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幼年時代をフランス・ボルドーで過ごし、その後、当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪い事に憤りを感じ、自身での輸入販売を開始した道上の幼年時代、フランス時代の話、また、武道家である父「道上伯」への想い、日本へ帰国後の生活、を独り言としておおくりします。

愚息の独り言

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愚息の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第44話 「モスクワ出発」



愚息の独り言 第44話
「モスクワ出発」

2016年7月15 日



モスクワからハバロスクまで飛行機で8時間ほどです。
その間窓のカーテンは閉めたまま。カーテンを開いて写真を撮ったりしたらカメラは没収です。 今の飛行機のように映画が観られるというわけではないので寝ているしかない。
当時は大きい旅客機が無いため通路が狭く、寝ているとドスンドスンと歩いて来るスチュワーデスの大きなお尻に小枝のように弾かれ、なかなか眠れません。
僕の頭がまるで鹿威し(ししおどし)スコン!スコン!
当時のロシア人はシャラポワではない、砲丸投げ選手の様な人ばかり!

ところで海外旅行の手段として飛行機ほど当時から値上がりしていないものはないですね。むしろ季節によっては今の方が安かったりします。

ハバロスクからナホトカまで今度は4日間寝台車で移動します。
さすがにこのあたりになると皆さん疲れた様子です。ハバロスクでもナホトカでも乗り換えは全て休憩なしのトランジット。 値段が安いのだから仕方がないのです。

客室は両側に備え付き の2段ベット。
通路(廊下)に出ても汽車から見える田園風景? フランスと違って緑が見えて来ない。見渡す限りねずみ色の土、きっと地下資源が豊富なんだろうが、農産物は見えて来ない。 きっと何も見えない所に鉄道を引いているのだろう!そんな馬鹿な!やはり未開発の国だと!日本の様に山の上まで段々畑がある事を見せてあげたい。

トランジットでのお店もろくなものが置いてない。
日本の温泉場のお土産屋かと思ってしまうほど粗末な物しか置いてない。
こけしが山盛り並んで居て 毛皮の帽子 賞味期限切れの香水?
誰も買ってる様子がない。旧ソビエト連邦は貧しさしか感じさせなかった。

ナホトカに着くとすぐに乗り換えて横浜まで4日間の船旅となった。
最終行程で間もなく日本というところになり、やっと皆さんリラックスモードに。

ただ日本海に入ったとたん大揺れとなり、食堂には誰もいません。
ここでも僕は一人で たら腹食べ、船は津軽海峡を抜けて太平洋へ入ってきた。
船は決して小さな船では無かったが、豪華客船には程遠いものであった。
たった四日間の船旅、汽車での狭い空間で四日間も過ごして来た我々には頗る快適にさえ感じた。
ただむかし日本からフランスへの船旅に比べると海が暗かった。
両方とも夏旅だったのに。

最終目的地である横浜港までの船旅。
最後の晩餐を終え、乗客皆で食堂の椅子とテーブルを片付けると音楽バンドが用意された。 演奏は非常に上手なのだが、クラシックとロシア民謡では盛り上がらない。

ソビエトの印象というと当時は、閉塞感、誰かに見張られている、無知、そして狂信的に映っていました。 きっとこれは日本での教育のせいと、我々が無知だからそう見えたのでしょう。 今では逆です。先日会ったロシア人は日本の都道府県を全部言えました。思わず、KGB?と聞いてしまったほどです。
(今はアメリカに対し、無知で、狂信的で、盗聴で見張られている感が・・・。)

バンドの休憩の時に僕がお願いすると19歳の日本人青年がバンドのエレキ・ギターを弾き始めました。とても上手!当時、日本はエレキ・ブーム。みんなが踊り始めた。 ゴーゴーと言うのか、モンキーダンスと言うのか、とにかく座っている人はいません。
ここでもソ連人と日本人の差は大きかったのでした。

ソ連人の音楽に対する感性は素晴らしい!
ただすべてが固く感じられる。音楽に遊びがない。
でもそこにいたソ連人は褒めるとよく照れたりして、みんな良い人に見えた。

そのうち、皆ほろ酔い加減で疲れも出てきて地べたに座り始めます。
そこにイタリアへカンツオーネを勉強に行ったという声学家がいた。 僕が歌ってくれとせがむと、最初は渋っていましたが、やっとの思いで歌ってくれました。

背丈は低いが 声がめちゃくちゃ大きく 凄い声量!何か海の向こうまで届きそうだ! 日本人も外国人も拍手喝采、アンコールの嵐です。歌い始めると結局20数曲歌ってくれました。その歌声があまりにも素晴らしかったので僕は、「将来アベ・マリアを歌って女性を口説きその人と結婚する!」と心に誓ったのでした。

翌日の昼、やっと横浜港に到着。
桟橋には180cm以上有ろうかと思われる、スリムで背の高い外国人女性がシルクのワンピースを風になびかせ入口に立っていました。 格好良い!
一方一緒にいたフランス人青年(20歳)が港にいる日本人女性達を見て、
日本人女性は綺麗だ、想像以上だ、と言った!本当!??

来週は日本での暮らしを話したいと思います。

続く



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第43話「モスクワ滞在」



愚息の独り言 第43話
「モスクワ滞在」

2016年7月8 日



モスクワに着いた。生まれて初めてのソビエト連邦。生まれて初めての共産圏。
日本はアメリカ寄りの情報、教育の為、ソビエト連邦国を色眼鏡で見る傾向が強かった。
ましてや地方では社会主義国は良くない。共産主義国は怖いと思っている人達が多かった。

僕の愛媛県八幡浜では社会党の人達を、あいつは赤だと呼んでいた。
そう言った固定観念がフランスに居た数年間でも未だ僕の観念として残っていた。
フランス人、特に高齢の方達は親ロシア、アンチ・アメリカの人達が結構多かったのにはびっくりした。
フランスはアメリカに助けられ終戦になったのではないか?
必ずしもそうは思って居ない年寄りが多くいた。

フランス人の持つそのあたりの感覚が僕にも良く理解できないところだった。
旧ロシアの貴族達は、革命後フランスでタクシーの運転手をしている人達が多かった。

泊ったホテルは大きな広場に面した(赤の広場に近い)超高級ホテル、建物の外観が素晴らしかったのだと思う。中に入るとまるで3つ星の安ホテル。天井は高いがまるで病院の様だ!

案内の人に遠くには行かないで下さいと言われたのであえて出掛けなかった。
汽車で散々な思いをした後だけに、あえて冒険しようと言う思いは無かった。

外国人が郊外へ行こうものなら警笛を吹かれる可能性があるといった時代。
これじゃ何処にも行けないので 大人しくホテルにこもることに。 まるで今の北朝鮮。

今にしてみれば残念でならない。多くの芸術品を持つ美術館を見逃してしまった。
世界一のバレー団を見逃してしまった。オーケストラによるクラシック音楽もだ!
教育とは多感な子供に多くの感動を奪っている事に気が付いていない。
ロシアは世界に誇れる芸術の宝庫だ。

日本人は皆、ホテルの同じフロアに押し込まれた
。このフロアの女中さん達はおそらく日本語が解るソビエト人だが、解らないふりをして掃除をしている。

真夜中の12時には部屋に居るかどうか確認の電話が入る。だから怖い国と誤解される。
街並みを見ても貧しさを感じ、日本やフランスに比べると近代化で、はるかに劣っている国だった。
日本もそうだが、きっと彼らも間違った教育を受けているのだろう。

僕は、同室になった中島さんと一緒にウォッカを飲んだくれていた。
この中島さんは、当時明治学院大学の剣道部副主将で、後に三菱重工に入り、 30代の時会社を辞めて再び単身ヨーロッパへ渡った。剣道をイタリアに広めるべく、という目的で7年ほど行っていたかと思います。帰国してから三菱重工に再就職。
しかも役員まで上り詰めたという稀にみる経歴の人でした。

この中島さんとは列車の中で知り合った。
パリでスリにあってお金は全て取られてしまったとのことでしたので、道中少し御馳走しました。
日本人が持つ素晴らしいところをすべて持ち合わせているような方で、帰国してからは随分とお世話になりました。

こんな時間を次のハバロスク行きの飛行機を待ちながら4日間過ごすこととなった。
ホテルで知り合ったフィンランド人カップルと仲良くなり、彼らの部屋で酒を飲むことになった。
女性の方は凄く美しい人で、しかも親日家。
嘘かまことか定かでないが日露戦争のおかげでフィンランドはソビエト連邦から独立出来たと言っていた。
しかしウォッカは強い。皆しこたま飲んで酔っ払いました。

当時はテニス・シューズとかあるいはボールペン1本でも結構な量のキャビアと交換できた。
街を歩くと声が掛かってきます。「それ頂戴!」僕の持ち物を指差しています。
こっちも負けじと「キャビアと交換!」と言う。するとOKと返事がきて簡単に交渉成立です。

今ではロシアでも3Aのベルーガはキロあたり市場で15万円はします。
(飛行場の免税店では倍以上です)しかもそれを持ち出そうとして見つかると没収か、
約3万円の「賄賂金」を払うはめになります。

だが食事の事はあまり覚えていない。
あまり美味しい印象が無くクリーミーなものが多く満足な食事の覚えがない。
町の美味しい所へ行っていなかったせいだと思います。

ただやたらと飲んだくれて居る人が多いのにはびっくりした。
フランスでは飲んだくれて居る人たちは基本ルンペンで、飲んだくれている人達にまともな人は居なかった。 しかもどうやらロシア人だけでなく、スカンディナビア人だ。
彼等は必ず飲んだくれて酔っ払っている。

スウェーデン、フィンランド、デンマーク人達。 スカンディナビアへは行ったことがないが、真面目な良い人たちが多いというイメージと。美人が多いというイメージしかなかった。

世界的に有名なパリのリド(レビュー・キャバレー)ここのダンサーはスウェーデン人が多かった。
フランスでは綺麗な女の象徴はスウェーデン人。
”スウェーデン女性の様に美しい”という言い方をよくしていた。
確かにフランス人形などは決してフランス人女性の顔では無く スウェーデン人女性の顔が多かった。

そこでフランス人に聞いた。スカンディナビアの人達は何故海外へ行くといつも酔っ払っているのかと。 まともな答えでは無かったが、どうやらスカンディナビアではお酒の値段がすこぶる高く海外へ行ったときに思い切り飲むんだと。
でもその答えには納得できなかった。

社会保障が行き届いた国ではあるが、イタリア人フランス人の様な陽気さが無く、ちょっと暗い印象を持ってしまう人達。
ひょっとして退屈しのぎに飲んで お酒に飲まれてしまっているのだろう!
と思ってしまう程だった。



【 道上 雄峰 】
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愚息の独り言 第42話 「フランスに父母残し一路日本へ」



愚息の独り言 第42話
「フランスに父母残し一路日本へ」

2016年7月1 日



当時日本へ帰るのは相変わらず飛行機が一番高く20数万円、船の3等も16万円以上、一番安いのがシベリア鉄道だった。13万4千円位だったと思います。
パリから横浜まで14日間の旅です。

まずパリー・モスクワ2日間鉄道の旅に出発。鉄道の旅と言っても、
16両編成の汽車で、オリエント急行とは似ても似つかずのブルー・トレインでした。

モスクワまでは6人掛けの個室で食堂車はなく、もちろん弁当売りなど来ないし、飲み物も出ません。
全て自前で乗る前に用意しなければいけないのです。

母が作ってくれた美味しいお弁当と、飲み物も用意して嬉々として汽車に乗り込む。
心配そうにしている母。僕は嬉しくてたまらないが当時18歳にはまだ2ヶ月足りない17歳の少年。
泣きそうな顔をして見送る母を見るのが嫌で怒って見せる嫌なガキでした。

母のお弁当はいつも品が良過ぎて、少年の僕には物足りない物でしたが、
今回のお弁当は非常に心がこもっており 申し訳なくさえ思ってしまいました。

そのお弁当を食べてしまうと電車ではもう食べることが出来ないので、空腹を紛らわせるためにタバコをまた吸い始めました。14歳の時から吸っていたタバコだが16歳の時には止めていました。
そのやめていたタバコをまた吸い始める事になったのです。

フランスでは両刻みのタバコはジタンが有名だが、高いのでワンランク下の安いゴロワーズ。
葉っぱが焦げ茶色い(日本で言うとゴールデン・バットに近い)両刻みのタバコをしこたま買い込んで、タバコを吸いながらの旅になりました。

6人掛けの個室を出ると通路が有りその通路で煙草を吸うわけです。
窓に連なる田園風景、何も目には入って来ない。頭の中は日本。
いつの間にか日本が素晴らしい特別な国の様に。
まるで自己暗示にでも掛かっているかのように大好きな日本、大好きな姉にも会える。

パリからベルギーの国境に入り、ベルギーの税関がパスポート・荷物コントロールの為電車に乗り込んできた。その後通路で煙草を吸っていると後部車両の中に日本人女性がいると聞き 4つほど後ろの車両に遊びに行きました。そこで調子に乗ってベラベラお喋りを得意満面披露していました。

汽車はベルギー国境を超えたあたりで暫くの間(4時間)駅でもない所に止まっていたのだがそれが何故だか分かるすべもなく、まさかその後大変なことになるとは・・・!

ドイツ国境に入る時にまた税関検査、グレイの軍服の様な格好をした税関員が入って来た。
僕のパスポートと荷物は前の車両に有ると手招きしながら税関員に一緒について来てもらい、
3車両前に行った所で、何とその先には車両がなく機関室に!わ~絶句!!!

後でわかったのだが、ベルギーからは線路幅が狭くなるので車両数が8両ずつに2分されるのです。
僕の部屋のある車両はとっくに出発して先を行ってしまっていました。

とりあえず税関の人達に駅で下ろされてしまった。
駅内の税関を見ると他にもそこで捕まっている青年たちが居た。きっと僕とは理由が違うはず。
では何の理由だろうか?麻薬密輸とか?

僕はインディアン・ルックの様なブルー・ジーンズに半袖ベージュ色の軍服を着て、ウエストには鉄砲の弾入れを通し、その中にはタバコを入れているといういでたちでした。
(写真参照)

どう見ても麻薬を持っているヒッピーか?
日本で言うフーテンの格好です。

他に捕まった人同様 税関の皆にジロジロ見られていた。
マイッタ!これでムショ行きだ!
税関にミリタリー?と聞かれる。当時自慢じゃないが英語はからっきしダメだった。
それでもno! non! ファッション! ファッション! という言葉を繰り返した。 更にタバコの入れ物として使っている鉄砲の弾入れを見られ、鉄砲の弾入れ?と聞かれ。
今度はNon! non ! タバコ!!タバコ!あ~マイッタ!
これから どうすればいいのか?・・・?

入れ替わり立ち代り数人に質問され、そのたびに僕はJapan ! Japan ! モスクワ! ヨコハマ!をひたすら連発した。当時スペイン語なら学校で習っていたが、ここはドイツ。
そしてドイツ語では何を言われても分からない。 ところで どこの誰が世界じゅう英語が通ずると言った・・?とんでもない!英語が通じる国は少ない。
当時世界でも通じるのは旧イギリス領だったアジアの開発途上国だけだ!

そんな状況から2時間ほど過ぎた頃、僕がおいて行かれた列車が戻ってくると言う情報が!?
なんとスイッチ・バック式の列車だった。 スイッチバックの細かい説明は省きますが、要するにベルギーの駅からベルリン駅に行く途中、まず西ドイツのA駅を通ってB駅に行き、そのB駅からUターンして再びA駅に戻ってからベルリン駅(言う なればC駅)に向かうというものだった。
僕はそのA駅で降ろされたと言う事になる。
何とラッキーな事だろう!

しかし知らないという事は恐ろしいものだ。
車両が真っ二つに分かれるとは今こそ知っているが、当時は予想だにしません。
父から解放され天国にも登ったような気分でいたが、なんの天国はまだそばまで来てはいなかったのだった。

再び汽車に乗り込むことのできた僕は、フランス人夫婦から「伝書バト」とからかわれながら汽車は東ヨーロッパへと向かって行った。
この時から道上と言うガキは乗客の間でちょっとした有名人となってしまった。

西ヨーロッパからモスクワまで向かう間、列車は外から鍵を掛けられ誰も降りることは出来ません。ベルリンに入った時、感じの良い美しい税関員に本が読みたいので本を頂戴と言われ気前よくあげ てしまった。後で考えると体のいい没収でした。
西の情報を東に持ち込まないと言う事だったのだと思います。

来週はソビエト連邦へ

続く



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第41話 「フランス・アルカッション最後の生活」



愚息の独り言 第41話
「フランス・アルカッション最後の生活」

2016年6月24 日



フランスに到着後パリに2年住み、 その後Robert (ロベール)さん宅に1年お世話になり、その後彼らにArcachonの中高の寮に入れてもらった。 このご家族とは今でも仲良くさせて頂いていますが、当時はイヤでイヤで堪らなかったのが昨日の事の様に憶えています。

そこでは一切日本語が使えず、日本語の本は全て取り上げられました。
そのロベールさんの長男と次男は父の柔道の弟子であった為、
きっと父の指示だったのだと思います。フランス語に専念させるようにとの命令だったのでしょう。

現在は次男Bruno(ブルノ)がボルドーにある父の道場の後継となっています。
長男Alain(アラン)にはフランス語と勉強全体を見てもらい、大変苦労をかけました。
現在僕のフランス語が堪能だと言う人が居るなら、まちがいなく彼らのお陰です。
しかし当時の僕にとっては大変嫌な存在でした。そして毎日が嫌で嫌で堪らなかった。

これから僕はどの様に生きていったら良いのか・・。
勿論ボルドーに住んいる日本人などいませんでした。
今でこそ海外で生活をしてみたいなどと言う人も増えましたが、
当時 思春期の僕には耐えがたい経験でした。

フランス人でない僕がフランスで暮らす、当時は身近に前例がなく不安で大変な事でした。
将来が見えないのです。 人間が考えるという事は、インスピレーションという面もありますが、
基本的には言葉の意味を積み上げ、応用し、答えを感じ取っていくことが多い作業だと思います。
そういったなかで一つ一つの言葉の重みや意味の多様さ、
そこから起こる自身の気持ちの不安定さ、味方が居ないと思う中 悩み続けました。

やはり言語というものはまず一つをしっかりと身に付け、
その上で他の言語を増やしていくのが正しいのではないかと今でも思っています。
言葉とは、人間が自分自身にとるコミュニケーションでもあります。

このままフランスに居ると自分は日本人で無くなる、
自分のアイデンティティが無くなってしまう。
自分が駄目に成ってしまうという衝動に駆られることが多くありました。

月日が経つと共に日本語を忘れ、フランス語が上達していくにつれ、
此処は何処?私は誰?といった現象が生まれます。

僕が日本に帰った時に通った高等学校には、
偶々1学年に数人の外国帰り(帰国子女)がいましたが、
殆どが精神的に悩み、多くは精神病院に通っていました。
一番の危険は2つの言語が同じレベルに達した時です。
まず失語症にかかり、思っている事が言葉にならなくなる事を経験しました。

フランスへ来てから、月日が経つにつれ早く日本に帰りたいの一心で 
特に高等学校ではフランスにいられなくなる様に行動しました。
学校で暴れる程度ですが、ほぼ毎月職員会議に掛けられ、土日外出禁止、
3日間停学、8日間停学などの罰則をくらいました。 罪状は喧嘩だった。

最後には決起して、無断外出です。ヒッチハイクをしスウェーデンを目指します。
スウェーデンは捕まると自国に送還されるのを知っていての事でしたが、
あいにく僕は未だ17歳。20歳を過ぎないと自身の意思では渡航出来ない時代でした。

結局学校は退学となりました。
ただ2番目の姉が結婚後日本に帰国していたので受け入れてくれることになり、
しかも僕が絶対に受からないと言われた国家試験に受かった為、
父も渋々了解することになりました。

勿論ただで帰してくれた訳ではありません。
森に連れて行かれ30分ほど平手打ちを食いました。
頬が赤く染まり紫色に腫れ血が滲んでくるのです。
恐怖心が痛みを上回っていた事を昨日の様に覚えています。

父は柔道で世界54カ国の最高技術顧問であったため
各地を回っていて会えるのは3ヶ月に一度でしたが、
フランス時代を思い出すと、父と会っている日は毎日必ず父に叩かれていました。
その反動で必ず誰かと喧嘩をしていました。
そうしなければ自分が潰れてしまうのです。

悪いことをするとボルドーの道場へ連れて行かれます。
そこで世界チャンピオン級の柔道家に投げられるのですが
肘を鳩尾(みぞおち)に押し付けそのまま倒れ込むという技をかけられる。呼吸が数秒出来ません。
あるいは絞め落とされるのですが、落ちる寸前に技を解く。そしてまた絞められる。
それを二、三回繰り返されるともう立ち上がる事すら出来ません。

耳元で「すまんな~、先生が見ているので・・・。」
そうです。父親が道場の隅にある事務室の小さな窓からこちらを見ている。
スター選手である世界屈指の柔道家が技をかけながら済まなそうに言う。

その翌日僕は決まって学校で大暴れ! ただ必ず相手は年上か、複数でした。
でなければ僕の方が病院送りになるほど父にやられたのではないか・・。

いよいよフランスを離れるという時、びっくりしたのは父と別れる時のことでした。
父からファイルを貰ったのですが、
そのファイルには「先生 大変恐縮です。お宅のお坊ちゃんは生徒3人と大喧嘩しました」

そのあと「先生 大変恐縮です。
沢山の贈り物ありがとうございます (ボルドーワイン12本)」
このような校長からの手紙が何通もファイルブックに挟まれていました。
だからなかなか退学にならなかったのかな~!

父から最後の一言「君の戦略は間違っている」
僕の一言は「父親との戦いはやっと終えることが出来る」

18歳に成る2か月前の事だった。
今思えば 父も17歳の時アメリカに密航しようとした。

親子でも、与えられた環境を乗り越える事が出来ない子と、
狭い日本から飛び出したいと願った青年との違いが有った。

次週はシベリア鉄道で我が日本へ!



【 道上 雄峰 】
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愚息の独り言 第40話「フランス・アルカッションでの生活」



愚息の独り言 第40話
「フランス・アルカッションでの生活」

2016年6月17 日



夏には高校生にも1か月以上の夏休みが与えられる。
1968年の夏休み、僕はパリで過ごした。

2番目の姉は、父のアシスタント清水猛と結婚、女の子を生んだ。
Vitry (パリ郊外ヴィトリ)で生まれたので、美津里と名付けた。

パリの病院で出産後、医者が心配そうに「大変言いづらいのですがお嬢様は御尻に青いあざが有ります」と。 皆で笑った。日本では当たり前の蒙古斑であった。

この頃は、日本からも徐々に団体観光客が渡航して来るようになった。
愛媛県松山市で精養軒と言う有名なレストランのオーナーである大西さんのお嬢さんが我が家に下宿するようになった。

その彼女が結婚した相手の山中さんは、パリの中心で大阪屋と言うラーメン屋を開き、又免税店も開いた。 小さな免税店だったが一日の売り上げが多いときは3千万円ほどあった。
当時免税店でローレックスの時計を買うと日本の三分の一で買えた。

お酒もコニャクなどだと日本の五分の一、今では免税店の方が高い位だが。
日本人観光客を乗せたバスが一日に何台も横付けされる。一台で40~50人、それが何台も来る。一人あたり30~40万円買っていくから笑いが止まらない。

この頃日本の多くの団体は農協が送り込んできていた。
旗を持った50人~100人の日本人団体。個人主義のフランス人はさぞかし馬鹿にしていたであろう。

1960年代はアメリカ人、1970年代はアラブ人、1980年代は日本人、1990年代は韓国人、2000年代は中国人。 パリと言うところは観光客数では世界一。
年に一億人以上。だが現在はテロのせいで少し減ったようだ。

どっかの国が来なくなっても、また別の国が現れる、東京とか京都にはない面白さがパリには有る。 しかも面積にすると東京の二十分の一以下。
文化だけではない。遊び、食事、すべてが国際色豊かに受け入れ体制がある。

そんな国の免税店だが、昔姪に頼まれて免税店と、買いたくもないルイ・ヴィトンの店に行った。 するとそこの日本人店員に突然、あなた朝鮮人?と聞かれビックリした。

僕は朝鮮人でも韓国人でもないが 仮にそうだとしてもぶしつけな言い方だ!
日本人は真面目に並んで買っているのをあたかも売ってやるとばかりに 人をバカにした失礼な態度をとる販売員が免税店では多かった。同じに日本人なのに・・。

近年だが、パリの免税店でお土産に頼まれた品を見ていると、
「貴方はどこの国?ベトナム人?フイリピン人?韓国人?」といろいろ聞かれる。

聞き方も馬鹿にした態度をとる。「タイ人?マレーシア人?インドネシア人?」
決して日本人?とは聞かない。最後まで聞かなかった。

販売員の彼の胸の札には北京語、英語、フランス語と書かれていた。中国人だ。
僕はフランス語であなたはどこから来たのですかとわざと聞いた。彼は答えない。

中国人はどこの人だという問いにはほとんど答えない。 自分の出所を知られるのが怖いのである。長年共産主義のもとでチクリ合いが行われて来た人達。自分の情報は教えない習慣が付いている。 であればなおさらのこと、人に失礼な聞き方をするなと!と思う。

マネージャーを呼んで、マネージャーを叱りつけた。
やはり僕は寮生活で慣らしたので暴言には強い。 未だにフランス人と口論になっても負けない。

しかし免税店と言うところは品のない販売員が多い。
一度上海に35年住んでいる台湾人に聞いてみた。
「何故中国人は代金のお釣りを投げるようにして渡すんだ」と。

彼の答えは「中国ではサービス業は下の下なんだ、だからサービスを知らない。受けたことのない者たちがやっているのでサービスのレベルが低いんだ。」
「日本のレベルに達するには100年はかかる」と。

そう言った意味では韓国、台湾のサービスは良い。

しかし当時のパリの日本人は失礼極まりない。
パリに住んでいるから偉いと勘違いしてしまっている人たちが多かった。

免税店をやっていた山中さんも、どうやらパリのプライベート・カジノで殆どすってしまい、最後には免税店も乗っ取られてしまった。 何故だろう?

外地での中国人韓国人は助け合うが、外国の日本人は孤立して居て、成功すると乗っ取られてしまう。

現在多くの日本料理屋が有るが、殆ど日本人の持ち物では無い。
回転ずしなどでの日本人オーナーは皆無である。



【 道上 雄峰 】
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当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言 第39話「フランス・アルカッションでの生活」



愚息の独り言 第39話
「フランス・アルカッションでの生活」

2016年6月10 日



僕は父のような我慢強さがなく、相変わらずしょっちゅう喧嘩をしていた。
日本人が全くいない南仏高級避暑地Arcachon(アルカッション)の高校で毎日のようにである。

僕の高校では給食にオードブル2種類。ソーセージなどの肉類に野菜、魚等。
メインは牛肉主にステーキの後に魚か鶏肉の2種類、偶にうさぎ。
その後エンダイブのサラダ、生野菜とラタテゥイユなどの温野菜、それにポテトかご飯と2種類。

デザートは果物と甘い物(ケーキなど)2種類。
その後がキャフエ(エスプレッソ・コーヒー)と豪華だった。
料理だけで6品、さらにデザート、コーヒーが3品。

どう考えても他の学校の給食よりも2品多かった。
昔、特にフランスの田舎は食生活が贅沢だった。 それに、何と日本では考えられないが8人掛けの各テーブルに白ワインと赤ワインが1本ずつ付いていた。 まるで高級レストランLysee Grand Air D’Arcachon ( 空気の澄んだアルカッション中高校)。

いわゆる喘(ぜん)息もちの体の弱い生徒の為の学校だったが、実際にはコネで入った生徒ばかりで、体の不自由なものは皆無。そうだ、フランスはコネ社会だった。
僕は父が不当な税金を徴収されていると聞き、たくさん食べて取り返そうと。 相変わらず馬鹿だった。
必ず端に座り料理は2~3人前を取ってしまうので、いつも喧嘩になっていた。 口癖は「僕のお父さんは沢山税金を払わされているから」だった。
注意する舎監(寄宿舎監督人)や先生と暴力沙汰になる事もしばしば。

しかし僕に「おじさんはインドシナ戦争に行った事があるが、アジア人は御飯が好きだ」と言って 30センチの皿に山盛りバターライスのお代わりを持って来てくれる良い給仕のおじさんもいた。 僕は敵地で厚い看護を受けた気持ちだった。
いくら食べてもお腹がいっぱいにならない年頃だったので嬉しかった。

そんな中フランス人から”人種差別をしてるのは俺たちではなく、お前だ” と言われた。その時 はっと思った。自身でもその通りではないかと思ってしまった。 フランス人は人種差別をしていると感じ思いこんでいる内に自分自身が、いつの間にか日本と言う旗を背負って戦っていた。 1対1の喧嘩がいつの間にか僕対複数、僕対フランスの喧嘩になっていた。

フランスと言う国は多くの外国人をヨーロッパのどの国よりも受け入れているが、その受け入れ態勢に問題が有るのだと思う。 現在でもアラブ人が黒人以上に差別されている。それはアラブ人達にロクな仕事が回ってこなく、悪事は貧困の中から生まれてくる場合が多い。

フランスは多くの植民地を抱えていたが、それらの国が次々と独立して行き、ドゴール大統領からポンピドー、ポンピドーからジスカール・デスタン、ジスカールデスタンから 社会党のミテラン大統領に変わってからは多くの外国人の移民を受け入れてしまった。
ドゴール時代からは中国移民、ベトナム難民は相当数入ってきていた。
ドゴール大統領は最もフランスを愛した男ではないかと言われる一方、 多くの国を独立させ多くの移民を受け入れたが、その頃のベトナム人中国人はフランスに特化し馴染んでいた。
一方でアメリカの覇権主義に真っ向から反対した。1960年代から着々とフランス中のドルを集めポンピドーの代(1971年)にドル紙幣を貨物機に乗せ何便も飛ばし アメリカに返還させ金との交換を要求した。ここで起きたのがニクソン・ショック。金本位制の崩壊である。フランスはアンチ―アメリカの様相が強かった。

フランスの冗談:
ブレジネフ(ソビエトの書記長)が
「神よどうかあのまやかし資本主義のアメリカをこの世から抹殺したまえ!」
ニクソンが
「おお神よ共産帝国主義の悪人どもをこの世から抹殺したまえ!」
神がドゴールに
「貴方は何がお望みですか?」
ドゴール曰く
「-何もありませんブレジネフ書記長とニクソン大統領の願いを聞き入れてもらう以外には・・。」

ドゴールは立派な大統領であったが、歳には勝てず、1968年にパリ5月運動(5月革命)が起こった。 交通遮断、食料は途絶える。 町では石畳を掘り返しバリケードが築かれ火炎瓶が登場。
何とこの暴動は世界的なもので、まずはアメリカのカリフォルニアバークレイ校で起こり、日本では全学連の運動が活発化した。 ただフランスは革命を起こした国、多くの労働者も賛同した。 ガソリンは買えない。勿論たばこ、水、も。

パリでは至る所でCRS(機動隊)との衝突。しかも何日も続いた。
フランスではMouvement de Mai 5月運動と言っていたが、日本では5月革命と訳されるほど過激だった。

当時全世界での個人金保有高の半分以上はフランス人が持っていると言われていた。 地方で家を取り壊すと壁から金貨がザクザクと出て来ることが多いとまで言われた。

ドゴールが大統領の職務を辞してからフランスには優雅さと言うものが失われて行ったような気がする。
そんな中ヒッピーなどと言う種族も登場、大きく世の中が変わりつつあった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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