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私と柔道、そしてフランス… -「第三十六話 語学(英語・フランス語)勉強の難しさ(その一)」 -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年1月29日

「第三十六話 語学(英語・フランス語)勉強の難しさ(その一)」

 1960年代の日本ではまだまだ「洋行帰り(注1)」を重視・重用する風潮がありました。選ばれて留学などで欧米に滞在する者は、色々な面で過度な期待を持たれているのを感じて、それがかなりのプレッシャーになっていました。

  とくに、言葉の問題です。その頃、巷では「一年も滞在すれば、その国の言葉など、ペラペラになるよ!」というのが常識でした。 そのため、留学目的は達成しても、日常会話がおぼつかないとなると、後ろ指をさされるような雰囲気がありました。

  パリ到着直後の宿泊先、国際都市・日本館では、明らかに精神障害を病んでいる留学生を見かけましたし、そのうちの何名かはその後日本に強制送還になりました。私が到着する直前には自ら命を絶つ者が出たそうです。当時の木内良胤館長によると、彼は帰国を直前に控えて言葉の問題で悩んでいたとか...。

  ショックを受けた私は、それからは日本館や語学学校などで親しくなった日本人に、何が一番の問題かを尋ねるようにしていました。彼らは異口同音に「言葉(フランス語)の問題」を挙げたのです。とくに、びっくりしたのは、「フランス語を話す場がない!」という言葉でした。中には「食事は毎食セルフサービスの学食で、買い物に行っても手真似で済ませることができる。その気になれば、何ヶ月もフランス語を話さないで生活はできる」などという豪傑もいました。確かに、私や大国君にとっても、INSやソルボンヌ大学柔道部以外では、フランス語を話す場所がほとんどないことに改めて気づかされました。

  こんな状況の中で、ソルボンヌ大学柔道部の稽古で知り合い、学食でよく会うフランス人女子学生、マルレーヌ・ブランシャール(注2)嬢から個人教授をうけることになり、“書き取り”を中心に、厳しく指導を受けました。

【初めて訪れたソルボンヌ大学柔道部】 前列左端;富賀見先輩、4人目;安本、右端:ブランシャール嬢
【初めて訪れたソルボンヌ大学柔道部】 前列左端;富賀見先輩、4人目;安本、右端:ブランシャール嬢

  また、大好きなイヴ・モンタン、ジャン・クロード・パスカルなどのレコードをかなり買い求めましたが、日本のように歌詞集はついておらず、彼女がレコードを聞きながら書き出してくれたもので歌詞を覚え、しょっちゅう口ずさんでいました。

【イヴ・モンタンが歌った「パリ祭」の歌詞】
【イヴ・モンタンが歌った「パリ祭」の歌詞】

  私がイギリスに移ってからは、彼女とは殆ど毎日のように手紙、というか日記の交換というような形で、接触を保っていました。この文通が仏語作文の学習に大きく貢献しました。

  英語に関しては、学校の授業で私もふつうに中学一年生(1953年)から始めました。教科書は配られましたが、先生の第一声は、「“アンチョコ(注3)”を買って来い」でした。まず、“アンチョコ”を授業で使うことに納得できませんでしたが、中身を見て二度びっくり!英文にカタカナでルビがふってあるという、子供心にも「外国語の教育方法としてこんなことで良いのかしら?」という疑問が沸き起こったものです。

  そんな状況を知った私の母と親友3人の母親たちが、英語の家庭教師をつけてくれました。その茨木浩一郎先生は東大出で、大正製薬の若手セールスマンのホープということでした。柔道・水泳・サッカーが得意のスラーッとした格好の、兄貴にしたいような先生でした。そして、情熱に富んだ授業は学校の成績にすぐに現われました。「将来は、英語の教師にでもなるか!?」などと思い始めたのもこの頃です。母親達も大満足のようでした。

  ところが、1954年、我々が中二のときに、宮崎県に日本で初めての公立パイロット養成大学“国立航空大学校”が開校され、先生はその第一期生として合格、家庭教師を続けることができなくなってしまいました。

  その後先生は、“日本航空”に入社、日本人として最初のジャンボジェット(ボーイング747)の機長として世界の空を駆け巡りました。また、御巣鷹山日航機墜落事故の事故調査委員会でもCAPとして活躍していました。

  実は、当マガジンの第二話辺りを書いている時に、茨木浩一郎先生に無性に会いたくなり、色々手を尽くして連絡方法を探った末、住所と電話番号を手に入れました。ただ、最後に電話で話したのは、半世紀も前のことですので、生きておられるかどうかさえ分からず、たとえ生きておられても私のことを記憶しておられない可能性もあり、電話するのを長いあいだ躊躇していました。そして、3日前、思い切って電話してみました。

  「中学生の頃、先生に英語を教えていただいた安本です」というと、「そういち君かい?」と言われたのです。感激して、思わず涙しました。

  しばらく、昔話に花が咲き、最後はメール・アドレスの交換で会話は終わりました。今朝受け取ったメールには、家庭教師時代の心境が次のように表現されていました: 「ゲーテの、外国(語)を知らざるは自国(語)をも知らざるなり、の言葉に実感として感動し、外国を知ること、外国語を学習することに私自身が没頭していました。」

(注1)
洋行帰り:明治以後、西洋へ行って西欧文化を学んで帰国した人達のこと

(注2)
マルレーヌ・ブランシャール:私の現在の妻

(注3)
アンチョコ:教科書を解説した参考書

次回は「第三十七話 語学(英語・フランス語)勉強の難しさ(その二)」です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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