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私と柔道、そしてフランス… - 第五十八話 風戸健二社長のこと...-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年12月5日

- 第五十八話 風戸健二社長のこと... -

 日本電子に入社以来、4年ほどの間に、パリ赴任、モンペリエ転任、パリ帰任、ジュイ・アン・ジョザスへの転居と、目まぐるしい動きに翻弄されました。それもようやく収まり、営業実績も順調に伸びていて、ジュイ村の素晴しい環境も相俟って、“このままフランスの地に永住?!”などの考えも頭にちらつくようになりました。

 その間、風戸健二創業社長が私に示して下さったご好意に、何とかして報いたいという思いも常にありました。

 すでに第四十五話でご紹介したように、入社前にパリ支店で「東京で会おう!」と声を掛け、初出社の日には、単なる一新入社員に過ぎない私を社長室に招き入れて激励した上、目の前で、社長自ら私の研修スケジュールを作成してくださるなど、驚きの連続だったのですから。

 社長が来仏された折には、趣味の画廊めぐりや、買い物にお供することがありました。そんな時に、出身の海軍時代には、“柔剣道の寒稽古・暑中稽古の際は、京都の武道専門学校(武専)の先生から指導を受けた”などの思い出話を聞いたものです。“柔道は、余り強くならなかった”そうですが、相撲にはかなり自信を持っておられて、“後輩の指導にも当たっていた”と得意げでした。

 こんな話を聞くうちに、社長が持つ「古武士」然とした雰囲気と、私が高校・大学時代に毎晩通った、「大沢道場」の道場主で、警視庁の柔道師範の大沢貫一郎先生のそれとが重なり合うことに気づきました。多分、社長も私が柔道出身であることを知って、親身な思いを持ち、前述のような特別扱いがあったのでしょう。

 社長の次男・裕さんは、その頃「F1に最も近い日本人レーシング・ドライヴァー」として活躍していました。1973年6月、社長の来仏と同時期に、パリの西北約130キロにあるルーアン・レ・ゼサール(Rouen les-Essarts)で行われるグランプリに裕さんが出走することが分かりました。

父と子
【父と子】

 私はイギリス滞在中に、カー・レーシングを3度ほど見る機会を得て、そのダイナミックでエキサイティングなスポーツにすっかり魅了されていましたから、社長の子息のレースを観戦するために、喜んでお供しました。

  レース前、婚約者同伴の裕さんは、満面に笑みを浮かべて社長を迎えていました。笑顔がとても優しい、礼儀正しい、“かっこいい青年”でした。

 レースが始まると、社長は声こそ出しませんが、身を乗り出して、食い入るように 裕さんの車体を追ってました。それが高輪高校戦で絞め技で攻められ、死に物狂いでもがいていたときに、“頑張れ!”と叫んでいた父の姿と重なり、グッと来ました。

  この日、裕さんはガードレールに激突して、レースから離脱せざるを得ず、社長の笑顔は拝めませんでしたが、息子が無傷で脱出したことで、彼はホッとした様子でした。

 この頃の日本電子は、1971年に起ったニクソン・ショックの影響で、円が1ドル・360円から308円に高騰したことを受け、本社も海外現地法人も一気に経営が不安定化し始めていました。

 さらに、第一次石油ショックで、円は不安定な動きをしましたが、基本的には円高騰の方向に進んでゆきます。その影響は、製品価格にも直ちに現れ、例えば、SEM/XMAコンバイン機の原価が、最大の競合機・CAMEBAXの売価に相当するなどと大きな影響が現れていました。

 本社とのCIF価格交渉の行方を追う、というような毎日になっていました。

 次回は<第五十九話 悪いことばかり続きます...>です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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私と柔道、そしてフランス… 第五十七話 仏文学者・井上究一郎教授が見たジュイ・アン・ジョザス -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年11月21日

- 第五十七話 仏文学者・井上究一郎教授が見たジュイ・アン・ジョザス -

 転居先のジュイ・アン・ジョザス(Jouy-en-Josas)は、パリ南端から南西に直線距離で約12キロ...。パリの真西にあるジェオルへは、パリは通らずに、毎朝毎晩ヴェルサイユ宮殿の前を通っての快適なドライブ通勤です。渋滞など一切ありません。

ジュイ・アン・ジョザスの地図
【ジュイ・アン・ジョザスの地図】

 しばらくして、私を日本電子に導いてくれた恩人で、当時は日本電子のイタリア現地法人の責任者だった富永雅之さんから連絡がありました。東京外語仏文科の学生時代に教えを乞うた、元東大仏文科教授の「井上究一郎(注1)」先生を紹介するので、先生の希望を聞いてあげて欲しいとのことでした。

井上究一郎先生
【井上究一郎先生】

  先生は、研究されていた文豪ヴィクトール・ユゴーが、愛人ジュリエット・ドルエと暮らしながら『オランピオの悲しみ』(注1)を著述したジュイ・アン・ジョザス村に強い関心があり、1958年から何度か訪れておられましたが、しばらく行っていない当村の様子が知りたいとのことでした。

 そんなことから、私からは当村各所の写真などを送り、先生からは興味深いメモを写真の裏に記したものを送っていただいたりしました。

 これらの写真やメモから、ジュイ・アン・ジョザスの雰囲気、ユゴーとジュリエットの睦ましい暮らしぶりなどを、想像していただければと思います。臨場感抜群です:

*駅から眺めたジュイ村 : 文中、“ジブーレ(霧氷)が降っていた氷りつくような寒い春の日”とありますが、昔のヨーロッパは、11月から4月までは、このような厳しい天候が続いたものです。お日様が恋しい日々でした:

ジュイ・アン・ジョザス駅からの眺めジュイに最初に訪れた時の様子と、ジュリエットとの睦まじさを語っています
【ジュイ・アン・ジョザス駅からの眺め】
ジュイに最初に訪れた時の様子と、ユゴーとジュリエットとの睦まじさを語っています

*「ユゴーの家」周辺と「記念碑」 : 「記念碑」には、『オランピオの悲しみ』」の一片が記載されています。

ジュイ・アン・ジョザス駅からの眺め
【「ユゴーの家」周辺と「記念碑」】
【「ユゴー通り」についてのメモ】

「ユゴー通り」についてのメモ

*「ヴィクトール・ユゴーの家」 : 我々が住む一角から、600メートルほどのところにあり、そのひっそりとした佇まいに、
“誰にも邪魔されたくない”との二人の気持ちがこもっているような雰囲気が漂っていました。

「ヴィクトル・ユゴーの家」安本訳:「オランピオの悲しみ」を書いたジュイ・アン・ジョザスのメッス地区にある「ユゴーの家」
安本訳:「オランピオの悲しみ」を書いたジュイ・アン・ジョザスのメッス地区にある「ユゴーの家」
【「ヴィクトル・ユゴーの家」】

*レ・ロッシュ(Les Roches)の館 : ジュイ・アン・ジョザス村とビエーヴル村との境目にあって、ユゴーの文人社交界への登場につながった館。

レ・ロッシュの館「レ・ロッシュの館」について
      「レ・ロッシュの館」について
【レ・ロッシュの館】

*レストラン「L'Ecu de France」 : レストランの外に、ビリヤードやダンスもできる、ジュイ・アン・ジョザス唯一の社交場だったようです。

ジュリエットと通ったレストラン「l'Ecu de France」「このレストランは改装されてまだ存在します」
【ジュリエットと通ったレストラン「l'Ecu de France」】
このレストランは改装されてまだ存在します

(注1)
井上究一郎 : マルセル・プルースト研究の第一人者であり、『失われた時を求めて』(ちくま文庫1974年)の個人全訳で知られる。また、ユゴーの『レ・ ミゼラブル』の名訳も有名。1970年、東大教授定年退官後、武蔵大学教授。1999年逝去。

(注2)
『オランピオの悲しみ』 : ジュリエットとの恋をうたった「ロマン主義詩編の最高傑作」といわれている。

 次回は「第五十八話 風戸健二社長のこと...」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… -第五十六話 ルエイユからジュイ・アン・ジョザスへの転居-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年11月7日

- 第五十六話 ルエイユからジュイ・アン・ジョザスへの転居 -

 ルエイユ・マルメゾンで過した期間は、2年ほどの短い期間でしたが、ここでも幾つかの忘れ得ない想い出があります。

 まず、私の両親をフランスに招待できたことです。ただ、その当時、最も安いと言われたエジプト航空で、カイロでの乗り継ぎを経て、30時間以上掛けての大旅行は、60歳を超えていた二人にとって大変つらいものだったと思います。それでも、ル・ブールジェ空港で、私に気がついたときの嬉しそうな顔を、今でも思い出しますが...。

 3週間ほどの滞在中、車で妻の里・ポアチエやスイスなどに案内しましたが、一度も弱音を吐くことなく、旅を楽しんでくれたようでした。

マッターホルンをバックに 両親と
【マッターホルンをバックに 両親と】

 そして、“東京に着いたら電話するね”と言って帰路につきましたが、帰宅予定時間をかなりすぎても何の連絡もないので、両親と同居している妹に電話すると、“空港に迎えに出たが、聞いていた便には乗っていなかったとのこと。

 大騒ぎになりました。しばらくして、乗り継ぎ地・カイロのJALの所長から“ご両親は、(予約は確認済みにも拘らず)エジプト航空の乗り継ぎ便が満席と言う理由で、乗機を許されずにいたところを、JALがお世話しているので、ご安心を...”との電話が入ったとの連絡が妹からありました。後で分かったことは、父の義弟がその当時、JALの広島所長を務めていて、父はカイロ空港でJALの事務所を見つけ、そのことを思い出して、ワラを掴む思いで助けを求めたようです。その上、この所長と義弟とが偶然友達同士ということが分かり、ホテルの紹介・予約、帰国のためのJAL便の利用まで許可してもらったようです。

 母などは、“らくだに乗って、ピラミッド見学ができたわよ!”と余裕しゃくしゃくでした。女性は強い!

 もうひとつ、驚いたことがありました。両親がカイロのホテルに落ち着いた時だったのでしょうか、父から突然電話があったのです。ただ、“總チャンか ?”と言った後、 全く別の男の声で、“Speak English!(英語で話せ!)というのです。これが、アラブ諸国に良くあると言われていた「盗聴」ならぬ合法の「傍聴」であることを後になって認識しました。こうやって全ての電話の会話は、官憲によって傍聴されていることが分かって、背筋に冷たいものが走る思いがしました。

 また、同じレジダンスにお住まいの、資生堂のヨーロッパ責任者・星野史雄さんとの出会いもわすれられません。ある時彼から、それまで有力なお客様として全く認識していなかった、フランスの化粧品会社「ロレアル(L'Oréal)」についての数々の詳しい情報を得ました。そのなかには、“早晩、電子顕微鏡を必ず購入するだろう”との情報も...。

 化粧品会社の研究所の研究内容は多岐に亘り、それを支える高度な科学分析機器が必要となります。特に、皮膚・毛髪の研究にはTEM/SEMが欠かせません。

ヒトの髪の毛のSEM写真
【ヒトの髪の毛のSEM写真】

 1年ほどの地道な営業活動の結果、JEM-100CにSEMの機能を付したフル装備の電子顕微鏡を、1フランの値引きもなく、それまでの受注最高額75万フラン(当時、約4千4百万円)で受注したことを思い出します。

  そして、1971年9月9日、現在、映画制作のサウンド・エンジニアとしてフランスで活躍している長男・健が誕生しました。安本家としては、私以来の男子誕生でした。

 そのため、ルエイユのアパルトマンが手狭になったために、転居を考えるようになりました。そんな時、日本電子の電子顕微鏡輸出第一号機と共に、フランス原子力庁サクレー研究所(CEA Saclay)に残り、1968年に復職された奥住宏さんから、ヴェルサイユ宮殿に近いジュイ・アン・ジョザス(Jouy-en-Josas)という村のご自宅の前の家が空くという、耳寄りな話がありました。広い庭付きだという...。 

 ジェオルから約20キロ、車で約30分...。パリ大学理学部オルセー校、上記のサクレー研究所も直ぐそばという感じ...。躊躇なく、転居先はジュイ・アン・ジョザスに決めました。

 次回は「第五十七話 仏文学者・井上究一郎教授が見たジュイ・アン・ジョザス」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス…- 第五十五話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その二)-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年10月24日

- 第五十五話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その二) -

 (第三十三話でご紹介した、左右の技を同等にこなす“稀代の業師”渡辺喜三郎先輩が去る9月25日に83歳で逝去されました。心からご冥福をお祈りします。)

 さて、画期的なX線分析装置「X線マイクロアナライザー(XMA)(注1)」は、1951年、フランスのキャスタン博士の学位論文によって、装置として考案発表され、1956年にフランス企業・カメカ(CAMECA)によって製品化されたものです。

 その後、同機に走査型電子顕微鏡(SEM)の機能も持たせたCAMEBAXが開発され、日本電子のSEM/XMAコンバイン機との熾烈な戦いが始まっていました。価格面ではカメカが地の利を生かしてやや有利に立っていて、技術面では、我々は我々の優位性を主張しますが、当然のことながら“元祖XMA”を自ら任ずるカメカも負けてはいません。

 おまけに、フランス特有のショーヴィニズム(盲目的愛国主義)、この頃(1970年代前半)から明らかになり始めた保護貿易政策、非関税障壁が強まる中で、日本電子製のXMAは長い間苦戦を強いられることになります。

 さらに、液体クロマトグラフィ検出機(LC)(注2)については、年間輸入割り当て制度が適用され、ジェオルとしては、年間5、6台の割り当てしかもらえず、それ以上の受注をしても輸入ライセンスが下りず、客先に納入できないという事態が生じていました。

 日本の非関税障壁が非難されることはしばしばでしたが、フランスも時には意地悪と思えるほどの措置を突然施行することがありました。その一例を挙げると、時代も対象製品も違いますが、1982年ミッテラン大統領政権下、エディット・クレッソン貿易相が、対日貿易赤字拡大への対抗措置として、それまでル・アーヴルなどの港で行っていた日本製ヴィデオデッキの通関手続きを、内陸部のポアチエで行う決定をしました。当時の日本製ヴィデオデッキのマーケットシェアーは95%を越える勢いでしたが、ポアチエに滞留することで、事実上の輸入制限を受けることになりました。

 さらに問題になったのは、この措置の発表後に行ったインタヴューで、「ポアチエの戦い(注3)」になぞらえて、「外敵をポアチエで迎え撃つ」と発言したことでした。

ドラクロア 「ポアチエの戦い」
【ドラクロア 「ポアチエの戦い」】

 これに対して、日本はGATTに提訴したり、当事者の日立が全国紙に意見広告を掲載して、フランスの世論に問いかけるなど、猛烈に反撃を試み、“ポアチエの戦い”ならぬ“日仏貿易戦争”が激化しました。

  翌年、さすがに“ポアチエ通関”の措置は廃止されましたが、1991年首相に就任したクレッソン氏が、またまた「日本人は、ウサギ小屋の黄色い蟻」などの暴言を吐いたために、去る9月26日に死去した親日家・シラクの政権になるまでは、一向に摩擦はおさまりませんでした。

(注1)
X線マイクロアナライザー : 電子線を試料に照射した際に発生する特性X線の波長と強度から試料の表面の分析を行う

(注2)
液体クロマトグラフィー検出機 : その頃は、アミノ酸分析器とも呼び、人の体液、日常の食品、家畜、農産物中のアミノ酸の含有量を測定する装置

(注3)
ポアチエの戦い : スペインを征服、フランク王国に攻め入ったイスラム軍を、782年フランク王国のカール・マルテル将軍がポアチエ近郊で撃退した戦い。

 次回は「第五十六話 ルエイユからジュイ・アン・ジョザスへの転居」です。


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私と柔道、そしてフランス… -第五十四話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その一)

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年10月10日

- 第五十四話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その一) -

 前回の日本の技術を揶揄するような話は、色々な分野で聞かれました。これは、第二次世界大戦後、世界で「メイド・イン・ジャパン」が「安かろう悪かろう」と批判され、その反面、「メイド・イン・ジャーマニー」が高く評価されていたことに、少なからず影響されていたと思います。

 また、1962年、池田勇人首相が来仏し、ドゴール大統領と会見した際に、手土産に持ってきたソニーのトランジスタ・ラジオについて熱心に説明したところ、会見後、大統領は日本の首相を「トランジスタ・ラジオのセールスマン」と称したという。そんな逸話がまだまだ話題になる時代でした。敗戦国日本が高度成長期にあったことに対するやっかみも、多分にあったように思います。

 こういう環境の中で、全機種で仕様・性能の面での熾烈な戦いが繰り広げられました。

 特に、透過型電子顕微鏡(TEM)の分野でのオランダのフィリップス(Philips)社との競合が突出していました。生物・医療関係では、シーメンスが絡んできますが、その他の分野では、日本電子とフィリップスが市場を分け合っていました。

 本体自体を比べた場合は、分解能で勝り、振動や熱に対して安定している日本電子製が有利でしたが、物性物理学・材料学などでは、この分野で不可欠の試料の傾斜角を大きく取る「サイド・エントリー・ステージ(横入れ式試料ステージ)」を組み込んだフィリップス製がダントツ有利でした。

 1973年の頃、有名製鉄会社の研究所から大型TEMの引き合いがありました。所長は電子顕微鏡学会でも著名な研究者で、フィリップスのTEMの信奉者でもありました。ただ、日本電子のJEM-100Cにも興味を持ち、ルエイユの展示場に何度も足を運んできていました。

 しかし、この研究所の研究には前述のステージが不可欠で、日本電子の本社からは、“開発中”としか言ってきていませんでしたので、半ば諦めていました。ただ、研究所の予算の許可がなかなか下りないことから、機種決定もされないまま数ヶ月が経ちました。

 そのとき、待ちに待ったステージの試作品完成の吉報が入ったのです。

 直ちに本社に問い合わせたところ、数週間後にアメリカのニューオルリンズで開催される国際電子顕微鏡学会で試作品のチェックができるというのです。もちろん、渡りに船とばかりに、お客様とニューオルリンズに飛びました。

ニューオルリンズの地図
【ニューオルリンズの地図】

  とは言っても、パリ・ニューオルリンズ間には直行便はなく、ニューヨーク経由です。日本に行くのと同じような大旅行でした。

 会場には、当ステージを装着したJEM-100Cと本社から派遣された技術員が待ち構えていて、半日掛けて完璧なデモを行なってくれました。

 その夜は、もちろんニューオルリンズ・ジャズを聴きながらの食事を二人で楽しみましたが、お客様の実に満足そうな顔をみて、この勝負に勝ったことを確信したものです。柔道の試合に一本勝ちした思いでした。

ニューオルリンズのフレンチ・クオーター
【ニューオルリンズのフレンチ・クオーター】

 帰国後しばらくして、電話で日本電子製に決定したことを知らされました。そのお礼のために竹内社長を伴って研究所を訪問しましたが、よほど嬉しかったのでしょう、彼はわれわれを自宅に招待して、シャンパンでお祝いをしてくれました。

 この受注はその後のTEMの営業に大きく貢献してくれたことは、言うまでもありません。

 次回は「第五十五話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その二)」です。


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私と柔道、そしてフランス… - 第五十三話 パリでの仕事は...-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年9月26日

- 第五十三話 パリでの仕事は... -

 1970年初夏、三度目のパリ長期滞在が始まりました。

  私が所属する日本電子のフランス現地法人「JEOL(Europe)SA」は、パリの西方約10キロほど、パリのベッドタウン「ルエイユ・マルメゾン」にありました。この街にはナポレオンの妻“ジョゼフィーヌ”の居館になった“マルメゾン城”があることでも有名です。私の住居も市内にみつけました。

マルメゾン城
【マルメゾン城】

 この本部は、日本電子のヨーロッパ進出の拠点になったところで、東欧本部・西欧本部・仏現地法人の3世帯が同居していて、付随する展示場には、透過型/走査型電子顕微鏡(TEM/SEM)、核磁気共鳴装置(NMR)のデモ機が設置され、ヨーロッパ中の顧客を迎えていました。

  このデモ機を操作するのは、とくに選ばれたヴェテラン中のヴェテラン・オペレーターで、それぞれの機械が持っている最高の性能を引き出し、説明し、お客様が納得するまで議論できる優秀な技術者です。

 その中の一人がすでに第二十二話でご紹介した奥住宏さんです。日本電子の電子顕微鏡輸出第一号機は1955年にフランス原子力庁サクレー研究所から受注しましたが、その納入サーヴィスを担当し、その後、日本電子を退職、同機のオペレーターとしてサクレー研究所に残るという稀有な経歴の持ち主です。そして、1968年に復職、SEMデモ機担当として、得意のフランス語を駆使して活躍されていました。

 さて、パリでの私の役割については、当初は電子顕微鏡のセールス責任者ということでしたが、しばらくして、西欧本部の竹内支配人から、部長として営業部をまとめなさい、との通達がありました。彼は同年9月にフランス現地法人 の社長に就任します。

 差し置かれた形の先輩セールスマン、グリエネさん/ミッショさん達にとっては、納得の行かない人事だったと思いますが、それでも、二人とも定年まで同社で活躍。とくに、グリエネさんは、80年代後半に同社の社長に就任しました。

 私の最初の仕事は、主要機器のフランス全体の市場状況を把握することでした。

 まず、全体的には、理化学機器メーカーとしてのジェオル(JEOL)の認知度は申し分なく、当初問題にされたアフタサービス体制も充実してきていて、後は営業力が問われる状態になっていました。

 情報収集能力もさることながら、色々な意味で各機種ごとに強力なライヴァルが、少数とはいえ、存在しました。 例えば:

-TEM:フィリップス(オランダ)、シーメンス(ドイツ)、日立、オー・ペー・エル(フランス)
-SEM:ケンブリッジ(イギリス)、カメカ(フランス)
-NMR:ヴァリアン(アメリカ)、ブリュッカー(ドイツ)

  ここで特筆したいのは、TEMのシーメンスの存在です。ドイツ人・ルスカが開発したTEMをシーメンスが1938年に商用第一号機として世に出したからでしょうか、この頃にはかなりオールド・ファッション化していましたが、フランスには根強いファンが多く、それもなぜか医療・生物関係の研究所で絶大な信頼を集めていました。

 この牙城をジェオルはなかなか崩せませんでした。 あるとき、パリの有名病院の病理研究所でTEMの購入計画があることを聞き、著名な担当教授と面会しました。JEM-100Cの説明を自信を持って説明したところ、教授は「説明を聞いていて、戦時中の日本海軍の“戦艦大和”を思い出した」、と言うのです。その理由を尋ねたところ、「戦艦大和は、最新の装備を備えた、最強の戦艦として出航したが、結局アメリカ軍の集中攻撃にあって、結果を出せずに撃沈されてしまったではないか!ジェオルのTEMは、装備は完璧だが、実際に仕様通りに稼動するのかしら?」というものでした。

  この頃のフランスでは、「カメラはライカ!車はシトロエンDS!」というような感覚的な選択をする人が多かったのかも知れません。医療・生物関係では「TEMはシーメンス!」だったのです。

 次回は「第五十四話 ライヴァルとの熾烈な戦い」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… - 第五十二話 また、新しい展開が...-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年9月12日

- 第五十二話 また、新しい展開が...-

  これまで、当時の市場性から透過型電子顕微鏡を中心にお話してきましたが、1966年に発売されたばかりの走査型電子顕微鏡は、透過型を超える将来性を期待されていましたので、これも必死に紹介して回りました。トゥルーズの宇宙・航空関連機関/企業、ピレネー山脈の真っ只中、海抜1750メートルにあるCNRSの太陽エネルギー研究所、著名な海洋学者のジャック=イヴ・クストー氏が館長を務めるモナコ海洋博物館などなど...。

  まだこの機械を知らない研究者も多かった当時、説明を始めると、並々ならぬ興味が手に取るように感じられるのを経験して、この機械の将来性を確信したものです。 ただ、モンペリエ在任中は、この機械の受注はありませんでした。

  また、苦い思いも経験しました。アヴィニヨンの北30キロにある原子力庁の研究所の一つで、透過型電子顕微鏡の購入計画があるという情報を得て、訪問することにしました。といっても、この研究所はかなり機密性の高い軍事研究を行っているため、部外者の入所は厳しく制限されていました。先ず、ジェオル(JEOL)についての調査がおこなわれましたが、これは、ジェオルの機械が原子力庁の多くの研究所に納入されているため、全く問題なし。私個人についての身元調査でもOKが出て、入所許可が下りました。

  私を迎えてくれた若い担当研究員は、後で分かったことですが、柔道の黒帯で、私の名前と私の「餃子耳(注1)」を見て、その当時、フランス柔道連盟の招聘でマルセイユで柔道の指導をしていた同志社大学柔道部出身で5歳若い、「安元豊(注2)」君と混同したようで、「この辺りの柔道界では有名なYASUMOTO先生に、お会い出来て光栄です」と感激しっぱなしで、誤解を解くのにかなりの時間を必要としました。

  こんなことから、親しくなり、何回か訪問するうちに機種は日本電子製に決めてくれました。ところが、その後間もなく、私がニースに出張中に、自宅・事務所に彼から電話があり、「注文をジェオルに出そうと手続を始めたところ、本庁から横槍が入り、性能では大きく劣るが、フランス製ということで、O社に注文せざるを得なかった」旨の伝言がありました。理由は、研究内容が「極秘」に当り、「機械の設置・保守を外国企業に任せる訳には行かない」でした。そんなことは、最初から分かっていたことですが...。

  仕事以外でも、数々の想い出があります。

  戦時中の疎開は除き、首都以外で暮したのはモンペリエが初めてでした。普段は、営業活動で右往左往していましたが、それでも少しづつこの地方の風土・生活リズム・食生活・伝統などなどに魅せられていきました。

 毎朝、250年前の水道橋の下で始まる南仏伝統の球技「ペタンク(注3)」...。私の目覚まし時計にもなった、両手に持ったステンレス製のボールを時々打ち合わせる時に出るカチン、カチンという音...。

ペタンク
【ペタンク】

  また、親しくなった土地の人に招待されると、アルジェリア戦争を機に帰仏したフランス人、戦後移民してきた多くの北アフリカの人々が住むこの地方では、元々は北アフリカ料理である、子羊を丸焼きにする「メシュイ(méchoui)」で歓迎してくれます。そして当然のように、灰色(グリ=gris)ワイン、リステル・グリ・ドゥ・グリ(Listel gris de gris)が振舞われます。それまで、ワインには赤(rouge)と白(blanc)、その中間のローゼ(rosé)の三種類しかないと思っていましたが、灰色(gris)が存在することを知って驚いたものです。モンペリエの近郊・カマルグの砂地で育った葡萄で造られる超(!)爽やかなワイン。今でも、パリでは手に入りにくいワインです...。

  そうこうしている内に、1969年2月、日本から実妹・年子(注4)がやってきました。ただ、人一倍活動的な妹は学校以外何もない田舎の町には我慢ができず、パリで勉強を続けるために、3ヶ月ほどで旅立って行きました。 それ以来、妹は半世紀に亘ってフランスに留まり、今でもパリで活躍しています。

  同じく50年前の7月20日午後10時頃から、アポロ11号の月面着陸の実況放送を妻と共にラジオで聞きました。バルコニーで薄暗い空に浮かぶ月を眺めながら...。歴史的な出来事に関わっているような気分でした。

 そして、10月12日、待望の長女・美代子を授かりました。ということは、しばらくすると彼女は50歳を迎えます。 信じられません!

  1970年初頭だったと思いますが、パリ本部の竹内支配人がモンペリエに来られるという連絡がありました。ただ単なる視察と考えそれなりの準備を整えてお迎えしましたが、いざ到着されての第一声は「安本君、できるだけ早くパリに戻ってきてくれ!」でした。着任以来、一年を少々越えたばかりの時にです。

 これまでの営業部長が退職するからだという...。モンペリエには私の代わりに、「フランス人のアフタサーヴィス担当を置いて、お客様には迷惑を掛けないようにするので、できるだけ早く...」を繰り返されるのみでした。私を説得することだけを目的に、モンペリエに来られたようでした。

  日本電子(株)に入社するきっかけを作ってくれた人でもあり、「ノー」と言っても聞いてくれないことを良く知っていましたので、数日間考えた末、パリに戻る決心をしました。 

  モンペリエ在任中に、大型電子顕微鏡を4台、NMRを1台受注した実績を持ってパリに戻りました。

(注1)
餃子耳:「カリフラワー耳」とも言い、稽古中に耳が畳・柔道着の奥襟などに擦れたりして出血し、血腫が凝固した状態をいう。相撲・ボクシング・ラグビーなどでも起る。

(注2)
安元豊:その後「日立造船(株) 代表取締役副社長」

(注3)ペタンク:目標球にステンレス製のボールを投げ合って、相手より近づけることで得点を競うスポーツ。

(注4)
安本年子:現在、フランスでの生活を楽しく豊かにする「マロニエの会」会長。平成30年度外務大臣表彰(個人)。

 次回は「第五十三話 パリでの仕事は...」です。


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【安 本 總 一】
現在




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私と柔道、そしてフランス… - 第五十一話 NMR(核磁気共鳴装置)などの営業活動-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年8月29日

- 第五十一話 NMR(核磁気共鳴装置)などの営業活動-

 日本電子の主力製品の一角を占めているNMRは、物質の分子構造を原子(物質を形づくっている最も小さい粒)レベルで解析するための装置で、ビタミン・医薬品・合成樹脂・合成繊維・香料・染料などの研究に今でも広く使われています。

 1969年時点で、私の担当地域にはジェオルのNMRを使っているところはありませんでした。そのため、パリ本部でNMRを担当していた時に資料請求のあった、南仏グラース(Grasse)のある香料会社を訪れてみることにしました。

グラースとその周辺
【グラースとその周辺】

 ここまで書いて、突然、去る4月30日にベイルートでなくなられた富賀見先輩を思い出しました。

 1964年夏、南仏ボーヴァロンでの国際合宿に参加するため、大国君の車で南下する際、富賀見先輩の提案で、一般道を使ってフランスの田舎を楽しもうということになりました。グルノーブルからは、標高が高く、景色の移り変わりの激しい“ナポレオン街道”をひた走りに走りました。

 そして、カンヌの約15キロ手前、真下の中腹に街並が広がり、遠くにコートダジュール、を望む、海抜1000メートルほどの峠に到着すると、先輩が「外へ出て深呼吸をしてご覧!」とおっしゃいます。外に出ると、深呼吸をするまでもなく、下の方から芳しい香りが爽やかな風に乗って舞い上がってくるのが感じられました。

グラース
【グラース】

 先輩は「この下の街が“香水の聖地”と呼ばれる、グラースという街だよ!この街で柔道の講習会を開いたこともある!」と懐かしそうに話されました。

  この地で香水・香料が主要産業になったのは18世紀後半で、それまでは皮革産業がここの主要産業でした。この産業には、必ず「革なめし」が伴いますが、この革なめしの際に出る悪臭をマスキング(包み隠す)するために、香水が用いられるようになりました。そのため、大量の香料が必要になった上、一般的にも香水の爆発的な普及で香料・香水の需要が高まりました。一方、革製品の税金が高騰したために、この街の皮革産業はスペインに移り、香水・香料産業だけが残ったというわけです。
“シャネルNo.5”もここで誕生しました。

 件の香料会社の研究所を訪れると、ここにはすでにライヴァル会社“バリアン”の大型機が活躍していて、2機目の導入を計画していることも分かりました。

 “バリアン”に満足している研究所に、他メーカーのNMR導入の意思はまったくないと判断し、あきらめましたが、それでも何回か出入りするうちに、耳寄りの情報を得ました。

 グラースにある多数の香料・香水会社が組合を結成していて、費用の張る研究などはニース大学理学部の有機化学研究室に委託しているとのこと。そして、この研究室がNMRの購入を計画しているとのことなのです。もちろん、ただちに飛んで行きました。

 この情報は正確でした。定石通り試料をいくつか預かり、パリ本部に送って測定してもらいました。担当教授はその結果にいたく感心され、機種選定では問題なく日本電子製品に決められました。ただ、やっと獲得したものの、大学側の予算が不十分でした。仕方がなく、パリ本部にあるデモ機をオファーしたところ、話はすぐにまとまってしまいました。苦手だったNMRの受注第一号です。

 次回は「第五十二話 また、新しい展開が...」です。


筆者近影

【安 本 總 一】
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フランス在住、早大柔道部OBの著者の柔道に明け暮れた学生時代、そして柔道の指導の為、フランスへの1ヶ月に渡る船旅、各国の様子、現地での就職、営業活動など当時の写真とともに振り返ります。

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【 安 本 總 一 】
早大柔道部OB フランス在住



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