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幼年時代をフランス・ボルドーで過ごし、その後、当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪い事に憤りを感じ、自身での輸入販売を開始した道上の幼年時代、フランス時代の話、また、武道家である父「道上伯」への想い、日本へ帰国後の生活、を独り言としておおくりします。

愚息の独り言

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愚息の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「フランスでの生活 第34話 ボルドーでの生活 5」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第34話 ボルドーでの生活 5」

2016年5月6 日



ドアンスとは何もない所だった。
見渡す限り景色に色の変化が無い。
松林、偶に牧草、偶にトウモロコシ畑、昔湿地帯に植えた松が林となってピレネ山脈まで約350km連なっている。

松も日本の盆栽のような地を這ったものではない。

ただまっすぐ天に向かって30メートルほどの高さに無機質に伸びているだけ。
それらの松は皮をむき垂れて来る白い液体を壺ですくう。これが風邪薬の原料に成るらしい。

そんなところの秋が深まり始めた朝もやの中をアラン、ブルノと一緒にジョギングをする。網で囲った壁の中にパリからのセップ泥棒が登場。セップは日本で言うならマッタケのようなシャンピニオン。 これは美味しい。日本のマッタケより全然美味しい。

日本のマッタケは香り、味、共に上品だが、セップを塩少々とオリーブオイルオイルでソテーすると、とんでもなく美味しい。 イタリアのポルチーニ、パリのセップとは似ても似つかない。これがパリでは高値で売れる。
ドアンス近辺だと今の値段で一人2000円もあれば
フォアグラ、セップ、ステーキ、ワインが食べ放題飲み放題!しかも美味しい。
おそらくパリでは10倍のお金を払っても味わえない。

松林が途切れると、トウモロコシ畑だ。
これがジャガイモ同様、多くのフランス人を戦時中餓死から救った。

牧草には牛、鶏が優雅に遊んでいる。デカい!何故こうも違うのだろうか。
パリの鶏肉は日本の倍はあろうか?しかしこちらの鶏肉はさらにパリの倍はある。
走り回っているため、肉は少々硬いが味が有る。
そんな森林浴最高の食材。

ただ寂しい所だった。街灯など滅多にない。遊び場もない。
週に1回水曜日の夜15キロ離れたところに映画を見に行くぐらいだった。

偶にではあるが、日本の田舎のお祭りの様にBALL(ダンスパーテイー)、ToroFuego(炎の闘牛)、葡萄狩りなどが年に1回。 今頃は(5月)ミミザンと言う小川のほとりにキャンプを張る。 勉強以外にやることがない。



でもフランスの勉強は面白くない。何でも丸暗記。まるで日本の戦前のやり方。
特に僕の様にフランス語が不得意だと言葉が頭に入ってこない。
数学も計算式・答えでは無く、定義、方程式が優先され理屈っぽいため、
いつもちんぷんかんぷんだった。

そう言えばフランスの数学者には哲学者が多い。
数学が出来ないと哲学も理解できないという程理論性を重視した。
僕にとっては意味不明。

小学校復習のクラスの卒業国家試験があるが、僕はこの試験を滑ってしまった。
フランス人の半分も合格しない。合格すると当時は新聞にも名前が載る。

けっして難しい試験ではないのだが、フランス語のディクテ(dictee) と言う書き取り試験がある。これが難しい、5字間違えると零点。

当時フランス人の86%は文盲であった。日本では考えられない事であったが。

一方世界中にフランス語普及のためフランス語学校を設置した。
だからだろうか?フランス人は外国語が苦手。

わけのわからない将来性にも危惧するフランスでの勉強・・。
僕の将来はどうなるのだろう?



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





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愚息の独り言「フランスでの生活 第33話 ボルドーでの生活 4」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第33話 ボルドーでの生活 4」

2016年4月29 日



ロベール夫人のマルギョリット・ロベールさんはドアンスに唯一在る小学校の先生兼校長だった。 小学校と言っても1年から復習のクラスまで全員で30数名の学校だった。僕はその復習のクラスの2年生に入った。

マダム・ロベールは非常に頭の固い人でペンの持ち方、鼻のかみ方一つにおいても非常にうるさかった。 日本での鉛筆の持ち方は鉛筆を立てて持つが、
フランスのペンは寝かせてまるでおはしを持つかのような持ち方だった。
しかも物差しでヒステリックに指を叩いて注意する。

鼻のかみ方も日本の様に両手でハンカチを開いてかむのではなく
ハンカチのど真ん中を痰壺の様にしてかみ、 その後それを丸めるようにする。
非常に不衛生で、フランス人が持っている習慣の中で最も嫌いだった。
それを強要される。いやでいやで仕方がなかった。
自分は日本人としての誇りを持っていたので
そう言った汚いやり方は我慢がならなかった。

しかも 言う事を聞かないと長男のアランに頭を叩かれる。
日本人に叩かれるのではなく嫌いなフランス人に 叩かれるのは我慢がならなかった。プライドがぐじゃぐじゃにされて行った。 特にあまり年が離れていない女の子のフランス人に頭を叩かれるのは我慢が出来なかった。
だからと言って殴り返すわけにはいかなく この悔しさの持って行き場所がなかった。

本当はこの悔しさを勉強の方に向ければよかったのだろうが、
フランスが嫌いでフランス語を勉強しようなどとは考えられなかった。

唯一の助けが大らかなご主人ジョルジュさんの人柄だった。彼は僕をかばってくれた。
今でも感謝している。彼がいなければ耐えられなかった。

ただいやな事はそう言った日本の諸習慣を踏みにじられる事であって、それ以外は面白い事も多かった。 活気のないさみしい場所であったが毎日の食事は素晴らしかった。

マダムが学校の校長だから生徒の父兄が色んなものを持って来てくれる。
朝はお隣さんの搾りたての牛乳を飲むところから始まるがすべてが新鮮だった。
採れたての卵は目玉焼き、オムレツ、マヨネーズと多くの材料になった。
朝新鮮な牛乳に、ココアにパン・ド・コンパーニュ(田舎の丸いパン)をうすく切ってバターを塗って食べる。 又は豚のリエット、パテなどを食べる。
冬は暖炉で肉やパンを焼く。これがうまい。

夜は何が凄いかと言うと 一人1キロほど果物を食べる。
滅多に来ない父がびっくりするほどだった。
大きいテーブルのど真ん中に鍋が置かれそれをすくって食べる。 豪快でもあった。
未だにどのようにして作るのかが分からない料理が沢山ある。
Sanguette de sang de volaille (サンギェット)もその一つである。
鶏を締める時に首を切るがその滴る血をフライパンにすくい細かく刻んだニンニクとパセリを載せオリーブオイルでソテーする。これが旨い!日本では食べたことがない。

マヨネーズだけど 僕は未だに日本で買った事がない。気持ち悪くて食べられない。 冷蔵庫の無い時代に酸化させないため酢を大量に使ったのだろうがいったい何が入っているか分からない。
ただ子供の時から食べているとその味に慣れてしまうのだろう。
逆に僕は未だに手作りのマヨネーズしか食べられない。
日本のスーパーへ行くと色んな卵が並んでいる。
でも美味しいと思った事はないしそれぞれ味がさほど違うと思えない。
スーパーの卵は殆どが冷凍物で、解凍した日が生産日となっている。
やはり生まれたての卵と味は違う。

そして日本のオリーブオイルはエクストラ・ヴァージンと書いているが、エキストラなど殆ど存在していない。 強いて言えばオリーブオイルはエクストラであろうが、
ヴァージンであろうが冷蔵庫に入れておけば固まって劣化が進みにくい。
そして日本のオリーブオイルは非常に味が無いと言うか癖が全くない。
フランスなどでは癖の多い物が多く、バラエティーにとんでいて美味しいものが多い。
先ずは卵の黄身だけを大きめの茶碗のようなものに入れる。
かき混ぜながらオリーブオイル、塩、胡椒それにマスタードを入れる。
このマヨネーズに蟹とか海老を浸けて食べると滅茶苦茶美味しい。

フランスで日本茶を飲むと水が硬質なのでお茶の持つ優しさ、品の良さが感じられない。一方日本でエスプレッソを飲むと水が軟質でシャープさを感じない。
脂っこい物を食べた後ガツンと来るコーヒーが飲みたく自分で淹れるようになってしまう。
これらはあくまでも慣れ、習慣による好みの問題ではあるが。

若者にとって 食べ物は間違いなくフランスの田舎が美味しい。
フランスは豊かな農業国だった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





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愚息の独り言「フランスでの生活 第32話 ボルドーでの生活3」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第32話 ボルドーでの生活 3」

2016年4月22 日



何故僕はドアンスに送られて来たか。
それは父がフランスの生活に慣れさせようと思った事もあるが、
特に僕を家族と引き離す事にあった。

そのロベール家の家族構成は、まずご主人がジョルジュ(George)さんというかたで、第2次世界大戦において捕虜収容所に収容され、ボランティアの文通相手マルギョリットさんに勇気づけられた恩に報いる為、終戦とともに彼女を探し回り、やっとの思いで見つけブロポースし、結婚した。 マルギョリットさんはあまりその気は無かったようだが、ジョルジュさんの意志は固く生涯彼女に尽くした。

彼はブルターニュ出身の青年だった。ブルターニュはフランスの北西に位置し、そこの住民ブルトン(ブルターニュ人)は頑固者の象徴のような言われ方を一般にされている。 フランスで彼はブルトンだ!と言うとそれはすなわち頑固者を意味する。

しかしジョルジュ・ロベールさんは決して頑固者では無く、一途な人だった。
捕虜収容所の中にいながらにして アマチュアボクシングのヨーロッパチャンピオンだった。
気さくで優しく とても大らかな人だった。僕も彼には助けられた。
屑鉄屋で経理をやっていたが頑張り屋で、高収入を得ていた。
朝5時には自動車で会社に向かっていた。

奥様のマルギョリットさんは学校の先生で非常に頑固者でわがままだった。
しかも決して美しいとは言い難く 、あまりモテるタイプの人では無かったと思う。

長男のアラン(Alain) は真面目すぎるほど真面目で体育の先生を目指し日夜勉強に励んでいる高校生だった。 当時体育教師の給料は良く、休みも多く宿題の採点も無い。放課後残って何かをやるなどと言う事は一切なく、フランス人にとって憧れの職業だった。
なり手が多く体育大学入試は大変難しく、医学部にでも入るかの如く多くの知識を要し猛勉強していた。 500以上ある身体の筋肉名や骨の名全てを丸暗記しなければならなかった。

長女のフランス(France)は美人で170cmの長身。 スペインが大好きでスペイン語の先生に成る事を夢見ていた。 当時は今と違って教師の暮らしは豊かだった。
フランスでは夏休みを大人でも1ヶ月とるのは当たり前の時代であり、6月半ばからとるものもいれば、9月の半ばからとるものもいた。 家族が一緒にバカンスを取れる様にと学校側は3・4か月の夏期休暇が当たり前。 期末、卒業試験は6月の頭に集中していた。

次男のブルノ(Bruno後道上道場の後継者となる)は身体が大きく、どちらかと言うと要領の良い男だった。 怠け者で一番簡単な歯医者の道へと進んだが、今では断トツに稼ぎが良く優雅な暮らしをしている。時代の変化とは恐ろしいものだ。

マダムから聞いた話だと、子供の頃のアランとブルノは身体が弱く、マダム・ロベールがボルドー市内の案内を見て子供の健康育成を考えて アラン15歳ブルノ12歳の時に柔道入門させたそうだ。 ストリート・チルドレンがやるサッカーと違って柔道は大変高貴に思われていた。

33kmの道のり、息子が免許を持つまでジョルジュ・ロベールさんが送り迎えした。 そんな中で熱心に練習した二人はめきめき強くなっていった。 当時団体戦においてボルドーの道上道場は圧倒的な強さを誇っていて アランもブルノもジュニア・チームの一員として選ばれ多くの勝利を納めた。
そういった二人なので父道上伯を崇拝していた。
道上に口をきいてもらうだけでも光栄な事であった。

父の意を酌んで 僕の日本語の本は捨てられ日本文化との交流は閉ざされた。
日本語を忘れさせようと言う魂胆だと僕は受け取った。
ここから父に対する憎悪が増していく。
父との戦いが始まった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





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愚息の独り言「フランスでの生活 第31話 ボルドーでの生活 2」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第31話 ボルドーでの生活 2」

2016年4月15 日



ロベールさん宅は(Robert ) ドアンス(Douence) という人口約100人の村にありました。 広さが縦5キロ以上 横5キロ以上の広大な村でその殆どが農家だった。
自動車でボルドー市からドアンスまで33km。多くの葡萄畑が目に入ってくる。
ただ有名なシャトーは無く大半は自分たちで飲むための物だった。

10月、ハーベストの時期になると、ドアンスでは 今日はだれそれさん家、
明日はだれそれさん家と 言う風に村中100人総出で葡萄狩りを手伝う。
背中に大きなかごを背負って 葡萄の房を背中のかごに入れて行く。
これが結構しんどい。屈んで作業するために子供の僕には結構大変だった。

そのかごに入ってる葡萄の房を歯車の様な( fouloir ) フルワ―に入れ それをまわしながら潰れた物を、大きな樽、又セメントで出来たプールのような所へ投げ込む。
昔は皆さんパンツ一丁になって足で葡萄を潰していたが、この頃はフルワーを使っていた。

( fouloir ) フルワ―

約1週間もすれば葡萄の皮、枝などが完全に浮き上がって来るがそれをさらにかき混ぜると、 2週間後に醗酵していく。その頃に枝、皮、種を取り除く。

赤ワインの色は葡萄の皮、種がつぶれる事によってできる。 昔の作り方のほうが荒っぽいが、身体には良い物だったと思う。 果物の一番の栄養分は皮際と種にあることを昔の人は知っていた。


素人ほど防腐剤が云々言うがボルドー赤ワインは原則防腐剤を使わない。
作業で一番大変なのが葡萄狩りだ。 その夜は村中が集まって採れたての葡萄ジュース、昨年の樽出し葡萄酒を皆で飲む。 村中の食料品ウサギ、鶏、豚、野菜などを皆が持ち寄って食べる、飲む(ギョルトン)、まるでお祭り騒ぎだ。 このハーベストが3週間ほど続く。子供達も学校へ行く暇はない。

このギョルトンは夜7時ごろから朝の1時まで延々と飲んで食べる。
小学生の女の子も葡萄酒を飲んでいる。僕も飲む。 木のテーブルをくっ付け合わせ 周りには鶏そして牛の首輪の鐘がなる。 豪勢な料理をピクニック気分で味わう。 日本人と違って酔っ払っている人は居ない。皆酒も強く またよく食べる。 肉は少々硬いが味が有って食べごたえが有る。

2chevaux 車陸の孤島の様な所で遊ぶところが無い。 バスが一日1台猛スピードで通るだけでパン屋は毎朝近所の村から 2chevaux 車のバンタイプの車が届けに来る。

他は肉野菜の自動車が週に3回通るだけ。
だからこの葡萄狩りは一大イベントである。

しんどいが、それ以上の喜びが有る。子供も年寄も女も男も皆で手伝い皆で楽しむ。
日本人として人種差別を唯一受けなかったのがこの村だ。

最近イタリア、スペイン、オーストラリア、ニュージーランド、カリフオルニア、チリ、アルゼンチン とどこでもここでも ワインを作っているが フランス人の様に葡萄酒が生活に密着した国はない。
アメリカ人もワインを飲みだしたのは最近であり、フランス人の様に庶民の飲み物ではなかった。
フランスは長年に渡って自給自足の出来る数少ない国の1つだった。

フランスは最近ワインを飲む量が減った。 むかしは1人一日に1本以上だったが現在は4日に1本の量らしい。当然飲まない人達も含めてである。 その代わりビールとウイスキーの消費が増え、ワインもやたらと格付けがどうのとか 訳の分からない事を言って値段を吊り上げている。

食は地方にあり。真にフランスの食生活は贅沢だった。
国も豊かだが何千年もの食文化が成し得る事である。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





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愚息の独り言「フランスでの生活 第30話 ボルドーでの生活」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第30話 ボルドーでの生活」

2016年4月8 日



夕方ボルドー到着。近所の中華料理屋で食事をして帰宅した。
父と同じ部屋に寝るのは生まれて2度目。

玄関を入ると直にダイニングと応接間が有り、その奥左に大きなベットが置いてある。 僕はソファーで寝る事になった。
棚にはワイシャツ屋さんのように綺麗に畳まれたシャツが並び、
その下には丹念に磨かれた靴が靴屋さんの様に並んでいる。
どこを見ても完璧だ。見ていてゾッとする。緊張感が走る。
明日は知らない家に預けられる。 緊張のあまり眠れない。
夜がこんなに長く感じた事は無い。

早朝パン、パテ、リエットの買い出し。
朝食を家でとって少しボルドー市内を見学。
古ぼけた家が立ち並ぶ町。 何か終わった感じの町だった。
これが2度にわたってフランスの首都だった町かと疑う程だった。

シャバンデルマスと言う有名な市長。彼は2度にわたって首相、そして2度の衆議院議長を務め ポンピドゥーの後、 間違いなく大統領に成るはずが シラックの裏切りに合い ジスカ―デスタンが大統領に成った。 それ以来随分と町も疲弊してしていた。
南フランスが持つ町の独特な明るさがなく繁栄を轟かせた昔の栄光は無くなっていた。
Rue Sainte Catherine サント・カトリーヌ通りなどは 世界で一番長い商店通り(1250メートル) そこにある肉屋などは他の地域にお店を出す事は許されていなかった。
そこから有名な店が出現した。
カヌレ(お菓子)はボルドーにしかなかった。
未だにLe Grenier Medocain (https://fr.wikipedia.org/wiki/Grenier_m%C3%A9docain )はボルドーにしか売られていない。
このように多くの食がボルドー独特の物であった。

かの有名なパリのオペラ座 Charle Garnier (19世紀のフランスを代表する建築家)は Victor Louis (18世紀の偉大なる建築家) に憧れ 最も尊敬し パリのオペラ座は Victor Louis による ボルドーのオペラ座Grand Theatre のコピーとまで言われている。

工業の発展に伴いボルドーは次第に リオン市に差をつけられていった。
当時フランスは大農業国でフランスのGDPの半分以上が農業だった。
多くの農産物がヨーロッパに輸出されていた。
時代の流れが変わり繊維、自動車産業で勢力を持つリオン市が浮上してきた。
フランスを代表するレストランはリオンのポール・ボキュース、トロワグロ等に変わって行った。 食は文化と言うが文化は経済の積み重ねなんだろう。

だがボルドーのステーキは美味しい。
サン・ジャン駅裏にある牛肉解体場は相変わらずフランスの半分以上を供給していて1人前を2kgで出すステーキ屋さんも少なくなかった。 オードブルからデザートまでのフルコースだとやはり数名で行かなければ残してしまう量だった。

昔のフランス人はよく食べていた。特に地方では。
だからフランス人は今の様にスリムでは無かった。特に年配の人達は。

そんなステーキ屋さんで父と昼食をとって父の弟子ロベールさん宅に向かう。



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当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





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愚息の独り言「フランスでの生活 第29話 パリを離れる」


愚息の独り言
「フランスでの生活 第29話 パリを離れる」

2016年4月1 日



愚息もいよいよパリを離れる事になった。
パリから南西南に向かって650キロ、ボルドーへ僕は下宿させられることになった。
パリを朝9時に出発、父の愛車Ami Six シトロエンの車だ。

アミ・シス6人の友という意味だが6人乗りというわけではない。5人でも窮屈な車だった。きっと602ccで3馬力と言う意味だろう。
父はよくパリーボルドー間を往復したが、僕は初めて。

当時電車よりも自動車の方が早かった。 道路網もしっかりしていて日本に比べ見易い標識のため、地図を片手に何処へでも行けた。 そんな高速道路で非力のアミ・シスはメーターでの最高速度120キロで、他車を追い抜こうとするものなら身体を前後に 揺さぶり勢いをつけなければ追い抜けなかった。 父はアクセルを踏みっぱなしだった。
そうすると120キロのメーターを振り切って130キロの速さで走る。

フランスと言う国は東にアルプス、南にピレネ山脈を除けば 殆どが平地。
景色も平坦で いくら飛ばしても景色に変化が無い。道もまっすぐに延々と続く。
その中を時速200キロぐらいで走る車にどんどん追い抜かれて行く。 父の隣に座っているため 余りある緊張感であったが、でなければ 寝てしまいそうなほど退屈だ。

途中パリから約270Kmのツール市(Tours)あたりで昼をとる。
ツール市、ブロワ市、アンジェ市はルアール川に面した古城が立ち並び、レオナルド・ダ・ビンチも晩年を過ごした風光明媚な観光地。 又フランスでもっとも綺麗なフランス語を話す土地柄で言葉のアクセントに品位が感じられる。 フランスをそしてワインを発展させた。レオノールアキテーヌ皇女がこよなく愛し晩年を過ごした場所。
だからワインも美味しい。

最近はモン・サンミッシェルがパリの次に人気だが。
以前はパリ、ベルサイユ宮殿そしてルアール川のお城めぐりが人気だった。

当時のフランス料理は美味しかった。 最近のヌーベル・キュイジーヌのようなこねくり回した料理ではなかった。 そして誰もが当然のように飲酒しても運転する時代だった。 ボルドーの赤ワインを飲み、道上も上機嫌だった。

やはり肉にはボルドーワインだ。 ルアール川の赤ワインはボルドーに比べ、軽すぎてコクが無いワインが多く、 ルアールは白ワインの方が有名だった。 中でもプイィ・フュメは美味しい。日本人イギリス人が大好きなシャブリなどに比べ軟らかく味わいが有る。 しかし塩味、脂身、コショウ味ときたら もうボルドーの赤ワインを飲まなくては食べられない。 父の飲みっぷりを尻目に、僕はいつかは飲んでやるぞ、と心に誓った。

勿論貧乏人のようにグラスワインなんてオーダーはしない。しっかり1本飲む。これはレストランに対する礼儀でもある。 フランスのキャフェなんかでは、出てきた一本のハウスワインを半分飲んだ場合 半分の値段を払う。
ハウスワインにハーフ・ボトルは存在しない。フランスの食生活は豪快だ。

美味しい料理を食べ、ふたたび自動車に乗った。
ハンドルを握った父は突然僕に向かって
「雄峰 お父さんの運転は悪くないだろう」
「特別上手いとは言わないが、下手ではないだろう」
「今まで無事故だぞ」。
僕はお世辞が言えない要領の悪いガキ。黙ったままだった。

その直後、赤信号で前の車が急停止したため父は慌てて急ブレーキをかけた。
ブレーキを3度強く踏んだ。 だが雨上がりの石畳は滑りやすく、むなしくも前の車に追突してしまった。
父は僕に 「お父さんは3度ブレーキを踏んだのを見ただろう」と二度繰り返して言った。 僕は静かにうなずいた。

その後アングレーム市(Angouleme)経由でボルドーまで380Km、
数時間の道のり。 二人とも無言だった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





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