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古武士(もののふ) バックナンバー




2月7日配信 「古武士(もののふ) 番外編 講道館柔道への爆弾宣言 4/6」

1月31日配信 「古武士(もののふ) 番外編 講道館柔道への爆弾宣言 3/6」

1月24日配信 「古武士(もののふ) 番外編 講道館柔道への爆弾宣言 2/6」

1月17日配信 「古武士(もののふ) 番外編 講道館柔道への爆弾宣言 1/6」

1月10日配信 「古武士(もののふ) 第34話 番外編 講道館柔道への爆弾宣言」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 4/6



「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 4/6」



そして世界選手権のその日が、一九六一年十二月二日の朝が、意外に早く訪れてきた。その朝、私はベッドを離れないまま、在欧八年の苦しかった過去を追想し、とにかく全力をつくしてきた運命の今日を静かに見守ろう、と決心を固めていた。そして、運命の神の裁きのままに、もしわれに勝運がなければ、潔く欧州の柔道界そから身を退こう、否、自らの柔道生命を断とうとひそかに覚悟をきめておいた。  

その時、突然、電話のベルが鳴って、ヘーシンクの上ずった、怒りのこもった声が、私の耳を打った。「先生、神永五段が出場すると発表された」私はすでに承知していた。神永五段は負傷のため不出場と発表されていたが、試合当日になって出場と変更されたことが、新聞紙上に掲載されていたからである。

「しかも、自分は第三回戦で彼と戦わねばならないことになっている。日本は全く紳士的ではない。試合当日になって変更するなんて怪しからぬ」  訴えは綿々と続けられたが、私はすぐ行くから静かに待っていろといって電話を切り、彼の部屋に出向いていった。  

私は静かにいった。「世界選手権者は、いつ、いかなる時に、いかなる強豪に挑戦されようと、常に受けて立つ心構えがなければならない。僕は、君を、久しい前から世界選手権者であると思い、またその実力も十分であると他の柔道家にも語ってきたのであるが、今のうろたえ方はどうしたというのだ!もし神永選手が出場しなかったとして君が優勝しても、神永選手が出場したら、という声が必ず起り、ある者は宣伝これ大いにつとめるであろう。自分にはそれがわかっている」  

私は語りつつ涙ぐんでくる己れを感じた。「僕は昨朝オールリー飛行場で、一日本人柔道家に逢った」と、私は続けた。「彼は、今年の選手権も神永がいただきます、神永の前にはヘーシンクも敵でない云々といっていた。彼らは君の実力を未だ知らない。君は既に勝ったも同様なのだ。しかし今の様なうろたえ方をみると、僕は残念でならない。神永五段が出ようが、鬼が出ようが、君は必ず勝てる。どうだ、落着いて、堂々と選手権者になろうじゃないか」  

うつむいて聞いていたヘーシンクは、面をあげると即座に言った。「先生、必ず選手権者になります。今日は私の側から離れないでいて下さい。先生から離れていると、どうしてか興奮して心細くなって仕方がないのです」
「よく解った。その気持は十分解る。必ず君の側にいる。何があったって、君の側から僕は離れないでいるとも……だから安心して、心静かに実力を発揮せよ」  

これは彼にではなく、むしろ私に言いきかせる言葉であった。試合の経過はここに記すまでもないであろう。日本の強豪三選手を文句なく破って優勝したことは、周知のとおりである。優勝戦を曾根六段と戦う前、彼の気持はすでに選手権者のそれになりきっていた。試合場に上る直前、彼は私に言った、「先生、優勝しますが、その瞬間に試合場に上って下さい。お礼を申しあげたいから」とー。  

専門家として生きて約二十五年、こんな嬉しい言葉をかつて弟子から聞いたことがなかった。私の心は言うに言われぬ気持でしめつけられた。私は大声をはりあげて、全世界に私の喜びを叫びたかった。  

決勝戦七分五十秒、ヘーシンクは世界の柔道選手権を獲得した。曾根六段を押さえきって三十秒のベルが鳴り、審判の一本という宣告を聞いた瞬間、私の手は、足は、体は、オランダ選手ならびにマネジャー、応援にきたオランダ人達にとられて、約一米半の高さの試合場に押し上げられかけた。  

ヘーシンクは駆けよってきた。そして静かに私の前に立った。世界一の柔道家と、私は、いま握手する光栄に浴している。私は何もいえなかった。いわなくてもよかった。過去をよく戦い抜いて、現在を勝ちとった喜びは彼だけのものではなく、同じ喜びは私の心にも流れ、溢れていた。

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 3/6」



「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 3/6」



三月二十一日、こんどは私が久し振りで日本へ帰ってきた。
ヨーロッパ柔道界の現状報告、ならびに今後の欧州柔道経営のあり方などに関して懇談するつもりで、羽田に下り立った。  

しかし、私のこの目的は全然といっていいほど果たされなかった。多くの人に会った。どの人も責任ある解答を私には与えてくれなかった。
失望する私に諸先輩は講道館長・嘉納履正氏に面会することをすすめた。それに私は従った。だが、不幸にして、面会の申し込みは一回目、二回目ともに時間が与えられず空しかったが、私はへこたれなかった。そしてやっと三回目の申し込みで、約二十分たらずの会見を許された。全日本選手権が終った後の、それは離日直前の五月二日のことである。

わずか、いや、たったの二十分といった方がいい。これで何が話せるというのだろう。会見はあっという間に終った。本論に入る前に時間切れの判定が下されたのは、何としても残念でならなかった。

私は訴えたかった。欧州柔道界に流れている声なき声を、世界の柔道の中心の人々の耳に、心に、伝えたかった。一に講道館のかかげているスポーツ柔道という考え方に対する意見もある。

たとえば昇段の問題をとろう。真に柔道をスポーツとみなすならば、段はもっと合理的にすべきでないか。つまり、その年の選手権者を十段とし、決勝戦に敗れた者を九段、準決勝まで勝ち進んだものを八段という風にすべきではないか。この考え方はヨーロッパ人がみても決して不可解な段ではない。時の実力者を表示する段であってこそ段の意味がある。  

だが、その前に、柔道は果してスポーツなのだろうかを考えてみることも必要である。柔道には、たしかにスポーツ的要素もあるが、それが総てではなく、柔道の中にひそむすぐれた精神、それは禅に通じる崇高なる人間完成の道であると私は考える。互いに心身を錬磨し、立派な人格を作ることに、その大目的がある、という”伝統柔道”を私は標榜するのである。  

そうしたことに対する意見の交換を、私はしたかった。
だが、満足な話し合いもできぬまま、講道館長の「六月初旬アテネのIOC総会出席後、フランスへ回るから、その時に十分話し合おう、自分の方から連絡する」という言葉を信じ、翌三日、私は日本から旅出たねばならなかった。  

私は幾分失望を感じていた。だが、それに浸っている暇はなく、オランダで私を待っていたものは、欧州柔道選手権大会をひかえての猛稽古であった。  
欧州選手権大会はイタリアのミラノ市で催されたが、オランダ選手は団体、個人とも優勝し、合計十二個のカップを獲得することができた。終ると直ちにフランスに帰った私は、遠距離旅行をさけてひたすら館長からの連絡を待った。
六月初旬、館長一行がフランス、ベルギーを旅行中であることもひそかに知った。それ故に、いずれ連絡はあるだろうと期待していた。だが、期待はあまりにも空しかった。

間もなく、私がオランダの協会から受けとったのは、館長一行はすでに帰国したという知らせと、もう一つ、もっともっと腹の立つ、暗い、一通の質問書であった。
協会からの何ヶ条かの質問に答えるため、ペンを走らせながら私はその馬鹿馬鹿しさに叫びたいくらいだった。すべてに腹が立った。何が私をこんな辛い立場に追いやるのだろうか。

あるオランダ人が、嘉納館長の側近と講道館の欧州派遣員とベルギーで会って、帰国すると、その時かわした話の内容をオランダ柔道協会に意見具申してきた。その内容が質問の主意になっていた。
私は疑う、本当に日本の講道館の柔道家が、こんな卑劣なことを語ったのだろうか。  

質問の内容はこうだった。
「オランダ柔道協会が今後も引続き道上(私のこと)を最高技術顧問として継続するならば、講道館はオランダ柔道協会に対して一切 の援助を与えない。道上は講道館の免許をもっている者ではない。云々」  

さらに道上を断われば、神永五段のような優秀な指導者を派遣する。そして、道上は今春講道館長を訪問したが、門前払いをくったものである、と付け加えられていた。そうしたことが事実か否か、質問状は私に問いかけている。私は慎重かつ正しくこれに答えた。

そして最後に「講道館がそのような方針なら、自分はいつでも当協会と縁をきることにやぶさかではない。オランダ柔道が正しく発展することのみを希っているもので、他意はない」と記し、書類にサインして協会へ渡したのである。  
協会のある幹部が、やや興奮していた私の肩を叩きながら言った。「オランダ協会は、過去に於て、一度も講道館から援助を受けたこと無し。それを何ぞや、オランダ協会に対して今後一切の援助を与えないとは。おお、神よ」  
私はこの言葉に救われた思いだった。正に、おお、神の声であった。それ故に、テープレコーダーにおさめて、この言葉をいまも私室の奥深くしまっているのである。

私は、どう誤解されようとも、またどんな犠牲をはらっても、来るべき世界選手権大会で、オランダの選手に優勝させようという強い、確然たる決心を抱いた。

それが、日本の柔道に対する私の誠意であり、忠誠であり、せめてもの恩返しであろうと思った。そして、それこそ柔道の正しい発展のために役立つで あろう。幸いヘーシンクやその他の幹部、選手諸君は、事情を正しく理解してくれて、「言いたい奴には言わしておきましょう。私たちは今はもう講道館から学ぶべきものは、何一つない。日本の柔道で学ぶべきものがあるとすれば、警視庁に残る武士道そのもののような鍛錬、言葉ではいい表わせないあの緊張した雰囲気のほかにはないのです。

私たちはここにあの雰囲気をつくり、あのような気持になって修行し、必ず選手権を獲得し、いたずらに政治をもてあそぶ連中に反省を求めることにしましょう」と、逆に私を励ましてくれるのであった。  

そしてオランダで、更に私の家のあるボルドーに転じ、世界選手権目指してのわれわれの努力は続けられた。その年の十一月が終るまで、鍛錬の上に鍛錬が重ねられた。

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 2/6」



「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 2/6」



【背の高い建築労働者】
オランダ柔道協会に私が関係をもったのは、一九五五年(在欧二年足らず)の陽春のころのある日、突然、フランス柔道協会会長ボネモリ氏(現国際柔道連盟事務総長)から、「本日の午後オランダ・チームを指導してもらいたい」との申し入れがあった時にはじまる。

しかし、普通の指導だけでもいささかヘバリ気味だった私は、そんな押しつけがましい申し入れにははじめから気乗り薄だった。そこで簡単に不承知を伝えたのだが、どう断ってもオランダ選手団が、「一度だけでいいから」といって引きさがらないという。

ボネモリ氏も困ったが、私は一層閉口した。それで、やむなくしぶしぶ引受けて約二時間あまり指導することにした。縁は異なものというが、このたったの二時間がずっと今日まで、私とオランダ柔道協会とを結びつけることになろうとは、想像だにしないことであった。

選手の中に、背の高く顔色の悪い約八十五キロあまりの建築労働者がいるのに、私が気がついたのは、指導をはじめてから間もなくである。彼は技といえば内股一本槍で、まださほど威力があるというほどではなかったが、指導如何では案外伸びそうな、そして性質が実にすなおな好青年だった。

名をヘーシンク(当時二十歳)といった。

図体が大きいくせに、劣等感の持主というか、妙にはにかみ屋で、日本人の私にたいしては特に遠慮がちであった。そこで私の方から出来るだけとりつき易いようにしむけるのだが、私の顔をみただけでも、緊張のあまり顔をこわばらせるのだから、いささか扱いかねた。

そして、オランダ柔道教師仲間の間でかわされている”あいつは力ばかりで柔道ではない、剛道だ”という軽蔑の言葉だけが、私の耳に入ってくる。私は考えた。まずオランダの柔道人口をふやさねばならない。それには強い、立派な柔道家をつくることが肝要だろう。私はこの候補にヘーシンクを名ざしたのである。

そこで、彼に酷評を下す教師仲間に「一丸となって優秀なる選手を育てよう」と説きに説いたのだが、これが効果あったのか、やがて仲間も私に協力するようになってきた。

それから一年たった。
一九五六年に第一回 世界選手権大会(於東京)が開かれた。その大会に、期待をもって、というよりも、雰囲気に浸ってこい、といって彼を送り出したが、予想したとおり完敗してしまった。

さらに二年たった。
一九五八年の第二回大 会(於東京)には、思う存分畳の上で暴れてこい。しかし、大会前の練習では特に気をつけて未完成な技術を研究しつくされないように、と注意をあたえておいたのであるが、やはり未熟だったのであろう、大会前すでに吉松義彦君や山舗公義君に研究されて、彼は惜敗して帰国してきた。  

しかし、ぜんぜん私はがっかりしなかった。このことは彼にとっても、オランダ柔道界にとっても大へんな勉強になったのは事実で、以来彼はただ黙々として私の指導のもとに精進していった。  

彼が体力を作るために何をしたか?
参考までに二、三挙げてみれば、自転車のペダルを踏んで脚力をつけ(彼も自動車をもってはいるが)、フット・ボールをすることによって反射運動ならびに足関節を鍛え、百二十五キロのバーベルをヒューッと瞬時にもちあげる練習、またこれを左右に勢いよくふって相手の崩しの練習、等々。

さらに、鉄棒にアゴをかけて両手を放してぶらさがり、首の筋肉の鍛錬、レスリング、こう数えれば実のところキリがないが、どれにせよ、これを始めるに当っては、必ず私に承諾を求めてから実行するというすなおさであった。彼は日曜となるとほとんど友人や弟子たちと山に登り、切り倒された大木をころがしたり、ボールを蹴り合ったりして新鮮な空気を吸い、体力作りと雑念を遠ざけ、再び俗界にもどるということをくり返してきた。  
彼に感心することは、枚挙にいとまがないが、アルコールを慎み、煙草を口にしないということもその一つ。オランダはいわゆる煙草の本場で、安価でしかも実にうまいのが多いが、そのような社会環境の中で煙草を口にしないということは、強い意志をもつ彼にして初めて出来ることであった。  

第二回大会より、さらに精進と努力と節制の二年がたった。六一年一月十六日、単身日本へ渡ったヘーシンクは約二ヶ月の後オランダへ帰ってきた。彼を迎えた私は、一瞬、思わずおのれの眼を疑った。これがあの弱気な、劣等感のかたまりみたいだった青年なのか、という驚きだった。悠揚せまらざる態度、落着いた挙措、自信あふれる十分な貫禄、それらは選手権者としてのそれではないか。  

彼は日本の柔道界をたしかにその眼で見てきた。優秀選手の技術を研究しおのれの身体で感じ、自分のものとし、そして私のアドバイスどおり彼の真の強さを秘し、得意技をみせずに帰ってきた。やさしい微笑を口もとに 漂わせながら……。

私は、この時、よし勝てるぞ、の自信をしっかりと抱いたことであった。

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 1/6」



「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言 1/6」

今回より6回に渡って、「文芸春秋」1963年3月号に掲載された道上伯の手記を紹介します。



【危いかな、日本の柔道】
いよいよ東京オリンピックも、明年の十月に開かれる。
あと六百日、などと呑気なことをいってはいられないところまで迫ってきたが、祖国日本の柔道はどんな研究精進をし、進歩発展をとげていることだろうか?  

今日において、いまだに”無敵”の幻想を抱いているはずはないと思うのだが、一昨年のパリで開かれた第三回世界選手権のすんだ直後の日本の柔道界の狼狽は、異国にあるものの眼にはまことにひどいものに映ったものだ。  

泰平の眠りをさます蒸気船にあらぬ、一人のオランダ人に振りまわされて、その為すところを知らぬ慌てぶりは、はるかオランダにいた私にも容易に想像ができた。  

しかも伝えられてきたその首脳部の言たるや、開いた口のふさがらぬ驚きを私に与えたのだった。曰く「寝技の研究が足らなかった」曰く「力が技を上まわった」  

まことに何とも汗顔のいたり。
日本ではそれで通用しても、外国では通用しがたい言葉なのである。力も技の一部ではないだろうか。なるほど、力が技術の全部でないことは万人の認めるところだが、柔道技術を最も有効に働かすには、やっぱり力がなければならないことも、柔道人のひとしく認めているところだ。

技術(幾何学的、力学的)を活かすには、精神力と体力(体重に非ず、筋肉の強靭さ、弾力、スピードが加味されたもの)が絶対必要条件だ。私がコーチしているヘーシンク(世界選手権保持者)の平常の鍛錬も、技術面はもちろんのこと、その体力をいかんなく技術面に活かす工夫、つまり技術を百パーセント活かすためにはどこの筋肉の強い働きが必要であるかを研究して、つづけられてきた。

その彼が、選手権を獲得したことは偶然ではなく、まったく当然すぎるほど当然のことで、力が技を上まわったなどという評は、私をして言わしむれば、群盲象を撫でるにひとしい、というほかはない。

柔道を知らないものの評であれば、またそれはそれでよい。しかし、専門家の、それも祖国柔道界の首脳部といわれる人々が、もし、かかる妄言をもって惨敗を糊塗し、責任を回避しようとしているとすれば、柔道人の末席をけがしている一人として見逃すわけにはゆかないのである。

ここに心からお願いしたいことがある。

一つは、伝統の名のもとに封建的組織制度のうえにあぐらをかき、その実力を過信して研究をおこたり、伝統ある日本柔道を初めて敗北せしめた責任を、首脳部はいさぎよくとってほしいということ。

その二は、今年こそ組織制度を刷新し、首脳部人事を改編し、外様的立場におかれている有能の士を迎えて、柔道界をたて直していただきたいということ。
この二つ、である。

これなくしては、来るべき東京オリンピックの勝利もおぼつかないのではないか。危いかな、日本の柔道、である。
もしオリンピックにおいて同胞の眼の前で一敗地に塗れることがあれば、柔道は、もはや日本のものでなくなってしまうだろう。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第34話 番外編  講道館柔道への爆弾宣言」



「古武士(もののふ) 第34話 番外編 講道館柔道への爆弾宣言」

2014年10月10日



2010年頃、最近「柔道は如何したのでしょうか?」
「色んな問題を抱えているようですね。不祥事が続いていますが」と聞かれる。
その度に愚息は「柔道は終戦とともに消滅してしまったのですよ」と答える。

柔道は講道館がつくったと言われているが、戦前すでに起倒流柔術は柔道と言っていた。全ての主な形(型)は大日本武道専門学校(武専)で作られた。戦後講道館がつくったものは利に適っていないとされている。

嘉納治五郎は、ある秘密結社に属していたと言われている。
彼は同秘密結社の一員であるピエール・クーベルタン男爵に直訴し、戦前日本へのオリンピック誘致を成功(戦争の為中止)させるも帰路の途中カイロ発の船上で死去。

彼は、ピエール・クーベルタン(近代オリンピックの創始者)に対しては、
柔道はスポーツではないのでオリンピックの種目には入れたくないと発言している。

柔道を愛する一方なかなかの策士、政治家でもあった。
空気投げの三船、姿三四郎など宣伝も上手だった。
また嘉納がオリンピック誘致に尽力したため、戦後GHQに武道が禁止された中、
次男の加納履正が講道館柔道はスポーツだと言って柔道を復活させた。

それは終戦後マッカーサーの指令で柔道剣道も含まれる公職追放が実行された後の事である。
しかし、息子嘉納履正、孫嘉納幸光、と柔道の経験が薄いだけではなく、政治能力も無い者達によって116あった中の一町道場であった講道館が御家元制度という形で復活してしまった。

それは日本では通用したが、世界では全く取り残されてしまった。
長年、国際柔道連盟の理事に日本人の名は無かった。

オリンピックというものは、ピエール・クーベルタンの理想とは異なり、現在ではビジネスとなってしまった。世界の青年スポーツ省(日本では文部科学省にあたる)の上にオリンピック委員会が位置し、その上に立つのがメディアである。
ルールも視聴率がとりやすいように変えられて行く一方、視聴率の取れない種目、又、少数国のみが勝ち続ける種目は廃止を余儀なくされる。

しかし多くの日本人が柔道に対して戦前の武道イメージを未だに引きずっている。
1963年まだ講道館が国家権力に近い勢力を日本で保持していた頃
文藝春秋は道上の手記を載せた。
大変勇気のある行動を当時の安藤直正編集長はとった。


※次回より数回に渡り、「講道館柔道への爆弾宣言」を配信させていただきます。 是非、ご覧頂きたく思います。



【 道上 雄峰 】
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当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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