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古武士(もののふ) バックナンバー




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4月7日配信 「古武士(もののふ) 第47話 アルカッションの高校」

3月31日配信 「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」

3月24日配信 「古武士(もののふ) 第45話 フランス語」

3月17日配信 「古武士(もののふ) 第44話 清水 猛」

3月10日配信 「古武士(もののふ) 第43話 男尊女卑」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



「古武士(もののふ) 第47話 アルカションの高校」


「古武士(もののふ) 第47話 アルカションの高校 」

2015年1月23日



1966年当時からフランスの殆どの高等学校には柔道部があった。
柔道は既にフランス第2位の盛んなスポーツになりつつあった。
現在日本の柔道人口は12万人、フランスは保険に入って道場に通ってる者が65万人、そうでない者を合わせると100万人を超える。

フランスではテレビ視聴率で言うとサッカーだが、
会員数で言うとテニス、その次が柔道だった。
愚息は道上のような我慢強さがなく、相変わらずしょっちゅう喧嘩をしていた。
日本人が全くいない南西高級避暑地Arcachon(アルカッション)の高校で毎日のように喧嘩をしていた。

彼のいたArcachonは ヨーロッパ1、高い砂山が(100m超)海に面していて、その湾には牡蠣が養殖されていた。 そこで育った牡蠣はフランスで消費される83%にのぼっていた。 水温が年間通しておよそ20度のため美味しい牡蠣が育ちやすかった。

愚息の高校では給食にオードブル2種類。ソーセージなどの肉類に野菜、魚。
メインは牛肉の後に魚か鶏肉の2種類。その後エンダイブのサラダ、生野菜とラタテゥイユなどの煮た野菜、それにポテトかバターライス。
デザートは果物と甘い物(ケーキなど)。
その後がキャ フエ(コーヒー)と豪華だった。

それに、何と日本では考えられないが8人掛けの各テーブルに白ワインと赤ワインが1本ずつ付いていた。 まるで高級レストランLysee Grand Air D’Arcachon ( 空気の澄んだアルカッション中高校)。
いわゆる喘(ぜん)息もちの体の弱い生徒の為の学校だったが、
実際にはコネで入った生徒ばかりで体の不自由なものは皆無。
そうだ、フランスはコネ社会だった。

愚息は道上が不当な税金を徴収されていると思い、たくさん食べて取り返そうと。相変わらず馬鹿だった。 必ず端に座り料理は2~3人前を取ってしまうので、いつも喧嘩になっていた。 口癖は「僕のお父さんは沢山税金を払わされているから」だった。
注意する舎監(寄宿舎監督人)や先生と暴力沙汰になる事もしばしば。

しかし愚息に「おじさんはインドシナ戦争に行った事があるが、アジア人は御飯が好きだ」と言って 30センチのステンレス皿に山盛りバターライスのお代わりを持って来てくれる良い 給仕のおじさんもいた。 愚息は敵地で厚い看護を受けた気持ちだった。
いくら食べてもお腹がいっぱいにならない年頃だった。

ボルドーから54キロも離れたArcachonでも フランス人生徒から「俺は道上に空手を習っている」と言うはったりをよく聞いた。 道上は確かに空手八段であったが、本人が教えることはなく、合気道とともに空手は梨元先生はじめ他の講師に任せていた。

道上という名は鈴木や田中の様に日本人に多い名前だと思われていたのだろう。 愚息は決して道上の子だとは言わなかった。馬鹿を自分で自覚していた。
道上の名をあえて汚したくはなかった。

だが柔道部の道場に行った日に柔道講師だけにはばれてしまった。
柔道講師の「先生(道上)の(練習)許可を得てるのか」の問いに愚息は何も言わず道場を後にした。 全生徒を投げ倒した後のことだった。

当時柔道をやっているのは格好良かった。しかも尊敬された。
茶帯(1級)と言うだけで喧嘩を吹っかける者はいなかった。
しかし愚息はいつまでも白帯だった。本人も道上も何の疑問も感じなかった。
後、5段を出すと言われたが断った。道上がくれるんだったら貰うが、でなければ裏切り行為だ。

愚息が以前下宿していたロベール家主人のジョージ・ロベールさんは長男アランと次男ブルノを週に3回道場に迎えに来ていた。 いつも道場のへりにある取っ手にすがり食い入るように息子たちの練習を見ていた。
彼らの練習後33キロ自動車を運転してDouence村 まで帰宅していた。
彼らもあまり体が丈夫でないため母親が柔道に目を付け14歳から柔道を習わせた。 アラン・ブルノ両兄弟の「形(かた)」はおそらくこの数十年で最も美しい物であったと愚息は感じていた。 弟のブルノは後に全仏オープントーナメントで無差別級チャンピオンになった。 道上没後、道上道場のコーチとして若者の育成を2019年まで行っていた。

当時個人団体とジュニア(18歳以下)シニア(19歳以上)全てボルドー道上道場の独り勝ちであった。 それは柔道だけではなかった。

当時のシャバン・デルマス・ボルドー市長(首相2回、衆議院議長3回)は大変なスポーツ好きで ボルドーはサッカーもラグビーも強かった。
ボルドーはそういった風土が あった。

市長は道上が好きだった。 道上の夏期講習には何度も足を運んだ。
年が近いせいもあって気が合った。
シラック元大統領が裏切らなければシャバン市長は間違いなく大統領になっていた。

シャバン市長がよく「道上先生、何か私に出来る事があったら何なりと仰って下さい」と言っていたが、 道上は彼に何も頼まなかった。
ただ シュバリエ・ド・レジオン・ドヌールとボルドー名誉市民の勲章は甘んじて受けた。

ボルドー市庁舎で勲章をシャバン・デルマス氏から授与される道上伯

ボルドー市庁舎で勲章をシャバン・デルマス氏から授与される道上伯

次回は「朝市」


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」


「古武士(もののふ) 第46話 シトロエン」

2015年1月16日



道上伯のアシスタント清水猛は自動車の運転が上手かった。
道上先生を乗せている車だから細心の注意。
いつ発進したかいつ止まったか分からないほどだった。

イデ彼はパリに渡仏するなり当時フランスで一番高い車を買いに行った。 シトロエンのデエス21が売り切れだったのでイデを買った。あいにく黒が無く紺のイデを現金で買った。

当時のことで円をあまり持ち出せない時代だったがかなり隠し持ってきたようだった。 まずドルに換えたお金をフランに換えた。 手数料で銀行に相当持っていかれてしまったが イデは最高の車だった。

シトロエンの車はオイル・サスペンションで乗り心地は世界一だった。
乗ると車体が大きく下がった。
高速を飛ばすと道路に吸いつくように車体が安定した。
その車で一人の時は時速190キロで飛ばしていた。
メーターの数字は180キロまでしかないので針が右の端にパーン、パーンと大きく振れていた。

当時フランスは世界でもハイテクのリーダー的存在だった。
のちにTGV(最速電車)、コンコルド(最速飛行機)、ヘリコプターは世界の市場を圧倒していた。

アミ・シスそんな時代に道上はアミ・シス(6人の友)というシトロエンに乗っていた。

6人と言うものの5人がぎりぎりの小さな車だった。 最高速度130キロで、他車を追い抜こうとするものなら身体を前後に揺さぶり勢いをつけなければ追い抜けなかった。
道上はこの車でボルドー・パリ間(650km)をよく通った。
ある夏の終わりの日、愚息を乗せパリからボルドーへ向かった。
朝9時出発。途中パリから約270Kmのツール市(Tours)あたりで昼をとる。 

ツール市、ブロワ市、アンジェ市はルアール川に面した古城が立ち並び、レオナルド・ダビンチも晩年を過ごした風光明媚な観光地。 又フランスでもっとも綺麗なフランス語を話す土地柄で言葉のアクセントに品位が感じられる。

当時のフランス料理は美味しかった。
最近のヌーベル・キュイジーヌのようなこねくり回した料理ではなかった。
そして誰もが当然のように飲酒しても運転する時代だった。
ボルドーの赤ワインを飲み、道上も上機嫌だった。
やはり肉にはボルドーワインだ。
ルアール川の赤ワインは軽すぎてコクが無いワインが多く、
ルアールは白ワインの方が有名だった。

塩味、脂身、コショウ味ときたら もうボルドーワインを飲まなくては食べられない。
愚息はその飲みっぷりを尻目に、いつかは飲んでやるぞ、と心に誓った。
勿論貧乏人のようにグラスワインなんてオーダーはしない。しっかり1本飲む。
これはレストランに対する礼儀でもある。

美味しい料理を食べ、ふたたび自動車に乗った。
ハンドルを握った道上は突然愚息に向かって
「雄峰 お父さんの運転は悪くないだろう」「特別上手いとは言わないが、下手ではないだろう」「今まで無事故だぞ」。
愚息は御世辞が言えない要領の悪いガキ。黙ったままだった。

その直後、赤信号で前の車が急停止したため道上は慌てて急ブレーキをかけた。
ブレーキを3度強く踏んだ。 だが雨上がりの石畳は滑りやすく、
むなしくも前の車に追突してしまった。
道上は愚息に 「お父さんは3度ブレーキを踏んだのを見ただろう」と二度繰り返して言った。 愚息は静かにうなずいた。

その後アングレーム市(Angouleme)経由でボルドーまで380Km、数時間の道のり。  二人とも無言だった。


次回は「アルカッションの高校」



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士 (もののふ) 第45話 フランス語」


「古武士(もののふ) 第45話 フランス語」

2015年1月9日



道上小枝(女房)は渡仏2年前からNHKのラジオ講座でフランス語を勉強していた。 かなりの勉強家だった小枝は、子供達にとってフランス語が堪能に見えた。
だが実際渡仏してフランス人と話してもあまり通じなかった。
次女志摩子、愚息雄峰はもともとフランスに行きたがってはいなかった。
しかし10年も道上と離れて暮らしていた小枝にとっては何があってもフランスへ行きたかった。 子供たちの反対を押し切って、又説得しての渡仏だった。

やっかみもあって日本では道上に女がいるとか、
小枝には日本に男がいるとか 子供達には考えられない噂をたてるものもいた。
当時の日本は貧しく、フランスでの道上は左扇の暮らしをしていると想像された。
だが現実は違っていた。
道上も苦労の中で支えの無い一人暮らし、我慢に我慢の毎日。
夫婦仲は完全に冷え切っていた。

小枝は活発な女性ゆえなんとか独り立ちの夢を持っていた。
ヨーロッパに日本の生け花を広めようとしていた。 
だが外国は甘くはなかった。
50歳過ぎの女性には特に厳しかった。

当時フランスで名をあげて成功している日本人は皆無だった。
フランス語もソルボンヌ大学の外国人用のクラスに通っていた志摩子に間もなく抜かれ、 半年もたたずに愚息雄峰に抜かれた。
やはり50歳過ぎて外国語を覚えるのは難しかった。

近所に買い物に行くと 「オゴヴアー・ムスュ・ダーム(Aurevoir Monsieur Dame )」 ムッシュ・マダムさようなら、と帰りに店の主人に言われる。
耳が慣れるまでは 「オゴヴアー・ミシガミ」道上さようならと聞こえていた。
何故彼らは名前を知っているのだろうとその時は疑問に思った。

志摩子は1965年だったかClub Med (株式会社地中海クラブ)の設立にコンパニオンとして着物姿でのアルバイトを頼まれた。
フランスでも有数の高級ホテルで行われギャラは今の金額で言うと約10万円(500フラン)。
珍しさ余っての高級ギャラだった。

そのギャラをハンドバックに入れ持っていたところ、檀上に上がってくれとの指示があった。 そのまま上がろうとしたところ、そのホテルのマネージャーからハンドバックはおいて行ってくれと強く言われた。
志摩子は持ってあがると何度も言ったがマネージャーにしつこく食い下がられたため、 結局諦め、マネージャーに手渡した。

5分後に檀上から降りてきた時ハンドバックにお金はなかった。
志摩子はお金がとられたと訴えた。マネージャは証拠がないとの一点張り。
ここはフランスだ、取られる方が悪い。
しかも外国人だ。外国人には厳しい国だった。

また、志摩子はよくストーカーにあった。
しつこく後を付けられるのは日常茶飯事だった。
夕方走って逃げて帰ってきたために辞書を落としてきたことがあった。
当時日本人用のフランス語辞書などフランスにはなかった。
真夜中に雄峰が何時間も探しに行った。
郊外には街灯等なく真っ暗の中、懐中電灯を照らしながら、道路の両脇を照らし歩いた。が見つからなく残念な気持ちで帰ってくる事もしばしばであった。

小学校1年生に入学した愚息は幼いせいか1年も経つとある程度のことはフランス人に伝える事が出来た。 3年経つと愚息のフランス語が家族の中で一番上手だった。5年経つ頃には同年代のフランス人と何の遜色も無く喋れた。

道上はフランス語を学校で習ったことがなく、真っ当なフランス語では無かった。
単語力はさすがだったが、長い文章は下手だった。
当初コムサ・コムサ(このように このように)と弟子たちに技を説明するものだから
「コムサ先生」と呼ばれていた。
晩年十分なフランス語力を持っても相変わらず以前と変わらない話し方だった。
言葉に頼る事を嫌った道上であった。

弟子たちも自然と道上語(道上独特の言い回し)を使うようになっていた。
しかも道上語が流行った。まるで専門用語かの様に。
弟子たちは道上語が使える事を誇りにしていた。
しまいには柔道をやっていないものまで道上語を使っていた。

20年経った時愚息が「お父さん今度僕が通訳します」道上「それは有難い」。
愚息はわざわざ道上の夏期講習の為に渡仏した。
いざ愚息が畳の上に上がった時、道上も含め誰ひとり愚息と言葉を交わす者はいなかった。 まんまと引っかかった愚息は馬鹿だった。
それを知るためにわざわざフランスまで行ったのか。
いや道上に気持ちは通じたはずだ。


次回は「シトロエン」



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第44話 清水猛」


「古武士(もののふ) 第44話 清水 猛」

2014年12月19日



道上が1953年に渡仏したころ早稲田大学出身の尾崎さんという方と時期が重なり、 彼は1年で日本へ帰ったがその後も非常に親しく手紙のやり取りをしていた。 尾崎さんは後、堤康次郎の第一秘書となり、その後朝日へリコブター社を立ち上げる。
その尾崎さんのアドバイスで道上のアシスタントとして清水猛が1966年に来仏する。 早稲田柔道部出身の彼は当初皆の注目を浴びた。

清水 猛当時ヨーロッパで道上の弟子達は中山正善真柱の天理大学柔道部に留学し、その際に日本の多くを体験してきたが、日本柔道の実力そのものを侮っていた節がある。
道上もさほど清水に期待をかけていなかった。

清水がボルドーの道上道場に姿を現し、乱取りの最中二段三段を相手に 小内小外と小技で一本を取って行くのを見て皆は唖然とした。
過去において大外刈り、内股、背負い投げなどの大技で1本とるのが常識になっていたフランス人柔道家達にとって、
それは大変な驚きであった。

後、関根忍がこの小技で完膚無きまでに皆をねじ伏せ、
全日本選手権者となった事をご存じの方も多いだろう。

また清水の人間的謙虚さにおいても皆が驚き、技においても清水先生メソッド(方式)などと言われのちのちまで語り継がれた。 道上は彼を丁重に扱った。
彼を道上のアシスタントとしてヨーロッパのみならずアフリカの各国に同伴させた。
清水は不言実行の男だった。
物静かだが見えないところでコツコツと努力する大和魂をもった好青年だった。

そのころ道上家族はパリ郊外のVITRYと言うところにアパートを借りていた。
フランスで言うところの14階建ての最上階だが 日本式に言うと16階にあたる。
清水はパリ滞在の時には毎朝その階段を何往復も駆け上がり駆け下りる毎日だった。
後の彼の弁では、練習できついと思った事はないが
毎晩道上先生との酒のお付き合いが苦しかったと。

54歳の道上は食前酒に まだウイスキーも飲んでいた。
お客様が来ると400mlはあるコップに なみなみとジョニウォーカーをストレートで注ぐ。それが当時の食前酒である。 普通の人間ならそれだけで酔っ払ってしまう。
それから食事とともにボルドーの葡萄酒が注がれる。 しかも毎晩である。
さすがに昼からのウイスキーは無いが昼間もボルドーの赤葡萄酒だ。

「清水さん、ボルドーの赤葡萄酒は身体に良いんですよ」 
清水にとっては「過ぎたるは及ばざるが如し」であった。

1年後、次女道上志摩子と結婚。 志摩子は当時稀にみる美人だった。
町を歩いていてもフランス人が振り返ってみるほど目立った。
しかも歌もうまかった。フランスの音楽会からは彼女の美声を求めレコーデイングの準備が行われていた。 日本人初のフランスでのレコードデビューである。
多くの雑誌から注目を浴び、志摩子も通っていたソルボンヌ大学の休学の準備をしていたところだったが 古風な清水の願いによって芸能デビューを諦めざるを得なくなった。
結婚1年後に娘が生まれた。VITRY(ヴィトゥリ)の地名にちなみ美津里と名付けられた。パリの病院で出産した志摩子の病室に院長が突然現れ、大変申し訳なさそうな顔をした。
「お生まれになったお嬢さんには、おしりに青い痣が有ります。」
志摩子は笑った。日本では当たり前の蒙古斑であった。

道上最初の孫の誕生が美津里。
道上家もようやく春が来たかのように見えた。

次回は「フランス語」




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第43話 男尊女卑」


「古武士(もののふ) 第43話 男尊女卑」

2014年12月12日


剣道の竹刀を毎日1万回素振りすると異次元の入り口が見えると言う。 おそらく空手の蹴り突きでも同じことが得られるであろうことは古武士8話でもお伝えしたが。昔の柔道にはそういった訓練があった。

道上は若い頃 剣道も空手もやっていた。 武道とはすべてを統括するものであった。
道上は柔道の道とは人生の道に通ずると言っていた。
間違いなく哲学に通ずる道だということは理解できる。




1964年のある日、愚息は学校から帰るなり自宅の玄関口から道上の座っている後姿を発見。 慌てて物音立てずに逃げた。 夕方食事中に道上から「午後4時ごろ学校から帰ってくるなり、なぜ逃げるようにどこかへ 行ってしまったのか」と問われた。

そうだ、道上の背中には目が付いている。
海外出張の多い道上は家を空ける事が多い。ただいつ帰ってくるかは教えない。
女房子供はいつ帰って来ても良いように しっかり整理整頓掃除をしておかなければいけない。 いつ帰ってくるかそわそわする毎日だった。

道上家は「男尊女卑」の家庭だった。
男尊女卑とは男性に厳しく女性に甘いことだった。
愚息は洋服を道上から買ってもらったことがない。
道上のお古をばらして自分のサイズに手縫いし、ズボンやジャケットを作っていた。
女性が叩かれる事はなかったが愚息は毎日叩かれた。

愚息の当番は自分の部屋、応接間、道上の部屋、風呂場、トイレである。
愚息は「男尊女卑」が大嫌いだった。

二番目の娘に「志摩子買い物に行こうか」「何を買うのですか」「靴を買いに行こう」 「この前買って頂きましたよ」「いや今赤い靴が流行っている買おうじゃないか」
愚息の靴は破けて水漏れがしていた。

体操の時間走り高跳びでバーの高さが170cm。跳躍できるのは愚息を含め、残っている二人だけ。いきなり体育の先生に靴をみせろと言われたので見せたところ皆に笑われた。 フランス人たちに、だ。
道上曰く 「お父さんは引きずって歩いていたズボンがひざ下になるまで穿いたもんだ」。 愚息は思った。愛媛の山猿とフアッションの都パリと一緒にするなと。

後に道上のアシスタントになる清水猛は「雄峰君(愚息)が羨ましい。女性は所詮巣立っていくものだ。残る長男を必死で鍛える。愛の鞭だ。」と。
愚息は鞭が嫌いだった。

道上がパリの家にいる時は、家族全員で道上の帰りを、
台所に有る硬い材質の椅子(テーブルと同じ材質)で待っていなければならない。
夜中の1時2時になる事もしばしば。それからの夕食である。
床がタイルで出来ていて冬などは寒い。玄関の戸の下から冷たい隙間風が伝わってくる。

愚息が道上と一緒に座れるのは食事の時だけだった。
いつもは座って話す道上を直立不動で聞く。
昔の日本には長幼の序というものがあった。

次回は「清水 猛」




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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