古武士(もののふ)
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7月28日配信 「古武士(もののふ) 第63話 永住を決める。」
7月21日配信 「古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史」
7月14日配信 「古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史」
7月7日配信 「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
6月30日配信 「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
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| 道上の独り言【 道上 雄峰 】幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン
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7月28日配信 「古武士(もののふ) 第63話 永住を決める。」
7月21日配信 「古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史」
7月14日配信 「古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史」
7月7日配信 「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
6月30日配信 「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
古武士(もののふ)第 63話 永住を決める。
「古武士(もののふ) 第63話 永住を決める。」
結局家族は皆日本へ帰ってしまった。
道上は家を買おうと思った。
フランスに永住する決心をしたのだろう。
1970年代の事だった。
当時フランスは自国の植民地が次々と独立し 以前のような好景気は無くなっていた。
城を維持できず手放す者もかなりいたので相当な数が余っていた。
ホテル又はレストランの営業権を持たないシャト―はただ同然のものも多かった。
そのかわり京都の重要建造物のように、保全のために毎年巨額のお金をかけて修復しなければいけなかったりする。
道上はフランスの田舎が大好きだった。
休みの日になると折り畳み式の椅子を自動車に乗せ、
一人ピクニックを楽しんだ。
小川のせせらぎに耳を傾け遠い八幡浜を思い浮かべたのだろう。
シャトーを買う事にした。
その旨弟子たちに伝えたところ、思いもよらないことに弟子全員から猛反対にあった。
「先生、僕たちはどうなるのですか?30キロも40キロも離れたところに住まわれたら歩いて先生宅に遊びに行けないではないですか」
「道場から歩いて行ける距離にしてください」。
道上は町のちまちました所に住むよりも広い田舎の方が良かったのだが、
皆からそこまで言われたら仕方がないかと城はあきらめた。
道上は治安の為ボルドー警視庁の真ん前 Rue Casteja (通り)のアパート(日本でいうところのマンション)を購入した。
足腰の鍛錬のため、あえてエレベータの無い3階(日本では4階)建ての最上階ワンフロアーを現金(たんす預金)で買った。
そのとたん国税が入った。現金で買う人は珍しい。
今では格付け(重要文化建築)になっているアパートだった。
そのアパートには毎晩ひっきりなしに弟子が遊びに来た。
きつい練習の後、皆で酒を囲む。
これが道上にとっても弟子にとっても最高の時間だ。
弟子と言っても40歳代50歳代の師範ばかりだが、皆道上のファンだった。
道上の柔道のみならず、人物、生き方に憧れを持つものばかりであった。
道上に柔道を習った、道上を知っている、は皆の誇りであった。
誰もが父親の様に慕っていた。
道上は70歳まで乱取りをしたが(練習試合)皆にとっても真剣勝負だった。
右足親指の内側楔状骨が飛び出し、左上腕二頭筋腱が切れたが、それでも乱取りをやっていた。
手術したものの今度は右の上腕二頭筋腱が切れた。
それも手術でつなぎ、また乱取りをやっていた。柔道は身体に負担が多い。
だが本人は苦痛のなかやっていたわけではなく、至って楽しんでいる様子だった。
武道とは命のやり取りが前提にある。
「一本」すなわち死を表すものであり。
そこには「有効」、「効果」などと言うものは存在しない。
健康を考えるスポーツとは違う次元のものである。
それを練習で行うと身体に無理が来るのも当然だろう。
晩年道上は愚息にポロッと漏らした
「お金の為にやっているんではないんだ。健康の為にやっているんだ」
道上は戦う事が自分の生きざまだった。
ある日道場を出ると道上の自動車と前後の自動車が10cm程度しかない間隔で停められていた。前後の自動車を押してしか出られない。
「雄峰!自動車を持ち上げて出すぞ」
「いやお父さん僕は腰が痛くて出来ないです」
「情けないな~」
愚息は心で呟いた。70歳代後半の男がそんな負荷をかけたら膝に良いわけがない。
道上の膝は既にすり減っていて軟骨が無くなっていた。
歩くと古希古希(コキコキ)と音がする。
そこまでしなくてもよいだろうと愚息は思った。
出張の無い日は早朝から炊事、洗濯、食事を済ませ
rue Poquelin Moliere(通り) の道上道場へ通う毎日だった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第63話 永住を決める。」
結局家族は皆日本へ帰ってしまった。
道上は家を買おうと思った。
フランスに永住する決心をしたのだろう。
1970年代の事だった。
当時フランスは自国の植民地が次々と独立し 以前のような好景気は無くなっていた。
城を維持できず手放す者もかなりいたので相当な数が余っていた。
ホテル又はレストランの営業権を持たないシャト―はただ同然のものも多かった。
そのかわり京都の重要建造物のように、保全のために毎年巨額のお金をかけて修復しなければいけなかったりする。
道上はフランスの田舎が大好きだった。
休みの日になると折り畳み式の椅子を自動車に乗せ、一人ピクニックを楽しんだ。
小川のせせらぎに耳を傾け遠い八幡浜を思い浮かべたのだろう。
シャトーを買う事にした。
その旨弟子たちに伝えたところ、思いもよらないことに弟子全員から猛反対にあった。
「先生、僕たちはどうなるのですか?30キロも40キロも離れたところに住まわれたら歩いて先生宅に遊びに行けないではないですか」
「道場から歩いて行ける距離にしてください」。
道上は町のちまちました所に住むよりも広い田舎の方が良かったのだが、皆からそこまで言われたら仕方がないかと城はあきらめた。
道上は治安の為ボルドー警視庁の真ん前 Rue Casteja (通り)のアパート(日本でいうところのマンション)を購入した。
足腰の鍛錬のため、あえてエレベータの無い3階(日本では4階)建ての最上階ワンフロアーを現金(たんす預金)で買った。
そのとたん国税が入った。現金で買う人は珍しい。
今では格付け(重要文化建築)になっているアパートだった。
そのアパートには毎晩ひっきりなしに弟子が遊びに来た。
きつい練習の後、皆で酒を囲む。
これが道上にとっても弟子にとっても最高の時間だ。
弟子と言っても40歳代50歳代の師範ばかりだが、皆道上のファンだった。
道上の柔道のみならず、人物、生き方に憧れを持つものばかりであった。
道上に柔道を習った、道上を知っている、は皆の誇りであった。
誰もが父親の様に慕っていた。
道上は70歳まで乱取りをしたが(練習試合)皆にとっても真剣勝負だった。
右足親指の内側楔状骨が飛び出し、左上腕二頭筋腱が切れたが、それでも乱取りをやっていた。
手術したものの今度は右の上腕二頭筋腱が切れた。
それも手術でつなぎ、また乱取りをやっていた。柔道は身体に負担が多い。
だが本人は苦痛のなかやっていたわけではなく、至って楽しんでいる様子だった。
武道とは命のやり取りが前提にある。
「一本」すなわち死を表すものであり。
そこには「有効」、「効果」などと言うものは存在しない。
健康を考えるスポーツとは違う次元のものである。
それを練習で行うと身体に無理が来るのも当然だろう。
晩年道上は愚息にポロッと漏らした
「お金の為にやっているんではないんだ。健康の為にやっているんだ」
道上は戦う事が自分の生きざまだった。
ある日道場を出ると道上の自動車と前後の自動車が10cm程度しかない間隔で停められていた。
前後の自動車を押してしか出られない。
「雄峰!自動車を持ち上げて出すぞ」
「いやお父さん僕は腰が痛くて出来ないです」
「情けないな~」
愚息は心で呟いた。70歳代後半の男がそんな負荷をかけたら膝に良いわけがない。
道上の膝は既にすり減っていて軟骨が無くなっていた。
歩くと古希古希(コキコキ)と音がする。
そこまでしなくてもよいだろうと愚息は思った。
出張の無い日は早朝から炊事、洗濯、食事を済ませ rue Poquelin Moliere(通り) の道上道場へ通う毎日だった。
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古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史
「古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史」
ボルドーワインの発展を説明するものとして、ボルドーだけの500年に渡る特権があった。
この特権はイギリス国王によって与えられ、フランス国王によって承認された。
1241年から1773年までの毎年1月1日から12月25日までの間、
ボルドー以外の地域が起源のワインは一切ボルドーの港からの輸出を許可されなかった。
他のワインの輸出には6日だけが与えられたが、言いかえればそれは不可能だった。ボルドー独占の時代であった。
と言うのも仮にワインが満足いくものでなければ、ボルドーワイン生産者は他の地域のワインを購入し、自分たちの生産物に混ぜることが認められていたのだ。
5世紀もの間、ボルドーのワインだけがボルドー港から輸出できていたのだ。
17世紀まではワインは若いまま飲まれるもので半年以上保管されるものではなかった。
17世紀には、オランダ人のeaux de vie(フルーツ・ブランデーの一種)への関心が高まり、ボルドーが辛口の白ワインを供給する後押しをした。
17世紀末から18世紀初頭には、ボルドーワインの商人が川の右岸の堤防に沿って陣取り、Chartronsと言う特別区画が生まれた。
そのため、ワインは品質とともに、高貴さという言葉を手にした。
極上のボルドーワインは、18世紀に入って瓶ボトルの出現とともに、特にイングランドへ輸出され始めた。
その頃からハイソサエテイーと言われる層で多く飲まれるようになっていったのだった。
ボルドーワインの成功とその比類なき味とを等しく説明するのは、次の3つの要素の結合による。土壌、気候、そしてブドウの木自体である。
ボルドーの重い土は雨水を素早く吸収する密な砂利の地層である。
自身の生育に必要な栄養素を見つけるため、ブドウの木は深い根を張る必要がある。ブドウの木はつまりストレスを与えられているわけだが。
原理の上ではストレスを受けるということはポジティブではないが、ストレスを受けていないブドウの木は良いブドウの実をつけず、つまり良いワインを作れない。
気候については、快適な温度と湿度が味と香りを高めるためのブドウのゆっくりとした熟成を容易にする。
ブドウの木の種類についても、完全にこの地域に合うものであった。
そして 美味しいワインがドンドンとイギリスへ運ばれていった。
其処から後にはアメリカそしてイギリス植民地へと運ばれていったのだった。
当時から商業港としてヨーロッパの中でボルドーが最も栄えた。
マルセイユが地中海の玄関口として北アフリカを統括し、ボルドーがブラック・アフリカを統括した。
その為多くの奴隷がボルドー港に入って来た。
その繁栄によって今でもボルドーはブルジョワの町と言われている。
日本はイギリス系アメリカの影響下にあるが イギリスだけが世界に影響力を持っているのではなく、フランスはイギリス以上に世界に影響力を持ち続けた。
それを日本人は知らない。
面白い事にボルドーはガローヌ川に面した建物よりも、(公共的建物以外は)一歩裏に入った建物の方が立派な造りが多い。
それはガローヌ川に面していると固定資産税が高いので金持ちはあえてすぐ裏に豪邸を建てて行った。
まるで京都のようだ。
京都は祇園あたりに行くと道幅が狭く、道路に面した広さにより税が課されていたという事を聞いたことがある。
道路から見た1階建ての家が中に入ると実は5階建てで、裏の通りまでうなぎの寝床の様に長い造りになっている建物もあった。
ボルドーの地方を大まかに言うとジロンド県アキテーヌ地方とも言う。
ジロンド地方の人をジロンダンと言うが、フランス革命では薩長同盟の様な役割を果たした。
ジロンダンは相当暴れまくった。誇り高い騎士が多かった。
ダントン、ロベスピエールの時代。いつも団長の左に座っていたのがジロンダンだ。
その時から左派右派という言葉が誕生した。
その誇りを持った地域性はいまだに存在する。
前市長のシャバンデルマスは衆議院議長2回、総理大臣を2回歴任し、しかも大変なスポーツマンであった。
自身でもラグビーをやっていて、ボルドーはサッカーも強く、多少なりとも乱暴なイメージすらあった。
共和党ドゴール大統領、ポンピドゥー大統領に続きシャバンデルマス大統領というのが最有力候補だったが、
その後に続くはずのパリ市長シラクの裏切りによって民主党のジスカール・デスタンが大統領になった。
それからと言うものボルドー市は急に冷え込んで行った。これは1970年代の出来事であった。
ちなみに数年前のボルドー市長、アラン・ジュペ(総理大臣2回)もシラク元大統領の裏切りにあったが、巻き返しを図り次期大統領候補と言われた。
このようにしてフランスは各市長が大きな権限を持っている。
大統領と言えどもおいそれと勝手に国内を行き来できない。
必ず行く先の市長へのあいさつが欠かせない。
道上はナポレオン、ドゴールをこよなく愛し、シャバンデルマス市長とは親しさの中にも互いに敬意を表しあう仲であった。
ブルゴーニュでは大きな葡萄畑の事をドメイヌと評する。
南仏に行くとコート(丘と言う意味だが)。これら全てブドウ畑所有の屋号だ。
では何故ボルドーではシャトーと言われるのだろうか?
それは殆どのブドウ畑に城があったからだ。
日本では金持ちを表現するのに蔵が立つと言うが、それは米。
フランスでは城を持つと言う。
それは多くの葡萄酒を寝かせる酒蔵を持つという事に他ならない。
すなわちそれが富の象徴だ。
それだけボルドーには多くのシャトー(城)が存在したのだった。
(通称アキテーヌ皇女)アリエノールが残した富はフランスの食の文化でもあった。
ボルドーから南南東へ約150kmにぺリゴールが在る。
フォアグラ・トリュフ・セップ・パテ・リエット、珍味ぞろいだ。
西へ54kmにアルカッション。アランドロン、サルコジ元大統領も別荘を持っているフランス有数の避暑地。
以前にも書いたが、其処の湾での生牡蠣養殖はフランスの83%を供給している。
西南西へ250km行くとバイヨーヌ。生ハムの美味しい所だ。
これら全てがアキテーヌ地方。
食生活の貧しいイギリスに食とは何たるかを伝えたのだった。
イギリスでは豚をピッグと言うが食べる場合はフランス語のポークと言う。
イギリスではもともと豚を食べていなかったからだ。
ぶどうは英語でグレープと言うが、これはフランス語のグラップを英語読みしただけだ。
そのグラップがドーバー海峡を渡ると乾燥してしまい、乾燥したぶどうを英語ではレーズンと呼ぶ。フランス語のレザンの英語読みだ。
サンジャン・ボルドー駅の裏には食肉解体場があり、最近までフランスの消費牛肉の半分を供給していた。
アントロコットはアントロコット・ボードレーズといって世界的に有名だ。
愚息が小学校の課外授業で解体場に行くと作業場の人たちが色々と教えてくれた。
牛肉にはメルロが合うよ!羊とかジビエにはカベルネ・ソービニオンが合うんだ、とか、
肉は解体して3週間ぐらい寝かせてから出荷するのが美味しいんだが今じゃ2週間もすると出荷してしまって嘆かわしいと!とか。
これも随分と昔の話だから、今では一週間くらいで出荷しているはずだ。
道上にはボルドーの水が合っていたのだろう。
居を定めてから50年という長い歳月、ボルドーに住み続けたのだから。
それは食だけではない。人間だ。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史」
ボルドーワインの発展を説明するものとして、ボルドーだけの500年に渡る特権があった。
この特権はイギリス国王によって与えられ、フランス国王によって承認された。
1241年から1773年までの毎年1月1日から12月25日までの間、ボルドー以外の地域が起源のワインは一切ボルドーの港からの輸出を許可されなかった。
他のワインの輸出には6日だけが与えられたが、言いかえればそれは不可能だった。ボルドー独占の時代であった。
と言うのも仮にワインが満足いくものでなければ、ボルドーワイン生産者は他の地域のワインを購入し、自分たちの生産物に混ぜることが認められていたのだ。
5世紀もの間、ボルドーのワインだけがボルドー港から輸出できていたのだ。
17世紀まではワインは若いまま飲まれるもので半年以上保管されるものではなかった。
17世紀には、オランダ人のeaux de vie(フルーツ・ブランデーの一種)への関心が高まり、ボルドーが辛口の白ワインを供給する後押しをした。
17世紀末から18世紀初頭には、ボルドーワインの商人が川の右岸の堤防に沿って陣取り、Chartronsと言う特別区画が生まれた。
そのため、ワインは品質とともに、高貴さという言葉を手にした。
極上のボルドーワインは、18世紀に入って瓶ボトルの出現とともに、特にイングランドへ輸出され始めた。
その頃からハイソサエテイーと言われる層で多く飲まれるようになっていったのだった。
ボルドーワインの成功とその比類なき味とを等しく説明するのは、次の3つの要素の結合による。土壌、気候、そしてブドウの木自体である。
ボルドーの重い土は雨水を素早く吸収する密な砂利の地層である。
自身の生育に必要な栄養素を見つけるため、ブドウの木は深い根を張る必要がある。ブドウの木はつまりストレスを与えられているわけだが。
原理の上ではストレスを受けるということはポジティブではないが、ストレスを受けていないブドウの木は良いブドウの実をつけず、つまり良いワインを作れない。
気候については、快適な温度と湿度が味と香りを高めるためのブドウのゆっくりとした熟成を容易にする。
ブドウの木の種類についても、完全にこの地域に合うものであった。
そして 美味しいワインがドンドンとイギリスへ運ばれていった。
其処から後にはアメリカそしてイギリス植民地へと運ばれていったのだった。

当時から商業港としてヨーロッパの中でボルドーが最も栄えた。
マルセイユが地中海の玄関口として北アフリカを統括し、ボルドーがブラック・アフリカを統括した。
その為多くの奴隷がボルドー港に入って来た。
その繁栄によって今でもボルドーはブルジョワの町と言われている。
日本はイギリス系アメリカの影響下にあるが イギリスだけが世界に影響力を持っているのではなく、フランスはイギリス以上に世界に影響力を持ち続けた。
それを日本人は知らない。

面白い事にボルドーはガローヌ川に面した建物よりも、(公共的建物以外は)一歩裏に入った建物の方が立派な造りが多い。
それはガローヌ川に面していると固定資産税が高いので金持ちはあえてすぐ裏に豪邸を建てて行った。
まるで京都のようだ。
京都は祇園あたりに行くと道幅が狭く、道路に面した広さにより税が課されていたという事を聞いたことがある。
道路から見た1階建ての家が中に入ると実は5階建てで、裏の通りまでうなぎの寝床の様に長い造りになっている建物もあった。
ボルドーの地方を大まかに言うとジロンド県アキテーヌ地方とも言う。
ジロンド地方の人をジロンダンと言うが、フランス革命では薩長同盟の様な役割を果たした。
ジロンダンは相当暴れまくった。誇り高い騎士が多かった。
ダントン、ロベスピエールの時代。いつも団長の左に座っていたのがジロンダンだ。
その時から左派右派という言葉が誕生した。
その誇りを持った地域性はいまだに存在する。
前市長のシャバンデルマスは衆議院議長2回、総理大臣を2回歴任し、しかも大変なスポーツマンであった。
自身でもラグビーをやっていて、ボルドーはサッカーも強く、多少なりとも乱暴なイメージすらあった。
共和党ドゴール大統領、ポンピドゥー大統領に続きシャバンデルマス大統領というのが最有力候補だったが、その後に続くはずのパリ市長シラクの裏切りによって民主党のジスカール・デスタンが大統領になった。
それからと言うものボルドー市は急に冷え込んで行った。これは1970年代の出来事であった。
ちなみに数年前のボルドー市長、アラン・ジュペ(総理大臣2回)もシラク元大統領の裏切りにあったが、巻き返しを図り次期大統領候補と言われた。
このようにしてフランスは各市長が大きな権限を持っている。
大統領と言えどもおいそれと勝手に国内を行き来できない。
必ず行く先の市長へのあいさつが欠かせない。
道上はナポレオン、ドゴールをこよなく愛し、シャバンデルマス市長とは親しさの中にも互いに敬意を表しあう仲であった。
ブルゴーニュでは大きな葡萄畑の事をドメイヌと評する。
南仏に行くとコート(丘と言う意味だが)。これら全てブドウ畑所有の屋号だ。
では何故ボルドーではシャトーと言われるのだろうか?
それは殆どのブドウ畑に城があったからだ。
日本では金持ちを表現するのに蔵が立つと言うが、それは米。
フランスでは城を持つと言う。
それは多くの葡萄酒を寝かせる酒蔵を持つという事に他ならない。
すなわちそれが富の象徴だ。
それだけボルドーには多くのシャトー(城)が存在したのだった。
(通称アキテーヌ皇女)アリエノールが残した富はフランスの食の文化でもあった。
ボルドーから南南東へ約150kmにぺリゴールが在る。
フォアグラ・トリュフ・セップ・パテ・リエット、珍味ぞろいだ。
西へ54kmにアルカッション。アランドロンやサルコジ元大統領も別荘を持っているフランス有数の避暑地。
以前にも書いたが、其処の湾での生牡蠣養殖はフランスの83%を供給している。
西南西へ250km行くとバイヨーヌ。生ハムの美味しい所だ。
これら全てがアキテーヌ地方。
食生活の貧しいイギリスに食とは何たるかを伝えたのだった。
イギリスでは豚をピッグと言うが食べる場合はフランス語のポークと言う。
イギリスではもともと豚を食べていなかったからだ。
ぶどうは英語でグレープと言うが、これはフランス語のグラップを英語読みしただけだ。
そのグラップがドーバー海峡を渡ると乾燥してしまい、乾燥したぶどうを英語ではレーズンと呼ぶ。フランス語のレザンの英語読みだ。
サンジャン・ボルドー駅の裏には食肉解体場があり、最近までフランスの消費牛肉の半分を供給していた。
アントロコットはアントロコット・ボードレーズといって世界的に有名だ。
愚息が小学校の課外授業で解体場に行くと作業場の人たちが色々と教えてくれた。
牛肉にはメルロが合うよ!羊とかジビエにはカベルネ・ソービニオンが合うんだ、とか、肉は解体して3週間ぐらい寝かせてから出荷するのが美味しいんだが今じゃ2週間もすると出荷してしまって嘆かわしいと!とか。
これも随分と昔の話だから、今では一週間くらいで出荷しているはずだ。
道上にはボルドーの水が合っていたのだろう。
居を定めてから50年という長い歳月、ボルドーに住み続けたのだから。
それは食だけではない。人間だ。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史
「古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史」
35年前愚息雄峰の事を友人に「彼はボルドーの田舎者」と言って紹介された。
25年前TV大阪社長からTV東京の番組アナウンサーの方に、「ボルドーで幼年時代を過ごした男」と紹介され、その時彼女に「わ~素敵~」と言われた。
確かに30年前からのワイン・ブームでボルドーも有名になった。日本の赤ワインの90%はボルドー産だった。
だがボルドーが1914年、1940年の二度にわたってフランスの首都だった事を多くの日本人は知らない。
ボルドーのワインの歴史は、フランスの歴史と非常に強く結びついている。
ある文献によると、ローマ人がゴールを征服した時(※)に、ブルディガラ(ボルドーの旧名)の地で ブドウ園を見つけたとされている。
(※フランスの旧国名、ゴロワ(ガリア)人はゴールの住人)
ブドウ園の存在は、ワインを輸出する港の存在へと大きくつながっていく。
紀元1世紀ごろ、ボルドーのワインはイングランドを含むローマ帝国全土に輸出されていた。
ゴロワ人は大酒飲みだと見られていたので、ローマ人はそのワインを薄めるために水を加えていた。
当時まだ瓶が無い時代、ワインは陶器に詰められ馬車で運ばれていたが、舗装されていない道でよく割れた。
その為に陸路よりも水路が利用されたため川辺にワイナリーが発展を遂げた。
ボルドーはジロンド川という大河が大きく航海船の運航に寄与した。
上流へ75キロ遡るとドルドーニュゥ川と、ガローヌ川に分かれるが、その川沿いにボルドーという町が繁栄していく。
その分かれ目にブール( Bourg)という地がある 現在のコート・ド・ブール地区である。
セルト(ケルト)人兵士によって運ばれて来た葡萄が改良され、寒さにも強いビテイス・ビテュリカ(Vitis Biturica) というカベルネの元祖のような葡萄によって作られた。
道上が愛飲し続けたChâteau La Joncarde は このコート・ド・ブールを代表するものである。
特筆すべきは
12世紀に、アリエノール・ダキテーヌ(今のボルドー地方)皇女がパリのフランス・ルイ国王と結婚する。
さて、敬虔王ルイに対しアリエノールは奔放な性格。二人の性格はやはり合わず、離婚。
どうやらフランス国王は今で言う草食人間だったようだ。
ところがなんと3ヵ月後にアリエノールは11歳も年下のアンジュー伯アンリと恋に落ち、わずかの間に電撃婚してしまう。
そして2年後、アンジュー伯アンリはイングランド王をも継承し、プランタジネット朝の始祖となるヘンリー2世に即位した 。
アリエノールはフランス王妃の後、イングランド王妃となり、2つの王朝の王妃を経験した稀有な存在となった。
この結婚によって、アリエノールは実家の領有地であるピレネーから北はスコットランドに接するまでの広大な領土を王と共に治めることになり、
ボルドーのワインは瞬く間にイギリスに広がっていった。
それまで不味いワインを飲んでいたイングランド人は、ボルドーのワインに大喜びしたということであった。
この歴史的出来事がボルドーのワインの名声を高めるのに一役買ってくれたというわけである。
この時期の輸出は、後に国際的な容量の単位となる、900リットルの樽でなされていた。重さはなんと999キログラム。
1トンという単位はここで生まれた。
トン(Ton ) とはフランス語で樽を意味する.小さな樽 トノ ( Tonneau )。
この時期のボルドーワインの一番の顧客はイングランド人だった。
12世紀の時点ですでにフランスよりも外国に多くワインを売っていたのだ。
全数量の85%がイングランドと北欧の国々へ輸出されていた。
ボルドーの葡萄園にクラレットと名付けた(※)のはイングランド人だ。
※Bordeaux clairetの名称は、クラレットへの敬意の形だ。
クラレットは薄い透明感のあるワインでロゼワインなども含む。
ヘンリー2世とアリエノールは多くの子供をもうけたが、イギリスとフランスの広大な領地を管理するヘンリー2世とエレオノールは別居が多く、後に離婚。
父母両陣営に分裂した子供を巻き込んでの王位継承の確執を引き起こした。
最終的には二人の愛が冷めた頃に生まれ、父であるヘンリー2世に溺愛されたジョンがプランタジネット朝を継いだが、
彼は失政王・失地王として有名になった。なぜならイングランドにおける大陸の領土をことごとく失ったから。
しかしその反面、ボルドーを手厚く優遇したため、ボルドーにとっては大恩人と言えるであろう。
実のところアリエノールはロワールのアンジューにほとんど滞在し、吟遊詩人など宮廷文化の華を開かせた。
ヘンリー2世も元はアンジューのル・マン出身。
おそらくブルゴーニュやシャンパーニュ地方のワインを愛するフランス王に対して、アリエノールやヘンリー2世はロワールワインを愛飲していたのではないだろうか。
カペー朝のシャンパーニュ、アキテーヌ公のボルドーと南西地域、アンジュー伯のロワール。
どれもワインの産地ばかり。
フランスの歴史とワインの深いつながりを感じざるをえません。
次週は近代のボルドーをお伝えします。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史」
35年前愚息雄峰の事を友人に「彼はボルドーの田舎者」と言って紹介された。
25年前TV大阪社長からTV東京の番組アナウンサーの方に、「ボルドーで幼年時代を過ごした男」と紹介され、その時彼女に「わ~素敵~」と言われた。
確かに30年前からのワイン・ブームでボルドーも有名になった。日本の赤ワインの90%はボルドー産だった。
だがボルドーが1914年、1940年の二度にわたってフランスの首都だった事を多くの日本人は知らない。
ボルドーのワインの歴史は、フランスの歴史と非常に強く結びついている。
ある文献によると、ローマ人がゴールを征服した時(※)に、ブルディガラ(ボルドーの旧名)の地で ブドウ園を見つけたとされている。(※フランスの旧国名、ゴロワ(ガリア)人はゴールの住人)
ブドウ園の存在は、ワインを輸出する港の存在へと大きくつながっていく。
紀元1世紀ごろ、ボルドーのワインはイングランドを含むローマ帝国全土に輸出されていた。
ゴロワ人は大酒飲みだと見られていたので、ローマ人はそのワインを薄めるために水を加えていた。
当時まだ瓶が無い時代、ワインは陶器に詰められ馬車で運ばれていたが、舗装されていない道でよく割れた。
その為に陸路よりも水路が利用されたため川辺にワイナリーが発展を遂げた。

ボルドーはジロンド川という大河が大きく航海船の運航に寄与した。
上流へ75キロ遡るとドルドーニュゥ川と、ガローヌ川に分かれるが、その川沿いにボルドーという町が繁栄していく。
その分かれ目にブール( Bourg)という地がある 現在のコート・ド・ブール地区である。
セルト(ケルト)人兵士によって運ばれて来た葡萄が改良され、寒さにも強いビテイス・ビテュリカ(Vitis Biturica) というカベルネの元祖のような葡萄によって作られた。
道上が愛飲し続けたChâteau La Joncarde は このコート・ド・ブールを代表するものである。

特筆すべきは12世紀に、アリエノール・ダキテーヌ(今のボルドー地方)皇女がパリのフランス・ルイ国王と結婚する。
さて、敬虔王ルイに対しアリエノールは奔放な性格。二人の性格はやはり合わず、離婚。
どうやらフランス国王は今で言う草食人間だったようだ。
ところがなんと3ヵ月後にアリエノールは11歳も年下のアンジュー伯アンリと恋に落ち、わずかの間に電撃婚してしまう。
そして2年後、アンジュー伯アンリはイングランド王をも継承し、プランタジネット朝の始祖となるヘンリー2世に即位した。
アリエノールはフランス王妃の後、イングランド王妃となり、2つの王朝の王妃を経験した稀有な存在となった。
この結婚によって、アリエノールは実家の領有地であるピレネーから北はスコットランドに接するまでの広大な領土を王と共に治めることになり、ボルドーのワインは瞬く間にイギリスに広がっていった。
それまで不味いワインを飲んでいたイングランド人は、ボルドーのワインに大喜びしたということであった。
この歴史的出来事がボルドーのワインの名声を高めるのに一役買ってくれたというわけである。
この時期の輸出は、後に国際的な容量の単位となる、900リットルの樽でなされていた。重さはなんと999キログラム。1トンという単位はここで生まれた。
トン(Ton ) とはフランス語で樽を意味する.小さな樽 トノ ( Tonneau )。
この時期のボルドーワインの一番の顧客はイングランド人だった。
12世紀の時点ですでにフランスよりも外国に多くワインを売っていたのだ。
全数量の85%がイングランドと北欧の国々へ輸出されていた。
ボルドーの葡萄園にクラレットと名付けた(※)のはイングランド人だ。
※Bordeaux clairetの名称は、クラレットへの敬意の形だ。クラレットは薄い透明感のあるワインでロゼワインなども含む。
ヘンリー2世とアリエノールは多くの子供をもうけたが、イギリスとフランスの広大な領地を管理するヘンリー2世とエレオノールは別居が多く、後に離婚。
父母両陣営に分裂した子供を巻き込んでの王位継承の確執を引き起こした。
最終的には二人の愛が冷めた頃に生まれ、父であるヘンリー2世に溺愛されたジョンがプランタジネット朝を継いだが、彼は失政王・失地王として有名になった。なぜならイングランドにおける大陸の領土をことごとく失ったから。
しかしその反面、ボルドーを手厚く優遇したため、ボルドーにとっては大恩人と言えるであろう。
実のところアリエノールはロワールのアンジューにほとんど滞在し、吟遊詩人など宮廷文化の華を開かせた。
ヘンリー2世も元はアンジューのル・マン出身。
おそらくブルゴーニュやシャンパーニュ地方のワインを愛するフランス王に対して、アリエノールやヘンリー2世はロワールワインを愛飲していたのではないだろうか。
カペー朝のシャンパーニュ、アキテーヌ公のボルドーと南西地域、アンジュー伯のロワール。
どれもワインの産地ばかり。フランスの歴史とワインの深いつながりを感じざるをえません。
次週は近代のボルドーをお伝えします。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
文芸春秋の元編集長に「もののふのタイトルは愚息だ」と言われました。
今回60話のテーマは「愚息」で行きます。
愚息道上雄峰は愛媛県八幡浜で生まれましたが、
2歳の時に父道上伯が渡仏し、以来10年間会えなかったのです。
10年後に雄峰も家族とともに渡仏したが、忙しい道上とはあまり一緒には暮らせなかった。
しかもフランス語上達の為自宅ではなく、下宿、寮の生活の方が長かった。
幼年時代の雄峰は普通の子供とあまり変わりなく見えたが、実は自閉症だった。
母親が仕事で帰りが遅くなる事も多かった。
姉たちとは年が離れていてあまり一緒に遊んではもらえなかった。
家の屋根に上り空と交信する事が多かった。僕はどうしてこういう暮らしをしているのだろう、宇宙の先に在る物は何だろう、神はいるのだろうか・・・。
自閉症の為か無口な子だった。口の代わりにすぐ手が出た。
べらべらしゃべる「先生のえこひいきの子」をしょっちゅう殴った。
表現力がないので暴力に訴える事もしばしばだった。
幼稚園、小学校でも村八分だった。
先生にさえ「雄峰君と遊んではいけません、乱暴だから」と言われていた。
とにかく言葉が嫌いだった。人がやった悪さが雄峰のせいになることはしょっちゅうであった。
先生が黒板に書いた間違いでも雄峰が指摘すると叱られた(他の者たちの指摘は褒められた)。 小学校でも答案用紙をまず人の名前で出し、採点後自分の名前に書き直していた事が多かった。 絵をかいても他の生徒の名前で出すと五重丸だが自分の名前だと二重丸かせいぜい三重丸だった。
処世術が嫌いな子供だった。
ある日小学校一年の時先生に知能指数が全国一位だったと知らされる。
180点以上の点数になると先生にも知らされなかったというから300点満点の200点ほどだったんだろうか。
よく神童は大人に成ると馬鹿になると言われるが、
それを地で生きているような子だった。
まったく横文字も知らない状態でフランスへ行ったため最初は小学1年生に入った。
小学1年生は保育園幼稚園へ行った事のない生徒が行くクラスだった。 普通は2年から入学する。フランスでは当時小学校は5年制、中高等学校は7年制だった。
半分以上が小学校卒で働きに行っていた時代だった。
ある日ひょんなことで先生から算数の質問をされ簡単に答えてしまったため、
小学生、中学生、高校生の算数、数学の試験を受けさせられた。
採点したら全問正解で先生がビックリ。
中学か高校へ行くべきだと言いながら 翌日から五年生に上げられてしまった。
しかし五年生のレベルでは何を言っているのかチンプンカンプン。 雄峰渡仏半年目の事だった。
まったく授業についていけないのでわずか1カ月で三年生に格下げになった。
相変わらず表現が上手くできず、すぐ人を殴っていた。
いじめられていたのかいじめていたのか未だにわからない。
雄峰にとってフランスでのストレス解消法だったのかもしれない。
しかし喧嘩ばかりするためとうとう小学校を退学になった。
当時フランスでは、いじめられる日本人の多い時代にあって雄峰は異端児だった。 パリでも日本人は珍しく、ましてやフランス南西(ボルドー)では日本人と出会う事はなかった。
小学校復習2年生クラスがあり、そこへ行った。その後中高等学校(Lysee)に編入。
ここでも数学だけはずば抜けて一番だった。 体育と絵も一番だったが、他の教科はからっきし駄目だった。
ただフランス語は上手になっていた。
会話で分からない事はなくなっていたが相変わらず人のせいにするのが得意なフランス人の前では相変わらずの自閉症だった。
そのため人がやった悪さを雄峰のせいにされる事が多かった。
その仕返しは必ずしたが、毎月職員会議にかかりそのたびに外出禁止や停学になった。
ある日フランス人の同級生に言われた。
「人種差別をしているのは僕達では無くおまえだ」と。 そうかもしれない。
一対一の喧嘩が雄峰対フランスの喧嘩になっていた。フランスが嫌いだった。
フランスでは表現しなければ置いてきぼりになる為、知らず知らずのうちに自己表現をすることを身につけるようになった。
この頃の大きな問題は二国間の言葉の問題だった。
長くフランスに住んでいると日本語を忘れる。 一方フランス語は上手くなる。
丁度フランス語能力と日本語能力がほぼ同じになった時危険な状態が起きた。
自分が分からなくなる。私は誰?ここはどこ?の状態だ。
失語症に掛かり自分のアイデンティティが分からなくなっていく。
ここで一例を上げよう。
あ~という音を大きな声で発すると(真言・マントラ)肺が共鳴する。
人間が情緒的になる。ちなみにスペイン語に多い発音だpatatas fritas (フライドポテト)。 スペイン人はプライドが高く思えた。柔道の練習で相手を倒すとにらみつけてくることが多かった。
い~の場合眉間が共鳴する。人間が率直に成る。
イタリア語に多いi pisellini (小さいえんどう豆)。
イタリア人は愛情をストレートに表現する。「愛しているよ!来世も一緒にいたい」
問題は翌日別の女性にも同じことを言う事だ。
う~はドイツ語に多い umgebungsindustrie (環境産業)。
ウーは丹田を刺激する。ドイツ語の言葉は意味が深い。
え~は甲状腺を刺激する。人間が合理的になる。
ファースト・フードの発祥が多いのは英語圏である excellent (素晴らしい)。
お~は心臓を刺激する。超常感覚機能が発達する。
ロシア語に多い発音だOBOЩHOЙ (野菜)。ロシアは世界で最もテレパシーのようなものを研究している。 そういえばラスプーチンもロシア人だ。
では日本人はどうだ?
日本語の発音は語尾が落ちる。「僕が\↓」と最後の音が落ちる。
日本の古い歌はストレートに声を出さないで一端飲み込んでから発声することが多い。 しかも音よりも音と音の間の「間」を重んじる。その「間」の為に音を出すと言う事をある三味線の家元に御教授頂いた事がある。
これだけ極端な差があると二か国語が同じように話せると人は迷う。
言葉の持つ意味が異なる。 たとえばアイデアという言葉はアイデアと訳されるだけではなく、いろいろな意味を含む。またその逆もまたある。
しかも人間は言葉を通して考える事が多い。
日系二世が全く日本人と異なる顔をしていることが多いのはなぜだろう。
日本で生まれ育った外国人は日本人のようなオーラ持っているが決して食べ物や気候のせいでは無い。
雄峰は自分のアイデンティティを取り戻すべく、フランスの学校を飛び出しスウェーデン経由で日本帰国を考えた。 スウェーデンでは当時お金がない外国人を自国へ強制送還させた。 そこで日本に帰れると勝手に思い込んでいたが当時国際法で二十歳までは父親の許可なしに海外には行けない。
雄峰17歳。馬鹿だった。
以前にも書いたが、帰国することでも相当道上に叩かれた。
しかしある国家試験に合格し、先に帰っていた清水猛(義兄)の受け入れ許可のお蔭で日本へ帰国が許された。
帰国後早速日本で受験したが何処も受け入れてもらえず、唯一東京九段下にあった暁星高校に受け入れてもらえる事になった。
受験した時には中学二年に編入することでどうかということだったが、17歳になっていた雄峰にはあまりにも落差があったため、 お願いして何とか高校一年の二学期からの入学となった。
当然日本語の方がフランス語より下手だった。
それも自身ではまったく気がついていなかった。 本人はしっかりしゃべっているつもりでも通じていないとよく同級生に言われた。 何といっても試験の問題が分からなかった。漢字も文章も。それでも日本に帰れてうれしかった。
日本語もフランス語もおぼつかないにもかかわらず雄峰は早速フランス語の個人レッスンを始めた。そしてフランス語の通訳もやった。 日本語もフランス語も下手だったが、会話において雄峰ほど日本語が出来るフランス人はいなかったし雄峰ほどフランス語が出来る日本人もいなかったためごまかしがきいた。
しかもかなりの高給をもらっていた。
帰国当初は雄峰も学校では人気者だった。フランスの出来事をよく質問された。
半年ぐらい経ったころには周りには誰も居なくなっていた。
変わり者は排除される処世術の国が日本だった。フランス以上に日本で差別された。
外国帰りと言うだけで付き合っている女性との間を引き裂かれた。
会社はどこも採用してくれなかった。今とは真逆の時代だった。
フランスで日本国の看板を背中に背負って戦ったつもりでいた雄峰は
心のなかで「俺の祖国は何処だ!」と叫ぶ毎日だった。
帰国後三年経ったころだろうか
またしても日本語とフランス語の語学力が均等に成った途端再び失語症に掛かり、 私は誰?ここは何処?の状態になった。
ところが卒業後同じ帰国子から聞いたことは思いがけない事であった。
暁星高校は一学年10人ほどの帰国子が在籍していた。
その大半が精神病院に通っていたと言う。
雄峰には精神病院に通うなどという知識もなかった。
だったらどうしてもっと早く僕に打ちあけてくれなかったのか。
きっと皆一人で悩んでいたのだろう。
人に話しても理解されない内容だった。
親の仕事の関係で海外で生活した子供は多い。良い意味でも悪い意味でも変わった日々を送ったはずだ。 子供は半分外国で半分日本で暮らさせようと言う無知な母親が当時もいた。その言葉で多くの帰国子女の反感を買っただろう。
人に言えない、言っても理解されない苦しみがあった。
雄峰の支えは父道上伯が強かったことだ。
どういったことにも、へこたれない姿勢が、私は誰?ここは何処?
そんなやわな事を気にしない勇気を貰えた。
ただあのままフランスに残っていると自分がどうしようもない人間になって行くと思った。 やはり日本語でも良い、フランス語でも良い、自分の軸となる文化 言語を持つべきだといまだに思う。
帰国子女が雇用されない時代だったため
雄峰は大学在学中に貿易会社をつくった。そのまま今日も同じ会社を営んでいる。
三十歳を過ぎた頃からだろうか、物を売るために必死で喋るようになったが今でも自宅では無口だ。
自閉症の人間を身近にして最近初めて自閉症の存在を知った。
今の若い世代は世界中同じ格好をして同じ音楽を聴き同じスマホを持っている。
外国との距離が無くなった。
本当にこれで良いのだろうか?疑問が残るところだ。
日本に帰れることで思いが具現化した雄峰とは裏腹に、フランスに残された道上伯は残った女房とほとんど口をきかずまた一人の生活に戻った。
ボルドー、海外と飛び回っていたが、パリにはトランジットで泊まる程度だった。
夫婦仲は冷え込んでいた。
日本へ帰った当時、雄峰は日本に戸惑ったが、
道上伯と現代の日本社会との穴は埋まらずじまいだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
文芸春秋の元編集長に「もののふのタイトルは愚息だ」と言われました。
今回60話のテーマは「愚息」で行きます。
愚息道上雄峰は愛媛県八幡浜で生まれましたが、 2歳の時に父道上伯が渡仏し、以来10年間会えなかったのです。
10年後に雄峰も家族とともに渡仏したが、忙しい道上とはあまり一緒には暮らせなかった。
しかもフランス語上達の為自宅ではなく、下宿、寮の生活の方が長かった。
幼年時代の雄峰は普通の子供とあまり変わりなく見えたが、実は自閉症だった。
母親が仕事で帰りが遅くなる事も多かった。
姉たちとは年が離れていてあまり一緒に遊んではもらえなかった。
家の屋根に上り空と交信する事が多かった。
僕はどうしてこういう暮らしをしているのだろう、宇宙の先に在る物は何だろう、神はいるのだろうか・・・。
自閉症の為か無口な子だった。口の代わりにすぐ手が出た。
べらべらしゃべる「先生のえこひいきの子」をしょっちゅう殴った。
表現力がないので暴力に訴える事もしばしばだった。
幼稚園、小学校でも村八分だった。
先生にさえ「雄峰君と遊んではいけません、乱暴だから」と言われていた。
とにかく言葉が嫌いだった。人がやった悪さが雄峰のせいになることはしょっちゅうであった。
先生が黒板に書いた間違いでも雄峰が指摘すると叱られた(他の者たちの指摘は褒められた)。
小学校でも答案用紙をまず人の名前で出し、採点後自分の名前に書き直していた事が多かった。
絵をかいても他の生徒の名前で出すと五重丸だが自分の名前だと二重丸かせいぜい三重丸だった。
処世術が嫌いな子供だった。
ある日小学校一年の時先生に知能指数が全国一位だったと知らされる。
180点以上の点数になると先生にも知らされなかったというから300点満点の200点ほどだったんだろうか。
よく神童は大人に成ると馬鹿になると言われるが、 それを地で生きているような子だった。
まったく横文字も知らない状態でフランスへ行ったため最初は小学1年生に入った。
小学1年生は保育園幼稚園へ行った事のない生徒が行くクラスだった。
普通は2年から入学する。フランスでは当時小学校は5年制、中高等学校は7年制だった。
半分以上が小学校卒で働きに行っていた時代だった。
ある日ひょんなことで先生から算数の質問をされ簡単に答えてしまったため、 小学生、中学生、高校生の算数、数学の試験を受けさせられた。
採点したら全問正解で先生がビックリ。
中学か高校へ行くべきだと言いながら 翌日から五年生に上げられてしまった。
しかし五年生のレベルでは何を言っているのかチンプンカンプン。 雄峰渡仏半年目の事だった。
まったく授業についていけないのでわずか1カ月で三年生に格下げになった。
相変わらず表現が上手くできず、すぐ人を殴っていた。
いじめられていたのかいじめていたのか未だにわからない。
雄峰にとってフランスでのストレス解消法だったのかもしれない。
しかし喧嘩ばかりするためとうとう小学校を退学になった。
当時フランスでは、いじめられる日本人の多い時代にあって雄峰は異端児だった。
パリでも日本人は珍しく、ましてやフランス南西(ボルドー)では日本人と出会う事はなかった。
小学校復習2年生クラスがあり、そこへ行った。その後中高等学校(Lysee)に編入。
ここでも数学だけはずば抜けて一番だった。
体育と絵も一番だったが、他の教科はからっきし駄目だった。
ただフランス語は上手になっていた。
会話で分からない事はなくなっていたが相変わらず人のせいにするのが得意なフランス人の前では相変わらずの自閉症だった。
そのため人がやった悪さを雄峰のせいにされる事が多かった。
その仕返しは必ずしたが、毎月職員会議にかかりそのたびに外出禁止や停学になった。
ある日フランス人の同級生に言われた。
「人種差別をしているのは僕達では無くおまえだ」と。
そうかもしれない。
一対一の喧嘩が雄峰対フランスの喧嘩になっていた。フランスが嫌いだった。
フランスでは表現しなければ置いてきぼりになる為、知らず知らずのうちに自己表現をすることを身につけるようになった。
この頃の大きな問題は二国間の言葉の問題だった。
長くフランスに住んでいると日本語を忘れる。
一方フランス語は上手くなる。
丁度フランス語能力と日本語能力がほぼ同じになった時危険な状態が起きた。
自分が分からなくなる。私は誰?ここはどこ?の状態だ。
失語症に掛かり自分のアイデンティティが分からなくなっていく。
ここで一例を上げよう。
あ~という音を大きな声で発すると(真言・マントラ)肺が共鳴する。
人間が情緒的になる。ちなみにスペイン語に多い発音だpatatas fritas (フライドポテト)。
スペイン人はプライドが高く思えた。柔道の練習で相手を倒すとにらみつけてくることが多かった。
い~の場合眉間が共鳴する。人間が率直に成る。
イタリア語に多いi pisellini (小さいえんどう豆)。
イタリア人は愛情をストレートに表現する。「愛しているよ!来世も一緒にいたい」
問題は翌日別の女性にも同じことを言う事だ。
う~はドイツ語に多い umgebungsindustrie (環境産業)。
ウーは丹田を刺激する。ドイツ語の言葉は意味が深い。
え~は甲状腺を刺激する。人間が合理的になる。
ファースト・フードの発祥が多いのは英語圏である excellent (素晴らしい)。
お~は心臓を刺激する。超常感覚機能が発達する。
ロシア語に多い発音だOBOЩHOЙ (野菜)。
ロシアは世界で最もテレパシーのようなものを研究している。
そういえばラスプーチンもロシア人だ。
では日本人はどうだ?
日本語の発音は語尾が落ちる。「僕が\↓」と最後の音が落ちる。
日本の古い歌はストレートに声を出さないで一端飲み込んでから発声することが多い。
しかも音よりも音と音の間の「間」を重んじる。その「間」の為に音を出すと言う事をある三味線の家元に御教授頂いた事がある。
これだけ極端な差があると二か国語が同じように話せると人は迷う。
言葉の持つ意味が異なる。
たとえばアイデアという言葉はアイデアと訳されるだけではなく、いろいろな意味を含む。またその逆もまたある。
しかも人間は言葉を通して考える事が多い。
日系二世が全く日本人と異なる顔をしていることが多いのはなぜだろう。
日本で生まれ育った外国人は日本人のようなオーラ持っているが決して食べ物や気候のせいでは無い。
雄峰は自分のアイデンティティを取り戻すべく、フランスの学校を飛び出しスウェーデン経由で日本帰国を考えた。
スウェーデンでは当時お金がない外国人を自国へ強制送還させた。
そこで日本に帰れると勝手に思い込んでいたが当時国際法で二十歳までは父親の許可なしに海外には行けない。
雄峰17歳。馬鹿だった。
以前にも書いたが、帰国することでも相当道上に叩かれた。
しかしある国家試験に合格し、先に帰っていた清水猛(義兄)の受け入れ許可のお蔭で日本へ帰国が許された。
帰国後早速日本で受験したが何処も受け入れてもらえず、唯一東京九段下にあった暁星高校に受け入れてもらえる事になった。
受験した時には中学二年に編入することでどうかということだったが、17歳になっていた雄峰にはあまりにも落差があったため、 お願いして何とか高校一年の二学期からの入学となった。
当然日本語の方がフランス語より下手だった。
それも自身ではまったく気がついていなかった。
本人はしっかりしゃべっているつもりでも通じていないとよく同級生に言われた。
何といっても試験の問題が分からなかった。漢字も文章も。それでも日本に帰れてうれしかった。
日本語もフランス語もおぼつかないにもかかわらず雄峰は早速フランス語の個人レッスンを始めた。そしてフランス語の通訳もやった。
日本語もフランス語も下手だったが、会話において雄峰ほど日本語が出来るフランス人はいなかったし雄峰ほどフランス語が出来る日本人もいなかったためごまかしがきいた。
しかもかなりの高給をもらっていた。
帰国当初は雄峰も学校では人気者だった。フランスの出来事をよく質問された。
半年ぐらい経ったころには周りには誰も居なくなっていた。
変わり者は排除される処世術の国が日本だった。フランス以上に日本で差別された。
外国帰りと言うだけで付き合っている女性との間を引き裂かれた。
会社はどこも採用してくれなかった。今とは真逆の時代だった。
フランスで日本国の看板を背中に背負って戦ったつもりでいた雄峰は 心のなかで「俺の祖国は何処だ!」と叫ぶ毎日だった。
帰国後三年経ったころだろうか
またしても日本語とフランス語の語学力が均等に成った途端再び失語症に掛かり、 私は誰?ここは何処?の状態になった。
ところが卒業後同じ帰国子から聞いたことは思いがけない事であった。
暁星高校は一学年10人ほどの帰国子が在籍していた。
その大半が精神病院に通っていたと言う。
雄峰には精神病院に通うなどという知識もなかった。
だったらどうしてもっと早く僕に打ちあけてくれなかったのか。
きっと皆一人で悩んでいたのだろう。
人に話しても理解されない内容だった。
親の仕事の関係で海外で生活した子供は多い。良い意味でも悪い意味でも変わった日々を送ったはずだ。
子供は半分外国で半分日本で暮らさせようと言う無知な母親が当時もいた。その言葉で多くの帰国子女の反感を買っただろう。
人に言えない、言っても理解されない苦しみがあった。
雄峰の支えは父道上伯が強かったことだ。
どういったことにも、へこたれない姿勢が、私は誰?ここは何処?
そんなやわな事を気にしない勇気を貰えた。
ただあのままフランスに残っていると自分がどうしようもない人間になって行くと思った。
やはり日本語でも良い、フランス語でも良い、自分の軸となる文化 言語を持つべきだといまだに思う。
帰国子女が雇用されない時代だったため 雄峰は大学在学中に貿易会社をつくった。そのまま今日も同じ会社を営んでいる。
三十歳を過ぎた頃からだろうか、物を売るために必死で喋るようになったが今でも自宅では無口だ。
自閉症の人間を身近にして最近初めて自閉症の存在を知った。
今の若い世代は世界中同じ格好をして同じ音楽を聴き同じスマホを持っている。
外国との距離が無くなった。
本当にこれで良いのだろうか?疑問が残るところだ。
日本に帰れることで思いが具現化した雄峰とは裏腹に、フランスに残された道上伯は残った女房とほとんど口をきかずまた一人の生活に戻った。
ボルドー、海外と飛び回っていたが、パリにはトランジットで泊まる程度だった。
夫婦仲は冷え込んでいた。
日本へ帰った当時、雄峰は日本に戸惑ったが、 道上伯と現代の日本社会との穴は埋まらずじまいだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士 (もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
突然日本から電報が届いた。
志摩子の夫、清水猛に日本へ帰るようにという内容だった 。
当時清水園と言えば 関東一円で最も大きな料亭だった。
1万坪を優に超える広大な敷地には滝があり 、部屋は全て離れの一軒家。
高床式になっていてその下を池がめぐっていた。
当時埼玉県警にいた亀井静香(国会議員)は
その床に潜み右翼たちの会話を盗み聞きしようと試みたそうだ。
その女将の相続をめぐって 孫の猛は日本に 帰らなければいけなくなった。
そうなると 道上家の中心だった志摩子、清水猛、娘清水美津里、の3名がいなくなる。 在仏道上家の崩壊である。道上は猛に思い留まらせるよう必死で説得にかかった。
清水猛は清水園存続の為必死で道上の説得にあたった。
清水猛は人柄もよく 、しかもなかなか忍耐強い男だった。
幾度となく繰り返される道上の引き留めには大変苦労したが、長男でほかに男兄弟のいない彼は 苦しみながらも粘り強く道上を説得した。 半年後には道上もようやくあきらめ帰国を了解する。1969年の事だった。
清水猛在仏2年強、清水志摩子在仏5年。いろいろなことがあった。
1968年のパリ5月革命も経験した。交通遮断。食料は途絶える。
もちろん猛にとって大好きな煙草も買えない。
何といっても 道上の浦島太郎の様な生き方、何もわからないフランスでの生活。
全てが未経験の事だった。 いつも道上家の張りつめた雰囲気(怖陰気)が、
猛が同居することによってひと時の春だった。
男尊女卑の道上家では、愚息は道上から毎日手刀(3本指先)で頭をどつかれた。
毎日指折り数えたが、猛が来てからもついにどつかれない日は無かった。
3本指を手首のスナップだけで 愚息の額をどつく。
その瞬間頭がくらくらする。 もどしたり下痢したりする愚息だった。
道上は志摩子や特に猛には優しかった。
しかし猛は言った 「男には将来の為 強くなければいけないと言う理由から厳しくなる。 女性はいつかは巣立っていくから 甘い。雄峰君が羨ましい」と。
そんな志摩子も一度だけ道上にひっぱたかれたことがある。
家族の団欒の中でまだ猛が来仏していない頃、日本での噂の話になった 。
道上にはフランスに女がいるというものだ。
一度もフランスへ来た事も無い人達のやっかみの噂である。
一方女房小枝には 日本で男がいるとの噂を 道上が切り出した。
その時軽蔑したような顔で 志摩子はせせら笑った。
その瞬間道上の平手打ちが飛んだ。
志摩子はおよそ5分にわたって道上をにらみ続けた。
道上が「お父さんには数十万の弟子が居るが お父さんをにらんだのは君一人だ」。
いろいろなことがあった。
愚息もフランスの水が合わなかったようだ 。
日本に帰りたくてハチャメチャをやってのけた。
彼には猛のように道上を説得する力は無かった。
もともと相手にされていなかったからだ。
志摩子は現在清水園の代表として忙しい毎日を送っている。
疲れが溜まりすぎると、誰にも知らせずパリへ飛ぶ。
パリの街角にたつカフェで1人のんびり猛との思い出にふける。
昔のパリ、カフェは座って通る人達を眺めるだけで飽きなかった。
猛はカフェで過ごすのが大好きだった。
世界中の人たちがいろいろな格好で自己顕示する。見ているだけで飽きない。
当時のスティリストのデザインはストリート・ファッションのパクりだった。
街で流行ったものを2年後にバリ・コレが世界に発信する。
橋の欄干にもたれ遠くを見つめる外国人たち。
その目線の先は祖国に残した家族恋人達であろうか。
哀愁漂う光景を目にする一方、
抱き合い永遠の愛の誓いを表現する若者たちの姿が心に残る。
誰もが恋人を連れて必ずパリに来るぞと心に誓う。
愛する人、愛する家族、愛する母国と心から向き合えるのがパリなのだろうか。
手をつないで歩く老夫婦が美しい。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
突然日本から電報が届いた。
志摩子の夫、清水猛に日本へ帰るようにという内容だった 。
当時清水園と言えば 関東一円で最も大きな料亭だった。
1万坪を優に超える広大な敷地には滝があり 、部屋は全て離れの一軒家。
高床式になっていてその下を池がめぐっていた。
当時埼玉県警にいた亀井静香(国会議員)は その床に潜み右翼たちの会話を盗み聞きしようと試みたそうだ。
その女将の相続をめぐって 孫の猛は日本に 帰らなければいけなくなった。
そうなると 道上家の中心だった志摩子、清水猛、娘清水美津里、の3名がいなくなる。
在仏道上家の崩壊である。道上は猛に思い留まらせるよう必死で説得にかかった。
清水猛は清水園存続の為必死で道上の説得にあたった
清水猛は人柄もよく 、しかもなかなか忍耐強い男だった。
幾度となく繰り返される道上の引き留めには大変苦労したが、長男でほかに男兄弟のいない彼は 苦しみながらも粘り強く道上を説得した。
半年後には道上もようやくあきらめ帰国を了解する。1969年の事だった。
清水猛在仏2年強、清水志摩子在仏5年。いろいろなことがあった。
1968年のパリ5月革命も経験した。交通遮断。食料は途絶える。
もちろん猛にとって大好きな煙草も買えない。
何といっても 道上の浦島太郎の様な生き方、何もわからないフランスでの生活。
全てが未経験の事だった。
いつも道上家の張りつめた雰囲気(怖陰気)が、 猛が同居することによってひと時の春だった。
男尊女卑の道上家では、愚息は道上から毎日手刀(3本指先)で頭をどつかれた。
毎日指折り数えたが、猛が来てからもついにどつかれない日は無かった。
3本指を手首のスナップだけで 愚息の額をどつく。
その瞬間頭がくらくらする。
もどしたり下痢したりする愚息だった。
道上は志摩子や特に猛には優しかった。
しかし猛は言った 「男には将来の為 強くなければいけないと言う理由から厳しくなる。
女性はいつかは巣立っていくから 甘い。雄峰君が羨ましい」と。
そんな志摩子も一度だけ道上にひっぱたかれたことがある。
家族の団欒の中でまだ猛が来仏していない頃、日本での噂の話になった 。
道上にはフランスに女がいるというものだ。
一度もフランスへ来た事も無い人達のやっかみの噂である。
一方女房小枝には 日本で男がいるとの噂を 道上が切り出した。
その時軽蔑したような顔で 志摩子はせせら笑った。
その瞬間道上の平手打ちが飛んだ。
志摩子はおよそ5分にわたって道上をにらみ続けた。
道上が「お父さんには数十万の弟子が居るが お父さんをにらんだのは君一人だ」。
いろいろなことがあった。
愚息もフランスの水が合わなかったようだ 。
日本に帰りたくてハチャメチャをやってのけた。
彼には猛のように道上を説得する力は無かった。
もともと相手にされていなかったからだ。
志摩子は現在清水園の代表として忙しい毎日を送っている。
疲れが溜まりすぎると、誰にも知らせずパリへ飛ぶ。
パリの街角にたつカフェで1人のんびり猛との思い出にふける。
昔のパリ、カフェは座って通る人達を眺めるだけで飽きなかった。
猛はカフェで過ごすのが大好きだった。
世界中の人たちがいろいろな格好で自己顕示する。見ているだけで飽きない。
当時のスティリストのデザインはストリート・ファッションのパクりだった。
街で流行ったものを2年後にバリ・コレが世界に発信する。
橋の欄干にもたれ遠くを見つめる外国人たち。
その目線の先は祖国に残した家族恋人達であろうか。
哀愁漂う光景を目にする一方、 抱き合い永遠の愛の誓いを表現する若者たちの姿が心に残る。
誰もが恋人を連れて必ずパリに来るぞと心に誓う。
愛する人、愛する家族、愛する母国と心から向き合えるのがパリなのだろうか。
手をつないで歩く老夫婦が美しい。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |


