RSS

「古武士(もののふ) 第36話 オリンピック決勝 日本柔道敗れる」



「古武士(もののふ)第36話 オリンピック決勝 日本柔道敗れる」

2014年10月24日


いつの時代も多くの人達は衝撃を受ける。現実を理解していないからだ。
1964年東京オリンピックで注目の柔道の決勝戦が行われもっとも大きな衝撃として日本人の胸に残った。

大会当日道上は控室で一人ひっそりと試合が終わるのを待っていた。
そこへコーニング(オランダチーム団長)が来て、「先生是非決勝戦を見て下さい。ヘーシンクたってのお願いです」と懇願され、結局パリの世界大会のように道上は決勝戦を会場で観戦することとなった。

対戦は神永対ヘーシンク。神永が得意の体落としを仕掛ける機会をうかがうように右へ、右へとまわってチャンスを作ろうとする動きから始まった。ヘーシンクは相手の左足をねらった支え釣り込み腰から、寝技に持ち込むのが得意だからだ。

どちらも得意技を仕掛けるタイミングがつかめないまま五分が過ぎた時、それまで右へまわリ続けていた神永が、ヘーシンクの力と動きに引き込まれるように左へまわった。すかさずヘーシンクの右足が飛ぶ。神永の膝が落ちる。「技あり」にこそならなかったが、明らかにヘーシンクのポイント。

ヘーシンクはそのまま寝技に入る。横四方固め。場内に悲鳴が起こる。「神永頑張れ」の声が場内にこだまする。その声に後押しされるように、かろうじて抑え込みから逃れる。ポイントを取られた神永は、ここから必死の反撃にでる。

しかし、リードを奪って余裕のヘーシンクは、全く動じない。神永は無理な体勢から攻撃に出ようとするため、スタミナをどんどん消耗しているように見える。
決勝戦の時間は10分。8分を過ぎたころ神永に焦りの色が濃くなった。

8分40秒になった時、神永必死の体落としにいく。 疲労の為か切れ味が悪い。体制が崩れたところをすかさずヘーシンクは、手で神永の足を払い、寝技にもち込む。 ここからはパリのコピーを見ているようだった。

主審の「抑え込み」の声とともに、がっちりと袈裟固めが決まっていた。
十秒、二十秒・・・・。三十秒はあっという間に過ぎた。

その瞬間をNHKラジオアナウンサー河原武雄は、
「日本の柔道敗れました。今や柔道は日本だけのものではありません。
柔道は世界の柔道になりました。新しい時代がやって来ました」と叫んだ。

東京オリンピックにてヘーシンクを見つめる道上伯


ヘーシンクの勝利の瞬間オランダ選手団の一人は喜びのあまり、畳の上のヘーシンクに駆け寄ろうとした。

「この時、一万五千人の観客は、ヘーシンクとは何者かを見た。
ヘーシンクは右手をかざした。畳に駆け上がろうとするオランダ青年を制したのだ。
武道館に衝撃が走った。『負けた』と日本人の誰もが思った。正しい柔道を継承し、力や技だけでなくその心まで会得していた者は、ヘーシンクその人だと観客は知った」
(馬場信浩「ヘーシンクが”日本”を抑え込んだ日」『スポーツ・グラフイック・ナンバー』昭和58年10月20日号)」

ヘーシンクは倒れたままの神永を助け起こした。神永はにっこり笑って、ヘーシンクの差し出した手を握った。「正座して衣紋を直す神永の顔は真っ青で、泣いているように見えた」と瀬戸内晴美(後寂聴)は書いている。

礼を終えたヘーシンクは、神永を促して貴賓室にいた皇太子に一礼して、試合場を去った。

一万五千人の大観衆のどよめきを後に、ヘーシンクは控室に戻って待っていた道上の手を無言で握った。握手を交わした後、ヘーシンクは一歩下がって、日本式にていねいにお辞儀をして、「有難う御座いました」と日本語で道上に礼を尽くした。

優勝の報告

これらの一連の出来事を見た日本人はびっくりした。しかしヨーロッパでは当たり前のことだった。少なくとも道上の見ている前では。 どの道場でも一礼してから上がる。道上が来るまで皆一列で正座の上整列して無言で待つ。当たり前のことだ。

試合の最中もヤジや私語は一切ない。禅に通ずると道上が言っているがこれが本来の柔道である。 現在の様にロックの音楽が鳴り響く場所で食しながら見るものではない。ヘーシンクは日常通りにやったまでだ。

金メダルを授与される表彰式を、道上は会場の片隅でみていた。
そのときの様子を伝えた珍しい報道が有るので、引用しておく。

「武道館のメインポールに異国の旗が上がって行く。ヘーシンクの育ての親、アンチ講道館の野人として知られる道上伯氏は、ひきつった顔をオランダ国旗の方に向けたままだ。『今こそ宿願の打倒講道館をはたした。しかし日本は敗れた・・・。』
道上氏の感慨は複雑なもんであった。」
(『週刊現代』昭和39年11月5日号)

三年前の世界選手権で素直に喜んだ道上だったが、今回は愛弟子にとはいえ日本柔道がかくも無残に敗れるのをみると、日本柔道の先行きに対し暗澹たる気分を拭えなかった。

このまま武道の柔道がスポーツのJudo に成るのだろうか・・・・。

次回は「家族をフランスへ」


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




▲ページ上部へ


「古武士(もののふ) 第35話 東京オリンピック開幕」



「古武士(もののふ) 第35話 東京オリンピック開幕」

2014年10月17日



いよいよオリンピックが近付いて来た。
東京オリンピックにおいて柔道が種目として誕生したのは開催地が日本だからと思っている人達が多かった。 事実開催地が日本である事を利用して柔道をオリンピックに組み入れようとヨーロッパの柔道連盟は動いた。 しかし当初柔道は東京オリンピックのみの種目の予定だった。

だが軽量級、中量級、重量級、無差別、このうちの2階級をヨーロッパがとれば、いや、無差別一つでもとれば、 柔道がオリンピック種目に組み込まれるという可能性をヨーロッパ柔道界は考えていた。

道上はオリンピックの種目に柔道が組み入れられる事を必ずしも良しとしなかった。 時期尚早である。本来の柔道ではなくなるという懸念があった。
しかし、もうヘーシンクの出場を止める事は出来なかった。ダッチ・シェル(石油会社)から道場を貰い受け、 橋の名がヘーシンク、通りの名がヘーシンクに変えられる勢いであった。

そこで道上は、日本柔道界に「このまま神永五段を出せば間違いなく金メダルはヘーシンクに持っていかれてしまう。 もっと別の選手を出すべきだ」とアドバイスをしたが日本側は聞く耳を持たなかった。
残念なるかな日本柔道界の世間知らず。先を見通す目、戦略の無さ、このままでは完全に柔道はオリンピックに吸収され 本来の柔道は無くなってしまう。

道上は予算の無いフランス柔道界のため鎌倉の禅寺・光明寺住職にフランス柔道家の滞在を頼み込み、 フランス人柔道家百一人を引率して光明寺に滞在していた。 集団生活をしながらオリンピック柔道を見学させ、併せて日本観光をさせるためだった。

道上はヘーシンクの勝利を確信していたから、当日も試合会場には行かないつもりだった。 オリンピックの試合当日は、引率して来たフランス人たちを送り出したら、一人ひっそりと寺でテレビ観戦することに決めていた。
祖国の柔道がふたたび敗れて、パリの世界選手権のときのように、いわれのない呪詛、誹謗を受けるのは耐えられないと思ったからだった。

ヘーシンクが世界選手権で覇者となったところで道上のオランダでの役割は果たしたと思っていた。 貧しい育ちから一躍オランダの英雄となったことでヘーシンクの道場への入会申し込みは後を絶たない。
いやヘーシンクの道場だけではなくオランダ中の道場に入門者が増え、オランダの柔道は少なからず活性化した。 道上がオランダに柔道を広めるという役割はこの時点で完成した。

アフリカ連続チャンピオン、ヨーロッパチャンピオン、色々な選手を育てて来たが、 オリンピックはその一出来事であった。ただこのままいくと柔道はスポーツ、強いてはオリンピック・ビジネスに飲み込まれ 武士道としての日本文化では無くなってしまう、その懸念が強かった。

そんな思いの中、試合当日(10月23日)が近付くにつれて、ヘーシンクは次第に落ち着きを失っていた。 パリの世界選手権戦前夜とそっくりだった。

道上がオランダでたまたま知り合った安藤直正(文藝春秋元編集長)が、オランダ選手団の宿舎を訪ねたときだった。 チームの責任者コーニングが旧知の安藤を見つけ、「安藤さん、道上先生を探してください」と言う。 「ヘーシンクが、道上先生がそばにいてくれないと不安でたまらない、と言ってきかなくて困っています」

安藤は早速、東京都内の道上姓の家を片っ端から電話をかけたがわからない。 道上の実弟が千葉にいると聞き及んで、ようやくこの弟から道上の居場所を聞き出した。 こうして道上のところに、オランダチームの面々が現れた。

道上がヘーシンクに会ったのは、試合の二日前、10月21日のことだった。
直前まで、無差別にエントリーする選手は、猪熊功(当時・順天堂大学助手)とみられていた。 ヘーシンクにとっては、猪熊は初めて対戦する選手で、稽古すらやったことがなかった。 そのため一層不安が増幅したのだろう。

猪熊は一本背負いを得意としていたが、ヘーシンクはいまだ対戦したことのないこの相手を想定して、 東京へきてから十分稽古を尽くし、作戦も練っていた。 ヘーシンクが猪熊を想定して稽古をしているという情報は、日本側にも伝わっていた。 したがって、急遽選手を変えてくるかもしれなかった。

一方神永が、対ヘーシンク用の特訓を積んでいるという情報が入ってきた。
苦手のランニングと激しい練習によって足を鍛え、百十キロの体重を百キロまで絞り込んだという。 ぐんと動きが良くなり、得意の左体落とし、内股、大外刈りに冴えを増したと伝えられてた。

ヘーシンクはこうしたことを道上に一気に訴えた。じっとヘーシンクの言葉を聞いていた道上は、静かにいった。
「猪熊、神永のどちらがきても、君とは実力が違う。断然君が上だ。落ち着いて戦えば必ず勝利する」 ヘーシンクは道上のこの一言によって、すっかり落ち着きを取り戻した。 十月二十三日の試合当日、道上は控室に詰めて、ヘーシンクを試合場へ送り出した。そして道上はそのまま控室で待機した。

ヘーシンク、神永両選手が出場するため、無差別は他の選手が敬遠し、結局 九選手しかエントリーしなかった。 これではまともなトーナメントにならない。そこで考え出されたのが敗者復活戦を加えた組み合わせだった。 その結果、ヘーシンクと神永は二度対決することになった。

ヘーシンクは予選一回戦でイギリスのペサーブリッジと対戦。支え釣り込み腰でなんなく「一本」をとる。開始わずか七秒のことだった。 次は神永との対決。
予選の試合時間は六分。開始間もなく、ヘーシンクの支え釣り込み腰に神永が倒れる。 すかさず押さえ込みに入るが、神永懸命に逃れる。あとは神永反撃の機会もなく、ヘーシンク圧倒的優勢で判定勝ち。
準決勝も勝ってそのままヘーシンクは決勝へ。神永は敗者復活戦へまわる。

その後神永は三人の外国人選手を破って敗者復活戦を勝ち上がり、決勝でふたたびヘーシンクとあいまみえることになった。

すでにそれまでに、軽量級で中谷雄英(たけひで)、中量級で岡野功、重量級で猪熊功が金メダルを獲得していた。 しかし、パリーでヘーシンクに敗れた日本柔道界にとって、無差別の勝者こそ真の覇者、この階級で負ければ何の意味もないに等しかったのである。

その意味でオリンピックの無差別の勝者こそ、真の世界一と誰もが思っていた。


次回は「オリンピック決勝 日本柔道敗れる」


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




▲ページ上部へ


古武士(もののふ) バックナンバー



柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」


メルマガ購読お申込みはこちら







メルマガ著者紹介


道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



「古武士(もののふ)番外編 ボルドーの古武士 5/5」



「古武士(もののふ)番外編  ボルドーの古武士 5/5」


■まな弟子が変節、長い間疎遠に
■「心」忘れた柔道家に懸念
■己を鍛え他に尽くす。それが武士道精神

【ヘーシンクは東京五輪で優勝、祖国オランダで英雄扱いされた。映画出演やプロレス入り。武士道精神を理解していたはずの愛弟子の”変節”を心配した】

 1961年、世界選手権に初優勝し、ヘーシンクはオランダのヒーローになりました。大会後は市がオープンカーを手配し、凱旋(がいせん)パレード。しかし、この時は優越感に浸っているようには思えませんでした。

 市から無償援助で自宅を大きくする話まで持ち上がると、彼は驚き、戸惑い、私に相談してきました。「せっかくの話だから、改築してもらえばいいじゃないか」と言ったのですが、周りがあまりに親切なので怖くなったようです。本来はそういう男です。

 ところが、東京オリンピックに勝ち、引退すると変わっていった。映画出演にも反対でしたが、それはまだいい。しかし、次はプロレスに行くと。「これは完全な”商売”で、日本だったら柔道を教える資格がなくなるのだ」と止めたのですが・・・。それから長い間、彼と疎遠になりました。

 しばらくして彼は柔道の世界に戻り、今は国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めています。最近は、時折、手紙が届いたり、大会の時など会うこともある。年齢を重ねて、あの時、私が言いたかったことをわかってくれたのだ、と願っておりますよ。


【ヘーシンクは、日本が反対したカラー柔道着導入の急先鋒にもなった。】

 カラー柔道着導入については、競技上、私はいいことだと思っています。どちらが投げられたか、審判がすぐ分かりますから。日本は従来の白のみを主張したようですが、変えていい伝統もあるわけですよ。

 実際、明治から大正時代にかけて、柔道着のパンツは、ひざの少し下くらいまでが主流。今のように長くなっても、悪いとは多くの人が思わない。外国の意見も聞き、よい提案なら受け入れればいいのです。

 逆に本質に関わる部分で、譲ってはならないものを譲ってしまった。柔道の醍醐味を損なう細かく分けた階級制、指導や注意で勝負がついてしまうようなルールの採用など。こうした肝心の試合方法について、日本は弱腰でした。


【柔道家にとって一番大切という「心」の部分も置き去りにされているのではと危惧する】

 とかく欧州には試合に勝つと、有頂天になってガッツポーズをしたりする者がいます。私はそういう人間を弟子と認めない。来日の折に全日本選手権などを見ても、これが柔道家の態度なのかと目を覆いたくなる者がいる。非常に残念なことです。昔は試合に勝っても、「次は君が活躍するだろう」と相手に敬意を示していました。

 海外で教えるにあたり、私は「心技体」という言葉を使ってきました。技術習得には努力が必要。努力すれば、体が自然とできて、合理性も分かる。合理性が分かると、人生に自信が生まれ、結果として立派な人間になるという意味です。

 私の弟子にフランス王者になりながら、国際大会に出ようとしない男がいます。昇段にも興味を示さない。八段の実力ですが、三段のまま。柔道は本来、オリンピックに出るとか、メダルをとるとか、そういう目的でやるものではないと私は思っています。己を鍛え、他に尽くす。それが武士道精神なのです。

(聞き手は 運動部 岩本一典)
日本経済新聞(夕刊)/2002年7月26日(金)掲載


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。
*****【おすすめワインの紹介】*****
「徐々に爽やかな気候になりつつあるこの時期に爽やかな果実の旨み溢れるスパークリングワイン」



【1,950円】
デュックダンリ 【スパークリングワイン】





▲ページ上部へ


前号へ | 次号へ

「古武士(もののふ)番外編 ボルドーの古武士 4/5」



「古武士(もののふ)番外編  ボルドーの古武士 4/5」


■ビール瓶みたいだったヘーシンク
■まじめな性格を買い、ガンガン鍛える
■東京五輪Vには少し複雑

【1955年からオランダ柔道協会の最高技術顧問に。その教え子の中に、後に世界を制し、日本柔道界に衝撃を与えたアントン・ヘーシンクがいた。】

 オランダで教えるようになったとはいえ、二ヶ月おきのペース。フランスで指導を続けていましたから。そこで、模範となる柔道家を一人育てようと思いました。私がいない時、その一人を他の人がまねればいいと考えたからです。

 ある青年が目に止まりました。198センチで82キロ。ひょろりとした体で、やたら首と顔が長い。まるでビール瓶のようでしたね。それが当時二十歳のヘーシンク。まじめな性格が印象的でした。それで彼しかいないと思ったのです。オランダ人は勤勉な国民性で知られますが、彼はずば抜けていた。走れといえば、他の人の三倍走る。打ち込みも止めるまでやめようとしない。細かった首も体も、だんだん太くなっていきました。

 こんなこともありました。彼の家は練習場のアムステルダムから30キロ離れていましたが、来る途中で車が故障してしまった。オランダでは遅刻すると、畳に上がれない規則がある。そこで、彼は車を路肩に置き、家まで走って戻り、自転車で駆けつけた。それでも遅れてしまい、「畳に上がるな」とオランダのコーチが時計を見ながら言う。事情を聞いた私はそれを制し、「上がりなさい」と言ったのです。彼はいつもそんな感じ。何でも一生懸命やるので、技の上達も早かったですね。

 オランダの柔道関係者は、英才教育に反対でした。当時はまだ階級社会の名残があった。ヘーシンクの父は水路荷役、彼自身も建築労働者。「階級が低い」というのです。私としては到底納得できません。「言うことを聞き入れないなら、もう来ない」と抵抗し、やっと説得した。そこからガンガン練習させ、負けることを知らないようになっていきました。


【61年、へーシンクは第三回世界選手権(パリ)で優勝。64年の東京五輪でもすべて一本勝ちで無差別級を制し、お家芸だった日本は覇権を失った。】

 正直なところ、少し複雑な気持ちでした。もともと、私が海外で指導したいと思ったのは、世界選手権にしろ、オリンピックにしろ、外国の柔道家にタイトルを取らせようという動機ではなかった。日本古来の武士道の精神を理解してもらいたいと思い、海を渡ったのです。日本柔道界を混乱させるために鍛えたわけではありません。

 ヘーシンクは気が弱いところがあった。東京五輪の時は、見学させようとフランスから連れてきた約百人の柔道家と鎌倉(神奈川県)のお寺で寝泊まりしていて、私は試合の日、テレビで見るつもりでした。ところが、彼から人を介して、「不安だから、試合場にいてくれ」と。それで急遽、会場に駆けつけ、間近で見ることになったのです。

 嬉しかったのは、決勝戦で神永(昭夫)君に袈裟(けさ)固めを決めた後の彼の態度でした。喜びのあまり、畳の上に上がろうとするオランダの関係者を制し、まず神永君、そして日本の皇太子ご夫妻、オランダの女王に丁寧に礼をして試合場を後にした。

 何より大事にしてほしいと願っていた武士道の精神を、そこに見ることができました。あの場面を見た人たちの多くが、彼は立派な柔道家だと感じたのではないかと思っています。

(聞き手は 運動部 岩本一典)
日本経済新聞(夕刊)/2002年7月25日(木)掲載



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。
*****【おすすめワインの紹介】*****
「徐々に爽やかな気候になりつつあるこの時期に爽やかな果実の旨み溢れるスパークリングワイン」



【1,950円】
デュックダンリ 【スパークリングワイン】





▲ページ上部へ


「古武士(もののふ)番外編 ボルドーの古武士 3/5」



「古武士(もののふ)番外編 ボルドーの古武士 3/5」


■上海皮切り、海外で数々の武勇伝
■身長215センチの海兵も投げ飛ばす
■感覚派・反復型・・・国ごとに反応異なる

【1938年に京都武専を卒業後、旧制高知高教員を経て軍に。夜間演習で塹壕(ざんごう)に落ち、右膝に重症を負って3ヶ月で除隊となる。40年から上海の東亜同文書院大で柔道を指導。海外での武勇伝はここから始まる】

 赴任して間もない頃、上海の日本総領事館から東亜同文書院大の学長に電話がかかってきた。イタリアの軍艦「コンテベルデ」が上海に寄港している。ついては、海兵向けに柔道の教師を派遣してもらえないかとの依頼でした。

 当時、日本はイタリアと同盟国。学長は「日伊親善の意味もあるから行け」と。数日後、出向くと、柔道を多少やったことがあるという大男が10人ばかり待っていました。ひときわ目立ったのが、215センチくらいの海兵。聞けば、米国の太平洋艦隊とのレスリング大会で優勝した猛者で、他の日本人の柔道教師は引き受けなかったと聞きました。

 さっそく軍艦の上で対戦しました。私は173センチしかありません。その男は腕も長く、襟が取れないので、袖を持つしかない。大内刈や小内刈りも効果なし。そこで、逆に相手との間合いを生かし、巴投げを打つと、相手が勢いよく飛んでいきました。

 すると、通訳が近づいてきた。「あの投げはやめてくれ。川に落ちたら、助からないから」という。軍艦はワンプタン川に停留中で、そこは水圧の加減で、死体が上がらないと言われていた。「どんな技をかけるかは、相手の体の大きさや姿勢で決まるものだ」と反論しながらも、その次からは別の技で海兵たちを投げました。


【53年にフランスに渡ってからも、勝ち続けることで指導者として信用を得ていった。】

 「海外で一度でも負けたら、柔道生命が終わる」と言ったのは、当時のフランス柔道連盟顧問、川石造酒之助さんでした。おそらくそうした人をたくさん見てきたのでしょうが、私は頓着しなかった。挑戦を受けないのは、柔道の精神に反しますから。

 フランスに行った当初はひどいもんでしたよ。欧州がアジア諸国を植民地支配していた頃の空気を残していた時代。日本人の柔道家と言っても、本当にそんなに強いのかと半信半疑だった。勝って証明しないと、とても指導はできません。

 あいつはなかなか強いと噂が広がると、毎月のようにお呼びがかかる。畳の上に立つと、「バット・ジャポネ」(日本人をやっつけろ)の声。そこで十人抜き、十二人抜きをやって初めて「ハァー」とため息が漏れる。その繰り返しでしたね。

 負けたことは一度もありません。引き分けが二回くらい。高段者もいたが、柔道をあまり知らない者を投げるのはそう難しくない。彼らは小さな私がなぜ大きな者を投げられるのか、不思議でしょう。極意なんて有りません。相手の技をかわし、反動を利用して投げる。そうやって、力に頼らない「アクション・リアクション」の柔道を教えていきました。

 指導してみて感じたのは、国ごとの反応の違いでした。一つの技を教えると、フランス人はパッパッと試して、すぐ「ああ、わかりました」という感覚重視派。一方、オランダ人は、こちらがやめろと言うまで、二十分でも三十分でも打ち込みを続けて体で覚える。60年代に柔道本家、日本の強敵となるアントン・ヘーシンクはまさに後者の典型でした。

(聞き手は 運動部 岩本一典)
日本経済新聞(夕刊)/2002年7月24日(水)掲載


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。
*****【おすすめワインの紹介】*****
「徐々に爽やかな気候になりつつあるこの時期に爽やかな果実の旨み溢れるスパークリングワイン」



【1,950円】
デュックダンリ 【スパークリングワイン】





▲ページ上部へ


「古武士(もののふ) 第37話 家族をフランスへ」



「古武士(もののふ) 第37話 家族をフランスへ」

2014年10月31日



オリンピックは終わった。

戦争の敗戦国となったことによってGHQに潰された武徳会。
公職追放により腹を切った武専教師。
彼らの思いは・・・・。
最近柔道の色々な問題を耳にするにつけ、落胆された方も多いと思うが、
柔道を愛する人間として同じ思いだったのではないだろうか。

1964年、日本柔道界の落胆ぶりをよそに、西洋人がオリンピック無差別級で優勝したことにより、 海外では柔道の広まりに拍車がかった。
まさにエポックメーキングであった。

ヨーロッパでは各国が国を挙げて柔道を奨励した。
フランスなどでは保育所代わりに、子供に柔道を習わせる親もいた。
しかも教育上、健康上を考えるとストリート・チルドレンなどもやっている サッカーなどとは差別化が図られると考えられた。

当時の西洋人は
「昔は良かった。教育がしっかりしていた。」「人間に道徳観が有った。品位があった」
などと嘆く輩が多かったので、礼を重んじる道上柔道はまさにうってつけであった。
そしてフランスでは第2のスポーツ人口となった。
2020年の今日、柔道を奨励している国が、他のスポーツよりも多く、
世界で最も多くの国で反映しているのが柔道である。

そんな中、道上が指導に多く時間を注いだ国が強くなると、えこひいきではないかと他の国、特にフランスから妬まれる。 逆恨みのように、フランス柔道界は道上をフランスから排除しようとの方向に動いた。 例えば、身に覚えのない査察が突然入り、法外な税を要求されたりした。

他の多くの国も日本へ新たな指導者を求め動いた。
しかし帰国した彼ら曰く 「日本にはもうすぐれた指導者はいない」だった。

「終戦によって金儲けに段を発行する町道場もどきは有っても、
本当の柔道を教えることのできるすぐれた指導者はもう日本にはいない」と。
これには多くのヨーロッパ人も驚いた。
道上を見て育った柔道家達は日本へ行けば道上の様な優れた指導者がごろごろいると思い込んでいたからだ。

このようなことがあって、さらに道上要請に拍車がかかった。
道上はボルドーの道場、そして毎年行うボルドーの夏期講習(1週間)に、多くの有段者が参加することを許可した。 それでも足りないということで道上はフランス人の弟子を各国に最高技術顧問として送りこんだ。

外地にいる身で柔道の政治的動きは一切しなかった道上。
ただひたすら柔道の発展のみに情熱を注いだ道上だった。

道上はこのオリンピックの前に家族をパリに呼んだ。

長女三保子はアメリカ・カリフオルニア大学バークレイ校の大学院へ留学したので、 女房小枝、次女志摩子、長男雄峰の3人である。

船便でマルセイユに到着した3人は弟子の税関長の計らいによって税関も通らず、 待っていた道上の自動車に乗り、途中ルレ・シャトー(城を改装したホテル・レストラン)を転々としながら3日かけてパリに到着した。

道上伯の家はパリ、ボルドー、そして飛行機の中だった。
相変わらず忙しく海外出張の多い日々だった。
ヨーロッパは社会主義国を除くすべての国、アフリカ全土、 さらにアメリカ マルテイニック、グアデループと島々まで飛び回った。
ほぼ毎月テレビ・レポーターに追っかけられ、テレビニュースに、あれこれ放映される始末だった。

柔道がJUDOとして目まぐるしく発展を遂げる中、何としても正しい道筋をつけなければ、たとえ自分一人になったとしても、との思いで、単身赴任だった道上はヨーロッパにしっかり根を下ろし、腰を据えて行く覚悟の元、在欧10年を超えたところで家族を呼ぶ決心をしたのだった。


次回は「パリ郊外の一軒家」


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。
*****【新規取り扱い商品の紹介】*****
食物繊維が白米の20倍!B-グルカン高含有!栄養価抜群で血糖値の上昇も抑える話題のスーパーフード「もち麦」



【1,200円】
丸もち麦 もち性裸麦(愛媛県産) ダイシモチ100% 900g





▲ページ上部へ


前号へ | 次号へ

ページトップへ