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私と柔道、そしてフランス… - 第五十八話 風戸健二社長のこと...-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年12月5日

- 第五十八話 風戸健二社長のこと... -

 日本電子に入社以来、4年ほどの間に、パリ赴任、モンペリエ転任、パリ帰任、ジュイ・アン・ジョザスへの転居と、目まぐるしい動きに翻弄されました。それもようやく収まり、営業実績も順調に伸びていて、ジュイ村の素晴しい環境も相俟って、“このままフランスの地に永住?!”などの考えも頭にちらつくようになりました。

 その間、風戸健二創業社長が私に示して下さったご好意に、何とかして報いたいという思いも常にありました。

 すでに第四十五話でご紹介したように、入社前にパリ支店で「東京で会おう!」と声を掛け、初出社の日には、単なる一新入社員に過ぎない私を社長室に招き入れて激励した上、目の前で、社長自ら私の研修スケジュールを作成してくださるなど、驚きの連続だったのですから。

 社長が来仏された折には、趣味の画廊めぐりや、買い物にお供することがありました。そんな時に、出身の海軍時代には、“柔剣道の寒稽古・暑中稽古の際は、京都の武道専門学校(武専)の先生から指導を受けた”などの思い出話を聞いたものです。“柔道は、余り強くならなかった”そうですが、相撲にはかなり自信を持っておられて、“後輩の指導にも当たっていた”と得意げでした。

 こんな話を聞くうちに、社長が持つ「古武士」然とした雰囲気と、私が高校・大学時代に毎晩通った、「大沢道場」の道場主で、警視庁の柔道師範の大沢貫一郎先生のそれとが重なり合うことに気づきました。多分、社長も私が柔道出身であることを知って、親身な思いを持ち、前述のような特別扱いがあったのでしょう。

 社長の次男・裕さんは、その頃「F1に最も近い日本人レーシング・ドライヴァー」として活躍していました。1973年6月、社長の来仏と同時期に、パリの西北約130キロにあるルーアン・レ・ゼサール(Rouen les-Essarts)で行われるグランプリに裕さんが出走することが分かりました。

父と子
【父と子】

 私はイギリス滞在中に、カー・レーシングを3度ほど見る機会を得て、そのダイナミックでエキサイティングなスポーツにすっかり魅了されていましたから、社長の子息のレースを観戦するために、喜んでお供しました。

  レース前、婚約者同伴の裕さんは、満面に笑みを浮かべて社長を迎えていました。笑顔がとても優しい、礼儀正しい、“かっこいい青年”でした。

 レースが始まると、社長は声こそ出しませんが、身を乗り出して、食い入るように 裕さんの車体を追ってました。それが高輪高校戦で絞め技で攻められ、死に物狂いでもがいていたときに、“頑張れ!”と叫んでいた父の姿と重なり、グッと来ました。

  この日、裕さんはガードレールに激突して、レースから離脱せざるを得ず、社長の笑顔は拝めませんでしたが、息子が無傷で脱出したことで、彼はホッとした様子でした。

 この頃の日本電子は、1971年に起ったニクソン・ショックの影響で、円が1ドル・360円から308円に高騰したことを受け、本社も海外現地法人も一気に経営が不安定化し始めていました。

 さらに、第一次石油ショックで、円は不安定な動きをしましたが、基本的には円高騰の方向に進んでゆきます。その影響は、製品価格にも直ちに現れ、例えば、SEM/XMAコンバイン機の原価が、最大の競合機・CAMEBAXの売価に相当するなどと大きな影響が現れていました。

 本社とのCIF価格交渉の行方を追う、というような毎日になっていました。

 次回は<第五十九話 悪いことばかり続きます...>です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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