古武士(もののふ)
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4月28日配信 「古武士(もののふ) 第50話 手紙」
4月21日配信 「古武士(もののふ) 第49話 お正月」
4月14日配信 「古武士(もののふ) 第48話 朝市」
4月7日配信 「古武士(もののふ) 第47話 アルカッションの高校」
3月31日配信 「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」
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| 道上の独り言【 道上 雄峰 】幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン
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4月28日配信 「古武士(もののふ) 第50話 手紙」
4月21日配信 「古武士(もののふ) 第49話 お正月」
4月14日配信 「古武士(もののふ) 第48話 朝市」
4月7日配信 「古武士(もののふ) 第47話 アルカッションの高校」
3月31日配信 「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」
「古武士(もののふ) 第50話 手紙」
「古武士(もののふ) 第50話 手紙」
「古武士」は当初30話で終わる予定だったのですが
100話まで書けと多くの方に叱咤され、ご迷惑をおかけします。
道上は 2,000~4,000通の年賀状を手書きで毎年送っていた。
几帳面な性格から来るのだろうか、銀のパーカー万年筆で1枚1枚丁寧に書かれた字は、やはり昔の人は達筆だったと思わせる。 記憶力と几帳面さが人格には不可欠の様にみえた。
道上はことあるごとに愚息に「手紙を書け、手紙を書け」としつこく言った。
しかし愚息との意識のギャップは100年以上もあった。
愚息は既にパソコンの時代を夢見ていた。
仕方なく道上に手紙を書こうものなら赤字で誤字脱字の修正が送り返されてくる。
その度に愚息に緊張が走った。
小枝は書道の先生をしたほどであったが決して魂のこもった字を書いていたわけでは無い。 ただ しばしば日本向けに送る道上の手紙を代筆をしていた。
小枝はお正月ともなるとルーブル博物館、大使館、ニナリッチのウインドウ等々と大忙しでお花を飾っていた。
ヨーロッパの人々はクリスマス・カード、年賀状を書く。
そして日本の暑中見舞いの代わりにバカンス先から思い出カードを送っていた。
道上にとって書く事は仕事の一環でもあった。
弟子たちはそれらの手紙を宝物のように大事にしていた。
フランス人は頭でっかちで やたらと見て覚えたがる頭先行型の習性があるが、 道上はそれを良しとせず、ビデオ撮りを一切させずに身体で覚えるよう指導した。
一方取られた写真には求めに応じてサイン、また一言添えた。
愚息やその他の子供たちに渡す手帳には必ず一言書かれていた。
「少年よ大志を抱け」あるいはゲーテの一節から「勇気はもっとも重要な要素だ」
毎日日記を事細かくつける事はもちろん、日々の手帳にはびっしりと細かく色々な事が書かれていた。 それらの事始めがお正月である。
道上の前には年の膨大なスケジュールが待ち構えていた。
それを事細かく分析し処理していた。
次女志摩子、愚息雄峰にはあまりにも真面目すぎる父親だった。
次回は「パリでの食事」
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第50話 手紙」
「古武士」は当初30話で終わる予定だったのですが100話まで書けと多くの方に叱咤され、ご迷惑をおかけします。
道上は 600~800通の年賀状を手書きで毎年送っていた。
几帳面な性格から来るのだろうか、銀のパーカー万年筆で1枚1枚丁寧に書かれた字は、やはり昔の人は達筆だったと思わせる。
記憶力と几帳面さが人格には不可欠の様にみえた。
道上はことあるごとに愚息に「手紙を書け、手紙を書け」としつこく言った。
しかし愚息との意識のギャップは100年以上もあった。
愚息は既にパソコンの時代を夢見ていた。
仕方なく道上に手紙を書こうものなら赤字で誤字脱字の修正が送り返されてくる。
その度に愚息に緊張が走った。
小枝は書道の先生をしたほどであったが決して魂のこもった字を書いていたわけでは無い。
ただ しばしば日本向けに送る道上の手紙を代筆をしていた。
小枝はお正月ともなるとルーブル博物館、大使館、ニナリッチのウインドウ等々と大忙しでお花を飾っていた。
ヨーロッパの人々はクリスマス・カード、年賀状を書く。
そして日本の暑中見舞いの代わりにバカンス先から思い出カードを送っていた。
道上にとって書く事は仕事の一環でもあった。
弟子たちはそれらの手紙を宝物のように大事にしていた。
フランス人は頭でっかちで やたらと見て覚えたがる頭先行型の習性があるが、
道上はそれを良しとせず、ビデオ撮りを一切させずに身体で覚えるよう指導した。
一方取られた写真には求めに応じてサイン、また一言添えた。
愚息やその他の子供たちに渡す手帳には必ず一言書かれていた。
「少年よ大志を抱け」あるいはゲーテの一節から「勇気はもっとも重要な要素だ」
毎日日記を事細かくつける事はもちろん、日々の手帳にはびっしりと細かく色々な事が書かれていた。
それらの事始めがお正月である。
道上の前には年の膨大なスケジュールが待ち構えていた。
それを事細かく分析し処理していた。
次女志摩子、愚息雄峰にはあまりにも真面目すぎる父親だった。
次回は「パリでの食事」
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第49話 お正月」
「古武士(もののふ) 第49話 お正月」
道上の家族はお正月となるとパリの家に集まっていた。
長女はアメリカ、道上はボルドーで弟子達と新年祝賀会を開くのが通例であった。
ボルドーには当時日本人がやっていた日本料理屋が1件あった。
そこで弟子たちと雑煮を食べたり、また余興として餅つきなどもやっていた。
当然道場では寒稽古の真っ最中。
ボルドーで柔道をやる者にとって柔道とは人生そのものであった。
政府からの援助などなく、実費で賄っていくのであるから思いは強い。
この時のために各国から柔道家が集まる。
夏の講習会とともに柔道はもちろんのことだが
道上に会いにくる意味合いが大きかった。
道上は人が好きだった。弟子は友であった。
遠方より友来たり。そこには家族が介入する余地はなかった。
同じ空間を共にする事こそが何よりの喜びだった。
しかもそこには言葉はいらなかった。
一方パリでは緊張から解放された道上小枝、清水志摩子(旧姓 道上志摩子)、清水猛、道上雄峰(愚息)達が、だらしのない解放されたひと時を過ごしていた。
愚息にとってこの時ほど幸せを感じる事はなかった。
やはり当時外国での生活は苦しかった。
何か事が起こると日本の様にスムーズに解決する事はなかった。
これが外国だった。
道上小枝は相変わらず生け花をヨーロッパに広めなければと頑張っていた。
志摩子は外国でいかに子育てをするか試行錯誤の毎日。
清水猛は尊敬する道上から解放され一休み。この時は酒を飲まなかった。
愚息はいつも外国を意識して自分がのびのびと生きていけない中、パリは別の空間だった。 国家の違いを意識する事も無く、まるで天国のようだった。
お正月とは神が与えてくれる命の洗濯の場であった。
次回は「手紙」です。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第49話 お正月」
道上の家族はお正月となるとパリの家に集まっていた。
長女はアメリカ、道上はボルドーで弟子達と新年祝賀会を開くのが通例であった。
ボルドーには当時日本人がやっていた日本料理屋が1件あった。
そこで弟子たちと雑煮を食べたり、また余興として餅つきなどもやっていた。
当然道場では寒稽古の真っ最中。
ボルドーで柔道をやる者にとって柔道とは人生そのものであった。
政府からの援助などなく、実費で賄っていくのであるから思いは強い。
この時のために各国から柔道家が集まる。
夏の講習会とともに柔道はもちろんのことだが道上に会いにくる意味合いが大きかった。
道上は人が好きだった。弟子は友であった。
遠方より友来たり。そこには家族が介入する余地はなかった。
同じ空間を共にする事こそが何よりの喜びだった。
しかもそこには言葉はいらなかった。
一方パリでは緊張から解放された道上小枝、清水志摩子(旧姓 道上志摩子)、清水猛、道上雄峰(愚息)達が、だらしのない解放されたひと時を過ごしていた。
愚息にとってこの時ほど幸せを感じる事はなかった。
やはり当時外国での生活は苦しかった。
何か事が起こると日本の様にスムーズに解決する事はなかった。
これが外国だった。
道上小枝は相変わらず生け花をヨーロッパに広めなければと頑張っていた。
志摩子は外国でいかに子育てをするか試行錯誤の毎日。
清水猛は尊敬する道上から解放され一休み。この時は酒を飲まなかった。
愚息はいつも外国を意識して自分がのびのびと生きていけない中、パリは別の空間だった。
国家の違いを意識する事も無く、まるで天国のようだった。
お正月とは神が与えてくれる命の洗濯の場であった。
次回は「手紙」です。
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「古武士(もののふ) 第48話 朝市」
「古武士(もののふ) 第48話 朝市」
ボルドーでの道上は毎日自炊であった。
週に3回広場に朝市が立つ。何十年も通い詰めた「なじみ」の店でいつも買っていた。
“Place Des Martyrs De La Resistance”の出来事だった。
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![]() |
なじみのおばさんからは
「先生お元気ですか、いつもありがとうございます。この前新聞で先生を拝見しましたよ」 「先週は家族と一緒に先生をテレビで拝見しましたよ」。
ボルドーだと“Place Des Martyrs De La Resistance ”に市場が立つ。
当時は週3回。
買いそびれると八百屋、魚屋は別としてBoucherie で牛肉類、 Charcuterie は豚肉をはじめ牛肉、馬肉以外のパテ、リエットとなんでも売っていた。
Chevaline は馬肉。フランスで強い人気を保持していた。
馬肉は熱が出ると肉で頭を冷やしその肉を食べると身体が温まる。
しかもコレステロールの少ない赤身肉だ。
そしてBoulangerieの 熱々で美味しいパンは
朝の5時過ぎからお店が開いていた。
しかし道上はパン以外殆ど朝市で買っていた。
肉はいつもの肉屋で2~3キロを週2~3回。
しかし50歳代後半になると一回買ったもので1週間持たせたそうだ。
と言うよりも2~3キロを週3回も食べなくなっていた。
そのことをアシスタントの清水猛に漏らす。
皆は道上を怪物だと思い続けていた。
野菜はじゃがいもにニンジンを圧力鍋で蒸す。身体が肉を必要とするが、
肉は毒素が多い。 その毒素を和らげてくれるのがじゃがいもだ。
じゃがいもが南米から伝わってくるまでヨーロッパでは14世紀15世紀と戦争をするたびに数十万人の民が餓死した。
南米から伝わって来たじゃがいも、とうもろこし、トマトはいずれも肥沃ではない土地でも作れた。 特に西南の地アキテーヌ(ボルドー地方)は湿地帯でピレネ山脈に向かって約400キロにわたりとうもろこしを植え、松林を作った。
しかもじゃがいもは肉には欠かせない。
日本ではよく胃が痛い時にキャベツと言うがじゃがいもの皮をむき、生でかじってみて下さい。 十二指腸、胃潰瘍 驚くほど痛みが止まります。是非一度試してみて下さい。 ヨーロッパではじゃがいもは欠かせない存在となっています。
消化を助ける必需品であるじゃがいもを道上は殆ど蒸した状態で食べていた。
自宅でじゃがいものフライを食べている姿は見たことがない。
牛肉は赤身肉を(saignant血の滴る)ミデイアム・レアで見事なほど綺麗に脂を取り除き肉の部分だけを食べていた。
身体が欲求していたのだろうが、不必要なものは食べなかった。
そしてラディッシュを塩で、レタスをレモンとオリーブオイルで
その後だしを取って作ったオジヤを食べる。
その後チーズからフルーツにコーヒー。デザートはあまり食べなかった。
その食卓に欠かせなかったのがシャトー・ラ・ジョンカード(ボルドー・赤ワイン)。
白、シャンパーニュを飲んでる姿は見たことがない。
しかも流し込むのではなく、味わってゆっくりと飲んでいた。
まるで食する事は仕事の一環のようでもあった。
時にはマナーについても語った。
フランス人は料理を流し込む。日本人の様に喰らい込むのではなく、
音を立てないで食するのだと。 そのせいかフランス人はあまり歯が減らない。
よく噛まないのだ。フランス人の消化能力は驚きに値する。
道上の歯は長さが三分の二に成っていた。顎は異常なほど発達していた。
よく噛むからだ。 愚息は噛み過ぎると味が無くなるのではと懸念していた。
ナプキンで洋服をカバーするのは子供のやることだ。
フランス人は左ひざに乗せるだけ。 飲んだ後拭くのではなく 飲む前に拭くのだ。
グラスに食べたものの匂いが残らないように。
本当は下品だが口に未だ食べ物が残っているうちにワインを飲んだ方が美味しい。 口に残っている食べ物の余韻が残っているうちにワインを飲むとその味わいが料理一つ一つと混ざりそれが美味しい、 と言いつつ、決して愚息にはワインを飲ませてくれなかった。 その反動で愚息は隠れてよく飲んでいた。
ささっと食事をかっ込んでごろ寝をするのが常である愚息にとって、
道上との食事は一番の苦痛だった。 道上との食は儀式だった。
もし道上に好き嫌いを言おうものなら食事は抜きになってしまう。
食べ物をこぼすと拾って食べる、でなければ食事は抜き。
ご飯粒をこぼせば目がつぶれると言われた時代の人間だった。
肘は身体から離れず、腰掛にもたれず、まっすぐの姿勢での食べ方は
フランス人もエレガントだと言って絶賛していた。様式美は食事にも表われていた。
料理作り、食事その一挙手一投足は無駄がなく、皿に盛られた料理は何回口に運んで食べるのかが分かるほどだった。 洗い物も素早く洗えるような計算された使い方であり、当然のことながら流しに皿、鍋が積み上げ置かれている事は一度も見たことがない。
特別なお客様がお見えにならない限り、あまりこねくり回した料理ではなく、
非常にシンプルで消化のしやすい物を作って食べていた。
そのかわり食材にはこだわっていた。
肉は解体して3週間たったもの、野菜は朝採ったものか夜とったものかまで気にしていた。 偶には直接口に入れ味見していた。朝物と夜物では味が違った。
だから味付けはシンプルだった。美味しい塩に美味しいコショウで十分だった。
当時は全てがオーガニックだった。
「どうだお父さんの料理は美味しいだろう」
世辞の言えない愚息もこの時ばかりは、
「はい、本当に美味しいです」
毎回毎回、料理を作っているところと後片づけを立って横で見ていないといけないのが無ければ、と心の中で呟いた。
料理は美味しかった。だがいつも緊張の連続だった。
あまりにも無駄のない動きをするものだから・・・。
いつの世も偉大な親を持つと子供は苦労する。
次回は「お正月」です。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第48話 朝市」
ボルドーでの道上は毎日自炊であった。
週に3回広場に朝市が立つ。何十年も通い詰めた「なじみ」の店でいつも買っていた。
“Place Des Martyrs De La Resistance”の出来事だった。


なじみのおばさんからは 「先生お元気ですか、いつもありがとうございます。この前新聞で先生を拝見しましたよ」
「先週は家族と一緒に先生をテレビで拝見しましたよ」。
ボルドーだと“Place Des Martyrs De La Resistance ”に市場が立つ。
当時は週3回。
買いそびれると八百屋、魚屋は別としてBoucherie で牛肉類、 Charcuterie は豚肉をはじめ牛肉、馬肉以外のパテ、リエットとなんでも売っていた。

Chevaline は馬肉。
フランスで強い人気を保持していた。
馬肉は熱が出ると肉で頭を冷やしその肉を食べると身体が温まる。
しかもコレステロールの少ない赤身肉だ。
そしてBoulangerieの 熱々で美味しいパンは 朝の5時過ぎからお店が開いていた。
しかし道上はパン以外殆ど朝市で買っていた。
肉はいつもの肉屋で2~3キロを週2~3回。
しかし50歳代後半になると一回買ったもので1週間持たせたそうだ。
と言うよりも2~3キロを週3回も食べなくなっていた。
そのことをアシスタントの清水猛に漏らす。
皆は道上を怪物だと思い続けていた。
野菜はじゃがいもにニンジンを圧力鍋で蒸す。身体が肉を必要とするが、肉は毒素が多い。
その毒素を和らげてくれるのがじゃがいもだ。
じゃがいもが南米から伝わってくるまでヨーロッパでは14世紀15世紀と戦争をするたびに数十万人の民が餓死した。
南米から伝わって来たじゃがいも、とうもろこし、トマトはいずれも肥沃ではない土地でも作れた。
特に西南の地アキテーヌ(ボルドー地方)は湿地帯でピレネ山脈に向かって約400キロにわたりとうもろこしを植え、松林を作った。
しかもじゃがいもは肉には欠かせない。
日本ではよく胃が痛い時にキャベツと言うがじゃがいもの皮をむき、生でかじってみて下さい。
十二指腸、胃潰瘍 驚くほど痛みが止まります。是非一度試してみて下さい。
ヨーロッパではじゃがいもは欠かせない存在となっています。
消化を助ける必需品であるじゃがいもを道上は殆ど蒸した状態で食べていた。
自宅でじゃがいものフライを食べている姿は見たことがない。
牛肉は赤身肉を(saignant血の滴る)ミデイアム・レアで見事なほど綺麗に脂を取り除き肉の部分だけを食べていた。
身体が欲求していたのだろうが、不必要なものは食べなかった。
そしてラディッシュを塩で、レタスをレモンとオリーブオイルでその後だしを取って作ったオジヤを食べる。
その後チーズからフルーツにコーヒー。デザートはあまり食べなかった。
その食卓に欠かせなかったのがシャトー・ラ・ジョンカード(ボルドー・赤ワイン)。
白、シャンパーニュを飲んでる姿は見たことがない。
しかも流し込むのではなく、味わってゆっくりと飲んでいた。
まるで食する事は仕事の一環のようでもあった。
時にはマナーについても語った。
フランス人は料理を流し込む。日本人の様に喰らい込むのではなく、 音を立てないで食するのだと。
そのせいかフランス人はあまり歯が減らない。
よく噛まないのだ。フランス人の消化能力は驚きに値する。
道上の歯は長さが三分の二に成っていた。顎は異常なほど発達していた。
よく噛むからだ。
愚息は噛み過ぎると味が無くなるのではと懸念していた。
ナプキンで洋服をカバーするのは子供のやることだ。
フランス人は左ひざに乗せるだけ。
飲んだ後拭くのではなく 飲む前に拭くのだ。
グラスに食べたものの匂いが残らないように。
本当は下品だが口に未だ食べ物が残っているうちにワインを飲んだ方が美味しい。
口に残っている食べ物の余韻が残っているうちにワインを飲むとその味わいが料理一つ一つと混ざりそれが美味しい、
と言いつつ、決して愚息にはワインを飲ませてくれなかった。
その反動で愚息は隠れてよく飲んでいた。
ささっと食事をかっ込んでごろ寝をするのが常である愚息にとって、 道上との食事は一番の苦痛だった。
道上との食は儀式だった。
もし道上に好き嫌いを言おうものなら食事は抜きになってしまう。
食べ物をこぼすと拾って食べる、でなければ食事は抜き。
ご飯粒をこぼせば目がつぶれると言われた時代の人間だった。
肘は身体から離れず、腰掛にもたれず、まっすぐの姿勢での食べ方は フランス人もエレガントだと言って絶賛していた。様式美は食事にも表われていた。
料理作り、食事その一挙手一投足は無駄がなく、皿に盛られた料理は何回口に運んで食べるのかが分かるほどだった。
洗い物も素早く洗えるような計算された使い方であり、当然のことながら流しに皿、鍋が積み上げ置かれている事は一度も見たことがない。
特別なお客様がお見えにならない限り、あまりこねくり回した料理ではなく、 非常にシンプルで消化のしやすい物を作って食べていた。
そのかわり食材にはこだわっていた。
肉は解体して3週間たったもの、野菜は朝採ったものか夜とったものかまで気にしていた。
偶には直接口に入れ味見していた。朝物と夜物では味が違った。
だから味付けはシンプルだった。美味しい塩に美味しいコショウで十分だった。
当時は全てがオーガニックだった。
「どうだお父さんの料理は美味しいだろう」
世辞の言えない愚息もこの時ばかりは、
「はい、本当に美味しいです」
毎回毎回、料理を作っているところと後片づけを立って横で見ていないといけないのが無ければ、と心の中で呟いた。
料理は美味しかった。だがいつも緊張の連続だった。
あまりにも無駄のない動きをするものだから・・・。
いつの世も偉大な親を持つと子供は苦労する。
次回は「お正月」です。
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「古武士(もののふ) 第47話 アルカションの高校」
「古武士(もののふ) 第47話 アルカションの高校 」
1966年当時からフランスの殆どの高等学校には柔道部があった。
柔道は既にフランス第2位の盛んなスポーツになりつつあった。
現在日本の柔道人口は12万人、フランスは保険に入って道場に通ってる者が65万人、そうでない者を合わせると100万人を超える。
フランスではテレビ視聴率で言うとサッカーだが、
会員数で言うとテニス、その次が柔道だった。
愚息は道上のような我慢強さがなく、相変わらずしょっちゅう喧嘩をしていた。
日本人が全くいない南西高級避暑地Arcachon(アルカッション)の高校で毎日のように喧嘩をしていた。
彼のいたArcachonは ヨーロッパ1、高い砂山が(100m超)海に面していて、その湾には牡蠣が養殖されていた。 そこで育った牡蠣はフランスで消費される83%にのぼっていた。 水温が年間通しておよそ20度のため美味しい牡蠣が育ちやすかった。
愚息の高校では給食にオードブル2種類。ソーセージなどの肉類に野菜、魚。
メインは牛肉の後に魚か鶏肉の2種類。その後エンダイブのサラダ、生野菜とラタテゥイユなどの煮た野菜、それにポテトかバターライス。
デザートは果物と甘い物(ケーキなど)。
その後がキャ フエ(コーヒー)と豪華だった。
それに、何と日本では考えられないが8人掛けの各テーブルに白ワインと赤ワインが1本ずつ付いていた。 まるで高級レストランLysee Grand Air D’Arcachon ( 空気の澄んだアルカッション中高校)。
いわゆる喘(ぜん)息もちの体の弱い生徒の為の学校だったが、
実際にはコネで入った生徒ばかりで体の不自由なものは皆無。
そうだ、フランスはコネ社会だった。
愚息は道上が不当な税金を徴収されていると思い、たくさん食べて取り返そうと。相変わらず馬鹿だった。 必ず端に座り料理は2~3人前を取ってしまうので、いつも喧嘩になっていた。 口癖は「僕のお父さんは沢山税金を払わされているから」だった。
注意する舎監(寄宿舎監督人)や先生と暴力沙汰になる事もしばしば。
しかし愚息に「おじさんはインドシナ戦争に行った事があるが、アジア人は御飯が好きだ」と言って 30センチのステンレス皿に山盛りバターライスのお代わりを持って来てくれる良い 給仕のおじさんもいた。 愚息は敵地で厚い看護を受けた気持ちだった。
いくら食べてもお腹がいっぱいにならない年頃だった。
ボルドーから54キロも離れたArcachonでも フランス人生徒から「俺は道上に空手を習っている」と言うはったりをよく聞いた。 道上は確かに空手八段であったが、本人が教えることはなく、合気道とともに空手は梨元先生はじめ他の講師に任せていた。
道上という名は鈴木や田中の様に日本人に多い名前だと思われていたのだろう。 愚息は決して道上の子だとは言わなかった。馬鹿を自分で自覚していた。
道上の名をあえて汚したくはなかった。
だが柔道部の道場に行った日に柔道講師だけにはばれてしまった。
柔道講師の「先生(道上)の(練習)許可を得てるのか」の問いに愚息は何も言わず道場を後にした。 全生徒を投げ倒した後のことだった。
当時柔道をやっているのは格好良かった。しかも尊敬された。
茶帯(1級)と言うだけで喧嘩を吹っかける者はいなかった。
しかし愚息はいつまでも白帯だった。本人も道上も何の疑問も感じなかった。
後、5段を出すと言われたが断った。道上がくれるんだったら貰うが、でなければ裏切り行為だ。
愚息が以前下宿していたロベール家主人のジョージ・ロベールさんは長男アランと次男ブルノを週に3回道場に迎えに来ていた。 いつも道場のへりにある取っ手にすがり食い入るように息子たちの練習を見ていた。
彼らの練習後33キロ自動車を運転してDouence村 まで帰宅していた。
彼らもあまり体が丈夫でないため母親が柔道に目を付け14歳から柔道を習わせた。 アラン・ブルノ両兄弟の「形(かた)」はおそらくこの数十年で最も美しい物であったと愚息は感じていた。 弟のブルノは後に全仏オープントーナメントで無差別級チャンピオンになった。 道上没後、道上道場のコーチとして若者の育成を2019年まで行っていた。
当時個人団体とジュニア(18歳以下)シニア(19歳以上)全てボルドー道上道場の独り勝ちであった。 それは柔道だけではなかった。
当時のシャバン・デルマス・ボルドー市長(首相2回、衆議院議長3回)は大変なスポーツ好きで ボルドーはサッカーもラグビーも強かった。
ボルドーはそういった風土が あった。
市長は道上が好きだった。 道上の夏期講習には何度も足を運んだ。
年が近いせいもあって気が合った。
シラック元大統領が裏切らなければシャバン市長は間違いなく大統領になっていた。
シャバン市長がよく「道上先生、何か私に出来る事があったら何なりと仰って下さい」と言っていたが、 道上は彼に何も頼まなかった。
ただ シュバリエ・ド・レジオン・ドヌールとボルドー名誉市民の勲章は甘んじて受けた。
次回は「朝市」
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「古武士(もののふ) 第47話 アルカションの高校 」
1966年当時からフランスの殆どの高等学校には柔道部があった。
柔道は既にフランス第2位の盛んなスポーツになりつつあった。
現在日本の柔道人口は12万人、フランスは保険に入って道場に通ってる者が65万人そうでない者を合わせると100万人を超える。
フランスではテレビ視聴率で言うとサッカーだが、 会員数で言うとテニスその次が柔道だった。
愚息は道上のような我慢強さがなく、相変わらずしょっちゅう喧嘩をしていた。
日本人が全くいない南西高級避暑地Arcachon(アルカッション)の高校で毎日のように喧嘩をしていた。
彼のいたArcachonは ヨーロッパ1高い砂山が(100m超)海に面していて、その湾には牡蠣が養殖されていた。
そこで育った牡蠣はフランスで消費される83%にのぼっていた。 水温が年間通しておよそ20度のため美味しい牡蠣が育ちやすかった。
愚息の高校では給食にオードブル2種類。ソーセージなどの肉類に野菜、魚。
メインは牛肉の後に魚か鶏肉の2種類。その後エンダイブのサラダ、生野菜とラタテゥイユなどの煮た野菜、それにポテトかバターライス。
デザートは果物と甘い物(ケーキなど)。
その後がキャ フエ(コーヒー)と豪華だった。
それに、何と日本では考えられないが8人掛けの各テーブルに白ワインと赤ワインが1本ずつ付いていた。
まるで高級レストランLysee Grand Air D’Arcachon ( 空気の澄んだアルカッション中高校)。
いわゆる喘(ぜん)息もちの体の弱い生徒の為の学校だったが、 実際にはコネで入った生徒ばかりで体の不自由なものは皆無。
そうだ、フランスはコネ社会だった。
愚息は道上が不当な税金を徴収されていると思い、たくさん食べて取り返そうと。相変わらず馬鹿だった。
必ず端に座り料理は2~3人前を取ってしまうので、いつも喧嘩になっていた。
口癖は「僕のお父さんは沢山税金を払わされているから」だった。
注意する舎監(寄宿舎監督人)や先生と暴力沙汰になる事もしばしば。
しかし愚息に「おじさんはインドシナ戦争に行った事があるが、アジア人は御飯が好きだ」と言って 30センチのステンレス皿に山盛りバターライスのお代わりを持って来てくれる良い 給仕のおじさんもいた。
愚息は敵地で厚い看護を受けた気持ちだった。
いくら食べてもお腹がいっぱいにならない年頃だった。
ボルドーから54キロも離れたArcachonでも フランス人生徒から「俺は道上に空手を習っている」と言うはったりをよく聞いた。
道上は確かに空手八段であったが、本人が教えることはなく、合気道とともに空手は梨元先生はじめ他の講師に任せていた。
道上という名は鈴木や田中の様に日本人に多い名前だと思われていたのだろう。
愚息は決して道上の子だとは言わなかった。馬鹿を自分で自覚していた。
道上の名をあえて汚したくはなかった。
だが柔道部の道場に行った日に柔道講師だけにはばれてしまった。
柔道講師の「先生(道上)の(練習)許可を得てるのか」の問いに愚息は何も言わず道場を後にした。
全生徒を投げ倒した後のことだった。
当時柔道をやっているのは格好良かった。しかも尊敬された。
茶帯(1級)と言うだけで喧嘩を吹っかける者はいなかった。
しかし愚息はいつまでも白帯だった。本人も道上も何の疑問も感じなかった。
後、5段を出すと言われたが断った。道上がくれるんだったら貰うが、でなければ裏切り行為だ。
愚息が以前下宿していたロベール家主人のジョージ・ロベールさんは長男アランと次男ブルノを週に3回道場に迎えに来ていた。
いつも道場のへりにある取っ手にすがり食い入るように息子たちの練習を見ていた。
彼らの練習後33キロ自動車を運転してDouence村 まで 帰宅していた。
彼らもあまり体が丈夫でないため母親が柔道に目を付け14歳から柔道を習わせた。
アラン・ブルノ両兄弟の「形(かた)」はおそらくこの数十年で最も美しい物であったと愚息は感じていた。
弟のブルノは後に全仏オープントーナメントで無差別級チャンピオンになった。
道上没後、道上道場のコーチとして若者の育成を2019年まで行っていた。
当時個人団体とジュニア(18歳以下)シニア(19歳以上)全てボルドー道上道場の独り勝ちであった。 それは柔道だけではなかった。
当時のシャバン・デルマス・ボルドー市長(首相2回、衆議院議長3回)は大変なスポーツ好きで ボルドーはサッカーもラグビーも強かった。
ボルドーはそういった風土が あった。
市長は道上が好きだった。 道上の夏期講習には何度も足を運んだ。
年が近いせいもあって気が合った。
シラック元大統領が裏切らなければシャバン市長は間違いなく大統領になっていた。
シャバン市長がよく「道上先生、何か私に出来る事があったら何なりと仰って下さい」と言っていたが、 道上は彼に何も頼まなかった。
ただ シュバリエ・ド・レジオン・ドヌールとボルドー名誉市民の勲章は甘んじて受けた。


次回は「朝市」

幼年時代フランス・ボルドーで育つ。当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。
「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」
「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」
道上伯のアシスタント清水猛は自動車の運転が上手かった。
道上先生を乗せている車だから細心の注意。
いつ発進したかいつ止まったか分からないほどだった。
彼はパリに渡仏するなり当時フランスで一番高い車を買いに行った。
シトロエンのデエス21が売り切れだったのでイデを買った。あいにく黒が無く紺のイデを現金で買った。
当時のことで円をあまり持ち出せない時代だったがかなり隠し持ってきたようだった。 まずドルに換えたお金をフランに換えた。 手数料で銀行に相当持っていかれてしまったが イデは最高の車だった。
シトロエンの車はオイル・サスペンションで乗り心地は世界一だった。
乗ると車体が大きく下がった。
高速を飛ばすと道路に吸いつくように車体が安定した。
その車で一人の時は時速190キロで飛ばしていた。
メーターの数字は180キロまでしかないので針が右の端にパーン、パーンと大きく振れていた。
当時フランスは世界でもハイテクのリーダー的存在だった。
のちにTGV(最速電車)、コンコルド(最速飛行機)、ヘリコプターは世界の市場を圧倒していた。
そんな時代に道上はアミ・シス(6人の友)というシトロエンに乗っていた。6人と言うものの5人がぎりぎりの小さな車だった。 最高速度130キロで、他車を追い抜こうとするものなら身体を前後に揺さぶり勢いをつけなければ追い抜けなかった。
道上はこの車でボルドー・パリ間(650km)をよく通った。
ある夏の終わりの日、愚息を乗せパリからボルドーへ向かった。
朝9時出発。途中パリから約270Kmのツール市(Tours)あたりで昼をとる。
ツール市、ブロワ市、アンジェ市はルアール川に面した古城が立ち並び、レオナルド・ダビンチも晩年を過ごした風光明媚な観光地。 又フランスでもっとも綺麗なフランス語を話す土地柄で言葉のアクセントに品位が感じられる。
当時のフランス料理は美味しかった。
最近のヌーベル・キュイジーヌのようなこねくり回した料理ではなかった。
そして誰もが当然のように飲酒しても運転する時代だった。
ボルドーの赤ワインを飲み、道上も上機嫌だった。
やはり肉にはボルドーワインだ。
ルアール川の赤ワインは軽すぎてコクが無いワインが多く、
ルアールは白ワインの方が有名だった。
塩味、脂身、コショウ味ときたら もうボルドーワインを飲まなくては食べられない。
愚息はその飲みっぷりを尻目に、いつかは飲んでやるぞ、と心に誓った。
勿論貧乏人のようにグラスワインなんてオーダーはしない。しっかり1本飲む。
これはレストランに対する礼儀でもある。
美味しい料理を食べ、ふたたび自動車に乗った。
ハンドルを握った道上は突然愚息に向かって
「雄峰 お父さんの運転は悪くないだろう」「特別上手いとは言わないが、下手ではないだろう」「今まで無事故だぞ」。
愚息は御世辞が言えない要領の悪いガキ。黙ったままだった。
その直後、赤信号で前の車が急停止したため道上は慌てて急ブレーキをかけた。
ブレーキを3度強く踏んだ。 だが雨上がりの石畳は滑りやすく、
むなしくも前の車に追突してしまった。
道上は愚息に 「お父さんは3度ブレーキを踏んだのを見ただろう」と二度繰り返して言った。 愚息は静かにうなずいた。
その後アングレーム市(Angouleme)経由でボルドーまで380Km、数時間の道のり。 二人とも無言だった。
次回は「アルカッションの高校」
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」
道上伯のアシスタント清水猛は自動車の運転が上手かった。
道上先生を乗せている車だから細心の注意。
いつ発進したかいつ止まったか分からないほどだった。
彼はパリに渡仏するなり当時フランスで一番高い車を買いに行った。
シトロエンのデエス21が売り切れだったのでイデを買った。あいにく黒が無く紺のイデを現金で買った。

当時のことで円をあまり持ち出せない時代だったがかなり隠し持ってきたようだった。
まずドルに換えたお金をフランに換えた。
手数料で銀行に相当持っていかれてしまったが イデは最高の車だった。
シトロエンの車はオイル・サスペンションで乗り心地は世界一だった。
乗ると車体が大きく下がった。
高速を飛ばすと道路に吸いつくように車体が安定した。
その車で一人の時は時速190キロで飛ばしていた。
メーターの数字は180キロまでしかないので針が右の端にパーン、パーンと大きく振れていた。
当時フランスは世界でもハイテクのリーダー的存在だった。
のちにTGV(最速電車)、コンコルド(最速飛行機)、ヘリコプターは世界の市場を圧倒していた。
そんな時代に道上はアミ・シス(6人の友)というシトロエンに乗っていた。
6人と言うものの5人がぎりぎりの小さな車だった。

最高速度130キロで、他車を追い抜こうとするものなら身体を前後に揺さぶり勢いをつけなければ追い抜けなかった。
道上はこの車でボルドー・パリ間(650km)をよく通った。
ある夏の終わりの日、愚息を乗せパリからボルドーへ向かった。
朝9時出発。途中パリから約270Kmのツール市(Tours)あたりで昼をとる。
ツール市、ブロワ市、アンジェ市はルアール川に面した古城が立ち並び、レオナルド・ダビンチも晩年を過ごした風光明媚な観光地。
又フランスでもっとも綺麗なフランス語を話す土地柄で言葉のアクセントに品位が感じられる。
当時のフランス料理は美味しかった。
最近のヌーベル・キュイジーヌのようなこねくり回した料理ではなかった。
そして誰もが当然のように飲酒しても運転する時代だった。
ボルドーの赤ワインを飲み、道上も上機嫌だった。
やはり肉にはボルドーワインだ。
ルアール川の赤ワインは軽すぎてコクが無いワインが多く、 ルアールは白ワインの方が有名だった。
塩味、脂身、コショウ味ときたら もうボルドーワインを飲まなくては食べられない。
愚息はその飲みっぷりを尻目に、いつかは飲んでやるぞ、と心に誓った。
勿論貧乏人のようにグラスワインなんてオーダーはしない。しっかり1本飲む。
これはレストランに対する礼儀でもある。
美味しい料理を食べ、ふたたび自動車に乗った。
ハンドルを握った道上は突然愚息に向かって
「雄峰 お父さんの運転は悪くないだろう」「特別上手いとは言わないが、下手ではないだろう」「今まで無事故だぞ」。
愚息は御世辞が言えない要領の悪いガキ。黙ったままだった。
その直後、赤信号で前の車が急停止したため道上は慌てて急ブレーキをかけた。
ブレーキを3度強く踏んだ。
だが雨上がりの石畳は滑りやすく、むなしくも前の車に追突してしまった。
道上は愚息に「お父さんは3度ブレーキを踏んだのを見ただろう」と二度繰り返して言った。
愚息は静かにうなずいた。
その後アングレーム市(Angouleme)経由でボルドーまで380Km、数時間の道のり。
二人とも無言だった。
次回は「アルカッションの高校」

幼年時代フランス・ボルドーで育つ。当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。
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