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私と柔道、そしてフランス…「第六話 大学時代(その一)」

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2017年12月3日
「第六話 大学時代(その一)」

前田光世先輩(別名:コンデ・コマ)
【前田光世先輩】
(別名:コンデ・コマ)
 1959年4月、早稲田大学法学部に進学し、ただちに柔道部に入りました。1897年に創設された早大柔道部は、慶大柔道部(1887年創部)に次ぐ古い歴史を誇り、創設以来、綺羅星のごとく強豪を輩出してきましたが、柔道を広めるために多くの柔道人を海外に送り出したことでも知られています。

 その中でも、前田光世先輩(1878~1941、別名コンデ・コマ)が筆頭に上げられます。彼は1904年に“講道館四天王”の一人の富田常次郎6段(小説「姿三四郎」を残した富田常雄の父)のお供で渡米し、その後10年にわたり、ヨーロッパ・キューバ・メキシコなどを回り、1914年からはブラジル・べレン市に定住しました。そこで柔道指導だけでなく、アマゾン開拓事業・移民事業に没頭し、一度も帰国することはなかったとのことです。現在評判の「グレイシー柔術」も、コンデ・コマの広めた柔道が影響したといわれています。

 1924年には、戦後、NHKの「とんち教室」で人気を集めた石黒敬七先輩(1897~1974)が来仏、約10年間にわたり大学・警察・軍などで指導に当り、フランスに於ける柔道発展のきっかけを作りました。すでに著名だった藤田嗣治画伯(柔道2段)を相手に、パリのオペラ座で柔道のデモンストレーションを披露したことは有名です。

石黒敬七先輩と藤田嗣治画伯(1926年)
【左・石黒先輩、藤田画伯・右】

 さらに、フランスの柔道を語るときに、絶対に忘れてはならない人が川石酒造之助先輩(1899~1969)です。

【川石造酒之助先輩】
【川石造酒之助先輩】

 1935年に来仏した先輩は、「川石メソッド」と呼ばれる独自の指導法を考案しました。その一つは、“日本語の技名は分かりにくい”として技名を記号化したことです。例えば、「大外刈り」は、「足技1号」というように命名して、日本語の技名を廃止しました。また、黒帯になる前に、黄帯・オレンジ帯・緑帯・青帯・茶帯の五段階をつくり、修行者の励みになるよう工夫しました。合理的かつユニークな先輩の指導法と柔道精神は現在も受け継がれ、フランス柔道の原点となっています。(尚、現在“技名”は復活しています。)

 現在のフランスの柔道競技人口約587,000名、約5,600の柔道クラブの存在も、川石先輩なしでは実現しなかったろう、と言われています。「フランス柔道の父」と呼ばれる所以です。

 蛇足になりますが、如何に「川石師範」が今もってフランスの柔道家に慕われ、敬愛されているかを物語る恒例の行事があります。それはプレシス・ロバンソンにある師範のお墓参りで、毎年、師範の命日に近い日に行われます。添付写真のように、フランス柔道連盟会長をはじめ約60名の柔道関係者が参列するのです。“恩”を忘れないフランス人に対して心から敬意を表したいと思います。

川石師範のお墓参り
【川石師範のお墓参り】右から4人目・安本(白髪頭)

 高校時代の私はすでに、石黒、川石両先輩のフランスでの活躍ぶりをよく知っていて、“自分自身もいつかは...”とフランスに思いを馳せる日々を送っていました。

そして、いよいよ大学の柔道部の生活が始まりました。

 確かに新入生ではありましたが、すでに3年も汗を流していた道場であり、稽古相手の先輩方もそれまでと全く変わらず、淡々と稽古を続けることができました。

 淡々と・・・とは言っても、華々しい歴史をもつ早大柔道部で、しかも3名の強豪師範(山本秀雄(注1)、大沢慶己(注2)、富木謙治(注3))による指導体制のなかで稽古できる幸せと誇りは強く感じていました。

 このような運動部の場合、その時の主将の性格・人柄によって、部の雰囲気・目指す所が大きく変わることはよく知られています。私が入部した当時の主将は坂元英郎先輩で、私が高校時代に得た印象では“怖いほど強い先輩”で、近づき難い存在でした。

 “この主将には、相当しごかれるぞ!”と覚悟していました。ところが、自身の稽古は以前のように鬼気迫るものがありましたが、後輩に対しては、“もっと稽古しろ!”などの叱咤は一切ありませんでした。“やる気がある奴はついて来い!”との無言のメッセージがヒシヒシと伝わってきたものです。

 東京大会の候補選手にも選ばれ、強化合宿にも参加しました。結局、大会には出場できませんでしたが、一年生としては申し分のないスタートでした。

 その年の夏季九州遠征に、一年生としては只一人選ばれました。先輩方からある程度使われることは覚悟していましたが、坂元主将は出発前に、「安本に荷物や柔道着を持たせるなよ!」と釘を刺してくれるなど、後輩に心配りをする優しい先輩でもありました。

九州遠征 トレーニングの合間に 高崎山(大分)にて
【九州遠征 トレーニングの合間に 高崎山(大分)にて】

(注1)
山本秀雄: 史上最強の柔道家・木村政彦の柔道人生には、生涯で四つの黒星が記録されています。その一つが第三話で紹介した大澤貫一郎師範によるものであり、二つ目は山本秀雄師範によるものです。

(注2)
大沢慶己: その変化に富んだ技により「技のデパート」と呼ばれ、素早い動きから「今牛若丸」とも呼ばれていました。現10段。

(注3)
富木謙治: 嘉納治五郎師範から直接指導を受け、天覧試合などで優勝するなど柔道で活躍するする一方で、合気道の創始者・植芝盛平に出会い、以後30年間師弟関係にありました。その間、それまでの合気道の練習法は「形」であったのに対し、師範は乱取法を開発し、合気道を競技として近代化させました。また、柔道に合気道を応用するための研究を続け、しばしば関節技の説明を受けたことを思い出します。

次回は「第七話 大学時代(その二)」です。

筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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