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私と柔道、そしてフランス… ー 第七十話 日仏武道倶楽部誕生ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年5月21日

- 第七十話 日仏武道倶楽部誕生 -

 1976年7月、私の帰国に遅れること2ヶ月で、家族が来日。9月には、子供たち(美代子・健)が千代田区富士見の「リセ・フランコ・ジャポネ・ド・トウキョウ(現・東京国際フランス学園)」に入学しました。

 この学校は、1967年に私立学校「暁星学園国際部日仏科」として発足しましたが、1973年にフランス政府所有となり、1975年に「リセ・フランコ・ジャポネ・ド・トウキョウ」となりました。在日フランス人子女、フランス語圏出身子女、日本人帰国子女などが学んでいました。

 バカロレア(注1)の取得も可能な幼・小・中・高の揃った一貫校で、長男は幼稚園、長女は小学校への入学でした。

 しばらくして、大国伸夫君から紹介され、このリセの体育教師で柔道有段者のジャン=クロード・ボニエ先生に会いました。先生は「リセの生徒達に柔道を経験させるため、リセの柔道部のような形で柔道クラブを作りたいので、協力して欲しい」と言うのです。

 私の子供達に柔道を習わせようとしていた時でもあり、願ってもないこの依頼に積極的に協力することにしました。

 そして、先生の企画力と精力的な実行力とによってクラブ設立計画はとんとん拍子に進み、「日仏武道倶楽部」が誕生しました。とりあえず、「名誉会長:大国伸夫、会長:安本、技術コーチ:ボニエ」の体制で、道場は「暁星学園」の道場を借りて、1977年9月の新学期に活動を開始しました。

 健・美代子共に、率先して稽古を始めました。

1978年 暁星学園の道場にて1978年 パトリック君、チャンと受身をとってますね !
【1978年 暁星学園の道場にて】
最後列: 右・ボニエ先生、左・安本
安本の前: 右・美代子、左・健
【1978年 パトリック君、
チャンと受身をとってますね !】
何故か床の上で!

  美代子は4年後(?)、健康上の理由で止めましたが、健は夢中で続けていました。そして、1977年2月に生れた次男・純も5歳で、待ってましたとばかりに稽古をし始めます。

1982年 家でも稽古純が背負い投げで親父を攻める!
【1982年 家でも稽古】 【純が背負い投げで親父を攻める!】

 当初はそれほどでもなかった「倶楽部」の生徒数は、年々増え続け、それに連れて、試合などの関連行事も増加し、学校の体育授業を抱えるボニエ先生一人では全生徒の指導は難しくなりました。道場も広い武道館に移りました。

ボーニエ先生と子供達
【ボーニエ先生と子供達】

 そこで、新たに当リセのもう一人の体育教師で、同じく柔道有段者のミッシェル・ムーニエ先生と、武道館の鈴木義和先生の二人に協力してもらうことになりました。
 1984年には、健が嬉しい嬉しい初段に昇段しました。小さい身体でよく稽古に励んだものです。

1984年 健(前列中央)初段に昇段!
【1984年 健(前列中央)初段に昇段!】
前列:右・健
後列:左から二人目・鈴木先生、ボニエ先生、一人置いてムーニエ先生、安本
 

  そして、1986年には、17ヶ国(フランス・スイス・カナダ・コートディヴォワール・セネガル等々)・130名の子供たちが「倶楽部」に登録していました。当時の日本では特筆できる規模の柔道場に成長していたのです。また、実力の方も、多くの団体戦・個人戦で華々しい成果を挙げていました。

 さらに、「日仏柔道倶楽部」設立10周年を記念して「第一回少年柔道大会」を開催、30ヶ国・約300名の選手を集めた画期的なこの大会は、国際親善に大いに寄与するとして、評判になりました。ちなみに、参加したチームは、ドイツ学園/セント・メリーズ・インターナショナル・スクール/アメリカン・スクール・イン・ジャパン/日本武道館武道学園/松前柔道塾/敬愛塾等々でした。

第一回国際少年柔道大会のプログラム
【第一回国際少年柔道大会のプログラム】

 この大会の成功はひとえに、鈴木義和先生と父上の鈴木義彦八段との、微に入り細にわたる大会準備・運営の指導のおかげだと、今でも深く感謝しています。

 ボニエ先生が任期を終えて帰国後は、ムーニエ先生が「倶楽部」を引継ぎ、鈴木先生も元気に指導を続けられておられます。2012年に校舎が北区滝野川に移転した際には、立派な柔道場も設けられたとのこと。二葉目の写真のパトリック君が指導者として定期的に道場に現れることなどを聞いて、移り行く時の早さを感じています。 

(注1)
バカロレア:日本の高校卒業資格にあたる。

次回は「第七十一話 新製品開発の難しさ」です。


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【安 本 總 一】
現在




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私と柔道、そしてフランス… - 第六十九話 “柔道”再開へ... -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年5月7日

- 第六十九話 “柔道”再開へ... -

 帰国して数ヵ月後、南仏モンペリエ以来お留守にしていた柔道の稽古を再開しました。とはいっても、 たまに思い出したように、早大柔道部の道場か大沢道場に顔を出し、組みやすそうな学生や高校生と軽い乱取をする程度でしたが...。

 そんな時に、柔道部から、恒例の寒稽古の知らせがきました。この道場での寒稽古には、学院・学部時代に7年間参加していて、いずれも皆勤でした。

 あえて、一年で最も寒い“寒”の時期に、暖房のない道場の窓を大きく開け、凍るような畳の上で稽古するという、精神力・気力の鍛錬に力点をおいた早朝練習です。

  現役の学生にとっても大変厳しい一週間であることは分かっていましたが、“どうせ参加するなら皆勤を!”と、かなりの覚悟で参加しました。

 靖国神社裏の住まいから、真っ暗の中を45分ほど掛けて、徒歩で早大道場へ...。いったん道場に入って柔道着に着替え、6時からは、少しでも身体を温めるために、早稲田の街中(まちなか)をランニング...。

 走り始めると、昔懐かしい建物の前を通ります。カツ丼の元祖・早稲田最古のそば屋「三朝庵」(注1)、老舗洋食レストラン「高田牧舎」、私の学んだ法学部校舎、大隈講堂、行くと必ず特性スープをサービスしてくれた「TOKIWA」、よくコンパをやった「金城庵」などなど....。余りの懐かしさに足を止めてしまい、体がなかなか温まらなかったことを思い出します。

【三朝庵】【大隈講堂】【金城庵】

 この後の稽古も、まず怪我をしないことを目標に、前述の組みやすい学生や、早実高・早稲田高などの高校生を相手に、久し振りに汗を流しました。

 結局この時も皆勤することができましたし、20年後の1997年の「創部100周年」の記念寒稽古では、後輩の三野君と共に「永年皆勤賞」という創部以来はじめての特別賞を授与されました。さらに、2012年にフランスに移住するまで、15年間皆勤を続けたと記憶しています。

 しかしながら、世の中には「上には上がある」もので、ライバル慶大柔道部の成毛秀臣先輩は70年間以上の寒稽古皆勤を達成されたそうです。

 「一年の計は元旦にあり」と言いますが、私にとっては「一年の気力は寒稽古にあり」で、寒稽古に皆勤できるかどうかで、その年の気力を図るバロメーターでした。

 この「寒稽古」ですぐに思い出す人物は、早大柔道部時代の同期生、矢部(旧姓:千葉)君です。

 柔道部部室に大きな鉄製の火鉢があり、これが唯一の暖房器具で、それに火をいれるのが一年生の役目でした。

 当時矢部君は、寒稽古の間は私の家に泊まっていて、“炭で火を熾すにはコツがあるので、俺に任せろ”と言う...。冬は雪深い秋田の大湯温泉出身で、田舎の生活に詳しい彼にとっては、炭で火を熾すなどはお手の物、すべて彼に任すことにしました。

 朝、炭をガスコンロにのせて火種を作り、その火種を用意してあったブリキ缶に入れます。そのブリキ缶の側面には沢山の小さな穴が開いていて、針金の取っ手がついています。厳しい寒さの中を、そのブリキ缶をぶるぶるさせながら歩いていくと、道場につく頃には炭は真っ赤になっていて、火鉢に入れると到着した部員達がこぞって冷え切った手をかざしていました。  

(注1)
三朝庵:2018年に閉店

次回は「第七十話 日仏武道倶楽部誕生」です 


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… ー 第六十八話 ロレアルの決断ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年4月23日

- 第六十八話 ロレアルの決断 -

 コーセーがこれほど“定価販売”に拘った理由については、先般、『化粧品ひとすじ』を読み返して、改めて納得しました。“小林孝三郎伝”と副題のついたこの本は、この年(1976年)、コーセー創業30周年を迎えた折に出版されたものです。

 小林孝三郎創業社長は、若干16歳で化粧品メーカー・高橋東洋堂に入社し、1921年、50歳でコーセーを起こし、98歳で亡くなるまで現役として活躍しました。

 その間、乱売合戦の果てに利益を確保できず、倒産・閉店に追い込まれるメーカー・小売店が続出するのを見てきた彼は、“定価販売”はメーカー・小売店の適正利潤の確保、最終的には消費者の利益に繋がるとの主張を崩したことはありませんでした。それも、コーセーのみならず、他のメーカーにも呼びかけ、その先頭に立って、組織作り、小売店の指導、消費者の理解を得る努力などをつづけてきたことが、本書に読み取れます。

 さらに、1967年からの5年間は、東京化粧品工業会の会長に就任し、自動的に日本化粧品工業連合会の代表理事に選出されました。小林コーセーの社長としてだけでなく、業界のトップリーダーとして、再販制度(第六十七話“注1”を参照のこと)維持のためなどに、公正取引委員会との交渉の前面に立って活躍しました。

 このことから、コーセーが製造・販売するロレアル商品が、コーセーが関与することができないルートで販売され、廉・乱売されることはあってはならなかったのでしょう。

 冬の声を聞くころには、この値引き問題が深刻化し、コーセー・ルートのロレアル製品の扱い率が低迷していました。そんな中、ついに痺れを切らした小林禮次郎専務が雨宮慎一(注1)秘書課長を伴って、ロレアルのフランソア・ダル二代目社長、及びジャン・レヴィー副社長兼パブリック部門長に対して、状況を報告するために12月初旬に渡仏しました。

 表向きは状況報告ですが、日本でのロレアル業務用製品部門をリーダーに育て上げたという大きな論功行賞や、「ランコーム」の行方も握っているという背景を後ろ盾に、小林専務は背水の陣でこの“陳情”に望んだものと想像しています。

 討論は12月6日から10日まで行われ、結局、コーセー側の迫力に押されたのか、ロレアル側が大きく譲歩し、次のような合意に達しました:  

  • (株)ロレコスへの出資比率を、ロレアル50%/小林コーセー50%にする。
  • コーセーはロレアル製品の営業体制を強化する。
  • 山陽スコット(株)との契約を早急に解除する
  • 山陽スコットとの交渉は、レヴィー副社長が早々訪日しこれに当たる

 それにしても、予想はしていたものの、大変ショックな結果になりました。 シャンプー・ライン発売を前に、やる気満々だったスコットのロレアル担当グループのメンバーの顔が浮かびました。ただ、ここにも、ロレアルの日本市場に対する熱い思いも現れていて、複雑な思いが錯綜していました。

 1977年1月末、レヴィー副社長が来日。2日間ほどの交渉では、予想に反して、山陽スコット側からは強い抵抗はなく、より有利な条件での契約解除を望んでいることが明らかでした。

 こうなると、ロレアルの大きさがはっきりと現れました。保障関係は、ほとんどスコットの要求どおりに、下記のような合意点に達しました:  

  • 販売代理店契約の解除
  • 66代理店(問屋)の商権を保持し、小林コーセーへの委譲
  • 在庫品/返品の有償引き取り
  • 遺失利益の保証

 下手をすると法廷闘争になると心配する関係者も多くいた中で、スコットが早々に身を引いたのは、スコットの役員の多くが尊敬する小林孝三郎社長の存在だったことが、後になって分かってきました。化粧品業界をまとめてきた小林社長の影響力はここでも発揮されたということです。

 この遺失利益の一定額の小切手を、約束通り、3ヶ月ごとの決められた日、決められた時間に、一日・一秒の遅れもなく、1979年3月まで届け続けました。そして、最後の支払いが終った日には、お世話になった笛田営業担当常務がスコットの入り口で満面に笑みを浮かべて私を迎えてくれました。

 相当な額の違約金をロレコスは払えなくなるに違いない、という予想に反して、それも約束通りの日・時間に約束通りの額を支払ったロレコスを見直したようです。その晩には、赤坂の高級中華料理店で大ご馳走になりました。その時の常務の笑顔が忘れられません。

 さて、コーセーもこれに対して、スコットから委譲される66社の代理店との取引を至急開始しなければなりません。とりあえず「パブリック部門」を開設、年末にはロレアル製品のみを扱う新会社「(株)コーセーコスメタリー(小林禮次郎社長)」を設立して、対応することになります。課題の「定価販売」も自分達で解決しなくてはならなくなるのです...。

(注1)
雨宮慎一:現在、化粧品・美容関連のマーケティング情報誌「beauty buisiness」などを制作・発行する「ビューティビジネスグループ」代表

次回は「第六十九話 “柔道”再開へ...」です。  


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… ー 第六十七話 パーティー開催ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年4月9日

- 第六十七話 パーティー開催 -

(第二次大戦後最大の試練といわれる新型コロナウイルス感染症渦の急激な拡大が止まりません。フランスでは去る3月17日に、罰則つき外出禁止令が出され、街から人影が消えました。にも拘らず、状況は日に日に悪化していて、驚くような数字が並んでいます:感染者数:78、167人 / 死亡者数:10、328人)

 予定通り、「(株)ロレコス設立記念パーティー」が開催されました。招待者の中心はマスメディアで、次に多かったのは在日フランス商工会議所会員企業幹部の面々でした。肝心のコーセーからは、ロレアルの全ての製品の製造を担当している狭山工場の関係者のみ...。

 不思議なことに、山陽スコットからの参加者も限られていました。彼らも、我々とコーセーとのトラブルを知っていて、その原因が彼らに関係していることも承知しており、コーセー社員との接触を控えたかったようです。従って、問屋の参加もまったくなかったように記憶しています。

 私個人として嬉しかったことは、柔道仲間・先輩、元同僚・上司達が馳せ参じてくれたことでした。

  フランスへの道を開いてくれた佐藤経一先輩やフランスへの一ヶ月の船旅を共にした大国伸夫君...。ソルボンヌ大柔道部員だったフェレ君。早大柔道部同期の桜達...。  

柔道仲間・先輩
【柔道仲間・先輩】
後列:左端・フェレ君、二人目・佐藤経一先輩、右端・大国伸夫君
前列:中央・安本   

 日本電子入社後の研修で、営業の厳しさを教えてくれた平井さん・滝鼻さん...。ジェオル・スウェーデンで活躍していた遠藤さん。東欧担当支配人・内山さん等々...。

日本電子時代の同僚・上司
【日本電子時代の同僚・上司】
左から:安本、遠藤さん、平井さん、滝鼻さん、内山さん

 懸案のパーティーが終わったことで、コーセーと山陽スコット両社との打ち合わせが、頻繁に行われるようになりました。ただ、両社からはいつも同じ問題が提起されました。

 コーセーは、ロレアル製品は「再販制度(注1)」の適用を受ける商品であり、廉売は絶対に許されないとし、さらにその影響が自社の製品の廉売・乱売につながることを真剣に危惧していました。

 山陽スコットはこの制度自体を自由で公正な競争を阻害するとして、本来は独占禁止法で禁止されている「不公正な取引方法」に該当する制度である、と非難していました。

 欧米の市場は、自由で公正な市場であり、その中で成功を謳歌してきたメーカーのロレアルとしては、山陽スコットの考え方を“良し”としたいところでしたが、それを主張することは、コーセーとの関係の崩壊を意味するので、とてもそれを主張することはできなかったようです。

 我々に対する両社の共通の依頼は、できるだけ早く、シャンプー・リンス・トリートメントを発売して欲しいということでした。

 当時の高級シャンプー市場を握っていたのは、ドイツのウエラ(WELLA)社のジェントルケアー・ラインで、シャンプー・リンスとしてのクオリティーはもちろん、特にその「森林の香り」が若い女性の圧倒的な人気を得ていました。

 もちろん、ロレアルとしても、至る所で成功しているエルセーヴ・ラインの処方を日本人の髪に合わせたものにするために、テストを繰り返しており、翌年に発売する目処はついていました。

(注1)
再販制度:メーカーが自社製品の販売価格を決め、卸・小売業など流通業者が消費者に売る(再販売する)際に、その価格を守らせる制度で、当時は、1000円以下の化粧品についてのみ再販制度が認められていた。

次回は「第六十八話 ロレアルの決断」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… ー 第六十六話 問題多発!ー

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年3月26日

- 第六十六話 問題多発 ! -

 コーセーとの関係改善役を仰せつかった私は直ちにコーセーを訪れました。

 面会したのは、1969年以来コーセーが手掛けているロレアル高級化粧品部門の「ランコーム」担当部長・大野氏と外国部長の鶴巻氏でした。二人とも長らくロレアルに係わってきたので、ロレアルの世界戦略についても熟知していて、ロレアルの一般品市場への参入計画もよく理解しているということでした。

 この二人によると、当初、すべてコーセーに任せてもらえるものと思っていたところ、一般品ルートは山陽スコット(株)に、それも総代理店として遇し、コーセーに対してはなかった仕切値に対して20%の割引まで与えていることが判明して、一挙に状況が変ったとのこと...。

  それからほぼ毎日コーセーに通い、なんとか5月27日のパーティーには、大幹部の出席は難しいものの、工場関係者を中心にした社員の出席を認めてもらいました。一度与えた不信感を拭い去ることは非常に難しいことをつくづく感じたものでした。

 その翌週だったかに、パーティーのために来日したアジア担当ディレクターの歓迎会がヴィリエ専務宅で行われ、数ヶ月前にコーセーの専務に就任した「小林禮次郎」氏(創業者・孝三郎氏の長男、後の二代目社長)に会いました。彼は早大理工学部応用化学科出身ということで、後輩の私に気安く声をかけてくれました。

 第一声は「安本さん! 大変なところに来ちゃったね! 今度ゆっくり話そう! ハハハ!」でした。彼には何を言われるかと緊張していた私ですが、この第一声ですっかり気が楽になりました。それから、彼には仕事上でも、プライベートでも大変お世話になりました。

 ところで、コーセーの営業部長に挨拶に行った際、自己紹介する間もなく、のっけから大声で叱られました。「ロレアル製品が一般市場に流れるようになって、コーセーに大きな迷惑がかかっている!」と。

 部長の説明によると「岐阜の薬局はコーセーの最重要顧客で、ロレアルのヘアスプレー・エルネットを大量陳列をしてくれていたが、近くの雑貨店に問屋を通してエルネットが入り込み、薬局の向こうを張って、同じく大量陳列を始めた。それはまあ許せるとして、許せないのは10%引きの安売りをしていることだ。薬局はロレアル製品の販売をやめた!」とのこと。

 営業部長の怒りは収まらず、さらに「廉売されているロレアル製品を我々は売り続けることはできない。ロレアル製品をすべて引き上げる!」と言うのです。

 これを隣室にいた小林保清・営業担当常務(創業者・孝三郎氏三男、後の三代目社長)が聞きつけ、とりなしてくれたお陰で部長の興奮は収まりましたが、私としては、残念ながら反論する術もなく、ただただ「これも勉強だ!」と思いながら、聞いているしかありませんでした。

 定価販売をモットーとするコーセーと、小売店の廉売を抑えることができない山陽スコットとに、まったく同じ製品を流せばこういう問題が起こることは、ロレアルも十分に承知していました。しかし、ロレアルはこのような全方位流通を世界中で成功させていたので、日本でも頑固にこの流通政策を堅持していきます。

 一方、山陽スコット(株)との打ち合わせも始まりました。

 こちら、ティッシュ・ペーパーのメーカーはこれまでに男性化粧品・メンネンの総代理店としてある程度結果を出していましたが、新たに世界一の化粧品会社の総代理店になったということで、興奮気味でした。

 3月に、ロレアル製品新発売記念キャンペーンとして、全国66社の問屋がプロモーションを掛けてかなりの好成績を得たものの、ロレアル製品のような、普及品の2~3倍する高価格商品を買う消費者はまだまだ限られていて、4月に入り、返品となって問屋に戻ってきていて、返品がかなりの数に上っていることが分かってきました。

 ロレコスとしては「返品は一切受け入れない」方針を打ち出していたため、返品がスコットの倉庫に滞留し始めていて、大きな問題になる兆しを見せていました。

 次回は「第六十七話 パーティー開催」です。  


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私と柔道、そしてフランス… 第六十五話 制度品と一般品の違い

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年3月12日

- 第六十五話 制度品と一般品の違い -

 前号の最後に触れたように、私の入社以前、ロレアルに対して強い不信感を抱いてやる気をなくしたコーセーは、(株)ロレコス設立の際、出資比率対等を主張したロレアルに対し、10%のみの出資に留どめ、5月27日に予定している“(株)ロレコス設立記念カクテルパーティー”にコーセー社員は一切出席させない、という厳しい対抗策を打ち出してきたということでした...。

 ここまでこじれてしまった理由をまとめる前に、この後、しばしば登場する用語“「制度品」・「一般品」”について説明しておきます:

*制度品 : メーカーと取引契約のある小売店で販売される化粧品。これらはメーカーから系列の販売会社や支店を通して納入され、メーカーが派遣する美容部員によって、カウンセリング販売(対面販売) されます。コーナー制度、美容部員制度、消費者組織(資生堂/花椿会、コーセー/カトレア会、カネボウ/ベル会)を大きな特徴としています。

制度品販売店
【制度品販売店】

*一般品 : 問屋や代理店を通して、不特定の小売店で販売される化粧品。問屋・代理店と代理店契約を結ぶことはあっても、メーカーとの取引契約はないので、メーカーのコントロールは効きません。その結果、「廉売」の危険性が憂慮されます。それでも、量販店・ドラッグストアでの一般品の活躍が明らかになってくると、制度品メーカーの一般品流通への参入も散見されるようになりました。

一般品売り場
【一般品売り場】

  コーセーとしては、ロレアルを前述の業務用製品のリーダーに育て上げた自信と誇りから、パブリック部門の製品もコーセーの化粧品と同様に「制度品」として、取引契約店全店に流す方針でした。 

 ところが、全方位流通を目論むロレアルにとっては、その当時のコーセーの約8000店の取引店数は余りにも少なすぎるとして、「制度品」ルートに加え、「一般品」ルートでの流通を模索していたところ、すでに特別な関係にあった男性化粧品「メンネン(Mennen)」の代理店「山陽スコット(株)(山陽パルプと米国キンバリー・クラーク社の各50%出資の合弁会社)(注1)」にアプローチして、販売代理店契約を結びました。そこで、前述の条件での㈱ロレコスの設立になったとのことでした。

 ちなみに、山陽スコット社は全国66社の問屋と取引があり、ロレアル側は手放しで喜び、スコットも世界に名だたるロレアルの商材を得て、期待は高まるばかりという状態で、(株)ロレコスは発足したようです。

 社長には、とりあえず、ロレアル/コーセー両社から絶大な信頼を得ているモーリス・アルナルが就任しました。1963年のロレアル/コーセー技術提携時に技術者として来日し、その後、前号で紹介した業務用製品部門のマーケティングを担当する合弁会社「コスメフランス(株)」のマネージャーとして活躍していた人です。ロレコスは実際の業務はヴィリエ専務が担い、それに彼を支える女性秘書一名の体制で発足し、5月初旬に私が加わりました。

 発売商品は、ヘアスプレー(エルネット)、艶出し(エプソン・ブリル)、ヘアカラー(レシタル)の3種類で、雑誌広告・テレビCMも始まっていました。

 私に与えられた最初の仕事は、コーセーとの関係改善で、特に5月27日の“(株)ロレコス設立記念カクテルパーティ”への参加を促すことでした。

(注1)
山陽スコット(株):当社の主な取扱商品は、「スコッティ・ティシュー(ティッシュ・ペーパー)」、「スコット・トイレット・ティシュー(トイレット・ぺーパー)」でした。

次回は、「第六十六話 問題多発!」です。


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私と柔道、そしてフランス… 第六十四話 フランス企業社員として日本へ..

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年2月27日

- 第六十四話 フランス企業社員として日本へ... -

 研修の締めくくりとして、「エルセーヴ・バルサム・シャンプー」発売発表会をベルギー・ロレアルで見学してくるようにとの指示がありました。

 発表会はベルギーのパブリック部門のセールス関係者全員を集めて行なわれ、その派手さには度肝を抜かれました。会社全体が“社運をこの一品に託す”という思いを込めているのを感じました。それも、新製品発売ごとに行なわれるとのこと...。

 また、ふだんは会社に席のないセールスマンが会社とのつながりを保つための重要なイベントであることも、分かってきました。

 こうして一ヶ月の研修を通して、“化粧品”という、私にとってまったく新しい世界に踏み出したのです。それも、斯界世界一のロレアルで...。

 このとき私の頭に浮かんだのは、私が日本電子に就職した時に、“ナニ! 安本が電子顕微鏡のセールス?”とビックリしていた柔道仲間達の顔です。今度は“エッ、化粧品?”といって、どんな顔をされるのか興味津々でした。

 こうした中で、研修が終り次第、とりあえず私が単身で帰国し、落ち着き先をはじめ、家族の受け入れ態勢を準備することにしました。

 また、ジュイ・アン・ジョザスの家からはできるだけ早く出なくてはならず、 8年にわたるフランス滞在でたまった家具・家電・衣類・書籍、それに買い換えたばかりの車「シムカ」などを処分して、家族と二匹の猫(内一匹は、ジュイを出る際行方知れずに...)は一時的にポアチエ市の家内の実家に“疎開”させ、渡日を待たせることになりました。

 この間、家内の苦労は大変なものがあったと思いますが、すべて計画通りにことを進めてくれました。

  その他の複雑な出国手続を経て、5月初旬に新しい赴任地“東京”に戻りました。

 到着した翌日、「(株)ロレコス(LOREKOS)」の銀座オフィスに出勤しました。日本におけるロレアルの本格的な流通を目指し、「(株)小林コーセー(現在・(株)コーセー)」と設立した合弁会社です。

 約3ヶ月前の面接で、“私のアシスタントとして来てくれ!”と言ってくれたジェラール・ヴィリエ専務と女性秘書が満面の笑みで迎えてくれました。

 早速始まった専務との打ち合わせでは、当然のことながら、3月1日に発足したばかりの当合弁会社の設立の経緯と現況が話題の中心になりました。

  まず、ロレアルが信頼できるパートナーとして(株)小林コーセーを選んだ理由について、次のような説明がありました。

 コーセーの創業者で当時の社長「小林孝三郎」氏との信頼関係。彼は、1962年に交わしたコーセー・ロレアル間の技術提携を、自ら渡仏して提案・交渉しまとめた功績者で、その後、ロレアルのパーマネント剤・染毛剤などの業務用製品を美容業界(注1)でのリーダーに育てあげたロレアルの恩人であること。1964年にはマーケティング活動の更なる推進を目的に、対等合弁会社(出資比率:ロレアル50% / コーセー50%)「コスメフランス(株)」を設立し自ら社長に就任して、日仏企業の成功例として高く評価されていたことなどがあげられました。

小林コーセー本社小林孝三郎社長
【小林コーセー本社】
【小林孝三郎社長】

 パブリック部門に関しても同様の協力を得られるものとロレアル側は思っていたようです。

 ロレアルの意図は、まず、デパートをはじめ、コーセーが契約を結んでいる全国の化粧品販売店などにロレアルの一般製品を流通させることにありました。

 コーセーはすでにロレアルのヘアスプレー・艶出し・脱毛剤を販売していましたが、ロレアルとしては、これらの製品の流通は中止して、ゼロからの出発を提案しました。ここまでは、コーセーはすぐに理解を示しましたが、次にロレアルが提案した流通政策はそれまでの良好な関係を反故にするものと受け取り、ロレアルに対して懐疑的というより、強い不信感を持つようになった、とのことでした。。

(注1)
美容業界:美容(院)室・理容(院)室を生業とする業界

次回は「第六十五話 制度品 / 一般品の違い」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… 第六十三話「研修で学んだこと」

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年2月13日

- 第六十三話 研修で学んだこと -

ロレアル社の中心となる化粧品部門は、主に下記の3部門で構成されていました:

  • -美容室向け製品部門
  • -パブリック(一般消費者向け)製品部門
  • -高級化粧品(ランコームなど)部門

 この「パブリック製品部門」で一ヶ月間の研修を受けました。ハイパーマーケット、スーパーマーケット、デパート、大衆デパート、化粧品店、薬局などで、頭髪化粧品、香粧品、サンタン化粧品などを展開している部門です。

 1963年以来のフランス滞在中、あちこちで大量陳列されているロレアルの製品が目に入らない訳はなく、シャンプーはいつの間にかロレアルの「エルセーヴ(ELSEVE)を使っていました(現在も引き続き!!!)。 もちろん、これらの製品に日本で係わるようになるとは、夢にも思いませんでした...。

1970年代のエルセーヴ
【1970年代のエルセーヴ】

 この研修で学んだ最も重要なことは、「マーケティング」と「営業」の違いでした。

 この時代、日本の多くの企業は、営業(部)が中心で、マーケティングの仕事も営業が担っている場合が多く見られました。日本電子時代には、「マーケティング」という言葉さえついぞ聞かれたことはなく、「企画」という言葉が使われていたようです。

 欧米の企業では、「マーケティング」が企業の要で、そのためか、私の研修も3週間は、マーケティング部でのプロダクト・マネージャーのお手伝いのような形で行われました。

 研修の初日、マーケティング部長に「マーケティング」と「営業」の最も大きな違いを聞いたところ、即座に明快に答えてくれました。

 「対象」だというのです。営業は「お客様」、マーケティングは「市場」だと...。

 非常に感心したのは、ロレアルの生命線ともいえるこのマーケティング・グループの規模が非常に小さかったことです。

  私がお世話になったのは、頭髪化粧品、香粧品、サンタン化粧品、それぞれの担当マネージャーですが、他の製品を担当するマネージャー数名と秘書を加えてもほんの十数人に過ぎない小さなチームでした。

 その当時すでに、フランス人は働かない、などと言われていましたが、とんでもない!この少人数で、世界中のプロダクト・マネージメントの基礎を築くのですから...。可哀想なくらいよく働く人たちでした!

 少人数でやりくりするのを可能にしているのは、外部の業者を上手に使うことでした。製品そのものは世界有数のロレアル研究所が作り出しますが、容器のデザイン・広告などは外部の業者に任せていました。

 最後の一週間は、営業部で過しました。

 まず、本社で30歳のイギリス人、オーエンジョンズ部長に面会し激励を受けました。彼は、その後1988年に42歳でロレアルの社長に就任し、世界的な大富豪の一人になります。

 本社には、部長の外に、流通別(量販店、及び小売店)の責任者がいるだけで、実際にお客様を訪問して注文を取るセールスマンは、自宅から直接客先に出向き、出先から直接帰宅するということになっていて、会社には席はない...。

 翌日から、これらセールスマンに同行して、小売店でのセールスの模様を見学する予定でしたので、どこで彼らと落ち合えばよいのかを尋ねると、“彼らの住まいに最も近い郵便局の局留め係の前で”との指示がありました。

 その理由は、局留めには各セールスマン宛に、その日訪問する客先との取引状況、及びその日の受注目標が記載された電報が入っているからとのことで、それをもって客先を訪問するのでした。

 その作戦は大成功。4日間続けて4人の日替わりセールスマンとパリ市内の化粧品店・薬局などを訪問しながら、製品についての知識、セールス・テクニック、彼らの苦労話をゆっくり聞くことができました。

 この研修の間に言葉を交わした人たちの話から、ほとんどの人が、2、3の会社を経験していることと、職種を変えること(例えば、営業からマーケティングに変ること)は難しいこと、セールスマンは一生セールスマンで終わることなどを聞かされ、階級社会の厳しさに、身につまされました。

  次回は「第六十四話 フランス企業の社員として日本へ...」です。


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【安 本 總 一】
現在




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私と柔道、そしてフランス… - 第六十二話 ロレアルで新しい出発 -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年1月30日

- 第六十二話 ロレアルで新しい出発 -

 帰仏して間もなく、真向かいに住む同僚・奥住さんから、彼にも出ていた「帰国命令」は撤回されたとの朗報が入りました。撤回の理由は分からないとのこと...。
奥住家は喜びで湧いていました。

 奥住さんは、1955年、日本電子の電子顕微鏡輸出第一号機と共に、設置技術者兼オペレーターとして来仏し、そのまま、納入先のサクレー原子力研究所に就職して、1968年に復職した日本電子縁の技術者です。

 20年も留守にしていた日本に帰ることなど到底考えられず、“ジェオルを辞めて、サクレーの研究所に戻るしかない”と言っていました。

 奥住さんの「帰国命令」が撤回された理由は、数日後に、竹内ヨーロッパ総支配人に退職の挨拶に行った時に分かりました。

 私にとって総支配人は、ロンドン滞在から日本電子就職への道筋をつけてくれた恩人です。更に、1968年にフランスに赴任した当時の私の働き振りを見るに見かねて、南仏モンペリエに修行に出してくれ、多くを学ばしてもらいました。そして、パリに呼び戻してくれたのも彼...。

 その総支配人の口から、ビックリするような話が飛び出しました。

 その当時、社長を務めていた、私のもう一人の恩人・富永さんが退社する意向とのこと...。一挙に三人の日本人に突然退社されては、ということで奥住さんの帰国命令が撤回されたようです。

 私にも、一応翻意の可能性を探る質問はありましたが、既にロレアルへの再就職が決まっていることももちろん知っていて、深く迫られることはありませんでした。

 そして、日本電子勤務の最後の数週間は、私が最後にトコトン追いかけて、まだ機種の選定がなされていなかったフランス石炭研究所を初めとした、重要なお客様への退職の挨拶で忙殺されました。

 4月1日から、ロレアル本社での研修が始まりました。

 ロレアルについては、電子顕微鏡を売り込んだ際に、かなり詳しい情報を得ていましたが、研修が進むにつれて、知らなかったニュースが当然のことながらどんどん入ってきます。

 例えば、高級化粧品ではヨーロッパ一の「Lancôme」、製薬会社「Synthelabo」、近代美術専門の画廊「Artcurial」などを買収していて、コングロマリット的なロレアル・グループを形成していたことなどで、連結売上高も、日本円で一兆円に迫る大企業になっていたことなどです。

 1907年、フランス人の化学者ウージェンヌ・シュエレールが、それまで、危険な薬品を使い、仕上がりも不安定なものだった染毛剤(ヘアカラー)に目をつけ、画期的な製品を開発して、これを当時のヘアサロンに自ら売り歩いたことが、ロレアル誕生の逸話になっています。

ウージェンヌ・シュエレール
【ウージェンヌ・シュエレール】

 さらに、1909年に「フランス無害染毛株式会社」を設立、これが「ロレアル」の原型になりました。会社の基本理念は、化学者らしく「研究開発」と「美しさのための革新」です。

 ところで、私と化粧品との出会いは、子供の頃のシャボン(石鹸)です。
これで、1963年にフランスに来るまで、全身を洗っていました。髪の毛も...。

 また、「たかが化粧品、されど化粧品」を意識させられたのは、日本電子に入社し、営業部で研修を受けているときに訪問した資生堂の研究室に伺ったときでした。

 日立の電子顕微鏡が数台とあらゆる分析機器が並んでいるのを目の当たりにしたことと、担当者から、化粧品の研究開発・製造には、皮膚科学・薬学・生物科学・色彩学・毛髪科学・心理学などの総合的な知識と先端技術が必要との説明があり、文字通り「目から鱗」の思いをさせられたことを思い出します。

 次回は「第六十三話 研修で学んだこと」です。


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【安 本 總 一】
現在




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私と柔道、そしてフランス… 第六十一話 ロレアルからの連絡...

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年1月16日

- 第六十一話 ロレアルからの連絡... -

 1976年1月下旬、予定通り東京に到着してからは、日本電子本社にフランス石炭研究所の担当者を招いてNMRのデモンステレーションを行う準備に全力を尽くしました。 結果は、担当技師によると、ライヴァル機を越えられるものではなかったようでした。それでもお客様は“満足した”と言って離日されました。

 私は後に残り、先に帰国した元上司や同僚に会い、退社の意向を伝えましたが、不思議なことに、誰一人として翻意を勧める人はいませんでした。 それほど、会社の危機が迫っていたのだと、理解したものです。また、元上司からは、再就職先の紹介までしてもらいました。

  そんな時に、家内から電話があり、世界最大の化粧品会社「 ロレアル(L'Oréal)」のアジア担当ディレクターから連絡があった旨を、伝えられました。第五十六話でご紹介した「ロレアル」です。「ダメ元」と思いながらも出した手紙に、すぐさま反応してくれたのです。

 内容は、一ヵ月後に日本で設立される、「ロレアル(L'Oréal)」と「小林コーセー(現・コーセー化粧品)」との合弁会社「株式会社 ロレコス(LOREKOS」が日本人マーケターを必要としているので、至急当社と連絡を取るようにとのことでした。

  数日後、ロレコスのオフィスを訪ね、ジェラール・ヴィリエ専務に会いました。面接の冒頭に、マーケティングの経験は無いことを伝えても拒否反応は無く、ミーティングは私の履歴書を前に2時間ほど質問に次ぐ質問で終始しました。そして、“私のアシスタントとして、来て欲しい!”と言われたのです。

 ただ、この求人案件はロレアル本社の人事部から東京のヘッドハンティング会社に出されていて、手続き上同社の面接も受けた上で、更にパリ本社の人事部長との面接を経て、最終判断がなされるとのこと...。

 そして、ヘッドハンティング会社の社長の推薦状を携えて帰仏し、ロレアル本社のムージュノ人事部部長(注1)の面接を受けました。その際、私の「求職の手紙」を見て、私と連絡を取るように指示したのはこの人事部長であることが分かりました。 

ムージュノ人事部長
【ムージュノ人事部長】

 彼の最初の質問は、“どこでロレアルの存在を知ったのか”でした。

 それに対して私は、ロレアルの存在はメディアを通して知っていたが、詳しい情報を与えてくれたのは、ロレアルのライヴァル「資生堂」のヨーロッパの代表からであること、特に、彼からロレアルの研究開発体制の素晴しさを教示されたことを話しました。

 さらに、その話に従ってロレアルの研究所と接触して、ジェオルの大型電子顕微鏡の受注に成功したことに言及すると、とても嬉しそうに。“数ヶ月前に、その電子顕微鏡をこの目で見たよ、おめでとう!”と言って、立って握手してくれました。

 そして、“On y va (オン ニ ヴァ)!”と言いながら、また握手を求めてこられました。“さあ、一緒にやりましょう”と言ってもらったと受け取りました。

 数日後、アジア担当ディレクターから嬉しい「採用通知」が届きました。現在でも、1976年2月20日付けのこの手紙を大事に保管しています。

 また、「求職の手紙」を約100社に出しましたが、それに対する返事の手紙も保管してあり、それを最近数え直してみたら、何と95社からも来ていました。ロレアルのように、電話で返事をくれたところもありますから、ほぼ100%の反応です。その真面目さには大変驚かされました。

 ほとんどの返事が、“採用計画なし”でしたが、“面接”を申し出てくれたところも7社ほどあり、この7社には、感謝の意と他社に決定した旨の手紙を送りました。これに対して、“おめでとう!”を折り返し言ってくれるところがほとんどで、またまた、その真面目さに、改めて驚かされたものです。

(注1)
ムージュノ人事部長 : この面接の半年後に急病で亡くなりました。握手した時の彼の手の暖かさが今でも忘れられません。

  次回は、「第六十二話 ロレアルで新しい出発」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… - 第六十話 帰国命令 -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2020年1月1日

明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い申し上げます。

- 第六十話 帰国命令 -

 経営状態が最悪でも、現地法人の社員の士気は変らず、また家族を含めた社員同士の絆、交流も却って深まっていました。 ジュイ村の奥住さん宅や拙宅は千客万来でした。

社員間の交流
【社員間の交流】

 ただ、そんな時でも、誰かが将来の不安や、帰国問題を口にすると、その場は一挙にその話題一色になります。そのやり取りをジッと聞いていた人がいました。6歳にもならない私の娘・美代子です。

 1974年の暮だったかに、急に何を言い出すのかと思ったら、忘れもしません、フランス語で(?!)“パパ、パパ、パパは日本に帰りたいのでしょう?遠いところでしょうけど、行ったって全然構わないのよ。悲しくなんかない...” と言うではありませんか...。

 その数年前は、“フランス永住”をも考えていた私ですが、急激な状況の変化に伴い、私の気持ちも“「帰国」もあり得る”に微妙に移りつつあったことは事実です。しかし、それを口にしたことはなく、全てを見透しているような娘の言葉に大変驚かされました。何か、一気に私の気持ちの奥底にある“日本への想い”を引き出してくれたようでした。

 このことから、何でも起りうる状態であることは承知していましたので、いざという時のために、あらゆるシチュエーションにおける身の振り方を真剣に考えるようになりました。そして、結論のようなものも頭の中でひらめいてはいました。

 ただ、普段の生活は相変わらずの営業活動で明け暮れ、当時は、CERCHAR(フランス石炭研究所)の大型機の購入計画を追っていました。核磁気共鳴装置(NMR)のスペシャリストとして、またライヴァルであるヴァリアンのユーザーとして著名な機関です。そして、担当者と親しくなり、ルエイユの展示場ではできない特殊なデモンストレーションを東京本社で行うため、1976年1月下旬に担当者に同行して東京に行くことになっていました。  

 そして、そんな中、1975年の暮、それを待っていたかのように、私と奥住さんに「帰国命令」が出ました。正式には、“本社の海外事業部への転任”でしたが、いわゆる「肩たたき」、「口減らし」と私は受け取りました。

 “ショックは無かった”というと嘘になりますが、前述のように、いざという時の心の準備はできていましたので、この通達を比較的冷静に受け取めることができ、翌日、会社には、退社の方向で考えている旨を伝えました。

 退社を考えた理由は、帰国後、与えられるであろう仕事に全く魅力を感じなかったことと、二人の子供を抱えた日仏家族が日本企業の中で生活していくのは、色々な意味で難しい問題を抱え、路頭に迷うのは必死との想いからでした。このことは、先に、帰国した上司や同僚、日本で生活する日仏カップルからの便りで認識していました。

 また、家内などは、退職後、私がフランスで再就職することを望んでいたようですが、通算11年ほどのフランス滞在の経験から、日本企業でも、フランス企業でもそれは絶望状態であることが分かっていました。

 残された道は、フランスの企業で:

  1. 日本に、現地法人、支社/支店、連絡事務所の開設を期している企業
  2. 既に、現地法人、支社/支店、連絡事務所を持ち、自社の製品の拡売を期している企業

に就職するか、あるいは、フランス製製品(ファッション・グッズなど)の代理販売業を経営するかでした。 

 そこで、私が直ちに始めた作業は、そのころ出入りしていた在仏日本商工会議所から取り寄せた会員リスト(?)から、既に日本に進出している企業、進出を希望していそうな企業を約100社書き出すことでした。

 そして、これらの企業の社長と人事部長に送る目的で、家内の協力を得て、この下に添付した手紙と写真付き履歴書を用意しました。当時のフランスでは、写真付きの履歴書はとても珍しい存在だったようです。

求職の手紙写真付き履歴書
【求職の手紙】
【写真付き履歴書】

 この間、一時は諦めざるを得ないと思っていた「フランス石炭研究所」の東京デモンストレーションの実施と担当者に同行する許可が下りたのです。ここからの受注がこれからのフランスにおけるNMRの営業に多分に影響があると判断した、トップの判断だったと思います。また、私の退社の意向を翻意させるためだったかもしれません...。

 そして、出発直前に前述の約200通の封筒を投函し、東京へと向かいました。

 次回は「第六十一話 ロレアルからの連絡...」です。


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私と柔道、そしてフランス… 第五十九話 悪いことばかり続きます...

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年12月12日

- 第五十九話 悪いことばかり続きます... -

 この二つのショックの影響を受けて、高配当を誇っていた日本電子本社が1974年3月期には減配を余儀なくされます。ヨーロッパでは先ずイタリアの現地法人の展示場が閉鎖されました。

  これらの事実は、直ちに日本のマスメディアに取り上げられ、ライヴァル会社の格好の宣伝材料なりました。ヨーロッパでは、ライヴァル会社の社員がそのニュースを伝える新聞記事と辞書を持って、「JEOL危うし!」とPRして回っているとの噂も耳にしました。

 そんな中、日本で大変悲しいことが起ります。

 前年、フランス・ルーアンでお会いした、風戸社長の次男でレーシング・ドライヴァーの裕さんが、富士GCに出走中、事故に巻き込まれて、亡くなるという信じたくないニュースでした。両親・婚約者も観戦中だったとのこと...。

父子鷹
【父子鷹】

 ルーアンのレース場で、社長と裕さんが交わした笑顔と、裕さんのレースを食い入るように観ていた社長の姿を思い出して、言葉もありませんでした。

 風戸社長は、その晩、風戸家に戻った遺体の前で、取り乱すことなく立ち続けておられたとのこと...。  

 このことが、あたかも日本電子の経営の崩落に拍車を掛けているが如く、状態は急激に悪化し、1974年度には大赤字を計上して、1975年3月期に無配に転落します。

 この事態の責任を取って、風戸社長は1975年5月に相談役に退任します。そして、三菱銀行から迎えられた加勢忠雄氏が新社長に就任...。

  この頃、フランスでは、イタリアから恩人・富永雅之さん、ベルギーから若手のホープ・宇佐美亨さんが戦列に加わり、営業力は大変強化されました。それでも社内では、このフランス現地法人の行方が話題になっていて、以前のように代理店営業に戻るか、全てを商社に任すかなどの議論が盛んでした。この何れの場合でも、多くの日本人は帰国、或いは職を失い、多くのフランス人は職を失うことになることは、自明の理でした。

 ただ、この危機感が、30名ほどの日仏連合チームの結束を強めたのでしょうか、平松敦実専務の報告書によると、なんと1973年度のフランス現地法人の総売上げ高は過去最高、1974年度はさらに伸び、私がフランスに赴任した1968年度のそれの3倍に達していました。因みに、1974年度の大型透過型電顕(TEM)の売上げ台数は16台で、走査型電顕(SEM)は7台を記録しました。今もって信じられない数字です。

  しかし、これだけの受注を、年度内に売上げ計上するには、正確な受注計画を立てて、それに従ってかなり余裕を持って船積みしてもらわねばなりません。受注生産などは考えられない世界です。また、船積みしてから、それがお金に変るまで、かなりの月日が掛かりますし、円高によるCIFの高騰、支払利息の上昇などで、経常利益は吹っ飛んでしまいます。苦しい苦しい経営状態は変りませんでした。

 この頃は、どの国の現地法人でも同じ問題を抱えていたと思います。

  それでも、メイン・バンクが、我々を見放さなかった理由は、もちろん「JEOLの電子顕微鏡がなければノーベル賞はとれない!」とまで言われた本社の技術力だったでしょうが、1973年、及び1974年の数字が示す営業力にも期待するものがあったのではないかと、今でも自負しています。

 次回は「第六十話 帰国命令」です。


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私と柔道、そしてフランス… - 第五十八話 風戸健二社長のこと...-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年12月5日

- 第五十八話 風戸健二社長のこと... -

 日本電子に入社以来、4年ほどの間に、パリ赴任、モンペリエ転任、パリ帰任、ジュイ・アン・ジョザスへの転居と、目まぐるしい動きに翻弄されました。それもようやく収まり、営業実績も順調に伸びていて、ジュイ村の素晴しい環境も相俟って、“このままフランスの地に永住?!”などの考えも頭にちらつくようになりました。

 その間、風戸健二創業社長が私に示して下さったご好意に、何とかして報いたいという思いも常にありました。

 すでに第四十五話でご紹介したように、入社前にパリ支店で「東京で会おう!」と声を掛け、初出社の日には、単なる一新入社員に過ぎない私を社長室に招き入れて激励した上、目の前で、社長自ら私の研修スケジュールを作成してくださるなど、驚きの連続だったのですから。

 社長が来仏された折には、趣味の画廊めぐりや、買い物にお供することがありました。そんな時に、出身の海軍時代には、“柔剣道の寒稽古・暑中稽古の際は、京都の武道専門学校(武専)の先生から指導を受けた”などの思い出話を聞いたものです。“柔道は、余り強くならなかった”そうですが、相撲にはかなり自信を持っておられて、“後輩の指導にも当たっていた”と得意げでした。

 こんな話を聞くうちに、社長が持つ「古武士」然とした雰囲気と、私が高校・大学時代に毎晩通った、「大沢道場」の道場主で、警視庁の柔道師範の大沢貫一郎先生のそれとが重なり合うことに気づきました。多分、社長も私が柔道出身であることを知って、親身な思いを持ち、前述のような特別扱いがあったのでしょう。

 社長の次男・裕さんは、その頃「F1に最も近い日本人レーシング・ドライヴァー」として活躍していました。1973年6月、社長の来仏と同時期に、パリの西北約130キロにあるルーアン・レ・ゼサール(Rouen les-Essarts)で行われるグランプリに裕さんが出走することが分かりました。

父と子
【父と子】

 私はイギリス滞在中に、カー・レーシングを3度ほど見る機会を得て、そのダイナミックでエキサイティングなスポーツにすっかり魅了されていましたから、社長の子息のレースを観戦するために、喜んでお供しました。

  レース前、婚約者同伴の裕さんは、満面に笑みを浮かべて社長を迎えていました。笑顔がとても優しい、礼儀正しい、“かっこいい青年”でした。

 レースが始まると、社長は声こそ出しませんが、身を乗り出して、食い入るように 裕さんの車体を追ってました。それが高輪高校戦で絞め技で攻められ、死に物狂いでもがいていたときに、“頑張れ!”と叫んでいた父の姿と重なり、グッと来ました。

  この日、裕さんはガードレールに激突して、レースから離脱せざるを得ず、社長の笑顔は拝めませんでしたが、息子が無傷で脱出したことで、彼はホッとした様子でした。

 この頃の日本電子は、1971年に起ったニクソン・ショックの影響で、円が1ドル・360円から308円に高騰したことを受け、本社も海外現地法人も一気に経営が不安定化し始めていました。

 さらに、第一次石油ショックで、円は不安定な動きをしましたが、基本的には円高騰の方向に進んでゆきます。その影響は、製品価格にも直ちに現れ、例えば、SEM/XMAコンバイン機の原価が、最大の競合機・CAMEBAXの売価に相当するなどと大きな影響が現れていました。

 本社とのCIF価格交渉の行方を追う、というような毎日になっていました。

 次回は<第五十九話 悪いことばかり続きます...>です。


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私と柔道、そしてフランス… 第五十七話 仏文学者・井上究一郎教授が見たジュイ・アン・ジョザス -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年11月21日

- 第五十七話 仏文学者・井上究一郎教授が見たジュイ・アン・ジョザス -

 転居先のジュイ・アン・ジョザス(Jouy-en-Josas)は、パリ南端から南西に直線距離で約12キロ...。パリの真西にあるジェオルへは、パリは通らずに、毎朝毎晩ヴェルサイユ宮殿の前を通っての快適なドライブ通勤です。渋滞など一切ありません。

ジュイ・アン・ジョザスの地図
【ジュイ・アン・ジョザスの地図】

 しばらくして、私を日本電子に導いてくれた恩人で、当時は日本電子のイタリア現地法人の責任者だった富永雅之さんから連絡がありました。東京外語仏文科の学生時代に教えを乞うた、元東大仏文科教授の「井上究一郎(注1)」先生を紹介するので、先生の希望を聞いてあげて欲しいとのことでした。

井上究一郎先生
【井上究一郎先生】

  先生は、研究されていた文豪ヴィクトール・ユゴーが、愛人ジュリエット・ドルエと暮らしながら『オランピオの悲しみ』(注1)を著述したジュイ・アン・ジョザス村に強い関心があり、1958年から何度か訪れておられましたが、しばらく行っていない当村の様子が知りたいとのことでした。

 そんなことから、私からは当村各所の写真などを送り、先生からは興味深いメモを写真の裏に記したものを送っていただいたりしました。

 これらの写真やメモから、ジュイ・アン・ジョザスの雰囲気、ユゴーとジュリエットの睦ましい暮らしぶりなどを、想像していただければと思います。臨場感抜群です:

*駅から眺めたジュイ村 : 文中、“ジブーレ(霧氷)が降っていた氷りつくような寒い春の日”とありますが、昔のヨーロッパは、11月から4月までは、このような厳しい天候が続いたものです。お日様が恋しい日々でした:

ジュイ・アン・ジョザス駅からの眺めジュイに最初に訪れた時の様子と、ジュリエットとの睦まじさを語っています
【ジュイ・アン・ジョザス駅からの眺め】
ジュイに最初に訪れた時の様子と、ユゴーとジュリエットとの睦まじさを語っています

*「ユゴーの家」周辺と「記念碑」 : 「記念碑」には、『オランピオの悲しみ』」の一片が記載されています。

ジュイ・アン・ジョザス駅からの眺め
【「ユゴーの家」周辺と「記念碑」】
【「ユゴー通り」についてのメモ】

「ユゴー通り」についてのメモ

*「ヴィクトール・ユゴーの家」 : 我々が住む一角から、600メートルほどのところにあり、そのひっそりとした佇まいに、
“誰にも邪魔されたくない”との二人の気持ちがこもっているような雰囲気が漂っていました。

「ヴィクトル・ユゴーの家」安本訳:「オランピオの悲しみ」を書いたジュイ・アン・ジョザスのメッス地区にある「ユゴーの家」
安本訳:「オランピオの悲しみ」を書いたジュイ・アン・ジョザスのメッス地区にある「ユゴーの家」
【「ヴィクトル・ユゴーの家」】

*レ・ロッシュ(Les Roches)の館 : ジュイ・アン・ジョザス村とビエーヴル村との境目にあって、ユゴーの文人社交界への登場につながった館。

レ・ロッシュの館「レ・ロッシュの館」について
      「レ・ロッシュの館」について
【レ・ロッシュの館】

*レストラン「L'Ecu de France」 : レストランの外に、ビリヤードやダンスもできる、ジュイ・アン・ジョザス唯一の社交場だったようです。

ジュリエットと通ったレストラン「l'Ecu de France」「このレストランは改装されてまだ存在します」
【ジュリエットと通ったレストラン「l'Ecu de France」】
このレストランは改装されてまだ存在します

(注1)
井上究一郎 : マルセル・プルースト研究の第一人者であり、『失われた時を求めて』(ちくま文庫1974年)の個人全訳で知られる。また、ユゴーの『レ・ ミゼラブル』の名訳も有名。1970年、東大教授定年退官後、武蔵大学教授。1999年逝去。

(注2)
『オランピオの悲しみ』 : ジュリエットとの恋をうたった「ロマン主義詩編の最高傑作」といわれている。

 次回は「第五十八話 風戸健二社長のこと...」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス… -第五十六話 ルエイユからジュイ・アン・ジョザスへの転居-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年11月7日

- 第五十六話 ルエイユからジュイ・アン・ジョザスへの転居 -

 ルエイユ・マルメゾンで過した期間は、2年ほどの短い期間でしたが、ここでも幾つかの忘れ得ない想い出があります。

 まず、私の両親をフランスに招待できたことです。ただ、その当時、最も安いと言われたエジプト航空で、カイロでの乗り継ぎを経て、30時間以上掛けての大旅行は、60歳を超えていた二人にとって大変つらいものだったと思います。それでも、ル・ブールジェ空港で、私に気がついたときの嬉しそうな顔を、今でも思い出しますが...。

 3週間ほどの滞在中、車で妻の里・ポアチエやスイスなどに案内しましたが、一度も弱音を吐くことなく、旅を楽しんでくれたようでした。

マッターホルンをバックに 両親と
【マッターホルンをバックに 両親と】

 そして、“東京に着いたら電話するね”と言って帰路につきましたが、帰宅予定時間をかなりすぎても何の連絡もないので、両親と同居している妹に電話すると、“空港に迎えに出たが、聞いていた便には乗っていなかったとのこと。

 大騒ぎになりました。しばらくして、乗り継ぎ地・カイロのJALの所長から“ご両親は、(予約は確認済みにも拘らず)エジプト航空の乗り継ぎ便が満席と言う理由で、乗機を許されずにいたところを、JALがお世話しているので、ご安心を...”との電話が入ったとの連絡が妹からありました。後で分かったことは、父の義弟がその当時、JALの広島所長を務めていて、父はカイロ空港でJALの事務所を見つけ、そのことを思い出して、ワラを掴む思いで助けを求めたようです。その上、この所長と義弟とが偶然友達同士ということが分かり、ホテルの紹介・予約、帰国のためのJAL便の利用まで許可してもらったようです。

 母などは、“らくだに乗って、ピラミッド見学ができたわよ!”と余裕しゃくしゃくでした。女性は強い!

 もうひとつ、驚いたことがありました。両親がカイロのホテルに落ち着いた時だったのでしょうか、父から突然電話があったのです。ただ、“總チャンか ?”と言った後、 全く別の男の声で、“Speak English!(英語で話せ!)というのです。これが、アラブ諸国に良くあると言われていた「盗聴」ならぬ合法の「傍聴」であることを後になって認識しました。こうやって全ての電話の会話は、官憲によって傍聴されていることが分かって、背筋に冷たいものが走る思いがしました。

 また、同じレジダンスにお住まいの、資生堂のヨーロッパ責任者・星野史雄さんとの出会いもわすれられません。ある時彼から、それまで有力なお客様として全く認識していなかった、フランスの化粧品会社「ロレアル(L'Oréal)」についての数々の詳しい情報を得ました。そのなかには、“早晩、電子顕微鏡を必ず購入するだろう”との情報も...。

 化粧品会社の研究所の研究内容は多岐に亘り、それを支える高度な科学分析機器が必要となります。特に、皮膚・毛髪の研究にはTEM/SEMが欠かせません。

ヒトの髪の毛のSEM写真
【ヒトの髪の毛のSEM写真】

 1年ほどの地道な営業活動の結果、JEM-100CにSEMの機能を付したフル装備の電子顕微鏡を、1フランの値引きもなく、それまでの受注最高額75万フラン(当時、約4千4百万円)で受注したことを思い出します。

  そして、1971年9月9日、現在、映画制作のサウンド・エンジニアとしてフランスで活躍している長男・健が誕生しました。安本家としては、私以来の男子誕生でした。

 そのため、ルエイユのアパルトマンが手狭になったために、転居を考えるようになりました。そんな時、日本電子の電子顕微鏡輸出第一号機と共に、フランス原子力庁サクレー研究所(CEA Saclay)に残り、1968年に復職された奥住宏さんから、ヴェルサイユ宮殿に近いジュイ・アン・ジョザス(Jouy-en-Josas)という村のご自宅の前の家が空くという、耳寄りな話がありました。広い庭付きだという...。 

 ジェオルから約20キロ、車で約30分...。パリ大学理学部オルセー校、上記のサクレー研究所も直ぐそばという感じ...。躊躇なく、転居先はジュイ・アン・ジョザスに決めました。

 次回は「第五十七話 仏文学者・井上究一郎教授が見たジュイ・アン・ジョザス」です。


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【安 本 總 一】
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私と柔道、そしてフランス…- 第五十五話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その二)-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年10月24日

- 第五十五話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その二) -

 (第三十三話でご紹介した、左右の技を同等にこなす“稀代の業師”渡辺喜三郎先輩が去る9月25日に83歳で逝去されました。心からご冥福をお祈りします。)

 さて、画期的なX線分析装置「X線マイクロアナライザー(XMA)(注1)」は、1951年、フランスのキャスタン博士の学位論文によって、装置として考案発表され、1956年にフランス企業・カメカ(CAMECA)によって製品化されたものです。

 その後、同機に走査型電子顕微鏡(SEM)の機能も持たせたCAMEBAXが開発され、日本電子のSEM/XMAコンバイン機との熾烈な戦いが始まっていました。価格面ではカメカが地の利を生かしてやや有利に立っていて、技術面では、我々は我々の優位性を主張しますが、当然のことながら“元祖XMA”を自ら任ずるカメカも負けてはいません。

 おまけに、フランス特有のショーヴィニズム(盲目的愛国主義)、この頃(1970年代前半)から明らかになり始めた保護貿易政策、非関税障壁が強まる中で、日本電子製のXMAは長い間苦戦を強いられることになります。

 さらに、液体クロマトグラフィ検出機(LC)(注2)については、年間輸入割り当て制度が適用され、ジェオルとしては、年間5、6台の割り当てしかもらえず、それ以上の受注をしても輸入ライセンスが下りず、客先に納入できないという事態が生じていました。

 日本の非関税障壁が非難されることはしばしばでしたが、フランスも時には意地悪と思えるほどの措置を突然施行することがありました。その一例を挙げると、時代も対象製品も違いますが、1982年ミッテラン大統領政権下、エディット・クレッソン貿易相が、対日貿易赤字拡大への対抗措置として、それまでル・アーヴルなどの港で行っていた日本製ヴィデオデッキの通関手続きを、内陸部のポアチエで行う決定をしました。当時の日本製ヴィデオデッキのマーケットシェアーは95%を越える勢いでしたが、ポアチエに滞留することで、事実上の輸入制限を受けることになりました。

 さらに問題になったのは、この措置の発表後に行ったインタヴューで、「ポアチエの戦い(注3)」になぞらえて、「外敵をポアチエで迎え撃つ」と発言したことでした。

ドラクロア 「ポアチエの戦い」
【ドラクロア 「ポアチエの戦い」】

 これに対して、日本はGATTに提訴したり、当事者の日立が全国紙に意見広告を掲載して、フランスの世論に問いかけるなど、猛烈に反撃を試み、“ポアチエの戦い”ならぬ“日仏貿易戦争”が激化しました。

  翌年、さすがに“ポアチエ通関”の措置は廃止されましたが、1991年首相に就任したクレッソン氏が、またまた「日本人は、ウサギ小屋の黄色い蟻」などの暴言を吐いたために、去る9月26日に死去した親日家・シラクの政権になるまでは、一向に摩擦はおさまりませんでした。

(注1)
X線マイクロアナライザー : 電子線を試料に照射した際に発生する特性X線の波長と強度から試料の表面の分析を行う

(注2)
液体クロマトグラフィー検出機 : その頃は、アミノ酸分析器とも呼び、人の体液、日常の食品、家畜、農産物中のアミノ酸の含有量を測定する装置

(注3)
ポアチエの戦い : スペインを征服、フランク王国に攻め入ったイスラム軍を、782年フランク王国のカール・マルテル将軍がポアチエ近郊で撃退した戦い。

 次回は「第五十六話 ルエイユからジュイ・アン・ジョザスへの転居」です。


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私と柔道、そしてフランス… -第五十四話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その一)

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年10月10日

- 第五十四話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その一) -

 前回の日本の技術を揶揄するような話は、色々な分野で聞かれました。これは、第二次世界大戦後、世界で「メイド・イン・ジャパン」が「安かろう悪かろう」と批判され、その反面、「メイド・イン・ジャーマニー」が高く評価されていたことに、少なからず影響されていたと思います。

 また、1962年、池田勇人首相が来仏し、ドゴール大統領と会見した際に、手土産に持ってきたソニーのトランジスタ・ラジオについて熱心に説明したところ、会見後、大統領は日本の首相を「トランジスタ・ラジオのセールスマン」と称したという。そんな逸話がまだまだ話題になる時代でした。敗戦国日本が高度成長期にあったことに対するやっかみも、多分にあったように思います。

 こういう環境の中で、全機種で仕様・性能の面での熾烈な戦いが繰り広げられました。

 特に、透過型電子顕微鏡(TEM)の分野でのオランダのフィリップス(Philips)社との競合が突出していました。生物・医療関係では、シーメンスが絡んできますが、その他の分野では、日本電子とフィリップスが市場を分け合っていました。

 本体自体を比べた場合は、分解能で勝り、振動や熱に対して安定している日本電子製が有利でしたが、物性物理学・材料学などでは、この分野で不可欠の試料の傾斜角を大きく取る「サイド・エントリー・ステージ(横入れ式試料ステージ)」を組み込んだフィリップス製がダントツ有利でした。

 1973年の頃、有名製鉄会社の研究所から大型TEMの引き合いがありました。所長は電子顕微鏡学会でも著名な研究者で、フィリップスのTEMの信奉者でもありました。ただ、日本電子のJEM-100Cにも興味を持ち、ルエイユの展示場に何度も足を運んできていました。

 しかし、この研究所の研究には前述のステージが不可欠で、日本電子の本社からは、“開発中”としか言ってきていませんでしたので、半ば諦めていました。ただ、研究所の予算の許可がなかなか下りないことから、機種決定もされないまま数ヶ月が経ちました。

 そのとき、待ちに待ったステージの試作品完成の吉報が入ったのです。

 直ちに本社に問い合わせたところ、数週間後にアメリカのニューオルリンズで開催される国際電子顕微鏡学会で試作品のチェックができるというのです。もちろん、渡りに船とばかりに、お客様とニューオルリンズに飛びました。

ニューオルリンズの地図
【ニューオルリンズの地図】

  とは言っても、パリ・ニューオルリンズ間には直行便はなく、ニューヨーク経由です。日本に行くのと同じような大旅行でした。

 会場には、当ステージを装着したJEM-100Cと本社から派遣された技術員が待ち構えていて、半日掛けて完璧なデモを行なってくれました。

 その夜は、もちろんニューオルリンズ・ジャズを聴きながらの食事を二人で楽しみましたが、お客様の実に満足そうな顔をみて、この勝負に勝ったことを確信したものです。柔道の試合に一本勝ちした思いでした。

ニューオルリンズのフレンチ・クオーター
【ニューオルリンズのフレンチ・クオーター】

 帰国後しばらくして、電話で日本電子製に決定したことを知らされました。そのお礼のために竹内社長を伴って研究所を訪問しましたが、よほど嬉しかったのでしょう、彼はわれわれを自宅に招待して、シャンパンでお祝いをしてくれました。

 この受注はその後のTEMの営業に大きく貢献してくれたことは、言うまでもありません。

 次回は「第五十五話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その二)」です。


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私と柔道、そしてフランス… - 第五十三話 パリでの仕事は...-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年9月26日

- 第五十三話 パリでの仕事は... -

 1970年初夏、三度目のパリ長期滞在が始まりました。

  私が所属する日本電子のフランス現地法人「JEOL(Europe)SA」は、パリの西方約10キロほど、パリのベッドタウン「ルエイユ・マルメゾン」にありました。この街にはナポレオンの妻“ジョゼフィーヌ”の居館になった“マルメゾン城”があることでも有名です。私の住居も市内にみつけました。

マルメゾン城
【マルメゾン城】

 この本部は、日本電子のヨーロッパ進出の拠点になったところで、東欧本部・西欧本部・仏現地法人の3世帯が同居していて、付随する展示場には、透過型/走査型電子顕微鏡(TEM/SEM)、核磁気共鳴装置(NMR)のデモ機が設置され、ヨーロッパ中の顧客を迎えていました。

  このデモ機を操作するのは、とくに選ばれたヴェテラン中のヴェテラン・オペレーターで、それぞれの機械が持っている最高の性能を引き出し、説明し、お客様が納得するまで議論できる優秀な技術者です。

 その中の一人がすでに第二十二話でご紹介した奥住宏さんです。日本電子の電子顕微鏡輸出第一号機は1955年にフランス原子力庁サクレー研究所から受注しましたが、その納入サーヴィスを担当し、その後、日本電子を退職、同機のオペレーターとしてサクレー研究所に残るという稀有な経歴の持ち主です。そして、1968年に復職、SEMデモ機担当として、得意のフランス語を駆使して活躍されていました。

 さて、パリでの私の役割については、当初は電子顕微鏡のセールス責任者ということでしたが、しばらくして、西欧本部の竹内支配人から、部長として営業部をまとめなさい、との通達がありました。彼は同年9月にフランス現地法人 の社長に就任します。

 差し置かれた形の先輩セールスマン、グリエネさん/ミッショさん達にとっては、納得の行かない人事だったと思いますが、それでも、二人とも定年まで同社で活躍。とくに、グリエネさんは、80年代後半に同社の社長に就任しました。

 私の最初の仕事は、主要機器のフランス全体の市場状況を把握することでした。

 まず、全体的には、理化学機器メーカーとしてのジェオル(JEOL)の認知度は申し分なく、当初問題にされたアフタサービス体制も充実してきていて、後は営業力が問われる状態になっていました。

 情報収集能力もさることながら、色々な意味で各機種ごとに強力なライヴァルが、少数とはいえ、存在しました。 例えば:

-TEM:フィリップス(オランダ)、シーメンス(ドイツ)、日立、オー・ペー・エル(フランス)
-SEM:ケンブリッジ(イギリス)、カメカ(フランス)
-NMR:ヴァリアン(アメリカ)、ブリュッカー(ドイツ)

  ここで特筆したいのは、TEMのシーメンスの存在です。ドイツ人・ルスカが開発したTEMをシーメンスが1938年に商用第一号機として世に出したからでしょうか、この頃にはかなりオールド・ファッション化していましたが、フランスには根強いファンが多く、それもなぜか医療・生物関係の研究所で絶大な信頼を集めていました。

 この牙城をジェオルはなかなか崩せませんでした。 あるとき、パリの有名病院の病理研究所でTEMの購入計画があることを聞き、著名な担当教授と面会しました。JEM-100Cの説明を自信を持って説明したところ、教授は「説明を聞いていて、戦時中の日本海軍の“戦艦大和”を思い出した」、と言うのです。その理由を尋ねたところ、「戦艦大和は、最新の装備を備えた、最強の戦艦として出航したが、結局アメリカ軍の集中攻撃にあって、結果を出せずに撃沈されてしまったではないか!ジェオルのTEMは、装備は完璧だが、実際に仕様通りに稼動するのかしら?」というものでした。

  この頃のフランスでは、「カメラはライカ!車はシトロエンDS!」というような感覚的な選択をする人が多かったのかも知れません。医療・生物関係では「TEMはシーメンス!」だったのです。

 次回は「第五十四話 ライヴァルとの熾烈な戦い」です。


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私と柔道、そしてフランス… - 第五十二話 また、新しい展開が...-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年9月12日

- 第五十二話 また、新しい展開が...-

  これまで、当時の市場性から透過型電子顕微鏡を中心にお話してきましたが、1966年に発売されたばかりの走査型電子顕微鏡は、透過型を超える将来性を期待されていましたので、これも必死に紹介して回りました。トゥルーズの宇宙・航空関連機関/企業、ピレネー山脈の真っ只中、海抜1750メートルにあるCNRSの太陽エネルギー研究所、著名な海洋学者のジャック=イヴ・クストー氏が館長を務めるモナコ海洋博物館などなど...。

  まだこの機械を知らない研究者も多かった当時、説明を始めると、並々ならぬ興味が手に取るように感じられるのを経験して、この機械の将来性を確信したものです。 ただ、モンペリエ在任中は、この機械の受注はありませんでした。

  また、苦い思いも経験しました。アヴィニヨンの北30キロにある原子力庁の研究所の一つで、透過型電子顕微鏡の購入計画があるという情報を得て、訪問することにしました。といっても、この研究所はかなり機密性の高い軍事研究を行っているため、部外者の入所は厳しく制限されていました。先ず、ジェオル(JEOL)についての調査がおこなわれましたが、これは、ジェオルの機械が原子力庁の多くの研究所に納入されているため、全く問題なし。私個人についての身元調査でもOKが出て、入所許可が下りました。

  私を迎えてくれた若い担当研究員は、後で分かったことですが、柔道の黒帯で、私の名前と私の「餃子耳(注1)」を見て、その当時、フランス柔道連盟の招聘でマルセイユで柔道の指導をしていた同志社大学柔道部出身で5歳若い、「安元豊(注2)」君と混同したようで、「この辺りの柔道界では有名なYASUMOTO先生に、お会い出来て光栄です」と感激しっぱなしで、誤解を解くのにかなりの時間を必要としました。

  こんなことから、親しくなり、何回か訪問するうちに機種は日本電子製に決めてくれました。ところが、その後間もなく、私がニースに出張中に、自宅・事務所に彼から電話があり、「注文をジェオルに出そうと手続を始めたところ、本庁から横槍が入り、性能では大きく劣るが、フランス製ということで、O社に注文せざるを得なかった」旨の伝言がありました。理由は、研究内容が「極秘」に当り、「機械の設置・保守を外国企業に任せる訳には行かない」でした。そんなことは、最初から分かっていたことですが...。

  仕事以外でも、数々の想い出があります。

  戦時中の疎開は除き、首都以外で暮したのはモンペリエが初めてでした。普段は、営業活動で右往左往していましたが、それでも少しづつこの地方の風土・生活リズム・食生活・伝統などなどに魅せられていきました。

 毎朝、250年前の水道橋の下で始まる南仏伝統の球技「ペタンク(注3)」...。私の目覚まし時計にもなった、両手に持ったステンレス製のボールを時々打ち合わせる時に出るカチン、カチンという音...。

ペタンク
【ペタンク】

  また、親しくなった土地の人に招待されると、アルジェリア戦争を機に帰仏したフランス人、戦後移民してきた多くの北アフリカの人々が住むこの地方では、元々は北アフリカ料理である、子羊を丸焼きにする「メシュイ(méchoui)」で歓迎してくれます。そして当然のように、灰色(グリ=gris)ワイン、リステル・グリ・ドゥ・グリ(Listel gris de gris)が振舞われます。それまで、ワインには赤(rouge)と白(blanc)、その中間のローゼ(rosé)の三種類しかないと思っていましたが、灰色(gris)が存在することを知って驚いたものです。モンペリエの近郊・カマルグの砂地で育った葡萄で造られる超(!)爽やかなワイン。今でも、パリでは手に入りにくいワインです...。

  そうこうしている内に、1969年2月、日本から実妹・年子(注4)がやってきました。ただ、人一倍活動的な妹は学校以外何もない田舎の町には我慢ができず、パリで勉強を続けるために、3ヶ月ほどで旅立って行きました。 それ以来、妹は半世紀に亘ってフランスに留まり、今でもパリで活躍しています。

  同じく50年前の7月20日午後10時頃から、アポロ11号の月面着陸の実況放送を妻と共にラジオで聞きました。バルコニーで薄暗い空に浮かぶ月を眺めながら...。歴史的な出来事に関わっているような気分でした。

 そして、10月12日、待望の長女・美代子を授かりました。ということは、しばらくすると彼女は50歳を迎えます。 信じられません!

  1970年初頭だったと思いますが、パリ本部の竹内支配人がモンペリエに来られるという連絡がありました。ただ単なる視察と考えそれなりの準備を整えてお迎えしましたが、いざ到着されての第一声は「安本君、できるだけ早くパリに戻ってきてくれ!」でした。着任以来、一年を少々越えたばかりの時にです。

 これまでの営業部長が退職するからだという...。モンペリエには私の代わりに、「フランス人のアフタサーヴィス担当を置いて、お客様には迷惑を掛けないようにするので、できるだけ早く...」を繰り返されるのみでした。私を説得することだけを目的に、モンペリエに来られたようでした。

  日本電子(株)に入社するきっかけを作ってくれた人でもあり、「ノー」と言っても聞いてくれないことを良く知っていましたので、数日間考えた末、パリに戻る決心をしました。 

  モンペリエ在任中に、大型電子顕微鏡を4台、NMRを1台受注した実績を持ってパリに戻りました。

(注1)
餃子耳:「カリフラワー耳」とも言い、稽古中に耳が畳・柔道着の奥襟などに擦れたりして出血し、血腫が凝固した状態をいう。相撲・ボクシング・ラグビーなどでも起る。

(注2)
安元豊:その後「日立造船(株) 代表取締役副社長」

(注3)ペタンク:目標球にステンレス製のボールを投げ合って、相手より近づけることで得点を競うスポーツ。

(注4)
安本年子:現在、フランスでの生活を楽しく豊かにする「マロニエの会」会長。平成30年度外務大臣表彰(個人)。

 次回は「第五十三話 パリでの仕事は...」です。


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私と柔道、そしてフランス… - 第五十一話 NMR(核磁気共鳴装置)などの営業活動-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年8月29日

- 第五十一話 NMR(核磁気共鳴装置)などの営業活動-

 日本電子の主力製品の一角を占めているNMRは、物質の分子構造を原子(物質を形づくっている最も小さい粒)レベルで解析するための装置で、ビタミン・医薬品・合成樹脂・合成繊維・香料・染料などの研究に今でも広く使われています。

 1969年時点で、私の担当地域にはジェオルのNMRを使っているところはありませんでした。そのため、パリ本部でNMRを担当していた時に資料請求のあった、南仏グラース(Grasse)のある香料会社を訪れてみることにしました。

グラースとその周辺
【グラースとその周辺】

 ここまで書いて、突然、去る4月30日にベイルートでなくなられた富賀見先輩を思い出しました。

 1964年夏、南仏ボーヴァロンでの国際合宿に参加するため、大国君の車で南下する際、富賀見先輩の提案で、一般道を使ってフランスの田舎を楽しもうということになりました。グルノーブルからは、標高が高く、景色の移り変わりの激しい“ナポレオン街道”をひた走りに走りました。

 そして、カンヌの約15キロ手前、真下の中腹に街並が広がり、遠くにコートダジュール、を望む、海抜1000メートルほどの峠に到着すると、先輩が「外へ出て深呼吸をしてご覧!」とおっしゃいます。外に出ると、深呼吸をするまでもなく、下の方から芳しい香りが爽やかな風に乗って舞い上がってくるのが感じられました。

グラース
【グラース】

 先輩は「この下の街が“香水の聖地”と呼ばれる、グラースという街だよ!この街で柔道の講習会を開いたこともある!」と懐かしそうに話されました。

  この地で香水・香料が主要産業になったのは18世紀後半で、それまでは皮革産業がここの主要産業でした。この産業には、必ず「革なめし」が伴いますが、この革なめしの際に出る悪臭をマスキング(包み隠す)するために、香水が用いられるようになりました。そのため、大量の香料が必要になった上、一般的にも香水の爆発的な普及で香料・香水の需要が高まりました。一方、革製品の税金が高騰したために、この街の皮革産業はスペインに移り、香水・香料産業だけが残ったというわけです。
“シャネルNo.5”もここで誕生しました。

 件の香料会社の研究所を訪れると、ここにはすでにライヴァル会社“バリアン”の大型機が活躍していて、2機目の導入を計画していることも分かりました。

 “バリアン”に満足している研究所に、他メーカーのNMR導入の意思はまったくないと判断し、あきらめましたが、それでも何回か出入りするうちに、耳寄りの情報を得ました。

 グラースにある多数の香料・香水会社が組合を結成していて、費用の張る研究などはニース大学理学部の有機化学研究室に委託しているとのこと。そして、この研究室がNMRの購入を計画しているとのことなのです。もちろん、ただちに飛んで行きました。

 この情報は正確でした。定石通り試料をいくつか預かり、パリ本部に送って測定してもらいました。担当教授はその結果にいたく感心され、機種選定では問題なく日本電子製品に決められました。ただ、やっと獲得したものの、大学側の予算が不十分でした。仕方がなく、パリ本部にあるデモ機をオファーしたところ、話はすぐにまとまってしまいました。苦手だったNMRの受注第一号です。

 次回は「第五十二話 また、新しい展開が...」です。


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フランス在住、早大柔道部OBの著者の柔道に明け暮れた学生時代、そして柔道の指導の為、フランスへの1ヶ月に渡る船旅、各国の様子、現地での就職、営業活動など当時の写真とともに振り返ります。

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