古武士(もののふ)
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7月7日配信 「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
6月30日配信 「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
6月23日配信 「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人編。」
6月15日配信 「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
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メルマガ著者紹介
| 道上の独り言【 道上 雄峰 】幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン
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7月7日配信 「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
6月30日配信 「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
6月23日配信 「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人編。」
6月16日配信 「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
6月9日配信 「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
文芸春秋の元編集長に「もののふのタイトルは愚息だ」と言われました。
今回60話のテーマは「愚息」で行きます。
愚息道上雄峰は愛媛県八幡浜で生まれましたが、
2歳の時に父道上伯が渡仏し、以来10年間会えなかったのです。
10年後に雄峰も家族とともに渡仏したが、忙しい道上とはあまり一緒には暮らせなかった。
しかもフランス語上達の為自宅ではなく、下宿、寮の生活の方が長かった。
幼年時代の雄峰は普通の子供とあまり変わりなく見えたが、実は自閉症だった。
母親が仕事で帰りが遅くなる事も多かった。
姉たちとは年が離れていてあまり一緒に遊んではもらえなかった。
家の屋根に上り空と交信する事が多かった。僕はどうしてこういう暮らしをしているのだろう、宇宙の先に在る物は何だろう、神はいるのだろうか・・・。
自閉症の為か無口な子だった。口の代わりにすぐ手が出た。
べらべらしゃべる「先生のえこひいきの子」をしょっちゅう殴った。
表現力がないので暴力に訴える事もしばしばだった。
幼稚園、小学校でも村八分だった。
先生にさえ「雄峰君と遊んではいけません、乱暴だから」と言われていた。
とにかく言葉が嫌いだった。人がやった悪さが雄峰のせいになることはしょっちゅうであった。
先生が黒板に書いた間違いでも雄峰が指摘すると叱られた(他の者たちの指摘は褒められた)。 小学校でも答案用紙をまず人の名前で出し、採点後自分の名前に書き直していた事が多かった。 絵をかいても他の生徒の名前で出すと五重丸だが自分の名前だと二重丸かせいぜい三重丸だった。
処世術が嫌いな子供だった。
ある日小学校一年の時先生に知能指数が全国一位だったと知らされる。
180点以上の点数になると先生にも知らされなかったというから300点満点の200点ほどだったんだろうか。
よく神童は大人に成ると馬鹿になると言われるが、
それを地で生きているような子だった。
まったく横文字も知らない状態でフランスへ行ったため最初は小学1年生に入った。
小学1年生は保育園幼稚園へ行った事のない生徒が行くクラスだった。 普通は2年から入学する。フランスでは当時小学校は5年制、中高等学校は7年制だった。
半分以上が小学校卒で働きに行っていた時代だった。
ある日ひょんなことで先生から算数の質問をされ簡単に答えてしまったため、
小学生、中学生、高校生の算数、数学の試験を受けさせられた。
採点したら全問正解で先生がビックリ。
中学か高校へ行くべきだと言いながら 翌日から五年生に上げられてしまった。
しかし五年生のレベルでは何を言っているのかチンプンカンプン。 雄峰渡仏半年目の事だった。
まったく授業についていけないのでわずか1カ月で三年生に格下げになった。
相変わらず表現が上手くできず、すぐ人を殴っていた。
いじめられていたのかいじめていたのか未だにわからない。
雄峰にとってフランスでのストレス解消法だったのかもしれない。
しかし喧嘩ばかりするためとうとう小学校を退学になった。
当時フランスでは、いじめられる日本人の多い時代にあって雄峰は異端児だった。 パリでも日本人は珍しく、ましてやフランス南西(ボルドー)では日本人と出会う事はなかった。
小学校復習2年生クラスがあり、そこへ行った。その後中高等学校(Lysee)に編入。
ここでも数学だけはずば抜けて一番だった。 体育と絵も一番だったが、他の教科はからっきし駄目だった。
ただフランス語は上手になっていた。
会話で分からない事はなくなっていたが相変わらず人のせいにするのが得意なフランス人の前では相変わらずの自閉症だった。
そのため人がやった悪さを雄峰のせいにされる事が多かった。
その仕返しは必ずしたが、毎月職員会議にかかりそのたびに外出禁止や停学になった。
ある日フランス人の同級生に言われた。
「人種差別をしているのは僕達では無くおまえだ」と。 そうかもしれない。
一対一の喧嘩が雄峰対フランスの喧嘩になっていた。フランスが嫌いだった。
フランスでは表現しなければ置いてきぼりになる為、知らず知らずのうちに自己表現をすることを身につけるようになった。
この頃の大きな問題は二国間の言葉の問題だった。
長くフランスに住んでいると日本語を忘れる。 一方フランス語は上手くなる。
丁度フランス語能力と日本語能力がほぼ同じになった時危険な状態が起きた。
自分が分からなくなる。私は誰?ここはどこ?の状態だ。
失語症に掛かり自分のアイデンティティが分からなくなっていく。
ここで一例を上げよう。
あ~という音を大きな声で発すると(真言・マントラ)肺が共鳴する。
人間が情緒的になる。ちなみにスペイン語に多い発音だpatatas fritas (フライドポテト)。 スペイン人はプライドが高く思えた。柔道の練習で相手を倒すとにらみつけてくることが多かった。
い~の場合眉間が共鳴する。人間が率直に成る。
イタリア語に多いi pisellini (小さいえんどう豆)。
イタリア人は愛情をストレートに表現する。「愛しているよ!来世も一緒にいたい」
問題は翌日別の女性にも同じことを言う事だ。
う~はドイツ語に多い umgebungsindustrie (環境産業)。
ウーは丹田を刺激する。ドイツ語の言葉は意味が深い。
え~は甲状腺を刺激する。人間が合理的になる。
ファースト・フードの発祥が多いのは英語圏である excellent (素晴らしい)。
お~は心臓を刺激する。超常感覚機能が発達する。
ロシア語に多い発音だOBOЩHOЙ (野菜)。ロシアは世界で最もテレパシーのようなものを研究している。 そういえばラスプーチンもロシア人だ。
では日本人はどうだ?
日本語の発音は語尾が落ちる。「僕が\↓」と最後の音が落ちる。
日本の古い歌はストレートに声を出さないで一端飲み込んでから発声することが多い。 しかも音よりも音と音の間の「間」を重んじる。その「間」の為に音を出すと言う事をある三味線の家元に御教授頂いた事がある。
これだけ極端な差があると二か国語が同じように話せると人は迷う。
言葉の持つ意味が異なる。 たとえばアイデアという言葉はアイデアと訳されるだけではなく、いろいろな意味を含む。またその逆もまたある。
しかも人間は言葉を通して考える事が多い。
日系二世が全く日本人と異なる顔をしていることが多いのはなぜだろう。
日本で生まれ育った外国人は日本人のようなオーラ持っているが決して食べ物や気候のせいでは無い。
雄峰は自分のアイデンティティを取り戻すべく、フランスの学校を飛び出しスウェーデン経由で日本帰国を考えた。 スウェーデンでは当時お金がない外国人を自国へ強制送還させた。 そこで日本に帰れると勝手に思い込んでいたが当時国際法で二十歳までは父親の許可なしに海外には行けない。
雄峰17歳。馬鹿だった。
以前にも書いたが、帰国することでも相当道上に叩かれた。
しかしある国家試験に合格し、先に帰っていた清水猛(義兄)の受け入れ許可のお蔭で日本へ帰国が許された。
帰国後早速日本で受験したが何処も受け入れてもらえず、唯一東京九段下にあった暁星高校に受け入れてもらえる事になった。
受験した時には中学二年に編入することでどうかということだったが、17歳になっていた雄峰にはあまりにも落差があったため、 お願いして何とか高校一年の二学期からの入学となった。
当然日本語の方がフランス語より下手だった。
それも自身ではまったく気がついていなかった。 本人はしっかりしゃべっているつもりでも通じていないとよく同級生に言われた。 何といっても試験の問題が分からなかった。漢字も文章も。それでも日本に帰れてうれしかった。
日本語もフランス語もおぼつかないにもかかわらず雄峰は早速フランス語の個人レッスンを始めた。そしてフランス語の通訳もやった。 日本語もフランス語も下手だったが、会話において雄峰ほど日本語が出来るフランス人はいなかったし雄峰ほどフランス語が出来る日本人もいなかったためごまかしがきいた。
しかもかなりの高給をもらっていた。
帰国当初は雄峰も学校では人気者だった。フランスの出来事をよく質問された。
半年ぐらい経ったころには周りには誰も居なくなっていた。
変わり者は排除される処世術の国が日本だった。フランス以上に日本で差別された。
外国帰りと言うだけで付き合っている女性との間を引き裂かれた。
会社はどこも採用してくれなかった。今とは真逆の時代だった。
フランスで日本国の看板を背中に背負って戦ったつもりでいた雄峰は
心のなかで「俺の祖国は何処だ!」と叫ぶ毎日だった。
帰国後三年経ったころだろうか
またしても日本語とフランス語の語学力が均等に成った途端再び失語症に掛かり、 私は誰?ここは何処?の状態になった。
ところが卒業後同じ帰国子から聞いたことは思いがけない事であった。
暁星高校は一学年10人ほどの帰国子が在籍していた。
その大半が精神病院に通っていたと言う。
雄峰には精神病院に通うなどという知識もなかった。
だったらどうしてもっと早く僕に打ちあけてくれなかったのか。
きっと皆一人で悩んでいたのだろう。
人に話しても理解されない内容だった。
親の仕事の関係で海外で生活した子供は多い。良い意味でも悪い意味でも変わった日々を送ったはずだ。 子供は半分外国で半分日本で暮らさせようと言う無知な母親が当時もいた。その言葉で多くの帰国子女の反感を買っただろう。
人に言えない、言っても理解されない苦しみがあった。
雄峰の支えは父道上伯が強かったことだ。
どういったことにも、へこたれない姿勢が、私は誰?ここは何処?
そんなやわな事を気にしない勇気を貰えた。
ただあのままフランスに残っていると自分がどうしようもない人間になって行くと思った。 やはり日本語でも良い、フランス語でも良い、自分の軸となる文化 言語を持つべきだといまだに思う。
帰国子女が雇用されない時代だったため
雄峰は大学在学中に貿易会社をつくった。そのまま今日も同じ会社を営んでいる。
三十歳を過ぎた頃からだろうか、物を売るために必死で喋るようになったが今でも自宅では無口だ。
自閉症の人間を身近にして最近初めて自閉症の存在を知った。
今の若い世代は世界中同じ格好をして同じ音楽を聴き同じスマホを持っている。
外国との距離が無くなった。
本当にこれで良いのだろうか?疑問が残るところだ。
日本に帰れることで思いが具現化した雄峰とは裏腹に、フランスに残された道上伯は残った女房とほとんど口をきかずまた一人の生活に戻った。
ボルドー、海外と飛び回っていたが、パリにはトランジットで泊まる程度だった。
夫婦仲は冷え込んでいた。
日本へ帰った当時、雄峰は日本に戸惑ったが、
道上伯と現代の日本社会との穴は埋まらずじまいだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
文芸春秋の元編集長に「もののふのタイトルは愚息だ」と言われました。
今回60話のテーマは「愚息」で行きます。
愚息道上雄峰は愛媛県八幡浜で生まれましたが、 2歳の時に父道上伯が渡仏し、以来10年間会えなかったのです。
10年後に雄峰も家族とともに渡仏したが、忙しい道上とはあまり一緒には暮らせなかった。
しかもフランス語上達の為自宅ではなく、下宿、寮の生活の方が長かった。
幼年時代の雄峰は普通の子供とあまり変わりなく見えたが、実は自閉症だった。
母親が仕事で帰りが遅くなる事も多かった。
姉たちとは年が離れていてあまり一緒に遊んではもらえなかった。
家の屋根に上り空と交信する事が多かった。
僕はどうしてこういう暮らしをしているのだろう、宇宙の先に在る物は何だろう、神はいるのだろうか・・・。
自閉症の為か無口な子だった。口の代わりにすぐ手が出た。
べらべらしゃべる「先生のえこひいきの子」をしょっちゅう殴った。
表現力がないので暴力に訴える事もしばしばだった。
幼稚園、小学校でも村八分だった。
先生にさえ「雄峰君と遊んではいけません、乱暴だから」と言われていた。
とにかく言葉が嫌いだった。人がやった悪さが雄峰のせいになることはしょっちゅうであった。
先生が黒板に書いた間違いでも雄峰が指摘すると叱られた(他の者たちの指摘は褒められた)。
小学校でも答案用紙をまず人の名前で出し、採点後自分の名前に書き直していた事が多かった。
絵をかいても他の生徒の名前で出すと五重丸だが自分の名前だと二重丸かせいぜい三重丸だった。
処世術が嫌いな子供だった。
ある日小学校一年の時先生に知能指数が全国一位だったと知らされる。
180点以上の点数になると先生にも知らされなかったというから300点満点の200点ほどだったんだろうか。
よく神童は大人に成ると馬鹿になると言われるが、 それを地で生きているような子だった。
まったく横文字も知らない状態でフランスへ行ったため最初は小学1年生に入った。
小学1年生は保育園幼稚園へ行った事のない生徒が行くクラスだった。
普通は2年から入学する。フランスでは当時小学校は5年制、中高等学校は7年制だった。
半分以上が小学校卒で働きに行っていた時代だった。
ある日ひょんなことで先生から算数の質問をされ簡単に答えてしまったため、 小学生、中学生、高校生の算数、数学の試験を受けさせられた。
採点したら全問正解で先生がビックリ。
中学か高校へ行くべきだと言いながら 翌日から五年生に上げられてしまった。
しかし五年生のレベルでは何を言っているのかチンプンカンプン。 雄峰渡仏半年目の事だった。
まったく授業についていけないのでわずか1カ月で三年生に格下げになった。
相変わらず表現が上手くできず、すぐ人を殴っていた。
いじめられていたのかいじめていたのか未だにわからない。
雄峰にとってフランスでのストレス解消法だったのかもしれない。
しかし喧嘩ばかりするためとうとう小学校を退学になった。
当時フランスでは、いじめられる日本人の多い時代にあって雄峰は異端児だった。
パリでも日本人は珍しく、ましてやフランス南西(ボルドー)では日本人と出会う事はなかった。
小学校復習2年生クラスがあり、そこへ行った。その後中高等学校(Lysee)に編入。
ここでも数学だけはずば抜けて一番だった。
体育と絵も一番だったが、他の教科はからっきし駄目だった。
ただフランス語は上手になっていた。
会話で分からない事はなくなっていたが相変わらず人のせいにするのが得意なフランス人の前では相変わらずの自閉症だった。
そのため人がやった悪さを雄峰のせいにされる事が多かった。
その仕返しは必ずしたが、毎月職員会議にかかりそのたびに外出禁止や停学になった。
ある日フランス人の同級生に言われた。
「人種差別をしているのは僕達では無くおまえだ」と。
そうかもしれない。
一対一の喧嘩が雄峰対フランスの喧嘩になっていた。フランスが嫌いだった。
フランスでは表現しなければ置いてきぼりになる為、知らず知らずのうちに自己表現をすることを身につけるようになった。
この頃の大きな問題は二国間の言葉の問題だった。
長くフランスに住んでいると日本語を忘れる。
一方フランス語は上手くなる。
丁度フランス語能力と日本語能力がほぼ同じになった時危険な状態が起きた。
自分が分からなくなる。私は誰?ここはどこ?の状態だ。
失語症に掛かり自分のアイデンティティが分からなくなっていく。
ここで一例を上げよう。
あ~という音を大きな声で発すると(真言・マントラ)肺が共鳴する。
人間が情緒的になる。ちなみにスペイン語に多い発音だpatatas fritas (フライドポテト)。
スペイン人はプライドが高く思えた。柔道の練習で相手を倒すとにらみつけてくることが多かった。
い~の場合眉間が共鳴する。人間が率直に成る。
イタリア語に多いi pisellini (小さいえんどう豆)。
イタリア人は愛情をストレートに表現する。「愛しているよ!来世も一緒にいたい」
問題は翌日別の女性にも同じことを言う事だ。
う~はドイツ語に多い umgebungsindustrie (環境産業)。
ウーは丹田を刺激する。ドイツ語の言葉は意味が深い。
え~は甲状腺を刺激する。人間が合理的になる。
ファースト・フードの発祥が多いのは英語圏である excellent (素晴らしい)。
お~は心臓を刺激する。超常感覚機能が発達する。
ロシア語に多い発音だOBOЩHOЙ (野菜)。
ロシアは世界で最もテレパシーのようなものを研究している。
そういえばラスプーチンもロシア人だ。
では日本人はどうだ?
日本語の発音は語尾が落ちる。「僕が\↓」と最後の音が落ちる。
日本の古い歌はストレートに声を出さないで一端飲み込んでから発声することが多い。
しかも音よりも音と音の間の「間」を重んじる。その「間」の為に音を出すと言う事をある三味線の家元に御教授頂いた事がある。
これだけ極端な差があると二か国語が同じように話せると人は迷う。
言葉の持つ意味が異なる。
たとえばアイデアという言葉はアイデアと訳されるだけではなく、いろいろな意味を含む。またその逆もまたある。
しかも人間は言葉を通して考える事が多い。
日系二世が全く日本人と異なる顔をしていることが多いのはなぜだろう。
日本で生まれ育った外国人は日本人のようなオーラ持っているが決して食べ物や気候のせいでは無い。
雄峰は自分のアイデンティティを取り戻すべく、フランスの学校を飛び出しスウェーデン経由で日本帰国を考えた。
スウェーデンでは当時お金がない外国人を自国へ強制送還させた。
そこで日本に帰れると勝手に思い込んでいたが当時国際法で二十歳までは父親の許可なしに海外には行けない。
雄峰17歳。馬鹿だった。
以前にも書いたが、帰国することでも相当道上に叩かれた。
しかしある国家試験に合格し、先に帰っていた清水猛(義兄)の受け入れ許可のお蔭で日本へ帰国が許された。
帰国後早速日本で受験したが何処も受け入れてもらえず、唯一東京九段下にあった暁星高校に受け入れてもらえる事になった。
受験した時には中学二年に編入することでどうかということだったが、17歳になっていた雄峰にはあまりにも落差があったため、 お願いして何とか高校一年の二学期からの入学となった。
当然日本語の方がフランス語より下手だった。
それも自身ではまったく気がついていなかった。
本人はしっかりしゃべっているつもりでも通じていないとよく同級生に言われた。
何といっても試験の問題が分からなかった。漢字も文章も。それでも日本に帰れてうれしかった。
日本語もフランス語もおぼつかないにもかかわらず雄峰は早速フランス語の個人レッスンを始めた。そしてフランス語の通訳もやった。
日本語もフランス語も下手だったが、会話において雄峰ほど日本語が出来るフランス人はいなかったし雄峰ほどフランス語が出来る日本人もいなかったためごまかしがきいた。
しかもかなりの高給をもらっていた。
帰国当初は雄峰も学校では人気者だった。フランスの出来事をよく質問された。
半年ぐらい経ったころには周りには誰も居なくなっていた。
変わり者は排除される処世術の国が日本だった。フランス以上に日本で差別された。
外国帰りと言うだけで付き合っている女性との間を引き裂かれた。
会社はどこも採用してくれなかった。今とは真逆の時代だった。
フランスで日本国の看板を背中に背負って戦ったつもりでいた雄峰は 心のなかで「俺の祖国は何処だ!」と叫ぶ毎日だった。
帰国後三年経ったころだろうか
またしても日本語とフランス語の語学力が均等に成った途端再び失語症に掛かり、 私は誰?ここは何処?の状態になった。
ところが卒業後同じ帰国子から聞いたことは思いがけない事であった。
暁星高校は一学年10人ほどの帰国子が在籍していた。
その大半が精神病院に通っていたと言う。
雄峰には精神病院に通うなどという知識もなかった。
だったらどうしてもっと早く僕に打ちあけてくれなかったのか。
きっと皆一人で悩んでいたのだろう。
人に話しても理解されない内容だった。
親の仕事の関係で海外で生活した子供は多い。良い意味でも悪い意味でも変わった日々を送ったはずだ。
子供は半分外国で半分日本で暮らさせようと言う無知な母親が当時もいた。その言葉で多くの帰国子女の反感を買っただろう。
人に言えない、言っても理解されない苦しみがあった。
雄峰の支えは父道上伯が強かったことだ。
どういったことにも、へこたれない姿勢が、私は誰?ここは何処?
そんなやわな事を気にしない勇気を貰えた。
ただあのままフランスに残っていると自分がどうしようもない人間になって行くと思った。
やはり日本語でも良い、フランス語でも良い、自分の軸となる文化 言語を持つべきだといまだに思う。
帰国子女が雇用されない時代だったため 雄峰は大学在学中に貿易会社をつくった。そのまま今日も同じ会社を営んでいる。
三十歳を過ぎた頃からだろうか、物を売るために必死で喋るようになったが今でも自宅では無口だ。
自閉症の人間を身近にして最近初めて自閉症の存在を知った。
今の若い世代は世界中同じ格好をして同じ音楽を聴き同じスマホを持っている。
外国との距離が無くなった。
本当にこれで良いのだろうか?疑問が残るところだ。
日本に帰れることで思いが具現化した雄峰とは裏腹に、フランスに残された道上伯は残った女房とほとんど口をきかずまた一人の生活に戻った。
ボルドー、海外と飛び回っていたが、パリにはトランジットで泊まる程度だった。
夫婦仲は冷え込んでいた。
日本へ帰った当時、雄峰は日本に戸惑ったが、 道上伯と現代の日本社会との穴は埋まらずじまいだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士 (もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
突然日本から電報が届いた。
志摩子の夫、清水猛に日本へ帰るようにという内容だった 。
当時清水園と言えば 関東一円で最も大きな料亭だった。
1万坪を優に超える広大な敷地には滝があり 、部屋は全て離れの一軒家。
高床式になっていてその下を池がめぐっていた。
当時埼玉県警にいた亀井静香(国会議員)は
その床に潜み右翼たちの会話を盗み聞きしようと試みたそうだ。
その女将の相続をめぐって 孫の猛は日本に 帰らなければいけなくなった。
そうなると 道上家の中心だった志摩子、清水猛、娘清水美津里、の3名がいなくなる。 在仏道上家の崩壊である。道上は猛に思い留まらせるよう必死で説得にかかった。
清水猛は清水園存続の為必死で道上の説得にあたった。
清水猛は人柄もよく 、しかもなかなか忍耐強い男だった。
幾度となく繰り返される道上の引き留めには大変苦労したが、長男でほかに男兄弟のいない彼は 苦しみながらも粘り強く道上を説得した。 半年後には道上もようやくあきらめ帰国を了解する。1969年の事だった。
清水猛在仏2年強、清水志摩子在仏5年。いろいろなことがあった。
1968年のパリ5月革命も経験した。交通遮断。食料は途絶える。
もちろん猛にとって大好きな煙草も買えない。
何といっても 道上の浦島太郎の様な生き方、何もわからないフランスでの生活。
全てが未経験の事だった。 いつも道上家の張りつめた雰囲気(怖陰気)が、
猛が同居することによってひと時の春だった。
男尊女卑の道上家では、愚息は道上から毎日手刀(3本指先)で頭をどつかれた。
毎日指折り数えたが、猛が来てからもついにどつかれない日は無かった。
3本指を手首のスナップだけで 愚息の額をどつく。
その瞬間頭がくらくらする。 もどしたり下痢したりする愚息だった。
道上は志摩子や特に猛には優しかった。
しかし猛は言った 「男には将来の為 強くなければいけないと言う理由から厳しくなる。 女性はいつかは巣立っていくから 甘い。雄峰君が羨ましい」と。
そんな志摩子も一度だけ道上にひっぱたかれたことがある。
家族の団欒の中でまだ猛が来仏していない頃、日本での噂の話になった 。
道上にはフランスに女がいるというものだ。
一度もフランスへ来た事も無い人達のやっかみの噂である。
一方女房小枝には 日本で男がいるとの噂を 道上が切り出した。
その時軽蔑したような顔で 志摩子はせせら笑った。
その瞬間道上の平手打ちが飛んだ。
志摩子はおよそ5分にわたって道上をにらみ続けた。
道上が「お父さんには数十万の弟子が居るが お父さんをにらんだのは君一人だ」。
いろいろなことがあった。
愚息もフランスの水が合わなかったようだ 。
日本に帰りたくてハチャメチャをやってのけた。
彼には猛のように道上を説得する力は無かった。
もともと相手にされていなかったからだ。
志摩子は現在清水園の代表として忙しい毎日を送っている。
疲れが溜まりすぎると、誰にも知らせずパリへ飛ぶ。
パリの街角にたつカフェで1人のんびり猛との思い出にふける。
昔のパリ、カフェは座って通る人達を眺めるだけで飽きなかった。
猛はカフェで過ごすのが大好きだった。
世界中の人たちがいろいろな格好で自己顕示する。見ているだけで飽きない。
当時のスティリストのデザインはストリート・ファッションのパクりだった。
街で流行ったものを2年後にバリ・コレが世界に発信する。
橋の欄干にもたれ遠くを見つめる外国人たち。
その目線の先は祖国に残した家族恋人達であろうか。
哀愁漂う光景を目にする一方、
抱き合い永遠の愛の誓いを表現する若者たちの姿が心に残る。
誰もが恋人を連れて必ずパリに来るぞと心に誓う。
愛する人、愛する家族、愛する母国と心から向き合えるのがパリなのだろうか。
手をつないで歩く老夫婦が美しい。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
突然日本から電報が届いた。
志摩子の夫、清水猛に日本へ帰るようにという内容だった 。
当時清水園と言えば 関東一円で最も大きな料亭だった。
1万坪を優に超える広大な敷地には滝があり 、部屋は全て離れの一軒家。
高床式になっていてその下を池がめぐっていた。
当時埼玉県警にいた亀井静香(国会議員)は その床に潜み右翼たちの会話を盗み聞きしようと試みたそうだ。
その女将の相続をめぐって 孫の猛は日本に 帰らなければいけなくなった。
そうなると 道上家の中心だった志摩子、清水猛、娘清水美津里、の3名がいなくなる。
在仏道上家の崩壊である。道上は猛に思い留まらせるよう必死で説得にかかった。
清水猛は清水園存続の為必死で道上の説得にあたった
清水猛は人柄もよく 、しかもなかなか忍耐強い男だった。
幾度となく繰り返される道上の引き留めには大変苦労したが、長男でほかに男兄弟のいない彼は 苦しみながらも粘り強く道上を説得した。
半年後には道上もようやくあきらめ帰国を了解する。1969年の事だった。
清水猛在仏2年強、清水志摩子在仏5年。いろいろなことがあった。
1968年のパリ5月革命も経験した。交通遮断。食料は途絶える。
もちろん猛にとって大好きな煙草も買えない。
何といっても 道上の浦島太郎の様な生き方、何もわからないフランスでの生活。
全てが未経験の事だった。
いつも道上家の張りつめた雰囲気(怖陰気)が、 猛が同居することによってひと時の春だった。
男尊女卑の道上家では、愚息は道上から毎日手刀(3本指先)で頭をどつかれた。
毎日指折り数えたが、猛が来てからもついにどつかれない日は無かった。
3本指を手首のスナップだけで 愚息の額をどつく。
その瞬間頭がくらくらする。
もどしたり下痢したりする愚息だった。
道上は志摩子や特に猛には優しかった。
しかし猛は言った 「男には将来の為 強くなければいけないと言う理由から厳しくなる。
女性はいつかは巣立っていくから 甘い。雄峰君が羨ましい」と。
そんな志摩子も一度だけ道上にひっぱたかれたことがある。
家族の団欒の中でまだ猛が来仏していない頃、日本での噂の話になった 。
道上にはフランスに女がいるというものだ。
一度もフランスへ来た事も無い人達のやっかみの噂である。
一方女房小枝には 日本で男がいるとの噂を 道上が切り出した。
その時軽蔑したような顔で 志摩子はせせら笑った。
その瞬間道上の平手打ちが飛んだ。
志摩子はおよそ5分にわたって道上をにらみ続けた。
道上が「お父さんには数十万の弟子が居るが お父さんをにらんだのは君一人だ」。
いろいろなことがあった。
愚息もフランスの水が合わなかったようだ 。
日本に帰りたくてハチャメチャをやってのけた。
彼には猛のように道上を説得する力は無かった。
もともと相手にされていなかったからだ。
志摩子は現在清水園の代表として忙しい毎日を送っている。
疲れが溜まりすぎると、誰にも知らせずパリへ飛ぶ。
パリの街角にたつカフェで1人のんびり猛との思い出にふける。
昔のパリ、カフェは座って通る人達を眺めるだけで飽きなかった。
猛はカフェで過ごすのが大好きだった。
世界中の人たちがいろいろな格好で自己顕示する。見ているだけで飽きない。
当時のスティリストのデザインはストリート・ファッションのパクりだった。
街で流行ったものを2年後にバリ・コレが世界に発信する。
橋の欄干にもたれ遠くを見つめる外国人たち。
その目線の先は祖国に残した家族恋人達であろうか。
哀愁漂う光景を目にする一方、 抱き合い永遠の愛の誓いを表現する若者たちの姿が心に残る。
誰もが恋人を連れて必ずパリに来るぞと心に誓う。
愛する人、愛する家族、愛する母国と心から向き合えるのがパリなのだろうか。
手をつないで歩く老夫婦が美しい。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人 編。」
「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人 編。」
家族団欒での話題は八幡浜から日本人へ。
1960年代には日本人観光客も増えてきた。
珍しくパリで日本人と出くわす事もあった。海外渡航の自由化がやって来た。
まだ100ドル(36,000円)しか持ち出せなかったが、旅行者は腹巻に何十万と持って渡航した。闇ドルに変えフランスに到着後フランに変えると30%ほど手数料で無くなってしまっていた。
まだ海外ツアーが無く殆どが個人旅行であった。
日本では海外旅行の経験がないのにある事ない事書いた人達の本を販売していた。
その本を読んで間違った先入観で旅行していた日本人が多かった。
怖いのはパリでは年間10万人の人間が失踪していたことなどを知らないということだ。
中には日本人もいて北アフリカへ行くとまだ人身売買が盛んにおこなわれていた。
道上は家族に気を付けろとの注意をたびたびしていた。
道上家には「旅券をとられた人を何日か泊めてやってくれないか」
との電話が大使館から何度もかかってくる。
仕方なく泊めてあげると何日も居座る。
中には1年以上いたものもいる。
当然ただ飯だが日本へ帰国後も手紙一つよこさない。
日本人の印象は我々の中でも悪くなる一方だった。
レストランでは1人か2人で食事をする分にはおとなしく、
上目づかいできょろきょろ周りを見ながら食べている。
これが4~5人で食べるとなるとやたらと大声でしゃべり、笑い、周りに迷惑だ。
東洋人には厳しい目で見る一方、白人には媚びる。
当時パリで見かける日本人は、男性の方が多かった。
しょぼくれた格好でカメラを2台肩からぶら下げ、
膝を曲げて頭を振りながら歩いていた。
そのような姿を道上は、情けないという表情で見ていた。
外出の際も女房の着物(女房には着物を要求した)が婆くさいと「残って居なさい」と言われてしまう。 身だしなみや風貌にはかなり気を使っていた。
明治時代にヨーロッパへやって来た侍たちは果たしてどうだったか。
きっと威風堂々としていたはずだ。
愚息も旗を持った農協の団体旅行客に遭遇すると困っていた。
天下のシャンゼリゼ通りに茣蓙(ござ)を敷き座っている姿を見たフランス人同級生から尋ねられる。
「あれは日本人ですか?」
「いやべトナム人だ。」
当時フランスに多かった東洋人と言えば中国人とベトナム人だった。
家族もフランス人にはよく中国人と間違えられた。
1960年代の後半になってやっと
「日本人ですか?ベトナム人ですか?」
という聞きかたをされるようになった。
いずれにせよ日本人であることを否応無しに意識させられた。
そういった時代だった。
フランスはまだ豊かだった。
体育の先生がフランスの植民地(特にアフリカ諸国)に転勤になると、
彼の銀行口座には毎月3倍の給料が振り込まれ、現地では医者も住まいも無料で利用できた。
しかも当時の医者や学校の先生の給料はもともと高く、悠々自適の暮らしだった。
現地で柔道場を開くと、生徒からの月謝だけで道上の3倍ほどの年収になっていた。
ちなみに今はフランスの学校の先生は食べていけないくらい薄給だ。
実は日本の企業でも海外へ転勤になると日本での3倍から4倍の給料が支給された。
ただフランスなどヨーロッパ先進国では物価も日本の3倍から4倍だった。
道上の日本人批判は
「何故あんなにだらしのない風貌なのだ。
日本人としてもっと堂々としてもらいたい。」
という思いからだった。当時の日本人は海外へ行っても外国人が自分たちの事をどのように見ているかなど考える人はいなかった。
国内旅行の延長のつもりで国が違えばマナーも違うということも知らなかった。
しかも旅の恥はかき捨てのつもりだった。
日本に帰ると真逆の事を話していたのだろう。
道上の日本人像は誇り高くあるべきだと言うものだ。、
「欧米人は100年前まで食事は手づかみで食べていた。
東洋では箸というものが数千年も前から使われている。
日本人はもっと誇りを持たなければいけない。」
小さなことだが、道上は相手が握りこぶしで咳払いした手で
握手を求められようものなら すかさずノーと言って拒んだ。
「日本人はもっとイエス・ノーをはっきり言わなければいけない」
咳払いはハンカチをあてるべきであると。
謙虚な人間であったが礼節を人一倍重んじる道上の前ではフランス人も緊張した。
買い物へ行っても店員がいい加減な事を言うと道上に叱られていた。
とにかく存在感のある人間だった。
日本人はもっと世界に通用する人間になってほしいとの願いからだったが、
愚息には疲れるおっさんだった。
叱られる時にいつも
「君はそんな事では日本では生きていけない。日本では通用しない」と言われる。
このおっさん日本を知らない、と愚息は心でつぶやいた。
道上の真意についていける者はまだ少なかった。
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「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人 編。」
家族団欒での話題は八幡浜から日本人へ。
1960年代には日本人観光客も増えてきた。
珍しくパリで日本人と出くわす事もあった。
海外渡航の自由化がやって来た。
まだ100ドル(36,000円)しか持ち出せなかったが、旅行者は腹巻に何十万と持って渡航した。
闇ドルに変えフランスに到着後フランに変えると30%ほど手数料で無くなってしまっていた。
まだ海外ツアーが無く殆どが個人旅行であった。
日本では海外旅行の経験がないのにある事ない事書いた人達の本を販売していた。
その本を読んで間違った先入観で旅行していた日本人が多かった。
怖いのはパリでは年間10万人の人間が失踪していたことなどを知らないということだ。
中には日本人もいて北アフリカへ行くとまだ人身売買が盛んにおこなわれていた。
道上は家族に気を付けろとの注意をたびたびしていた。
道上家には「旅券をとられた人を何日か泊めてやってくれないか」
との電話が大使館から何度もかかってくる。
仕方なく泊めてあげると何日も居座る。
中には1年以上いたものもいる。
当然ただ飯だが日本へ帰国後も手紙一つよこさない。
日本人の印象は我々の中でも悪くなる一方だった。
レストランでは1人か2人で食事をする分にはおとなしく、 上目づかいできょろきょろ周りを見ながら食べている。
これが4~5人で食べるとなるとやたらと大声でしゃべり、笑い、周りに迷惑だ。
東洋人には厳しい目で見る一方、白人には媚びる。
当時パリで見かける日本人は、男性の方が多かった。
しょぼくれた格好でカメラを2台肩からぶら下げ、 膝を曲げて頭を振りながら歩いていた。
そのような姿を道上は、情けないという表情で見ていた。
外出の際も女房の着物(女房には着物を要求した)が婆くさいと「残って居なさい」と言われてしまう。
身だしなみや風貌にはかなり気を使っていた。
明治時代にヨーロッパへやって来た侍たちは果たしてどうだったか。
きっと威風堂々としていたはずだ。
愚息も旗を持った農協の団体旅行客に遭遇すると困っていた。
天下のシャンゼリゼ通りに茣蓙(ござ)を敷き座っている姿を見たフランス人同級生から尋ねられる。
「あれは日本人ですか?」
「いやべトナム人だ。」
当時フランスに多かった東洋人と言えば中国人とベトナム人だった。
家族もフランス人にはよく中国人と間違えられた。
1960年代の後半になってやっと 「日本人ですか?ベトナム人ですか?」
という聞きかたをされるようになった。
いずれにせよ日本人であることを否応無しに意識させられた。
そういった時代だった。
フランスはまだ豊かだった。
体育の先生がフランスの植民地(特にアフリカ諸国)に転勤になると、 彼の銀行口座には毎月3倍の給料が振り込まれ、現地では医者も住まいも無料で利用できた。
しかも当時の医者や学校の先生の給料はもともと高く、悠々自適の暮らしだった。
現地で柔道場を開くと、生徒からの月謝だけで道上の3倍ほどの年収になっていた。
ちなみに今はフランスの学校の先生は食べていけないくらい薄給だ。
実は日本の企業でも海外へ転勤になると日本での3倍から4倍の給料が支給された。
ただフランスなどヨーロッパ先進国では物価も日本の3倍から4倍だった。
道上の日本人批判は「何故あんなにだらしのない風貌なのだ。
日本人としてもっと堂々としてもらいたい。」
という思いからだった。当時の日本人は海外へ行っても外国人が自分たちの事をどのように見ているかなど考える人はいなかった。
国内旅行の延長のつもりで国が違えばマナーも違うということも知らなかった。
しかも旅の恥はかき捨てのつもりだった。
日本に帰ると真逆の事を話していたのだろう。
道上の日本人像は誇り高くあるべきだと言うものだ。
「欧米人は100年前まで食事は手づかみで食べていた。
東洋では箸というものが数千年も前から使われている。
日本人はもっと誇りを持たなければいけない。」
小さなことだが、道上は相手が握りこぶしで咳払いした手で握手を求められようものならすかさずノーと言って拒んだ。
「日本人はもっとイエス・ノーをはっきり言わなければいけない」
咳払いはハンカチをあてるべきであると。
謙虚な人間であったが礼節を人一倍重んじる道上の前ではフランス人も緊張した。
買い物へ行っても店員がいい加減な事を言うと道上に叱られていた。
とにかく存在感のある人間だった。
日本人はもっと世界に通用する人間になってほしいとの願いからだったが、 愚息には疲れるおっさんだった。
叱られる時にいつも 「君はそんな事では日本では生きていけない。日本では通用しない」と言われる。
このおっさん日本を知らない、と愚息は心でつぶやいた。
道上の真意についていける者はまだ少なかった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士 (もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
道上の八幡浜自慢はまだ続く。
江戸後期からイワシ漁が盛んだったことは前述の通りだが、買出船交易で持ち出した産物の一つはイワシの魚油製造の過程で出来るしぼり粕だ。イワシの油粕が綿花の肥料に適していたことから当時綿花の産地であった播州播磨地方へ移出、 代わりに篠巻を買い取り農漁家の副業として糸を紡がせた。
海上にシルクロードならぬコットンロードが生まれたのである。
確かに八幡浜人はおしゃれだった。
当初マニファクチャーが多かったが日清戦争時の好景気に異常な発展を遂げ、 資産も充実し設備改善のための資金や、蓄えを作ることができた。 併せて品質向上のために努力を重ね昭和初期まで織物の産地として栄えたのも八幡浜の一面である。
特に大正時代に第一次世界大戦で英国製品の東洋市場への輸出が途絶えると、代わって我が国の綿布が進出するようになった。 当地方でも輸出向けの大正布を製織し神戸の貿易商によって東南アジア方面へ盛んに輸出された。
中でも英国製品に似た縞三綾(しまみつあや)は現地での評判が頗る良く、 昭和の金融恐慌でも輸出が伸び綿業界はアジア、アフリカ、ヨーロッパ、 中南米へと販路を拡大する中で、当地の良品質の縞三綾は南方諸地域への輸出を伸ばした。
長きに亘り高品質製品として信頼を勝ち得て来られたのは苦境にあっても捨てない八幡浜人の弛まぬ向上心と努力の為せるところだと感じて止まない。
個人企業として日本最大規模の漁業会社に成長させた業界の雄もいた。
昭和18年から多角経営に乗り出し、海運業、機船底引き網漁業を始める。
終戦後、昭和27年に下関を拠点とした以東底引き、更に長崎を拠点に以西底引き網漁業に進出。 その後多くは下関の以東底引きを、国の漁業調整事業に乗り釧路を拠点としてオホーツク海、ベーリング海で操業する北洋大型トロールに転換。
更に南方遠洋トロールに進出し大西洋ラスパルマスを基地にスペイン領サハラ沖でタコ、イカ漁の操業を始めるなどした。
道上はヨーロッパのみならずアフリカの殆どの国へ柔道普及のため出向いた。
その中でもイル・ドラ・レユニオン島、マダガスカル島は真にアフリカの南端であった。
1950年代のある日道上がマダガスカル島の桟橋を歩いていたところ、
向こうから日本人らしき船乗りが歩いて来た。 当時外国で日本人は珍しかった。
道上が「日本の方ですか」と声をかけた。
「はいそうですが。」
「お国はどちらですか。」
首を傾げながら「愛媛県の八幡浜です」。
すかさず道上は「八幡浜のどちらですか」
「八幡浜のどちらですか?・・?向灘組です」
「飲みに行こう」
こうして朝まで飲んだそうだ。
偶然という事もあるだろうが、地の果てまで漁に行っていた事が窺える。
宇和紡績会社は明治20年創業の、四国初の紡績業。工場の自家発電が、四国初の電灯となった。 愛媛県で一番最初に銀行が出来、愛媛蚕種も明治17年蚕種製造開始。現在も西日本で唯一蚕種製造を行っている。
1927年創業のお菓子の国「あわしま堂」は西日本最大級の生産量を誇る。
唐饅(とうまん)、タルトは今でも懐かしい。 蝋座、晒し座、締り役、鬢付け油は全国シェアを握っていた。
八幡浜では身体がデカければ褒められ、酒が強いと豪傑、勉強が出来るとペテン師と極端なことを言う。 だがそれは漁師であって、商才に長け、先見の明があり、目は常に外地に向けていた人も多かった。
そんな資質を持つせいか。
西井久八は明治11年横浜港を出港したアメリカ移民の先駆者であった事は以前にも記述。 アメリカ西海岸に日本人移民が多かったのは彼によるところが大きい。
また、飛行機の父と言われている二宮忠八は、ライト兄弟が空を飛んだ年の12年前に大型模型ではあったが動力飛行実験を成功させた。
何故ここまで道上は八幡浜を話すのか。
ヨーロッパは宣伝の国だ。その内わかるでは世界に通用しない。
自分の家庭にまで戦車で乗り込まれ蹂躙された人が多くいる国、それがフランスだ。 周りを6か国に囲まれ、自分たちのアイデンティティを常に表現するのがひしめき合っているヨーロッパの常だ。
日本しか知らない愚息たちには何を息巻いているかがよく分からなかった。
なんとなくわかったのは、道上が常に世界規模で考え意識しているということを。
もっと日本人は頑張らなければ世界に取り残されて行く。
柔道も例外では無い。
との思いだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
道上の八幡浜自慢はまだ続く。
江戸後期からイワシ漁が盛んだったことは前述の通りだが、買出船交易で持ち出した産物の一つはイワシの魚油製造の過程で出来るしぼり粕だ。
イワシの油粕が綿花の肥料に適していたことから当時綿花の産地であった播州播磨地方へ移出、 代わりに篠巻を買い取り農漁家の副業として糸を紡がせた。
海上にシルクロードならぬコットンロードが生まれたのである。
確かに八幡浜人はおしゃれだった。
当初マニファクチャーが多かったが日清戦争時の好景気に異常な発展を遂げ、 資産も充実し設備改善のための資金や、蓄えを作ることができた。
併せて品質向上のために努力を重ね昭和初期まで織物の産地として栄えたのも八幡浜の一面である。
特に大正時代に第一次世界大戦で英国製品の東洋市場への輸出が途絶えると、代わって我が国の綿布が進出するようになった。
当地方でも輸出向けの大正布を製織し神戸の貿易商によって東南アジア方面へ盛んに輸出された。
中でも英国製品に似た縞三綾(しまみつあや)は現地での評判が頗る良く、 昭和の金融恐慌でも輸出が伸び綿業界はアジア、アフリカ、ヨーロッパ、 中南米へと販路を拡大する中で、当地の良品質の縞三綾は南方諸地域への輸出を伸ばした。
長きに亘り高品質製品として信頼を勝ち得て来られたのは苦境にあっても捨てない八幡浜人の弛まぬ向上心と努力の為せるところだと感じて止まない。
個人企業として日本最大規模の漁業会社に成長させた業界の雄もいた。
昭和18年から多角経営に乗り出し、海運業、機船底引き網漁業を始める。
終戦後、昭和27年に下関を拠点とした以東底引き、更に長崎を拠点に以西底引き網漁業に進出。
その後多くは下関の以東底引きを、国の漁業調整事業に乗り釧路を拠点としてオホーツク海、ベーリング海で操業する北洋大型トロールに転換。
更に南方遠洋トロールに進出し大西洋ラスパルマスを基地にスペイン領サハラ沖でタコ、イカ漁の操業を始めるなどした。
道上はヨーロッパのみならずアフリカの殆どの国へ柔道普及のため出向いた。
その中でもイル・ドラ・レユニオン島、マダガスカル島は真にアフリカの南端であった。
1950年代のある日道上がマダガスカル島の桟橋を歩いていたところ、 向こうから日本人らしき船乗りが歩いて来た。
当時外国で日本人は珍しかった。
道上が「日本の方ですか」と声をかけた。
「はいそうですが。」
「お国はどちらですか。」
首を傾げながら「愛媛県の八幡浜です」。
すかさず道上は「八幡浜のどちらですか」
「八幡浜のどちらですか?・・?向灘組です」
「飲みに行こう」
こうして朝まで飲んだそうだ。
偶然という事もあるだろうが、地の果てまで漁に行っていた事が窺える。
宇和紡績会社は明治20年創業の、四国初の紡績業。工場の自家発電が、四国初の電灯となった。
愛媛県で一番最初に銀行が出来、愛媛蚕種も明治17年蚕種製造開始。現在も西日本で唯一蚕種製造を行っている。
1927年創業のお菓子の国「あわしま堂」は西日本最大級の生産量を誇る。
唐饅(とうまん)、タルトは今でも懐かしい。
蝋座、晒し座、締り役、鬢付け油は全国シェアを握っていた。
八幡浜では身体がデカければ褒められ、酒が強いと豪傑、勉強が出来るとペテン師と極端なことを言う。
だがそれは漁師であって、商才に長け、先見の明があり、目は常に外地に向けていた人も多かった。
そんな資質を持つせいか。
西井久八は明治11年横浜港を出港したアメリカ移民の先駆者であった事は以前にも記述。
アメリカ西海岸に日本人移民が多かったのは彼によるところが大きい。
また、飛行機の父と言われている二宮忠八は、ライト兄弟が空を飛んだ年の12年前に大型模型ではあったが動力飛行実験を成功させた。
何故ここまで道上は八幡浜を話すのか。
ヨーロッパは宣伝の国だ。その内わかるでは世界に通用しない。
自分の家庭にまで戦車で乗り込まれ蹂躙された人が多くいる国、それがフランスだ。
周りを6か国に囲まれ、自分たちのアイデンテイテイを常に表現するのがひしめき合っているヨーロッパの常だ。
日本しか知らない愚息たちには何を息巻いているかがよく分からなかった。
なんとなくわかったのは、道上が常に世界規模で考え意識しているということを。
もっと日本人は頑張らなければ世界に取り残されて行く。
柔道も例外では無い。
との思いだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士 (もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
垂仁天皇の勅命を受けた田道間守【多遅摩毛理(タヂマモリ)】が、
苦労の末に不老不死の霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)【非時香木実<橘>】を常世の国<海の彼方にあるとされた永遠不変・不老長寿の国(奄美大島)>から持ち帰った、その橘が、橘本神社の旧社地「六本樹の丘」に移植されたのである。
橘は日本原産で、九州・四国・紀伊半島に自生していた。
ただヨーロッパではみかんの事をマンダリンと呼んでいる。
Mandarin の語源は 「Man Daren 満大人」という中国語だ。
「満大人」は「満州人の大人(役人)」の意味で、Mandarinとは、本来は清朝の貴族役人が使っていた北京官話(官話は役人言葉・公用語の意味)のことである。
現在の普通話(中国国内で公用語と定められた中国語)が形成されるまでは、北京官話といえば中国の標準語の地位にあった。すなわち満州物とか漢物と表現されている。まあヨーロッパでは日本も中国も一緒くたなのかもしれない。
そんな千夜一夜物語の様に評されているみかんだが 事実 今でもみかんは皮ごと食後に食べると糖尿に効くらしい。 いや他にも多くの効果があるようだ。昔はよく焼いて食べた人もいたそうだ。神が与えた恵みと言っても過言では無い。
漁業以外でもう一つ八幡浜が全国に名を馳せた産業が柑橘農業である。
明治27年(今から120年前)、道上の地元向灘勘定の大家百次郎翁が3000本の温州みかんの苗木を九州から取り寄せたことが柑橘栽培の始まりである。
それも江戸時代後期から各浦々の漁村で何代にも亘って段々畑を開発しサツマイモや麦を栽培していたおかげで柑橘への切り替えが容易だった。
終戦後農地改革を経て向灘の温州みかん栽培は増産の一途をたどる。
八幡浜は全国屈指の温州みかんの産地で、中でも東西に延びる向灘地区は海抜300メートルの権現山の頂きまで一段一段石積みをして開墾された段々畑なので
とても水はけが良く、しかも全面南向きのため年間積算日照時間が多いことで食味の良いみかんが出来る。
平成2年に宮内庁と愛媛県青果連のご推挙により、今上天皇大嘗祭に供納するみかんを献上したことから日本一と評されるようになった。
しかも 日の丸みかんは千疋屋にしか置いていないと言われていた。
愚息がフランスの柔道チャンピオンB・Sと話したのはフランスへ着いてすぐの事だった。 B・Sは当時日本チャンピオンだった神永5段と練習試合で引き分けるほどのつわものだった。
彼曰く「我々西洋人は上半身において日本人に負けないが、足腰の強さで日本人に負ける」と言っていた。 「日本人は正座するから強いんだ」。 愚息がふと思ったのは日本の便器だった。
日本はフランス(55万平方キロ)の5分の3の面積(36万平方キロ)人口はフランスの倍、しかも国土の83%が山だ。 道上は毎日山を駆け上ったり駆け下りたりした。強靭な筋肉 バネのある体は真にみかん畑によるものだと言っても過言では無い、 と 愚息は思った。
その昔初代若乃花という力士がいた。小兵ながら名横綱だった。
彼は船の冲仲仕をして鍛えられた。重い荷物を持って船に乗り降りする毎日、強く大地を踏む足 30センチ幅の細い掛け板を往来する事によって培われたバランス感覚。八幡浜も冲仲仕の町だった。自然が、仕事が、強靭な身体を育ててくれた。
前田山英五郎 (戦後初の横綱。相撲界の国際化の先駆者。外国人力士第1号の高見山を発掘 )をはじめ、 初代朝汐太郎も八幡浜出身。後4代目朝潮が 朝青龍をも輩出している。
道上の父安太郎もアメリカのアマチュア相撲で連戦連勝の横綱だった。
道上伯の国際感覚も八幡浜だから育ったのだろうか?
みかん山から見下ろす入り江には海外に目を向ける魔物のようなものが潜んでいる。
近年トップブランドと言われる「日の丸みかん」は向灘地区の三つの出荷組合(日の丸、朝日、ム)が合併し出来上がった共撰のことである。 現在は頂上まで農道が整備され国による南予用水事業のおかげで夏期の渇水対策も万全で、昔の人たちの農作業と比較すると夢のような環境になった。
それもこれも「朝は朝星、夜は夜星」と言われるほど夜明け前から日暮れまでご先祖が流した汗と日々の労苦の結晶が現在の基盤を作ったものと言える。
しかし便利になった分だけ現代人は体力が衰えてきているのかもしれない。
さて、みかんの苗木を向灘に取り寄せたことでみかんの父と呼ばれる大家百次郎氏のことは地元の方ならよくご存じのことなのだが、それを愛媛の基幹産業として基礎を固めたのは同じ勘定生まれで道上より12歳年上の岩切徳市氏である。
尋常小学校卒業後1ヘクタールの土地に早くから柑橘栽培に取り組み、みかん園を創りあげた先駆者である。 生食果として商品にならなかった果実をジュースにすることを思いつき豊富なミネラルを育んだ八幡浜ミカンジュースは健康にこだわる多くの方達に愛飲されている。
愚息「お父さん八幡浜みかんは日本一ですよ」「君は何を言っているんだ、世界一だ」
何を言っても世界基準になってしまう道上。
八幡浜は道上にとって思い出の宝庫だった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
垂仁天皇の勅命を受けた田道間守【多遅摩毛理(タヂマモリ)】が、苦労の末に不老不死の霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)【非時香木実<橘>】を常世の国<海の彼方にあるとされた永遠不変・不老長寿の国(奄美大島)>から持ち帰った、その橘が、橘本神社の旧社地「六本樹の丘」に移植されたのである。
橘は日本原産で、九州・四国・紀伊半島に自生していた。
ただヨーロッパではみかんの事をマンダリンと呼んでいる。
Mandarin の語源は 「Man Daren 満大人」という中国語だ。
「満大人」は「満州人の大人(役人)」の意味で、Mandarinとは、本来は清朝の貴族役人が使っていた北京官話(官話は役人言葉・公用語の意味)のことである。
現在の普通話(中国国内で公用語と定められた中国語)が形成されるまでは、北京官話といえば中国の標準語の地位にあった。
すなわち満州物とか漢物と表現されている。
まあヨーロッパでは日本も中国も一緒くたなのかもしれない。
そんな千夜一夜物語の様に評されているみかんだが 事実 今でもみかんは皮ごと食後に食べると糖尿に効くらしい。
いや他にも多くの効果があるようだ。
昔はよく焼いて食べた人もいたそうだ。
神が与えた恵みと言っても過言では無い。
漁業以外でもう一つ八幡浜が全国に名を馳せた産業が柑橘農業である。
明治27年(今から120年前)、道上の地元向灘勘定の大家百次郎翁が3000本の温州みかんの苗木を九州から取り寄せたことが柑橘栽培の始まりである。
それも江戸時代後期から各浦々の漁村で何代にも亘って段々畑を開発しサツマイモや麦を栽培していたおかげで柑橘への切り替えが容易だった。
終戦後農地改革を経て向灘の温州みかん栽培は増産の一途をたどる。
八幡浜は全国屈指の温州みかんの産地で、中でも東西に延びる向灘地区は海抜300メートルの権現山の頂きまで一段一段石積みをして開墾された段々畑なので とても水はけが良く、しかも全面南向きのため年間積算日照時間が多いことで食味の良いみかんが出来る。

平成2年に宮内庁と愛媛県青果連のご推挙により、今上天皇大嘗祭に供納するみかんを献上したことから日本一と評されるようになった。
しかも 日の丸みかんは千疋屋にしか置いていないと言われていた。
愚息がフランスの柔道チャンピオンB・Sと話したのはフランスへ着いてすぐの事だった。
B・Sは当時日本チャンピオンだった神永5段と練習試合で引き分けるほどのつわものだった。
彼曰く「我々西洋人は上半身において日本人に負けないが、足腰の強さで日本人に負ける」と言っていた。
「日本人は正座するから強いんだ」。 愚息がふと思ったのは日本の便器だった。
日本はフランス(55万平方キロ)の5分の3の面積(36万平方キロ)人口はフランスの倍、しかも国土の83%が山だ。
道上は毎日山を駆け上ったり駆け下りたりした。
強靭な筋肉 バネのある体は真にみかん畑によるものだと言っても過言では無い、と 愚息は思った。
その昔初代若乃花という力士がいた。小兵ながら名横綱だった。
彼は船の冲仲仕をして鍛えられた。
重い荷物を持って船に乗り降りする毎日、強く大地を踏む足 30センチ幅の細い掛け板を往来する事によって培われたバランス感覚。
八幡浜も冲仲仕の町だった。自然が、仕事が、強靭な身体を育ててくれた。
前田山英五郎 (戦後初の横綱。相撲界の国際化の先駆者。外国人力士第1号の高見山を発掘 )をはじめ、初代朝汐太郎も八幡浜出身。
後4代目朝潮が 朝青龍をも輩出している。
道上の父安太郎もアメリカのアマチュア相撲で連戦連勝の横綱だった。
道上伯の国際感覚も八幡浜だから育ったのだろうか?
みかん山から見下ろす入り江には海外に目を向ける魔物のようなものが潜んでいる。
近年トップブランドと言われる「日の丸みかん」は向灘地区の三つの出荷組合(日の丸、朝日、ム)が合併し出来上がった共撰のことである。
現在は頂上まで農道が整備され国による南予用水事業のおかげで夏期の渇水対策も万全で、昔の人たちの農作業と比較すると夢のような環境になった。
それもこれも「朝は朝星、夜は夜星」と言われるほど夜明け前から日暮れまでご先祖が流した汗と日々の労苦の結晶が現在の基盤を作ったものと言える。
しかし便利になった分だけ現代人は体力が衰えてきているのかもしれない。
さて、みかんの苗木を向灘に取り寄せたことでみかんの父と呼ばれる大家百次郎氏のことは地元の方ならよくご存じのことなのだが、それを愛媛の基幹産業として基礎を固めたのは同じ勘定生まれで道上より12歳年上の岩切徳市氏である。
尋常小学校卒業後1ヘクタールの土地に早くから柑橘栽培に取り組み、みかん園を創りあげた先駆者である。
生食果として商品にならなかった果実をジュースにすることを思いつき豊富なミネラルを育んだ八幡浜ミカンジュースは健康にこだわる多くの方達に愛飲されている。
愚息「お父さん八幡浜みかんは日本一ですよ」
「君は何を言っているんだ、世界一だ」
何を言っても世界基準になってしまう道上。
八幡浜は道上にとって思い出の宝庫だった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |


