきを象徴する意味を込めたいと伝えた。

首相は直ちに賛同し、早速その場で「どう発音するのか、キジュナですか」と聞くので、「いえいえ、『き・ず・な』というんです」と私が首相の発音練習を指導する羽目になった。

カンボジア政府は盛大な完成式典を行い、フンセン首相と私が一緒に渡り初めをして、日本の地方から来てもらった踊りのグループも参加して笛や太鼓で花を添えてくれた。何万人もの群衆が集まり、全国にテレビで放映され、新聞でも報じられた。
何ヶ月か後、国境に近い辺鄙な村に行ったときに、村民が私に「日本がメコンに架けてくれたくれた橋は本当に素晴らしい、死ぬ前にぜひ一度わたってみたい」言って日本に感謝してくれた。

フンセン首相とODA式典
【日本のODAプロジェクトの式典にはいつもフンセン首相が出席して日本の援助を群集に説明してくれる。筆者もクメール語でスピーチ】


それだけではない。カンボジア政府はすぐ「きずな橋」の写真を刷り込んだ新札を発行してくれた。この札は今でも広く流通していて、カンボジア人はこの橋を「スピエン(橋という意味)キズナ」と呼んでいる。

政府のODA だけでなく、いくつもの日本のNGOや何人もの日本人がカンボジアの復興を助けている。上智大学の石澤良昭先生(元同大学学長)は半世紀以上前からカンボジアに入り、アンコール遺跡修復のためのカンボジア技術者の養成や修復活動をされている。

脚本家の小山内美江子さんが主宰する「JHP学校を作る会」というNGOが1993年から活動し、カンボジア全土にこれまで300校余りの学校を建設し、併せて生徒への音楽や美術の教育を支援し、また孤児たちの自立支援活動を展開している。

学校の子供たち
【学校の子供たち】


マラソンの有森裕子さんは、地雷の犠牲者を支援するため、毎年「アンコールワット国際ハーフマラソン」を実施し収益を寄付したり、カンボジアの子供にスポーツをする喜びを体験させる活動をしている。昨年は第18回目で、カンボジア側が自主運営できるようになった。私も在任中毎年参加した。

個人でカンボジアに献身する人もいる。ポルポト時代の虐殺などによって殆ど失われそうになったカンボジアの伝統絹織物の技術を復活させるため京都で友禅織のデザインをしていた森本喜久男さんという人が、1995年からカンボジアに入り込んで、ジャングルを開拓して工房を造成して蚕や染色用の草木を植え、カンボジア女性による素晴らしい絹織物の復興を指導している。

これらはいくつかの例にすぎないが、石澤先生、小山内さん、有森さん、森本さん、どなたも皆カンボジアに魅せられているようであるが、その永年の献身的な努力には真に頭が下がるし、また、日本人として誇りに思わずにはおられない。

カンボジアに3年いて、日本政府や民間のカンボジア支援に効果が出ていることや国民の感謝の気持ちを肌で実感できた。
このことが、私にとって40年の外交官生活の中でカンボジアが最もやりがいのあった任地だったと感じる理由である。


筆者近影

【小川 郷太郎】
現在





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