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私と柔道、そしてフランス… 第五十九話 悪いことばかり続きます...

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年12月12日

- 第五十九話 悪いことばかり続きます... -

 この二つのショックの影響を受けて、高配当を誇っていた日本電子本社が1974年3月期には減配を余儀なくされます。ヨーロッパでは先ずイタリアの現地法人の展示場が閉鎖されました。

  これらの事実は、直ちに日本のマスメディアに取り上げられ、ライヴァル会社の格好の宣伝材料なりました。ヨーロッパでは、ライヴァル会社の社員がそのニュースを伝える新聞記事と辞書を持って、「JEOL危うし!」とPRして回っているとの噂も耳にしました。

 そんな中、日本で大変悲しいことが起ります。

 前年、フランス・ルーアンでお会いした、風戸社長の次男でレーシング・ドライヴァーの裕さんが、富士GCに出走中、事故に巻き込まれて、亡くなるという信じたくないニュースでした。両親・婚約者も観戦中だったとのこと...。

父子鷹
【父子鷹】

 ルーアンのレース場で、社長と裕さんが交わした笑顔と、裕さんのレースを食い入るように観ていた社長の姿を思い出して、言葉もありませんでした。

 風戸社長は、その晩、風戸家に戻った遺体の前で、取り乱すことなく立ち続けておられたとのこと...。  

 このことが、あたかも日本電子の経営の崩落に拍車を掛けているが如く、状態は急激に悪化し、1974年度には大赤字を計上して、1975年3月期に無配に転落します。

 この事態の責任を取って、風戸社長は1975年5月に相談役に退任します。そして、三菱銀行から迎えられた加勢忠雄氏が新社長に就任...。

  この頃、フランスでは、イタリアから恩人・富永雅之さん、ベルギーから若手のホープ・宇佐美亨さんが戦列に加わり、営業力は大変強化されました。それでも社内では、このフランス現地法人の行方が話題になっていて、以前のように代理店営業に戻るか、全てを商社に任すかなどの議論が盛んでした。この何れの場合でも、多くの日本人は帰国、或いは職を失い、多くのフランス人は職を失うことになることは、自明の理でした。

 ただ、この危機感が、30名ほどの日仏連合チームの結束を強めたのでしょうか、平松敦実専務の報告書によると、なんと1973年度のフランス現地法人の総売上げ高は過去最高、1974年度はさらに伸び、私がフランスに赴任した1968年度のそれの3倍に達していました。因みに、1974年度の大型透過型電顕(TEM)の売上げ台数は16台で、走査型電顕(SEM)は7台を記録しました。今もって信じられない数字です。

  しかし、これだけの受注を、年度内に売上げ計上するには、正確な受注計画を立てて、それに従ってかなり余裕を持って船積みしてもらわねばなりません。受注生産などは考えられない世界です。また、船積みしてから、それがお金に変るまで、かなりの月日が掛かりますし、円高によるCIFの高騰、支払利息の上昇などで、経常利益は吹っ飛んでしまいます。苦しい苦しい経営状態は変りませんでした。

 この頃は、どの国の現地法人でも同じ問題を抱えていたと思います。

  それでも、メイン・バンクが、我々を見放さなかった理由は、もちろん「JEOLの電子顕微鏡がなければノーベル賞はとれない!」とまで言われた本社の技術力だったでしょうが、1973年、及び1974年の数字が示す営業力にも期待するものがあったのではないかと、今でも自負しています。

 次回は「第六十話 帰国命令」です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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