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愚息の独り言 第1話「幼年時代の旅行」


愚息の独り言 第1話
「幼年時代の旅行」

2013年8月23日



船僕は愛媛県の、当時人口6万数千人の漁師町であった八幡浜と言う所で生まれました。 ここのかまぼこ、みかんはいまだに日本一と信じています。魚が豊富な為日本で最初に魚のソーセージ(スモーク・ミート)を作ったところでもあります。

田舎ですので57年ほど前は渡仏ともなると町全体で幟(のぼり)をたて、
たくさんのテープで祝ってくれるという時代でした。
僕は超ハイカラと田舎者が思うグレイの半ズボンにグレイのジャケット 
ついでに薄グレイのベレー帽。 これから御フランス?
今だったら笑われるのがおちの恰好。

フランスのパサージュ・マリテイム(MM社)という船会社の船名はラオス号。
神戸からこのラオス号に乗って途中10か所の港に寄り、
フランス到着まで33日間の旅となります。

初めての海外旅行がフランス。
田舎者の僕にとっては嬉しいというよりむしろ怖い感じさえしました。
言葉、食べ物、生活習慣など何も考えず、ただ母の望み通りについて行っただけ。
未知なるものへの好奇心というより恐怖心の方が勝っていました。

当時神戸は世界の三大美港(香港、サンフランシスコ、神戸)と言われていました。 神戸港では灘の水が美味しいのでしょうか、神戸に寄港する船は最大限に水を積みます。 真っ白な5500トンの客船で1等から3等までの客室をはじめプールに射撃場、バーに レストラン、何でも御座れ、です。

出航の際には華やかなテープの雨にブラスバンドの演奏が鳴り響き、 立ち並ぶ幟(のぼり)に万歳合戦。 まあ気恥ずかしい思いです。 決して自分にやってくれてる訳ではないのですが自意識過剰の僕には それはただただプレッシャーと恥ずかしさだけでした。
長女はアメリカのカリフォルニア・バークレイ校へ留学中でしたので、
残った母と二番目の姉志摩子と3人の引越しとなりました。

父が単身赴任だったため母は10年ものあいだ別居暮らし。
フランスへ行ける事が嬉しくてたまらない様子でした。
100キロを超えるどうでもいい荷物を積み込んで出発です。

我々は2等室で、日本人があまりいないと思っていたら1等室にいたっては まったく日本人がいませんでした。 100ドル以上国外に持ち出せない時代でしたし。 父が日本に仕送りする際にはわざわざオランダにまで行って小金を送金する時代でした。

徐々にではありますが、その後有名画家などにパリでお金を渡し、その家族から 愛媛の我が家に送金などという外為法違反の様なバーターが出来るようになりました。 そんな時代です。闇市からドルを買って腹巻に隠し持ってきている人達が殆どです。
100ドル(当時3万6千円)ではたいした事は出来ません。

さていよいよ出航。
7月の船はもわっとした油と潮、湿気で暑い、臭い。
その時代ヨーロッパにクーラーはまだありません。
そんな中、最初のディナーとなりました。

レストランは意外と涼しかった。船が走っているせいかも?
でも風が通っていたのかは憶えていない。
きっと風で船全体が冷やされていたのかも・・・。

白いテーブルクロスにナイフとフォークが5本ずつ皿の両脇に並べられ、その右端にスプーンがおいてある。 さらに上にはコーヒー用のスプーン。
しかし当時はどうしてよいのか分からない。 見ただけでぞっとした。
フォークもナイフも僕にはやたらと重い。
カレーライスをスプーンで食べるのが洋食と思っていたガキです。

最後に必ず「チーズはいかがですか?」と尋ねられる。
マルセイユに着くまで一度も欠かさず尋ねられた。

そのたびに 「ノー・メルシー」 NHKのフランス語講座で勉強していた母の舌を噛みそうな返事。 それにもめげず笑顔で毎回尋ねてくる。 ボーイさんは皆白い格好(制服)。 何か水兵物語に出てきそうな、人形の様な、可愛いと言う意味ではなく、血が通っていない様な、 非人間的な・・・。
訳の分からない生物に見えました。

ディナーは先ず最初は必ずポタージュから始まりました。
これだけは美味しく、高級に感じました。 フランスでは(jardin potager ) ポタージュと言うと家の庭に取れた野菜のごった煮です。
決して高級な食べ物ではありません。
でもそれ以外の高級な物は口に合わなくて3等で出るカレーライスやハヤシライスが羨ましかった。

最初の寄港は横浜。
その間日本をなぞるように船は走る。 夜の街の灯りが妙に物悲しく感じました。

翌日横浜港に到着。
遠い親戚が来ていて 「雄峰君、ヨーロッパへ行ったらベンツを買って来て頂戴!」 便通?自動車の事らしい? ちなみにヨーロッパではベンツとは言わない、メルセデスと言うんだ。

その一言をあとに、さて日本出港!




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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