古武士(もののふ)
古武士(もののふ) バックナンバー



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10月20日配信 「古武士(もののふ) 第75話 MICHIGAMIワインとは」
10月13日配信 「古武士(もののふ) 第74話 本物とは」
10月6日配信 「古武士(もののふ) 第73話 ヰタ セクスアリス」
9月29日配信 「古武士(もののふ) 第72話 道上の心配」
9月22日配信 「古武士(もののふ) 第71話 道上一時帰国中 武士の目」
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メルマガ著者紹介
| 道上の独り言【 道上 雄峰 】幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン
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10月13日配信 「古武士(もののふ) 第74話 本物とは」
10月6日配信 「古武士(もののふ) 第73話 ヰタ セクスアリス」
9月29日配信 「古武士(もののふ) 第72話 道上の心配」
9月22日配信 「古武士(もののふ) 第71話 道上一時帰国中 武士の目」
「古武士(もののふ)第76話 道上の軌跡を本に」
「古武士(もののふ) 第76話 道上の軌跡を本に」
道上の軌跡を後世に残したいという愚息の思いは止まらなかった。
世界的権威のモディスト(帽子のクリエイター)平田昭夫先生に頼んで何とか道上の生涯を本にしてもらえないだろうかと頼み込む。
平田先生は当時文藝春秋の社長であった田中健吾さんの友人だった。
その田中さんが文藝春秋編集長の白川さんを紹介してくれる。白川さんは非常に頭の切れる人だった。
そしてその白川さんが連れてきたのが眞神さんである。
彼はすでにノン・フイクションで色々な賞をとっていた売れっ子作家であった。
愚息は早速彼を連れてボルドーへ飛んだ。
会った途端、道上は恐ろしい形相で愚息を睨みつける。
何て馬鹿な事をやっているんだと言わんばかりに。愚息はただただ済みませんと謝るばかり。
真神さんに向かっては「私は宣伝は嫌いだ」と。
道上の言う事も分からんでは無い。
自己宣伝する人の大半は偽物で、それを生業にしている人が多い。
しかし愚息はそうは思っていない。歴史は作られる。史実と真実とは異なる。
しかし作られた史実だけでは世の為にならないと思っていた。
愚息は31歳の時フランス語で書かれたタロットカードの小冊子を日本語に翻訳した。
その訳を読みたいと頼まれたので、貸したが、借りた人物が勝手に自分の名前でムーと言う雑誌に載せた。
愚息はフランス語も日本語も中途半端なので何日も夜を徹して訳した。それをすっかり盗まれた。
しかもパクった相手は学校の先生でペンネームまで持っていた。
彼はそれで名声も多少のお金も手にしただろう。
当時は我慢ならなかったが、今にして思えば訳する事によって得た知識は自分にあり、揺るぐ事では無いと思っている。
しかも翻訳したものが世に出たことで、少しでも皆さんのお役に立てたならばそれで満足だ。
しかし当時そうは思えなかった。しかも妙な正義感も持っていた。
道上は日本の若者の将来を憂いていた。
1980年代のある日、官僚の天皇とまで言われた人物と道上の会話。
「日本はもう駄目だ。一旦潰れるしかない」 二人の考えに愚息の心は沈んだ。
何としてでも道上の軌跡を残したい、と愚息は思っていた。
しかし言うに及ばず大変だった。
一例ではあるが、
ある日の朝9時、ボルドーにある道上のマンションの玄関で待ち合わせをした。
愚息達が泊まっていたホテル・ ビューデイガラは 当時ボルドー1の高級ホテルだった。道上の家は、そのホテルから歩いて15分。
しかし同じホテルに泊まっていた作家先生が待てど暮らせど降りて来ない。
ロビーで8時の待ち合わせが9時5分前になっても来ない。
愚息は慌てて道上に電話するが、道上は電話に出ない。
道上の部屋は4階建ての最上階、膝の軟骨がすり減り歩くと音がするが、
エレベーターの無い建物である。おそらく10分前には玄関で待っていたのだろう。
愚息は慌てて作家の部屋をノックする。彼からは「今行くから待って」の返事。
結局30分遅れて道上のマンションへ着く。愚息は道上にこっぴどく叱られた。
当然の事である。
作家をフランスまで連れてきたのは愚息である。
その時、愚息は馬鹿な事を言ってしまった。
「遅れる電話をしましたが、電話に お出にならなくて」
強い口調で、「嘘を付くな!電話はしていない」 愚息は黙ってしまった。
そうだ電話は相手が出て初めて電話をしたと言える。
愚息が電話をしたと言うのは言い訳でしかなかった。
後、道上の弟子ブルノ・ロベールさんにこんなことを聞いた。
「我々先生の所へお迎えに上がる時は遅くとも15分前にはついてますよ。
角を曲がったところで隠れて待機しています。そして5分前に先生の部屋のベルを鳴らします。
すると先生は降りて来て『お待ちになりましたか』
『いいえ、今来たばかりです』と答えます。これが日常です。」
道上のマンションは角部屋。
寝室、応接間のある部屋は玄関に面しているが、台所から覗くと角を曲がった所まで丸見えであった。
道上は生徒が何時に来ていたかを知っていた。
これらのボルドーの日常とは大きく異なり 作家に愚息は大変苦労した。
世の中思い通りに行く事は少ない。それでも結果オーライだと愚息は思っていた。
道上は作家にはまったく叱るでも無く、しかも丁重だった。
ただ作家の質問には積極的には答えなかった。
作家は10年かかっても本を書き上げる事が出来なかった。
おそらく道上を理解できなかったのだろう。
後にインタビューをテープにとりたいと言う申し出に、そのテープを愚息に渡すと言う条件で道上は受けた。
愚息はそのテープを聴きこのメルマガ30話までの参考にした。
本が出版されたのは道上が亡くなって数か月後の事だった。
有能な編集長が加筆していた。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第76話 道上の軌跡を本に」
道上の軌跡を後世に残したいという愚息の思いは止まらなかった。
世界的権威のモディスト(帽子のクリエイター)平田昭夫先生に頼んで何とか道上の生涯を本にしてもらえないだろうかと頼み込む。
平田先生は当時文藝春秋の社長であった田中健吾さんの友人だった。
その田中さんが文藝春秋編集長の白川さんを紹介してくれる。白川さんは非常に頭の切れる人だった。
そしてその白川さんが連れてきたのが眞神さんである。
彼はすでにノン・フイクションで色々な賞をとっていた売れっ子作家であった。
愚息は早速彼を連れてボルドーへ飛んだ。
会った途端、道上は恐ろしい形相で愚息を睨みつける。
何て馬鹿な事をやっているんだと言わんばかりに。愚息はただただ済みませんと謝るばかり。
真神さんに向かっては「私は宣伝は嫌いだ」と。
道上の言う事も分からんでは無い。
自己宣伝する人の大半は偽物で、それを生業にしている人が多い。
しかし愚息はそうは思っていない。歴史は作られる。史実と真実とは異なる。
しかし作られた史実だけでは世の為にならないと思っていた。
愚息は31歳の時フランス語で書かれたタロットカードの小冊子を日本語に翻訳した。
その訳を読みたいと頼まれたので、貸したが、借りた人物が勝手に自分の名前でムーと言う雑誌に載せた。
愚息はフランス語も日本語も中途半端なので何日も夜を徹して訳した。それをすっかり盗まれた。
しかもパクった相手は学校の先生でペンネームまで持っていた。
彼はそれで名声も多少のお金も手にしただろう。
当時は我慢ならなかったが、今にして思えば訳する事によって得た知識は自分にあり、揺るぐ事では無いと思っている。
しかも翻訳したものが世に出たことで、少しでも皆さんのお役に立てたならばそれで満足だ。
しかし当時そうは思えなかった。しかも妙な正義感も持っていた。
道上は日本の若者の将来を憂いていた。
1980年代のある日、官僚の天皇とまで言われた人物と道上の会話。
「日本はもう駄目だ。一旦潰れるしかない」 二人の考えに愚息の心は沈んだ。
何としてでも道上の軌跡を残したい、と愚息は思っていた。
しかし言うに及ばず大変だった。
一例ではあるが、ある日の朝9時、ボルドーにある道上のマンションの玄関で待ち合わせをした。
愚息達が泊まっていたホテル・ ビューデイガラは 当時ボルドー1の高級ホテルだった。道上の家は、そのホテルから歩いて15分。
しかし同じホテルに泊まっていた作家先生が待てど暮らせど降りて来ない。
ロビーで8時の待ち合わせが9時5分前になっても来ない。
愚息は慌てて道上に電話するが、道上は電話に出ない。
道上の部屋は4階建ての最上階、膝の軟骨がすり減り歩くと音がするが、 エレベーターの無い建物である。おそらく10分前には玄関で待っていたのだろう。
愚息は慌てて作家の部屋をノックする。彼からは「今行くから待って」の返事。
結局30分遅れて道上のマンションへ着く。愚息は道上にこっぴどく叱られた。
当然の事である。
作家をフランスまで連れてきたのは愚息である。
その時、愚息は馬鹿な事を言ってしまった。
「遅れる電話をしましたが、電話に お出にならなくて」
強い口調で、「嘘を付くな!電話はしていない」 愚息は黙ってしまった。
そうだ電話は相手が出て初めて電話をしたと言える。
愚息が電話をしたと言うのは言い訳でしかなかった。
後、道上の弟子ブルノ・ロベールさんにこんなことを聞いた。
「我々先生の所へお迎えに上がる時は遅くとも15分前にはついてますよ。
角を曲がったところで隠れて待機しています。そして5分前に先生の部屋のベルを鳴らします。
すると先生は降りて来て『お待ちになりましたか』
『いいえ、今来たばかりです』と答えます。これが日常です。」
道上のマンションは角部屋。
寝室、応接間のある部屋は玄関に面しているが、台所から覗くと角を曲がった所まで丸見えであった。
道上は生徒が何時に来ていたかを知っていた。
これらのボルドーの日常とは大きく異なり 作家に愚息は大変苦労した。
世の中思い通りに行く事は少ない。それでも結果オーライだと愚息は思っていた。
道上は作家にはまったく叱るでも無く、しかも丁重だった。
ただ作家の質問には積極的には答えなかった。
作家は10年かかっても本を書き上げる事が出来なかった。
おそらく道上を理解できなかったのだろう。
後にインタビューをテープにとりたいと言う申し出に、そのテープを愚息に渡すと言う条件で道上は受けた。
愚息はそのテープを聴きこのメルマガ30話までの参考にした。
本が出版されたのは道上が亡くなって数か月後の事だった。
有能な編集長が加筆していた。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
古武士(もののふ) 第75話 MICHIGAMIワインとは
「古武士(もののふ) 第75話
MICHIGAMI ワインとは」
毎年春に、次女志摩子、その夫猛、愚息雄峰の三人で空港に一時帰国の道上を迎えに行く事が慣例となった。
愚息は1980年代頃から封筒に100万円とか200万円とか入れて、使って下さいと空港で出迎えた際に道上に差し出していた。
志摩子は道上名義の口座を作りそれ以上の金額を預金していた。
愚息の「上納金」を道上は黙って受け取っていたが、その金額に上乗せするかの如く、秋には1万本ほどの美味しいボルドーワインを送って来た。
愚息はその一万本のワインを飲み切れず、友人達に配った。
道上愛飲のシャトーラ・ジョンカードであった。
友人達は「これは美味しい、もっと欲しい、お金を出して買いたい。」 となり、
慌てて果実酒輸入卸の免許を取りに行った。
しかし当時は酒販免許を取ることが難しく、最初は友人たちの免許を使わせてもらっていた。
お酒というものは個人輸入の場合、売る事は勿論、贈答する事も出来なかった。
1万本という量は個人消費ではありえないと税関では随分揉め、業務用としか輸入する事が出来なかった。
日本にはすでに十数万種類のワインが輸入されていた。
ボルドーの人達の勧めもあり、道上が好んで飲んでいた証として道上の顔をモチーフにしたラベルを貼ることに決めた。
そのラベルを見た次女志摩子は「やめて頂戴!気持ち悪いから!清水園では絶対に扱わないからね!」
(清水園とはさいたま市にある150年続いている料亭で現在は宴会結婚式場)
しかし当時夫である清水園社長、清水猛の「いいじゃないか!」の一言で扱ってもらえるようになった。
道上、時には家族にとって煩わしく、面倒くさく、存在感の強過ぎる父親であった。
電話で「志摩子ちょっと来なさい」
「お父さん今仕事中で」
「君にはお父さんは一人しかいないんだぞ」
二人もいたら困ってしまうと愚息は思った。
愚息も道上が滞在中は毎晩東京港区と埼玉県大宮をタクシーで往復していた。
会いたくなくとも、親を敬う当然の義務として。

シャトー・ラ・ジョンカードの現ラベルになったのは1990年代に入ってからの事であった。
「ボルドーの武道酒」という商標登録をし、柔道の帯にちなんで、
若い樹齢25年~35年
メルロ葡萄80%、カベルネ・ソービニオン葡萄20%
樽香無しのワインを白ラベル(白帯)、
若い樹齢35年~45年
メルロ葡萄80%、カベルネ・ソービニオン葡萄20%の
古樽で1年寝かせた、ワインを黒ラベル(黒帯)、
中年樹齢45年~55年
メルロ葡萄50%、カベルネ・ソービニオン葡萄50%の
新樽と古樽で18ヶ月寝かせたワインを紅白ラベル(紅白帯)、
高齢樹齢55年~65年
メルロ葡萄25%、カベルネ・ソービニオン葡萄75%の
新樽で22ヶ月寝かせた、
渋みが強く長期熟成が必要なワインを赤ラベル(赤帯)とした。

ワインを古くから飲み慣れている人には大変評価が高い。
それはいろいろな物を飲んだうえで自身の基準の様な物を持っているからだろう。
また初心者にも大変好まれる。
「ワインは詳しくないがこれだと自分でも飲める」と。
ただ多くの自称ワイン好きの日本人の方は数多くの種類を飲んでみたいそうだ。
この辺が西洋のワイン文化に親しんだ人との違いだ。
フランス人にとってワインは御飯の様なもので毎晩同じワインを飲んでいた。
日本人が毎日同じお米を食べているようなものだ。
日本人にとってワインは未だおかずの様な物かも分からない。
道上は亡くなるまでの三十数年間はシャトー・ラ・ジョンカードしか飲まなかった。
愚息は美味しくてリーズナブルな、しかも昔ながらの作り方のシャトーに絞った。
安く提供するために一番重要な事は大きなロットと、コンスタントな購入である。
種類を多くすると これが出来なくなる。
そうこうしているうちに道上のラベルを付けて販売している事が道上にばれてしまった。
「Selectionne par Haku Michigami (道上伯選酒)」である。
愚息はこっぴどく叱られた。
「君はお父さんの名前を使って商売するのか。」
勿論愚息は叱られるのを承知で内緒でやった事である。
もし「お父さん、お父さんの名前を使っても良いですか。」などと聞こうものなら絶対に許してくれなかっただろう。
しかし作ってしまえば叱られるだけで済む。愚息は偽物が蔓延るこの世に本物を貫いた男の名を残したいと思いあがっていた。
名伯楽の道上は装いから全て超上質が好みだと思われた。
しかも安価に上手に購入していた。
ブランド品とかでは無く本当に品質の良い物を選んでいた。買い物で値切っている姿は見たことがないが、買い物上手ではあった。
そもそも本を読まない、手紙も書かない愚息が、もののふというタイトルでメルマガを書き始めたのは
愚息の道上商事(株)当時顧問の大沢一郎氏に2012年、
「このワインのラベルを何故つけているのかを皆さんに説明するべきだ」と言われたことからである。
最初はプレッシャーと面倒くささで非常にいやであったが、このメルマガを書いていくうちに、以前見えなかった道上像が見えてきた気がする。
道上が父親の死に水が取れなかったあたりを書いて行くにあたり、書いてる愚息の涙は止まらなかった。
嫌なおっさんというイメージが変わってしまった瞬間である。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第75話 MICHIGAMI ワインとは」
毎年春に、次女志摩子、その夫猛、愚息雄峰の三人で空港に一時帰国の道上を迎えに行く事が慣例となった。
愚息は1980年代頃から封筒に100万円とか200万円とか入れて、使って下さいと空港で出迎えた際に道上に差し出していた。
志摩子は道上名義の口座を作りそれ以上の金額を預金していた。
愚息の「上納金」を道上は黙って受け取っていたが、その金額に上乗せするかの如く、秋には1万本ほどの美味しいボルドーワインを送って来た。
愚息はその一万本のワインを飲み切れず、友人達に配った。
道上愛飲のシャトーラ・ジョンカードであった。
友人達は「これは美味しい、もっと欲しい、お金を出して買いたい。」 となり、慌てて果実酒輸入卸の免許を取りに行った。
しかし当時は酒販免許を取ることが難しく、最初は友人たちの免許を使わせてもらっていた。
お酒というものは個人輸入の場合、売る事は勿論、贈答する事も出来なかった。
1万本という量は個人消費ではありえないと税関では随分揉め、業務用としか輸入する事が出来なかった。
日本にはすでに十数万種類のワインが輸入されていた。
ボルドーの人達の勧めもあり、道上が好んで飲んでいた証として道上の顔をモチーフにしたラベルを貼ることに決めた。
そのラベルを見た次女志摩子は「やめて頂戴!気持ち悪いから!清水園では絶対に扱わないからね!」(清水園とはさいたま市にある150年続いている料亭で現在は宴会結婚式場)
しかし当時夫である清水園社長、清水猛の「いいじゃないか!」の一言で扱ってもらえるようになった。
道上、時には家族にとって煩わしく、面倒くさく、存在感の強過ぎる父親であった。
電話で「志摩子ちょっと来なさい」
「お父さん今仕事中で」
「君にはお父さんは一人しかいないんだぞ」
二人もいたら困ってしまうと愚息は思った。
愚息も道上が滞在中は毎晩東京港区と埼玉県大宮をタクシーで往復していた。
会いたくなくとも、親を敬う当然の義務として。

シャトー・ラ・ジョンカードの現ラベルになったのは1990年代に入ってからの事であった。
「ボルドーの武道酒」という商標登録をし、柔道の帯にちなんで、
若い樹齢25年~35年
メルロ葡萄80%、カベルネ・ソービニオン葡萄20%
樽香無しのワインを白ラベル(白帯)、
若い樹齢35年~45年
メルロ葡萄80%、カベルネ・ソービニオン葡萄20%の
古樽で1年寝かせた、ワインを黒ラベル(黒帯)、
中年樹齢45年~55年
メルロ葡萄50%、カベルネ・ソービニオン葡萄50%の
新樽と古樽で18ヶ月寝かせたワインを紅白ラベル(紅白帯)、
高齢樹齢55年~65年
メルロ葡萄25%、カベルネ・ソービニオン葡萄75%の
新樽で22ヶ月寝かせた、
渋みが強く長期熟成が必要なワインを赤ラベル(赤帯)とした。

ワインを古くから飲み慣れている人には大変評価が高い。
それはいろいろな物を飲んだうえで自身の基準の様な物を持っているからだろう。
また初心者にも大変好まれる。
「ワインは詳しくないがこれだと自分でも飲める」と。
ただ多くの自称ワイン好きの日本人の方は数多くの種類を飲んでみたいそうだ。
この辺が西洋のワイン文化に親しんだ人との違いだ。
フランス人にとってワインは御飯の様なもので毎晩同じワインを飲んでいた。
日本人が毎日同じお米を食べているようなものだ。
日本人にとってワインは未だおかずの様な物かも分からない。
道上は亡くなるまでの三十数年間はシャトー・ラ・ジョンカードしか飲まなかった。
愚息は美味しくてリーズナブルな、しかも昔ながらの作り方のシャトーに絞った。
安く提供するために一番重要な事は大きなロットと、コンスタントな購入である。
種類を多くすると これが出来なくなる。
そうこうしているうちに道上のラベルを付けて販売している事が道上にばれてしまった。
「Selectionne par Haku Michigami (道上伯選酒)」である。

愚息はこっぴどく叱られた。
「君はお父さんの名前を使って商売するのか。」
勿論愚息は叱られるのを承知で内緒でやった事である。
もし「お父さん、お父さんの名前を使っても良いですか。」などと聞こうものなら絶対に許してくれなかっただろう。
しかし作ってしまえば叱られるだけで済む。愚息は偽物が蔓延るこの世に本物を貫いた男の名を残したいと思いあがっていた。
名伯楽の道上は装いから全て超上質が好みだと思われた。
しかも安価に上手に購入していた。
ブランド品とかでは無く本当に品質の良い物を選んでいた。買い物で値切っている姿は見たことがないが、買い物上手ではあった。
そもそも本を読まない、手紙も書かない愚息が、もののふというタイトルでメルマガを書き始めたのは 愚息の道上商事(株)当時顧問の大沢一郎氏に2012年、 「このワインのラベルを何故つけているのかを皆さんに説明するべきだ」と言われたことからである。
最初はプレッシャーと面倒くささで非常にいやであったが、このメルマガを書いていくうちに、以前見えなかった道上像が見えてきた気がする。
道上が父親の死に水が取れなかったあたりを書いて行くにあたり、書いてる愚息の涙は止まらなかった。
嫌なおっさんというイメージが変わってしまった瞬間である。
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古武士(もののふ) 第74話 本物とは
「古武士(もののふ) 第74話 本物とは」
1987年のある日、一本の電話があった。
「先生勲四等を貰って頂けないでしょうか?」
「そんなものいらん。」
そばにいた次女志摩子は慌てて電話を取りあげ、
「是非お願いします。」
勲四等はこのようにして決まった。
一事が万事このありさま。 これが愚息には理解できなかった。
フランスではTVの取材、新聞の取材、道上の人生の映画化、
すべて道上は断り続けてきた。
「お父さん世間では木村政彦が歴史上もっとも強い柔道家だと言われているのですよ。」
「ヘーシンクは松本安市と言う人が教えたことになっているのですよ。
お父さんに何度も絞め落とされ、お父さんの前では、いつも直立不動だった人が。」
「お父さんは天理教二代目真柱中山正善さんに頼まれて数週間預けただけなのに・・。
そのときたまたま松本安市さんが柔道の監督をしていただけじゃないですか。」
「しかも裏をとらないで有名な某テレビ局が流しているんですよ。それでも世間は信じちゃいますよ。」
道上は愚息に向かって低い声で静かに
「世の中は食べて行くためには仕方なくそういうことを言う人もいるんだ」
急に愚息に向かって鋭い目線で
「君はいちいちそんな事を気にする暇があったら自分が信じる道を正しく生きる事だ。」
愚息はまた叱られた。生き様の次元が違う。
牛島辰熊(1904~1985)から友人である道上に木村政彦(1917~1993)に稽古をつけてくれと依頼があった。
道上は「牛島さん貴方がやれば良いではないですか。」と言ったところ
「私がやり過ぎると困るので。」と言う。
結局道上はしぶしぶ木村政彦に稽古をつけた。 そうとう投げ飛ばしたらしい。
一般に強いと言われている柔道家も武専のトップ、すなわち柔道を作ってきた人たちとの差は歴然であった。
後、木村は何とか武専に入れてほしいと道上に懇願した。
頼まれると弱い道上は武専の先生方に特別に入れてほしいと根回しをした。
これは武専では稀有な事であった。
しかし試験当日木村は答案用紙に一行も書かず(書けず)提出してしまったため、道上は先生方に詫びて回った。
このことを木村は知らない。
受験実技は日本一強い道上との対戦であった。木村は立っては投げられ立っては投げられ、道上の前で3秒以上立ってられなかったと皆が指摘している。やはり黙して語らずの武道である。
当時答案用紙に何も書かなくとも合格する学校もあったが、武専は学力レベルも高かった。道上もまさかのことだった。
しかし木村は本来義理を欠く人間ではなかった。
彼は1954年フランスに立ち寄り道上に会いに行った。
丁度力道山との試合を目前にしてのことだった。
道上が彼に「苦労しているそうだな、今度レスリングとの試合をやるそうだな。」
涼しい顔で木村は「八百長ですよ。ショウですから。」と言った。
道上は心配そうにしていた。
ヨーロッパではそんなにお目出度いやり取りは無い。
八百長と言った者がいれば、その裏には必ず考えがあってのことだ。
木村は大丈夫かと道上は心配した。この後の結末は伝える必要も無いと思うが、木村の歴史的な惨敗があった。
海外で、何でも有りの試合を繰り返し、武器を持った者につけ狙われていた事のある道上にはそう言った駆け引きは通用しない。
負け、即ち死を意味する事である。
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「古武士(もののふ) 第74話 本物とは」
1987年のある日、一本の電話があった。
「先生勲四等を貰って頂けないでしょうか?」
「そんなものいらん。」
そばにいた次女志摩子は慌てて電話を取りあげ、
「是非お願いします。」
勲四等はこのようにして決まった。
一事が万事このありさま。 これが愚息には理解できなかった。
フランスではTVの取材、新聞の取材、道上の人生の映画化、すべて道上は断り続けてきた。
「お父さん世間では木村政彦が歴史上もっとも強い柔道家だと言われているのですよ。」
「ヘーシンクは松本安市と言う人が教えたことになっているのですよ。
お父さんに何度も絞め落とされ、お父さんの前では、いつも直立不動だった人が。」
「お父さんは天理教二代目真柱中山正善さんに頼まれて数週間預けただけなのに・・。
そのときたまたま松本安市さんが柔道の監督をしていただけじゃないですか。」
「しかも裏をとらないで有名な某テレビ局が流しているんですよ。それでも世間は信じちゃいますよ。」
道上は愚息に向かって低い声で静かに 「世の中は食べて行くためには仕方なくそういうことを言う人もいるんだ」
急に愚息に向かって鋭い目線で 「君はいちいちそんな事を気にする暇があったら自分が信じる道を正しく生きる事だ。」
愚息はまた叱られた。生き様の次元が違う。
牛島辰熊(1904~1985)から友人である道上に、木村政彦(1917~1993)に稽古をつけてくれと依頼があった。
道上は「牛島さん貴方がやれば良いではないですか。」と言ったところ 「私がやり過ぎると困るので。」と言う。
結局道上はしぶしぶ木村政彦に稽古をつけた。 そうとう投げ飛ばしたらしい。
一般に強いと言われている柔道家も武専のトップ、すなわち柔道を作ってきた人たちとの差は歴然であった。
後、木村は何とか武専に入れてほしいと道上に懇願した。
頼まれると弱い道上は武専の先生方に特別に入れてほしいと根回しをした。
これは武専では稀有な事であった。
しかし試験当日木村は答案用紙に一行も書かず(書けず)提出してしまったため、道上は先生方に詫びて回った。
このことを木村は知らない。
受験実技は日本一強い道上との対戦であった。木村は立っては投げられ立っては投げられ、道上の前で3秒以上立ってられなかったと皆が指摘している。やはり黙して語らずの武道である。
当時答案用紙に何も書かなくとも合格する学校もあったが、武専は学力レベルも高かった。道上もまさかのことだった。
しかし木村は本来義理を欠く人間ではなかった。
彼は1954年フランスに立ち寄り道上に会いに行った。
丁度力道山との試合を目前にしてのことだった。
道上が彼に「苦労しているそうだな、今度レスリングとの試合をやるそうだな。」
涼しい顔で木村は「八百長ですよ。ショウですから。」と言った。
道上は心配そうにしていた。
ヨーロッパではそんなにお目出度いやり取りは無い。
八百長と言った者がいれば、その裏には必ず考えがあってのことだ。
木村は大丈夫かと道上は心配した。この後の結末は伝える必要も無いと思うが、木村の歴史的な惨敗があった。
海外で、何でも有りの試合を繰り返し、武器を持った者につけ狙われていた事のある道上にはそう言った駆け引きは通用しない。
負け、即ち死を意味する事である。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
古武士(もののふ) 第73話 ビタ セクス アリス
「古武士(もののふ) 第73話 ヰタ セクスアリス」
1980年代後半から道上は毎年3月末に日本へ帰って来るようになった。
桜の咲くころに全日本柔道大会に合わせて。
次女志摩子、愚息雄峰が調べたところ道上が愛した中国、東亜同文書院の卒業生が
毎年滬友会(こゆうかい)と銘打った集まりを年に一回行なっていた。
ごく親しい者達が道上の帰国に合わせ毎年集まった。
場所はいつも同じ銀座の中華料理屋だった。
卒業生は猛者ばかり。かなり気合の入った人物が多かった。
大手広告代理店、総合商社の現役重役など錚々たるメンバーが多かったがこの時は皆20代の若造に変貌して中国語を話していた。
昔の人は気合が入っていた。
最後は大声で校歌を歌っていた。上手い下手は関係ない。
その時は愚息も同席させてもらっていた。
宴もたけなわとなったころ生徒の一人が愚息に向かって「息子は外に出ていろ。」
30代の愚息も彼らにかかるとまるで小学生だ。
何やら愚息がいると答えられない質問を道上にするようだった。
言われるまま外に出て10分ほどたった後 「息子!もう(部屋に)入ってもいいぞ。」
何があったのやら、皆さんやれやれと言うようなしらけ顔だった。肩透かしにあったようだ。
どうやら
「先生!先生は何歳までセックスが出来たのですか。」
この質問に道上は顔色一つ変えず、しかも答えなかったようだ。
相手にしていないかのように。
道上は大変楽しそうにしていたが入って行けない領域であったのだろう。
帰りに生徒の一人から「先生飲みに行きましょう」としきりに誘われたが道上は首を縦には振らなかった。
ハイヤーのドアは開いたままで残念そうにしていた元生徒の顔が記憶に残る。
道上は人にご馳走になるのが好きではなかった。しかも相手は一人だ。
皆と一緒であればまた違っていたのかもしれない。
愚息も道上から色恋の話は聞いたことがない。
また聞けるようなざっくばらんな関係ではなかった。
後に友人の梨元さんから聞いた話だが、道上がフランスへ行った当時、ボルドーでは船乗りの家に下宿していたそうだ。
船乗りだから年に半分以上船の上で暮らし、その間奥方は家で独り暮らし。
夜な夜なスケスケのネグリジェで歩き回られるのがたまらずすぐに引っ越したそうだ。
やはり愚息には言えない事が多く、愚息が知らないことが多いようだ。
しかし日本人しかも師であるという立場上、自制してそういった浮名がなかったのか、
それとも体力的に身体的にそういった事がなかったのか。
愚息には謎である。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第73話 ヰタ セクスアリス」
1980年代後半から道上は毎年3月末に日本へ帰って来るようになった。
桜の咲くころに全日本柔道大会に合わせて。
次女志摩子、愚息雄峰が調べたところ道上が愛した中国、東亜同文書院の卒業生が 毎年滬友会(こゆうかい)と銘打った集まりを年に一回行なっていた。
ごく親しい者達が道上の帰国に合わせ毎年集まった。
場所はいつも同じ銀座の中華料理屋だった。
卒業生は猛者ばかり。かなり気合の入った人物が多かった。
大手広告代理店、総合商社の現役重役など錚々たるメンバーが多かったがこの時は皆20代の若造に変貌して中国語を話していた。
昔の人は気合が入っていた。
最後は大声で校歌を歌っていた。上手い下手は関係ない。
その時は愚息も同席させてもらっていた。
宴もたけなわとなったころ生徒の一人が愚息に向かって「息子は外に出ていろ。」
30代の愚息も彼らにかかるとまるで小学生だ。
何やら愚息がいると答えられない質問を道上にするようだった。
言われるまま外に出て10分ほどたった後 「息子!もう(部屋に)入ってもいいぞ。」
何があったのやら、皆さんやれやれと言うようなしらけ顔だった。肩透かしにあったようだ。
どうやら 「先生!先生は何歳までセックスが出来たのですか。」
この質問に道上は顔色一つ変えず、しかも答えなかったようだ。
相手にしていないかのように。
道上は大変楽しそうにしていたが入って行けない領域であったのだろう。
帰りに生徒の一人から「先生飲みに行きましょう」としきりに誘われたが道上は首を縦には振らなかった。
ハイヤーのドアは開いたままで残念そうにしていた元生徒の顔が記憶に残る。
道上は人にご馳走になるのが好きではなかった。しかも相手は一人だ。
皆と一緒であればまた違っていたのかもしれない。
愚息も道上から色恋の話は聞いたことがない。
また聞けるようなざっくばらんな関係ではなかった。
後に友人の梨元さんから聞いた話だが、道上がフランスへ行った当時、ボルドーでは船乗りの家に下宿していたそうだ。
船乗りだから年に半分以上船の上で暮らし、その間奥方は家で独り暮らし。
夜な夜なスケスケのネグリジェで歩き回られるのがたまらずすぐに引っ越したそうだ。
やはり愚息には言えない事が多く、愚息が知らないことが多いようだ。
しかし日本人しかも師であるという立場上、自制してそういった浮名がなかったのか、それとも体力的に身体的にそういった事がなかったのか。
愚息には謎である。
古武士(もののふ) 第72話 道上の心配
「古武士(もののふ) 第72話 道上の心配」
道上は相変わらず愚息を叱っていた。出来の悪い愚息に我慢がならなかった。
その眼は本人の意識とは裏腹に迫力ある目であった。まるで憎んでいるかのように。
何故こんな阿呆が息子なのだろうかと歯がゆい思いをぶつけるかのように。
1980年代前半頃のある日道上があまりにも愚息を叱るもので、見かねた次女志摩子が
「お父さん、雄峰は会社も創業しお母さんの面倒も見ているんですよ。」
「麻薬の密輸でもやっているのか。」
これには愚息もひっくり返るほど笑ってしまった。
確かに商品として扱っている貴金属や宝石は、女性にとって麻薬の様な物だ。
しかし愚息は法に触れるようなことは一切やっていない。
しかも母親には生活に十分な金額を20数年間毎月渡していた。
さらに次女志摩子はその倍以上の援助をしており、本当の意味で母親の面倒を見ていた。
このときの志摩子の一言で道上は愚息をあまり叱らなくなった。
しかも愚息が外食の代金を払うことが許されるようになった。
愚息は喜んで毎回美味しい店に案内した。しかし道上は決して喜ばなかった。
愚息が調子にのって高い店ばかり連れて行ったからだ。
「雄峰、勘定を見せろ。」 値段を見せるたびに雄峰は叱られた。
志摩子にも叱られた 「領収書は半値で切ってもらいなさい、何度言ったら分かるの。」
嘘のつけない不器用な雄峰であった。道上の声に金縛り状態になってしまう。嘘などつける訳がない。
蕎麦屋で一人1万2万するような所へ案内する愚息に対して、駄目だと言わんばかりに
「君はこんな事ばかりをやっていて日本の社会で通用すると思っているのか。」
さらに睨みつけながら「絶対にやっていけないぞ。」
愚息は意味が分からなかった。
中華、鮨、蕎麦と色々な店に案内したが叱られなかった店はたった2件しかなかった。
東京六本木にある本むら庵という蕎麦屋と日本で一番高いと言われているやはり六本木にある鮨屋である。
本むら庵は当時決して高そうに見えない店構で値段はリーズナブル。
そこへ二人で行った。
だから道上は気軽に喜んだのか、「此処のお酒は美味しいな。」とにっこり笑った。愚息は嬉しかった。
菊正宗の樽酒だった。蕎麦も4種類ほど食べ、お皿にこぼれる升酒を5杯飲み、その足でまた他の店に食べに行った。
(後に数回一斗ずつほど譲ってもらい、ワインを切らした時に道上は孫娘(志摩子の娘)の夫孝二と二人で毎晩1人一升半から二升飲んだ。)
鮨の方は弟武幸も一緒だったからだろうか、愚息を叱らなかった。
道上が美味しいと言ってくれたので愚息は喜んだ。
愚息は喜びに満ちていた。
腹いっぱい贅沢なもので満たしたいと思うのは下品な事だろうか?
空虚だからなのだろうか。
贅沢よりも中身で勝負できる本物の人間になれということだろうか?
道上は
「茶はさびて心はあつくもてなせよ道具はいつも有合わせにせよ」
と言っていた。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第72話 道上の心配」
道上は相変わらず愚息を叱っていた。出来の悪い愚息に我慢がならなかった。
その眼は本人の意識とは裏腹に迫力ある目であった。まるで憎んでいるかのように。
何故こんな阿呆が息子なのだろうかと歯がゆい思いをぶつけるかのように。
1980年代前半頃のある日道上があまりにも愚息を叱るもので、見かねた次女志摩子が 「お父さん、雄峰は会社も創業しお母さんの面倒も見ているんですよ。」
「麻薬の密輸でもやっているのか。」
これには愚息もひっくり返るほど笑ってしまった。
確かに商品として扱っている貴金属や宝石は、女性にとって麻薬の様な物だ。
しかし愚息は法に触れるようなことは一切やっていない。
しかも母親には生活に十分な金額を20数年間毎月渡していた。
さらに次女志摩子はその倍以上の援助をしており、本当の意味で母親の面倒を見ていた。
このときの志摩子の一言で道上は愚息をあまり叱らなくなった。
しかも愚息が外食の代金を払うことが許されるようになった。
愚息は喜んで毎回美味しい店に案内した。しかし道上は決して喜ばなかった。
愚息が調子にのって高い店ばかり連れて行ったからだ。
「雄峰、勘定を見せろ。」 値段を見せるたびに雄峰は叱られた。
志摩子にも叱られた 「領収書は半値で切ってもらいなさい、何度言ったら分かるの。」
嘘のつけない不器用な雄峰であった。道上の声に金縛り状態になってしまう。嘘などつける訳がない。
蕎麦屋で一人1万2万するような所へ案内する愚息に対して、駄目だと言わんばかりに
「君はこんな事ばかりをやっていて日本の社会で通用すると思っているのか。」
さらに睨みつけながら「絶対にやっていけないぞ。」
愚息は意味が分からなかった。
中華、鮨、蕎麦と色々な店に案内したが叱られなかった店はたった2件しかなかった。
東京六本木にある本むら庵という蕎麦屋と日本で一番高いと言われているやはり六本木にある鮨屋である。
本むら庵は当時決して高そうに見えない店構で値段はリーズナブル。
そこへ二人で行った。
だから道上は気軽に喜んだのか、「此処のお酒は美味しいな。」とにっこり笑った。愚息は嬉しかった。
菊正宗の樽酒だった。蕎麦も4種類ほど食べ、お皿にこぼれる升酒を5杯飲み、その足でまた他の店に食べに行った。
(後に数回一斗ずつほど譲ってもらい、ワインを切らした時に道上は孫娘(志摩子の娘)の夫孝二と二人で毎晩1人一升半から二升飲んだ。)
鮨の方は弟武幸も一緒だったからだろうか、愚息を叱らなかった。
道上が美味しいと言ってくれたので愚息は喜んだ。
愚息は喜びに満ちていた。
腹いっぱい贅沢なもので満たしたいと思うのは下品な事だろうか?
空虚だからなのだろうか。
贅沢よりも中身で勝負できる本物の人間になれということだろうか?
道上は
「茶はさびて心はあつくもてなせよ道具はいつも有合わせにせよ」
と言っていた。



