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幼年時代をフランス・ボルドーで過ごし、その後、当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪い事に憤りを感じ、自身での輸入販売を開始した道上の幼年時代、フランス時代の話、また、武道家である父「道上伯」への想い、日本へ帰国後の生活、を独り言としておおくりします。

愚息の独り言

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愚息の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第47話「心の叫び」



愚息の独り言 第47話
「心の叫び」

2016年8月5 日



日本に帰って来たばかりの時、僕の顔を見た人達によくプエルトリコ人と言われました。 その後韓国人と言われ、最近やっと日本人に見られるようになった。

よく日系2世は日本人の顔をしていないと言われますがそれは気候とか食べ物によるのではなく 先週のメルマガでも述べたように言葉の発声によるものだと思います。

たとえば日本で生まれ育ったアメリカ人には顔や雰囲気が日本人に見える人がいます。
ちょっと理屈っぽく言い訳がましい話にはなってしまいましたが、
いたってまともだと思っている本人とは裏腹に 当時僕は変人・フランス人と呼ばれていました。

何かにつけ日本はおかしいと思っていました。 処世術だけで要領良く生きている異人(日本人)の中で、僕自身は外国人扱いされていきます。 僕が父から聞かされていた日本とは大きく異なる現実を目の当たりにし、寂しくも悩んでしまう毎日でした。日本は長いものには巻かれろ、いや短いものにも巻かれろの風潮。 それが得。 フランス人は思った事をはっきり言う。

フランスにいた時、フランス人と喧嘩をしているといつの間にか「僕」対「フランス」の戦いになってしまっていた日々。
背中に日の丸をしょって日本男児という妄想の中で戦って来た自分がいました。

しかしフランスでも外人、日本に帰ってきても外人扱いされる。
思いが募り 「俺の祖国は何処だ!!!」 「僕の愛した日本は何処へ行った!!!」 「俺は誰だ!!!」 身体が凍り付き目頭だけが熱い、そんな毎日でした。

30年前、素敵な女性とランチをする光栄を得ました。
その方は1982年12歳の時にベルギーに渡り、18歳までフランス語圏で過ごしたそうです。 時代は違うが僕と同じ境遇の中で苦しみ、親を恨んだと言っていました。
親を恨むのはおかど違いですが彼女が言った事はよく理解できます。
観光旅行で外国に行くのと移民とでは大きな違いがあります。

人間は3歳で大人の脳の50%が形成され(三つ子の魂100までも)12歳で80%、その後12歳から18歳までが大人になる準備と言われています。 その最も多感な年齢に将来どの様に生きて行くかがまったく見えないという事は、 人に余計な迷走をさせてしまうのです。

フランスで喧嘩する時は相手が何人いようが負ける訳にはいかない。
道上伯の息子だから負けるはずが無い、日本人だから負けてはいけない。
何も喧嘩で発揮する問題ではないのでしょうが、そこだけは譲れませんでした。

宗教に疎い僕がいつの間にか神に話しかけていました。
「神様どうして僕はこんな境遇なのだろうか?」
「どうして僕だけ苦しまなければいけないのか?」
そんな中で唯一の救いが父でした。

1953年に、無償の条件で、言葉も分からない、行きたくもないフランスに 乞われて渡った父。
彼は僕にとって最大の敵でありましたが最大の救いでもありました。

ボルドーの道場に行くと 数十名の生徒が正座して道上伯を待っています。
その間物音ひとつ聞こえません。
年に1度の講習会では各国から集まった柔道教師数百名が正座をして父を待っています。
時には世界チャンピオン級の柔道家が数人立ったまま、声を荒げない父の一睨みで泣いている。

それを見るにつけ自分の悩みはすっ飛んでしまいます。
僕が行った時とはまるで状況が違う時代に単身渡った父。

インドシナ戦争で親兄弟が日本兵に殺されたという フランス人も多くいる中、
ヨーロッパへ渡り、 殺されてしまった日本人柔道家が何人もいたという時代でした。

だが帰国した日本には、僕の父はいません。母もいません。
一時期東京早稲田の交差点の裏に下宿していた事がありました。

その裏の小さな丘では、毎晩「突撃!」と声を張り上げ、
長い竹竿を持って訓練している革マル派の学生(?)達がいました。
昼間ピッピと笛が鳴ると 青いジャージを着て、首に手ぬぐいを巻いて僕は走って行きます。

機動隊と学連の衝突が起こるとすかさずその中に飛び込んで行って両方を殴る。
ぼこぼこに殴られた事もありましたが、なんだか気持ちがよくて、
これ以上のストレス解消はありませんでした。

ある日 白いジャンパーを着た二人の私服警官に突然両腕をつかまれ、連行されそうになりました。 とっさに裏拳を彼らの顔面に当て、その隙に足払いをして逃げました。 慌てました。
もし連れて行かれたら無理して入れてもらった学校は退学!!!
その後は一度も学生と機動隊のぶつかり合いには加勢?しない事にしました。

体育会系のジャージ姿に首から手ぬぐいといういでたちは、どちらにでも(学連にも体育会運動部にも) 取れる格好ですが、おそらく以前から目を付けられていたのだと思いま す。

一方、僕の通っていた九段の高等学校はいわゆるお坊ちゃま学校で、 一学年180人のうち10人ほどの外国帰り(今で言う帰国子女)がいました。 と言っても彼らには殆どが現地でも日本語の家庭教師が付いていました。 だから九段の高校に編入すると1学年落ちで、授業・一般生活に支障は無かった様に見えました。

その学校は年に10人ほど東大に進学していたのですが、当時その半分以上 は外国帰りでした。
しかし大人になって彼らに会った時「道上が羨ましかった」と言われて意外でした。
実は皆悩んでいた、苦しかったのだとその時初めて知りました。
中には精神病院に通っていた学生もいたようです。

子供はダブル語学教育を受ければ良いと世の無知な母親は安易に言いますが
それは子供の心が分かっていない母親です。 あえてそうするものでは無いと思います。

特に当時は日本人とフランス人の発想の原点に余りにも違いがありました。
一つの言語をしっかり習得したうえで、もう一つを習得した方が
バランスの取れた人間に育ちやすいのではないかと思 うのです。

あるオーストラリア駐在員ジャーナリストの弁: 
”これ以上滞在していると英語が上手くなりすぎるので帰国を要請し受け入れられた”。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第46話 「言語の影響」



愚息の独り言 第46話
「言語の影響」

2016年7月29 日



ところで以前にも二つの言葉が同じぐらい出来ないか、
あるいは同じ位出来るようになると人間はバランスを崩して失語症にかかるという話をしたかと思います。
海馬が人間の記憶をつかさどる所と言われていますが、
2か国語同レベルに成ると、海馬が言葉を引き出すのに混乱を招くようです。

要するに2つ以上の母国語か同水準になったとき。多くの問題が起こってしまう。

真言(マントラ)「あ~」と大声で発声して見て下さい。肺が共鳴します。
スペイン語にはこのアと言う発音が多く一般にスペイン人は情熱的 又は情緒的と言われています。柔道の練習でスペイン人を投げ飛ばすと、怒った形相をする。プライドが高いのだ。 たかが練習で・・・。

一方「い~」と言う発音は眉間(第三の目・眉毛と眉毛の中間の少し上)を共鳴刺激し、
人間がストレートに表現するようになると言われています。
「君を心底愛しているよ! 来世も君といたい!」と言っておきながら
その数分後には別の女性に同じことを言っている。そう、イタリア語に多い発音です。

そして「え~」と言う発音は英語に多く「え~」と大きく発音すると
リンパから甲状腺に掛けて共鳴し刺激する。
そうすると人間の発想行動が非常に合理的かつ シンプルになるそうです。
そういえば英語圏での発明は物事を簡素化しスピーディにするものが多い。
ファスト・フードなどはその典型だ。ただ単純で情緒が無い人が多くなる。
損か得かしか考えない、そうアメリカ人だ。

余談だが、世界では3か国語出来る人をTrilingual 、2か国語を喋る人をBilingual、 1か国語しかできない人をアメリカンと呼ぶ。

「お~」と言う声を高らかと発すると心臓に共鳴する。ロシア語に多い!
超常感覚機能を発達させる要素が有る。
ロシアと言う国はラスプーチンを筆頭に 念力者が多く、
テレパシーの訓練では世界で群 を抜いている。

では日本語はどうでしょう。

この4つには属さないですが、欧米の音楽がメジャー・コードに対して日本のそれはマイナー。
欧米のオペラの発声に対して日本の小唄、長唄、詩吟などはいったん声を飲み込んでから発します。
率直になんでも言わない、思いやり深い日本人の心も この辺が影響しているのかもしれません。
いや、日本人の特性が 日本語の発音を変えてしまったのかも。

「僕は↘」「食べた↘」とまるで韻を踏んでいるかのごとく
音が落ちるように発音しますが、フランス語など 「Je suis ↗」と上がる場合が多いです。
ある三味線の家元から聞きました。日本の表現とは音と音の間の「間(ま)」が・・・表現だと。

話は飛びますがイスラエルのテルアビブ大学の四年生が習う哲学”カバラ”には最初 ”無” 次に ”無の空間”◯ その後に”有”☉ 象徴主義では太陽を表す。を教わる。
最初に無が来るところが面白い。

ではフランス人は?

フランス語の特徴はR(G?)。ライオンが鼾をかいているような音。これは肝臓を刺激します。
ある意味でフランス人は 日本人に近いのではないかと思うほど感性が豊か です。
一方芸術的表現力はイタリア人スペイン人に劣るもののその分析力・批評力は高いものが有ります。
このフランス語独特のRの発音は異次元の感覚を鍛えるそうです。
またフランス語は 非常に単語の意味そのものが明確で、数字の単位にあてはめ易いとも言われています。フランスの文学作家又は哲学者には数学者も多い様です(パスカル・人間は考える葦)。

ちょっと理屈っぽい話になってしまいましたが、
世界中 同じ服装で同じ音楽を聴き同じように考えているかの様に見える現代の若者と違い、当時はあまりにも違いが多く、そして世間はそれに目を瞑っていた感があります。

では現在はどうでしょう?

本当に世界は一つなのでしょうか?
やはり理解されない日本人の行く末は?理解しない日本人の行く末は?
問題は現在にも引き継がれているのです。

来週は 道上雄峰の嘆きを聞いて下さい。


続く




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第45話 「帰国子女」



愚息の独り言 第45話
「帰国子女」

2016年7月22 日



8月に日本に帰って来て、まずは学校をどうするかという問題がありました。

愛媛の山猿が大都会の東京に住むのです。

今のように帰国子女枠などというものはありませんでした。
受け入れ態勢どころか外国帰りはかえってハンデとなっていた。
外国帰りはなかなか就職も出来ない時代でした。

まず九段下の高等学校の2年に編入させてくれとお願いに行きました。
しかし試験の結果、中学2年生であれば、と言われて愕然とする。
やっとの思いで日本に帰って来たのに!
いやいや、いくらなんでももう18歳に手が届く男に中学2年とは?

自分では日本語が出来るつもりでいたのだが、全くもって国語が駄目だったのでした。
それでも何とか二番目の姉の義父に頼み込み、粘った末高校1年の2学期から入れてもらう事になりました。

フランスで生活していた時間の長さが、僕の日本語を忘れさせたと言う事だけでなく、日本の常識的な事にも疑問を感じる少年になっていたために日本語が出来る外人のように映ったのでしょう。
やはり言葉には流行りが有るだけでなく。気持ちが日本人で無ければ通じない場合もあります。

入学は9月からでした。
学生服はオーダーメイドが原則。変な学校だと思いましたがその時はその高校しか受け入れ態勢がなかったのです。ましてやフランス語の優位性が認められるなんて男子校は他にはなく、唯一の学校でした。

学生服が登校日に間に合わなかったので とりあえず姉の義父(夫の父親)の洋服を借りて学校へ行きました。ズボンはボンタン(ハイ・ウエストで股幅が広い)、シャツはアロハのような開襟でベルトはワニの背が入った革ベルト。おまけに先の尖がった茶色い靴。学校では やくざが入って来た、と大騒ぎになりました。

さっそく、生意気な外国帰りをリンチにしようと言う事になっていました。
ところがそれが実行される前に たまたま体育の時間に柔道があり。
44人の生徒が22人対22人に分かれての勝ち抜き戦をやることになりました。

僕はトップバッターでいきなり22人全員に勝ってしまいます。

このことは、すぐに学校中に広まったようであいつを怒らすと怖いぞ、という事になってリンチの件は消し飛んでしまったそうです。
しかしそのことで勝手に柔道部部員として名前を載せられてしまった。
柔道部員と言っても一度も練習に行った事は無く、ただ一度試合に駆りだされた事はありましたが、その時は年齢制限に引っ掛かり全日本は出られませんでした。

とにかく すべてがかみ合わなく、自分では日本語が出来ているつもりでいたのですが、皆に言わせると何を言っているのかよく分からない、と。
国語の時間はまるで漫才!試験になると質問の意味が分かりません。
漢字が読めたとしても試験官が何を求めているのかがさっぱり分かりません。
日本の処世術が全く身に付かない。

とにかく友達が欲しい、友達が必要だ、そのために、明日だれそれと会い何々を話そうと下宿部屋の壁に向かって まるで役者がセリフを覚えるかのごとく反復するわけです。

そうして人の気を引こうとするんだけど、それがかえって嫌われてしまう結果になるのでした。頑張って生きれば生きるほど「あいつは若いなあ~あいつは疲れるな~」と言われていたようです。
日本では目立つ奴は嫌われる!だがヨーロッパでは自己主張をしない人間は「実存」しない。変な外人だったのかもわかりません。

朝のホームルームの時間などは担任の先生から「おい道上、前へ来い。青春と言う字を書いてみろ!」「はい、性春」・・・青いと言うニュアンスが分からないのです。
たまちゃんが輿に乗って嫁に行ったなど知る術も無く、腰の玉と表現してしまうやら、まるで漫才の時間でした。

昔サルトルの超現実主義が流行っていて難解と言われていました。 僕も読んでみようと思って日本語の本のページを開いてみたところ、表現が確かに難しく書かれていたような気がします。フランス語の原文はさほどではないのですが。

第一次世界大戦まで日本では、兵法や税法などはドイツを手本にすることが多かった様です。 ドイツ語は言葉一つずつの重みや深さが他の言語と違い、たとえばフランス語では アイデア(イデ)というと考え、閃き・・・あまり大した重みのない言葉ですが、ドイツ語では観念とか信念とか色んな深い意味が あると聞かされた事があります。

第一次大戦でドイツが負けると日本は文化、税法等も含めフランスを手本にするように切り替えて行ったそうです。

それ以降フランスの文化を最も早く、受け入れ広まったのは日本であり、日本の文化を最も早く受け入れたのもフランスでした。 華道、柔道、モネ、マネ、ルイ・ヴィトンの柄は日本の着物の柄から来ているようです。 その際フランス語はドイツ語を経由して訳された様です。

昔の仏語辞典は難しい日本語で書かれていて、その日本語を解釈するのが非常に大変でした。当時の僕が森鴎外だの島崎藤村だのを読むときは1ページに何十と言う単語の漢字を辞書で調べなくてはならず、本1冊を読む時にはその本用に新辞書を自分で作るかのようでした。

そんなある日教室で他の生徒のマンガ本を手にしていたら担任に見つかり叱られるかと思ったら、そういった本を読んだ方が良いと褒められました。
当時はマンガを馬鹿にする傾向があり、先生に見られたら 慌てて隠す時代でした。

マンガを読み、その後は新聞のスポーツ欄を読むようになり、しだいに政治欄も読むようになりました。とはいえ、いずれにせよ本を読むのは大嫌いでいまだに本は読みません。こうして皆さんにメルマガを読んで頂くのは大変な光栄と申し訳無さとで恐縮している次第です。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第44話 「モスクワ出発」



愚息の独り言 第44話
「モスクワ出発」

2016年7月15 日



モスクワからハバロスクまで飛行機で8時間ほどです。
その間窓のカーテンは閉めたまま。カーテンを開いて写真を撮ったりしたらカメラは没収です。
今の飛行機のように映画が観られるというわけではないので寝ているしかない。

当時は大きい旅客機が無いため通路が狭く、寝ているとドスンドスンと歩いて来るスチュワーデスの大きなお尻に小枝のように弾かれ、なかなか眠れません。
僕の頭がまるで鹿威し(ししおどし)スコン!スコン!
当時のロシア人はシャラポワではない、砲丸投げ選手の様な人ばかり!

ところで海外旅行の手段として飛行機ほど当時から値上がりしていないものはない。
むしろ季節によっては今の方が安かったりします。

ハバロスクからナホトカまで今度は4日間寝台車で移動する。
さすがにこのあたりになると皆さん疲れた様子。
ハバロスクでもナホトカでも乗り換えは全て休憩なしのトランジット。
値段が安いのだから仕方がないのです。

客室は両側に備え付き の2段ベット。
通路(廊下)に出ても汽車から見える田園風景? フランスと違って緑が見えて来ない。
見渡す限りねずみ色の土、きっと地下資源が豊富なんだろうが、農産物は見えて来ない。
きっと何も見えない所に鉄道を引いているのだろう!そんな馬鹿な!やはり未開発の国だと!
日本の様に山の上まで段々畑がある所を見せてあげたい。

トランジットでのお店もろくなものが置いてない。
日本の温泉場のお土産屋かと思ってしまうほど粗末な物しか置いてない。
こけしが山盛り並んで居て 毛皮の帽子 賞味期限切れの香水?
誰も買ってる様子がない。旧ソビエト連邦は貧しさしか感じさせなかった。

ナホトカに着くとすぐに乗り換えて横浜まで4日間の船旅となった。
最終行程で間もなく日本というところになり、やっと皆さんリラックスモードに。

ただ日本海に入ったとたん大揺れとなり、食堂には誰もいません。
ここでも僕は一人で たら腹食べ、船は津軽海峡を抜けて太平洋へ入ってきた。
船は決して小さな船では無かったが、豪華客船には程遠いものであった。

たった四日間の船旅、汽車での狭い空間で四日間も過ごして来た我々には頗る快適にさえ感じた。
ただむかし日本からフランスへの船旅に比べると海が暗かった。
両方とも夏旅だったのに。

最終目的地である横浜港までの船旅。
最後の晩餐を終え、乗客皆で食堂の椅子とテーブルを片付けると音楽バンドが用意された。
演奏は非常に上手なのだが、クラシックとロシア民謡では盛り上がらない。

ソビエトの印象というと当時は、閉塞感、誰かに見張られている、無知、そして狂信的に映っていました。 きっとこれは日本での教育のせいと、我々が無知だからそう見えたのでしょう。 今では逆です。
先日会ったロシア人は日本の都道府県を全部言えました。
思わず、KGB?と聞いてしまったほどです。
(今はアメリカに対し、無知で、狂信的で、盗聴で見張られている感が・・・。)

バンドの休憩の時に僕がお願いすると19歳の日本人青年がバンドのエレキ・ギターを弾き始めました。とても上手!当時、日本はエレキ・ブーム。みんなが踊り始めた。
ゴーゴーと言うのか、モンキーダンスと言うのか、とにかく座っている人はいません。
ここでもソ連人と日本人の差は大きかったのでした。

ソ連人の音楽に対する感性は素晴らしい!
ただすべてが固く感じられる。音楽に遊びがない。
でもそこにいたソ連人は褒めるとよく照れたりして、みんな良い人に見えた。

そのうち、皆ほろ酔い加減で疲れも出てきて地べたに座り始めた。
そこにイタリアへカンツオーネを勉強に行ったという声学家がいた。
僕が歌ってくれとせがむと、最初は渋っていましたが、やっとの思いで歌ってくれました。

背丈は低いが 声がめちゃくちゃ大きく 凄い声量!何か海の向こうまで届きそうだ!
日本人も外国人も拍手喝采、アンコールの嵐です。歌い始めると結局20数曲歌ってくれました。
その歌声があまりにも素晴らしかったので僕は、
「将来アベ・マリアを歌って女性を口説きその人と結婚する!」と心に誓ったのでした。
結局は晩年に成りフィガロの結婚を歌って口説き落としました。

翌日の昼、やっと横浜港に到着。
桟橋には180cm以上有ろうかと思われる、
スリムで背の高い外国人女性がシルクのワンピースを風になびかせ入口に立っていました。 格好良い!

一方一緒にいたフランス人青年(20歳)が港にいる日本人女性達を見て、
日本人女性は綺麗だ、想像以上だ、と言った!本当!??



お待たせしました。来年からは再び道上伯の「古武士」に話を移します。





【 道上 雄峰 】
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愚息の独り言 第43話「モスクワ滞在」



愚息の独り言 第43話
「モスクワ滞在」

2016年7月8 日



モスクワに着いた。生まれて初めてのソビエト連邦。生まれて初めての共産圏。
日本はアメリカ寄りの情報、教育の為、ソビエト連邦国を色眼鏡で見る傾向が強かった。
ましてや地方では社会主義国は良くない。共産主義国は怖いと思っている人達が多かった。

僕の愛媛県八幡浜では社会党の人達を、あいつは赤だと呼んでいた。
そう言った固定観念がフランスに居た数年間でも未だ僕の観念として残っていた。
フランス人、特に高齢の方達は親ロシア、アンチ・アメリカの人達が結構多かったのにはびっくりした。
フランスはアメリカに助けられ終戦になったのではないか?
必ずしもそうは思って居ない年寄りが多くいた。

フランス人の持つそのあたりの感覚が僕にも良く理解できないところだった。
旧ロシアの貴族達は、革命後フランスでタクシーの運転手をしている人達が多かった。

泊ったホテルは大きな広場に面した(赤の広場に近い)超高級ホテル、建物の外観が素晴らしかったのだと思う。中に入るとまるで3つ星の安ホテル。天井は高いがまるで病院の様だ!

案内の人に遠くには行かないで下さいと言われたのであえて出掛けなかった。
汽車で散々な思いをした後だけに、あえて冒険しようと言う思いは無かった。

外国人が郊外へ行こうものなら警笛を吹かれる可能性があるといった時代。
これじゃ何処にも行けないので 大人しくホテルにこもることに。 まるで今の北朝鮮。

今にしてみれば残念でならない。多くの芸術品を持つ美術館を見逃してしまった。
世界一のバレー団を見逃してしまった。オーケストラによるクラシック音楽もだ!
教育とは多感な子供に多くの感動を奪っている事に気が付いていない。
ロシアは世界に誇れる芸術の宝庫だ。

日本人は皆、ホテルの同じフロアに押し込まれた
。このフロアの女中さん達はおそらく日本語が解るソビエト人だが、解らないふりをして掃除をしている。

真夜中の12時には部屋に居るかどうか確認の電話が入る。だから怖い国と誤解される。
街並みを見ても貧しさを感じ、日本やフランスに比べると近代化で、はるかに劣っている国だった。
日本もそうだが、きっと彼らも間違った教育を受けているのだろう。

僕は、同室になった中島さんと一緒にウォッカを飲んだくれていた。
この中島さんは、当時明治学院大学の剣道部副主将で、後に三菱重工に入り、 30代の時会社を辞めて再び単身ヨーロッパへ渡った。剣道をイタリアに広めるべく、という目的で7年ほど行っていたかと思います。帰国してから三菱重工に再就職。
しかも役員まで上り詰めたという稀にみる経歴の人でした。

この中島さんとは列車の中で知り合った。
パリでスリにあってお金は全て取られてしまったとのことでしたので、道中少し御馳走しました。
日本人が持つ素晴らしいところをすべて持ち合わせているような方で、帰国してからは随分とお世話になりました。

こんな時間を次のハバロスク行きの飛行機を待ちながら4日間過ごすこととなった。
ホテルで知り合ったフィンランド人カップルと仲良くなり、彼らの部屋で酒を飲むことになった。
女性の方は凄く美しい人で、しかも親日家。
嘘かまことか定かでないが日露戦争のおかげでフィンランドはソビエト連邦から独立出来たと言っていた。
しかしウォッカは強い。皆しこたま飲んで酔っ払いました。

当時はテニス・シューズとかあるいはボールペン1本でも結構な量のキャビアと交換できた。
街を歩くと声が掛かってきます。「それ頂戴!」僕の持ち物を指差しています。
こっちも負けじと「キャビアと交換!」と言う。するとOKと返事がきて簡単に交渉成立です。

今ではロシアでも3Aのベルーガはキロあたり市場で30万円はします。
(飛行場の免税店では倍以上です)しかもそれを持ち出そうとして見つかると没収か、
約3万円の「賄賂金」を払うはめになります。

だが食事の事はあまり覚えていない。
あまり美味しい印象が無くクリーミーなものが多く満足な食事の覚えがない。
町の美味しい所へ行っていなかったせいだと思います。

ただやたらと飲んだくれて居る人が多いのにはびっくりした。
フランスでは飲んだくれて居る人たちは基本ルンペンで、飲んだくれている人達にまともな人は居なかった。 しかもどうやらロシア人だけでなく、スカンディナビア人だ。
彼等は必ず飲んだくれて酔っ払っている。

スウェーデン、フィンランド、デンマーク人達。 スカンディナビアへは行ったことがないが、真面目な良い人たちが多いというイメージと。美人が多いというイメージしかなかった。

世界的に有名なパリのリド(レビュー・キャバレー)ここのダンサーはスウェーデン人が多かった。
フランスでは綺麗な女の象徴はスウェーデン人。
”スウェーデン女性の様に美しい”という言い方をよくしていた。
確かにフランス人形などは決してフランス人女性の顔では無く スウェーデン人女性の顔が多かった。

そこでフランス人に聞いた。スカンディナビアの人達は何故海外へ行くといつも酔っ払っているのかと。 まともな答えでは無かったが、どうやらスカンディナビアではお酒の値段がすこぶる高く海外へ行ったときに思い切り飲むんだと。
でもその答えには納得できなかった。

社会保障が行き届いた国ではあるが、イタリア人フランス人の様な陽気さが無く、ちょっと暗い印象を持ってしまう人達。
ひょっとして退屈しのぎに飲んで お酒に飲まれてしまっているのだろう!
と思ってしまう程だった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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