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古武士(もののふ) バックナンバー




バックナンバー(最新5話)

6月1日配信 「古武士(もののふ) 番外編」

5月25日配信 「古武士(もののふ) あとがき」

5月18日配信 「古武士(もののふ) 第81話 フランスでの葬儀

5月11日配信 「古武士(もののふ) 第80話 死」

5月4日配信 「古武士(もののふ) 第79話 place des quinconces」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



古武士(もののふ) 番外編



「古武士(もののふ) 番外編 」


2015年7月4日 京都の賢者の話。

ある女性が肺に癌が見つかったため、医者から競技をやめて手術をするよう告げられた。 その女性はある競技で既に日本チャンピオンであった。

彼女は米軍基地で産み落とされた。今で言うハーフだが昔はあいのこと呼ばれよくいじめにあった。 自分の様な思いをさせたくなく、子供を持つ人生は送らないと決心して生きてきた。 そしてある競技に子供のころから没頭し、日本チャンピオンの座に就いた。しかし彼女は満足しなかった。
どうしても世界選手権に出る夢を捨てきれなかった。

肺の手術をすると当然世界選手権には出られない。そこで彼女は賢者に治してくださいと懇願した。 すると賢者は昔あった出来事を話した。 それは彼女と同じ境遇の母子家庭で5歳ぐらいの、あきらかに黒人とのハーフの男の子の事だった。

ある日その男の子に賢者は尋ねた。「坊やさびしそうな眼をしてどうしたの?」
「みんながあいのこって言って虐めるんだ。あいのこってどういう意味?」
賢者は答えた 「坊や、”あいのこ”っていうのはね、神さまからも多くの人達からも愛されている子どもの事を言うんだよ」
愛の子。その瞬間からその子は人が変わったように他の子供たちと仲良く遊ぶようになり、多くの友達が出来た。
母親が賢者にどういった魔法を使ったのですか?何を言ったのですかとしつこく尋ねた。 賢者は答えなかった。

この話を聞いた日本チャンピオンは感動の涙に咽び、なんとその後病院のMRIでは肺の白い影が消えてしまっていた。 もっと早く聞いていれば彼女の人生は変わったかもしれない。
いやそうだとすると彼女は日本チャンピオンにはなれず、世界大会に出場する資格も無かったかもしれない。 しかし賢者の言葉で彼女は救われた。
来月世界大会が行われ、彼女は念願の出場を果たす。 素晴らしい結果を心から祈っている。

神は乗り越えられない試練は与えないと言うが、 彼女は気高い精霊を持って生まれてきた人なのだろう。
「道上伯」とは字画で言うと非常に苦労する名前だそうだ。
確かに幾度となく死にかけた。
だからそれに耐えうる魂がその名で生まれてきたのかもしれない。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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古武士(もののふ) あとがき



「古武士(もののふ) あとがき 」

2015年9月11日

道上は立命館時代剛柔流の 宮城長順、武専時代合気の植芝盛平 達とも一緒に武道を探究した。
当時は柔道、空手道、合気道、剣道、にさほどの違いは無かった。
むしろ共通点の方が多かった。 武道から空手、合気道が生まれたと言っても過言ではない。

和道流の創始者大塚博紀も道上の柔道を見て、道上の武道家としての価値を見て取り「道上先生和道流八段を授与させて下さい」と願い出た。
決して道上が空手道場に通ったわけでは無い。

空手にも足払いなど今ではあまり見慣れない技が有った。柔道にも当て身は有った。命のやり取りの中では何でも有りだった。その緊張感の中で理にかなった物だけが残っていった。そして常に新しい技が開発されていった。

忘れていけないのは、武専の教授たち。
彼らが多くの柔術の中から柔道を作っていった。
皆生前、又は没後十段であった。 道上が十段を拒否した理由でもある。

達人は達人をみる。達人の動きは自ずと様式美そのものとなる。
武道の達人だけに限ったことではなく、達人のレベルに到達しなければ理解できないことも多い。 今の私には到底理解できないことの方が多い。
理解したいのであれば自分がどの道であれ達人にならなければいけない。

「もののふ」もいったんここで終わらせ、書き直し付け足しを試みてみようと思う。
本を読まない男が、苦しんで×苦しんで=八十一話書きました。
現在英語と中国語に訳しているが、決してレベルの高い代物ではない。
フランス語はかなりのレベルだと思う。

しかしながら早急にアラビア語、ロシア語にも訳していきたいと思っている。 日本人が思っている以上に海外では武士道に注目が集まっている。
柔道は最も世界に普及されているスポーツである。
しかしながら世界では物足りなさを感じているものが多い。

現在日本の柔道人口は30万人と言われている。 フランスは80万人。
道上が教えた弟子、孫弟子、そのまた弟子たちを合わせると現存しているフランス人だけでも1000万人を超える。
ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを合わせるとゆうに1億人を超えるのではないか。

この数年、国際柔道連盟の理事には日本人はいなかった。
最近やっとのことで2人ほどが就任するようになった。
道上がその気になればいつでも国際柔道連盟の会長に納まったはずだ。

そして世界はそれを望んでいた。
世界各国の柔道連盟会長の大半は道上の弟子であった。
しかし道上は柔道政治を試みなかった。反対するのは日本柔道界だけだったが。
一方道上は己の分をわきまえていたのであろう。
柔道をさらに日本の文化の普及に寄与したが、商売にはしなかった。

現在スポーツはビジネスであるが。道上は柔道を通じて日本文化の伝道者としての生涯を全うした。 ある人が道上先生が亡くなって、小野田寛郎さんが亡くなって もう日本には侍がいないと言っていた。

しかしこんなことがあった。
ある日、京都の賢者に末期がん患者だった友人を助けてくださいと私がお願いに上がった事がある。 その患者が治してもらったらどのようにお礼をすれば宜しいのでしょうかとその賢者に尋ねると、 治ったら私と貴方はもはや何の関係もない他人だと言った。
私は武士は多くはないかもしれないが、まだまだいると感じた。
賢者は無料で治療をしている。格好良過ぎる。
武士ほど格好良い呼び方は無い。そしてこれは世界共通語。

道上が命懸けで試合している姿を生で見たかった。
さぞかし格好良かったであろう。

下記は、道上が亡くなり、フランスでの葬儀の時にボルドー道上家で書斎の机に敷いてあるデスクマットの下から 見つかったものである。
日付は1984年 4月10日。亡くなる18年以上も前に書かれている。
常に死を覚悟していた人生であった。


遺 言 状    1984年4月10日

人生は降り積る悲しみを払いのけながら進む旅だと思はれる。
明治維新の英傑 坂本竜馬が10代の頃作ったと云はれる歌に
"世の中の人は何んとも云わば云え 我がなす事はわれのみぞ知る"と
自分も又我のみぞ知る だ。
鉄の如き固く強い意志を持たずにどうして異民族の中で彼等を思うが如く
(その本来の姿、哲学的崇高なる理念の方向へ)
導くことが出来ようか。異文化間のはざまで右往左往せず毅然として
"俺は日本人"と胸を張って生き抜き現在に至ったものだ。
今更思い残すこと無し。
然し死後皆さんへすっきりしない思いを与え ご迷惑を懸ける事を恐れて
ここに記して遺言とす。

死骸があれば火葬にしてGironde河へ流してください。
尚一握りは(yahatahama-shi,kanjo)道上家歴代の墓へ入れてください。
(この歴代の墓は私が14,5才の頃の夏休み中、父と小野力蔵さんと三人で
作ったもので私は主としてセメントや砂を河岸から墓場まで背負いあげたのである)
理由は亡父の存命中道上家の四代目を継ぎ歴代の墓へ入れと言い渡たされた為である。
子孫の為に美田を買わず 主義で財産らしいものは無い

遺言状




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古武士(もののふ)第 81話 フランスでの葬儀



「古武士(もののふ) 第81話 フランスでの葬儀 」

2015年9月4日

生まれ故郷の八幡浜、道上の生家での葬儀・納骨が終わり、
2002年9月5日いよいよフランスのボルドーヘ。
道上の骨が太かったので大きな骨壺に半分も入りきらず、
何度もつぶして、やっと二つの壺に納まった。

さてフランス出発となった時、突然フランスの航空会社のストがおっ始まった。
ボルドーの葬儀を断念する事は出来ない。何処経由でも良いから行かなければ。
どうにか唯一飛んでいる便に10名が潜り込む。
フランスに到着するとボルドー行きは1便も飛んでいないと言われてしまった。
乗り継ぎでパリ南部のオールリー飛行場へ。
そこからの臨時ボルドー行きが順番待ちの末やっと取れた。

葬儀の前日、姪の息子がやたらと痛がっている。
よく聞くと胸が痛いと言っている。昨夜ベットから落ちたらしい。
姪の旦那は「雄峰おじちゃん、お忙しいから気にしないでください」と。
そうは行かない。医者に連れていくとしてもフランス語が出来るのは僕しかいない。
しかし病院をたらいまわしにされた挙句、やっと治療をしてもらったのは8時間後の事であった。 後継者ブルノさんの奥さんによって、非番にもかかわらず特別に診てもらったのだ。
まだ10歳にも満たない男の子は鎖骨を折っていた。手当後はニコニコ笑っていた。

愚息は喪主でありながら言葉の解らない9人を引き連れて右往左往していた。
その昔家族がフランスに到着した時、道上がいかに大変な思いをしたかが分かる。
葬儀はボルドーの道場で行われる。引き続きボルドー市庁舎で偲ぶ会が行われることになっていた。 その場で喪主としての挨拶をしなければいけない。



愚息は何をしゃべってよいか分からなかった。あわただしい毎日、増上寺での挨拶もぶっつけ本番であったが、今度はそうは行かない。 殆どの人が道上の弟子である。

夜眠れず、当日の朝4時、近くのカンコンス広場を少し歩いた。
道上と歩いた日々を思い出し歩いた。
広場はガローヌ川に面している。
「死んだら骨はガローヌ川へ流してくれ、そうすれば1年半も経てば愛媛県の八幡浜に流れ着くだろう」 そんな道上の言葉を思い出しながら歩いていた。

するとジロンダンのモニュメント(フランス革命を起こしたボルドー地方人達の記念碑)が目に飛び込んで来た。
フランス革命を起こし いつも議長の右側に陣取ったため、そこから右派左派と言う言葉が生まれた。そのジロンダンの記念碑だ。

道上を思いながら、「本当の右翼とは旗を振っている輩では無い。 強い者も、弱い者も、強い国も、弱い国も真に愛する人達の事だ。そのためには己が強くなければいけない。戦い続けながら生きなければいけない。 これぞまさに真の武士道精神だ」と。

道場では多くの花束が畳の上に投げ込まれた。
「先生有難う」「先生感謝しています」「先生のことは生涯忘れません」送り主の名前が書かれていないのが殆どだった。
道上家に贈ったのではない。道上個人に贈ったものだから。
愚息はお花を頂いた一人一人にお礼をする事も出来なかった。
道場の控室では人が並び、喪主である愚息は一人一人から挨拶を頂いた。

葬儀当日のボルドー市庁舎で愚息はお礼の言葉の最後に、
「道上は50年、心からボルドーを愛しました。 それは決して食べ物がおいしいからではありません。美味しいワインが有るからではありません。 ボルドー・ジロンダンの精神です。今日ここにいらっしゃる方は、道上の武士道精神を伝えていく伝道者です」 と挨拶を閉じた。

夜は道上がよく行っていた中華料理店に79人を招待した。
そして道上がいつも注文していたメニューをオーダーした。
79人の中には、相変わらず自分を売り込むのに必死の高段者達がいた。
高段者のテーブルに座ると道上の後は誰が機関車として皆を引っ張るんだとの会話ばかり。 若いブルノはあきれて席を立った。
79人、一人一人が道上への思いを発表した。
道上が可愛がっていた弟子のオーデュナーさんは自分の番が来たが、 まるで胸がつかえて苦しいかの様に、涙一杯の表情で結局言葉を一言も発する事が出来ないまま座ってしまった。
これこそが表現だった。一番大きな拍手を受けていた。

また一人一人をインタビューしながらヴィデオに収めた。
皆が言っていた言葉は「先生は第二の父親でした」「私のお父さんだった」。 「本当のお父さんだった」これからどう生きて行けばよいのか、というような表情であった。

翌日道上の遺言通り、ガローヌ川にふたつのうちの一つの壺から遺骨を散布した。


来週は後書きです。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第80話 死」



「古武士(もののふ) 第80話 死 」

2015年8月28日

道上は2002年8月4日昼に息を引き取った。

死に直面したときは大変苦しそうな顔をしていたが、
息を引き取った瞬間安らかな表情になった。戦いは終わった。

愚息は一人、死んでいく道上を看取った。身体が凍りついた。血の気が引いて行く。 まさかこの恐ろしい化け物が死ぬなんてことは考えられなかった。死ぬまで信じられなかった。 いや死んでも信じられなかった。 次女志摩子が救急車を呼んだ。
その瞬間愚息の血気が戻った。

愚息は道上の身体を抱え救急車まで運び、生まれて初めて父親を抱きしめる栄誉を噛み締めていた。 救急車の中で除細動器のカウンターショックにより再度復活を試みたが、時遅し。 道上が再び戻ることはなかった。
戦うために生まれ、戦い続けた男がやっとお役御免となった。
そんな穏やかな表情だった。

埼玉県大宮の病院の玄関で、愚息はすぐに後継者のブルノ・ロベールに電話で報告した。 電話では「父は死んだ」彼から「残念」の一言だが無言の数十秒が過ぎた。
そしてすぐに両角元日銀筆頭政策委員へ電話する。 「葬儀委員長になって頂けないでしょうか」彼は那須の別荘にいた。 「そうだな 僕しかいないだろう」。(道上の周りは高齢で殆どの方が亡くなってしまっている) 葬儀当日は自動車を走らせ、葬儀が終わり次第とんぼ返りで諏訪へ戻られた。
しかも葬儀の最中、ご高齢にもかかわらず椅子に座ることは一度もなかった。

亡くなった埼玉県大宮で通夜を、また道上の生まれ故郷八幡浜とフランスのボルドーの道場でも葬儀を行う事に決めた。 愚息は本葬を東京最大の寺、増上寺で執り行いたいと考えた。コネは無いので直接交渉することにした。
大殿は年に一回しか使わないとの事であった。
「今年はどこかやりましたか」「まだどこも」「では是非お願いします」
これで本葬を宗派の違う、東京芝の増上寺大殿で執り行う事になった。

フランスの多くの弟子から連絡があった。
ボルドーでも行うから皆に来ないようにと伝えた。 しかし弟子たちはやって来た。中には年金生活者の人達もいた。 日程がお盆休み明けの8月19日の月曜日。 その前日の日曜日、前々日土曜日の飛行機などは混んでて予約が取れるはずがないと高をくくっていたが、 韓国経由で20数名が2日前17日にやって来た。
皆緊張の面持ちで三日三晩一睡もしなかった。 喪主の愚息も彼等に付き合った。

大宮の通夜は天気予報では台風、しかし大雨ですんだ。
芝増上寺の本葬も台風の予想だったが進路がそれた。 八幡浜も同じく。
パリは天気の問題ではなく他の困難が控えていた。道上らしい嵐のお別れであった。

本葬の増上寺では1252人の人達が弔問に訪れた。
お花は遺影の周りには飾らず、遺影が見える壁にずらりと3段に並べた。
約600基の花が並ぶ中、フランスのシラク大統領、シャバンデルマス(元2度首相、長きにわたってボルドー市長)夫人、アラン・ジュペ総理大臣兼ボルドー市長の弔文が届いた。


弟子ブルノの弔辞は 「道上先生の人生を一言で言うと忘己利他、その核となるべき言葉は友情でした。 先生はナポレオン、ド・ゴール大統領を敬愛していましたが、謙虚なあまり、彼らと同様に次代を担う稀有な人だという事を本人は知りませんでした。 日本の皆さん!我々は皆さん日本人を指示支援し、敬意を誓います」。



葬儀の後、大殿の地下では食事が用意されていた。
中には先生に一度お礼が言いたかったと言う人もいた。
愚息は何故生きているうちに言ってくれなかったのかと思った。ボルドーの葬儀でも同じ言葉を幾度となく聞いた。 そう言っている人達は損得しか考えていない調子の良い人ばかりだった。

振り返ってみると 道上が時間を費やした人達は必ずしも出来が良いわけでは無かった。 道上が愚息に「雄峰、彼はいい男だ」と言う人たちには、礼を尽くしたが決して個人的に一緒に飲み食いする様な事はなかった。
「君子の交わりは淡き事水の如し」。

【動画】故 道上 伯 儀  葬儀
平成14年8月19日 増上寺 大殿




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第79話 place des quincons 」



「古武士(もののふ) 第79話 place des quinconces 」

2015年8月21日

2000年のある日、道上は愚息とカンコンス広場を歩いていた。

突然愚息に「お父さんはもう死んでもいいか」と言う、
愚息は慌てて「なぜですか」
「もう老いぼれて世の為になっていないが」
愚息「そんな事ありません。存在しているだけで十分役立っています」

愚息は20年前に、道上はいつか腹を切るのではないかと母親から聞かされていた。社会に貢献できなくなると死ぬのか。 それとも、やれるだけの事は精一杯やったが、無念が残るのか。
愚息にはわからなかったが、やりかねない道上だけに愚息は焦ってしまった。

道上の思いとは裏腹に愚息は腹を切る事を評価していなかった。
その中には恐れもあった。 腹を切ると言う事は天に向かっての反逆なのか、それとも命を天に捧げる事なのか。

無言の散歩が続いた。愚息は息がつまりそうだった。
つい心にもない馬鹿な事を言ってしまった。
「お父さん頑張って下さい」
その瞬間しまったと思った。

「おお頑張ってるぞ」
人生を戦い続けてきた道上には言ってはいけない言葉だった。
その2年後、一時帰国中、日本で息を引き取った。


* ボルドーのカンコンス広場は西ヨーロッパ最大の面積を誇る都市広場で世界遺産にも登録されている。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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