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私と柔道、そしてフランス… -「第三話 高校時代(その二)」-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2017年10月24日
「第三話 高校時代(その二)」

 高校に入学して初めての定期試験が終り、夏休みに入ると、夏季強化合宿が待っていました。 諏訪湖畔の温泉旅館に宿泊し、朝のランニングに始まり、午前・午後の稽古が一週間ほど続く、という日程です。私は思う存分稽古ができると大いに期待していました。

 ところが、二日目の先輩との練習試合で壁際に投げられた際、不気味なグキッという音と共に左肩に激痛が走りました。ただちに運び込まれたのが、町の接骨院(ほねつぎ)でした。レントゲンを撮るでもなく、触診で「鎖骨骨折」と診断されました。 そして、折れた部位が完全にずれていたために、元の正常な位置に戻す施術がすぐに始まりました。この施術には激痛が伴いますので、現在は麻酔をして行なうようですが、その頃は麻酔なしです。痛いのなんのって!

諏訪合宿 骨折してもこの笑顔
【諏訪合宿 骨折してもこの笑顔】

 数日後に帰京して実家に近い接骨院で診てもらうと、なんと、諏訪で整復したはずの鎖骨がずれたままであることが分かり、再度「ほねつぎ施術」が行なわれました。勿論、麻酔なしで...!接骨師と助手の2人掛りで必死に整復を試みてくれましたが、元には戻りませんでした。おまけに、そのときの痛さは想像を絶するものでした。現在も左の鎖骨は飛び出したままですが、幸い、なんの支障もありません。

 このようなアクシデントがあっても、柔道をやめようと思ったことは一瞬たりともなく、一日も早い稽古への復帰を期して、神妙に夏の暑さに耐えておりました。ただ、上半身は包帯でぐるぐる巻きにされていましたので、ほぼ一ヶ月間、下半身のみの入浴、これが最も辛いことではありました。

 さて、夏休みが終ったその秋、学院が上石神井に移転しました。一応、体育館はありましたが、畳はなし....。まず、先輩からの寄付と部員が出し合った浄財で畳の購入から始まりました。 しかし、畳は揃っても体育館は剣道部・卓球部などとの共同使用ですので、毎日自由に使えるわけではありません。

 おまけに、剣道の稽古があるときは、仕方がないことなのですが、竹刀の騒音と部員の気合(奇声)とで、落ち着いて技を掛けてもいられません。卓球部の場合は、返し損ねた球がしょっちゅう畳の上に転がって来て、間が悪いときは、球を踏み潰したりしたことを思い出します。その他の日は大学の道場での稽古でした。こんな状態が、卒業まで続いたのです。

 この頃、自分の稽古量に疑問をもった私は、生まれ育った大塚坂下町(現・大塚5丁目)の実家の近くにあった「大澤(貫一郎)道場」に入門しました。 

 大澤貫一郎師範は、<木村の前に木村なし、木村の後に木村なし>といわれた史上最強の柔道家・木村政彦を破ったことのある古豪で、当時、警視庁師範(その後、筆頭師範)を務めておられました。その古武士然とした風貌と人柄に惹かれて馳せ参じた多くの門弟で、いつも活気に溢れた町道場でした。

開運坂 旧嘉納治五郎邸
【開運坂 旧嘉納治五郎邸】
 入門の際、大澤師範から、私の実家と道場の中間にある開運坂坂上には柔道の創始者・嘉納治五郎(1860~1938) 師範邸が、また、邸内には講道館開運坂道場(1910年開設)があったと伺い、柔道ゆかりの地で柔道に励むことに深い幸せを感じたものです。また、柔道との深い因縁にも驚かされました。


 ところで、私は数年前まで知らなかったのですが、嘉納師範が命名したというこの開運坂にはある伝説が残っています。それは、その当時、開運坂下には陸軍弾薬庫、現在の東京ドーム/後楽園遊園地には陸軍武器工場があり、それらを結ぶ直線約3キロの秘密地下道が存在していたというものです。さらに、嘉納師範が毎日この地下道を使い、講道館下富坂(注1)道場に通っていたとの説もあります。この3キロに及ぶ地下道の存在についてだけでも諸説紛々のようです。日本在住であれば、とことん検証してみたいところですが...。

 下富坂道場が講道館第一道場、開運坂道場が講道館第二道場とも呼ばれていたようです。

現在の開運坂
【現在の開運坂】

開運坂 文京区教育委員会標識
【開運坂 文京区教育委員会標識】

 大澤道場に通い始めてから、私の毎日の生活が大きく変りました。放課後、石神井か早稲田での稽古を終えると、大澤道場に直行。まず、少年部で師範のお手伝い。その後、師範の奥様が用意してくださる夕食をご馳走になり、青年部での稽古のあと帰宅、という日課でした。大変タイトではありますが、充実した毎日ではありました。 

 日曜日は日曜日で、近くの大塚警察署の「少年柔道教室」通いか、柔道大会観戦、あるいは試合出場など。夏ともなれば、学院柔道部の夏季合宿、警視庁管轄の警察署に赴く大澤師範に同行して警察官との稽古。体の休まる暇はありませんでした。しかし、一度もつらいと思ったことはありません。ただ、実妹によれば、その当時、私と家で顔を合わせることはほとんどなく、いつも“兄さんは、どこで何をしているのかしら”と不思議に思っていたとのことです。 確かに、周りの人には異常に写ったことでしょう。

(注1)
下富坂:地下鉄丸の内線・後楽園駅から数百メートルの地域の旧地名。
現・文京区小石川一丁目。

次回は「第四話 高校時代(その三)」です。



筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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