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古武士(もののふ) バックナンバー



柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」


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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



「古武士(もののふ) 第23話 フランスでの指導 」


「古武士(もののふ) 第23話 フランスでの指導 」

2014年7月25日



昭和28年7月(1953年)、南回りで(3日がかり)パリに降り立った道上は、パリ祭を見物後休む間もなくすぐに、レマン湖畔にあるトノン・レ・バン市での講習会に臨んだ。 講習会は湖畔の古城の庭園につくられた仮設道場で開かれていた。

三十数名の有段者がいて、練習の段取り、乱取りの説明をした後、1時間45分にわたって 直接フランス人たちに稽古をつけた。 終戦直後にイギリス兵を相手にして以来、初めて西洋人に教えた瞬間だった。

この講習会のあと有段者会会長ジャザラン(元ボクシング・ヨーロッパチャンピオン・フランス柔道界の重鎮) が訪ねてきて、矢継ぎ早の質問を受けた。 嘉納柔道の「精力善用」「自他共栄」というスローガンの真の意味は何かなどというが、フランス人の片言英語では、意思疎通が中々困難だった。

そこで道上は 戦前上海で言ったように、
「柔道の最終目的は、心技体の錬成を通じて、立派な人間に成ろうと努力することである。 身体を鍛え強くなろうとすれば、技術の錬成が欠かせない。
技術を身につけようとするれば、苦しさに耐えて練習を積み重ねなければならない。 苦しみに耐えてそれを続ければ精神力を強くする。 このように心と体と技を同時に鍛錬するのが、柔道というものだ。柔道は人間形成そのものなのだ」 と語った。

ジャザランはこの「心技体」にいたく感動して、有段者会の会報に載せて、ことあるごとにその精神を受け売りして歩いた。 おかげでこの言葉は すっかりフランス柔道界に普及することになった。Shin Gi Tai がフランス語に成った瞬間である。

しかし、この事がのちに、フランス柔道界の主導権争いの火種になるとは、道上はこの時、露ほども思わなかった。

レマン湖での二週間の講習会を終えた道上は、列車で西南フランス大西洋沿岸のビアリッツへ移動した。 さらに同じ大西洋岸の避暑地アルカッションと二か所で二週間ずつの講習会をこなした。

いずれも川石酒造之助が主催する講習会で、バカンスに来ながら柔道の講習会に通うというスタイルは、現在でもフランスではよく見られるものである。

九月、パリーに戻って川石道場で一か月教えた後、十月初めボルドーへ行き、西南フランス柔道の指導責任者という本来の仕事を始めた。 ボルドーに部屋を借り、開いた道場を本拠にして、二週間に一度ずつボルドーとパリーを往復する生活が始まった。

そのことによってフランス都市対抗の団体戦ではボルドーが連戦連勝をおさめ、 世界中(ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ)の柔道家たちがボルドーに集まるようになった。

まさにヨーロッパの武徳会であった。

次回は「十人掛け」です


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。






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「古武士 (もののふ) 第24話 十人掛け」


「古武士(もののふ)第24話 十人掛け」

2014年8月1日



渡仏から三か月が過ぎようとしていた1953年12月9日、パリのピエール・クーベルタン記念体育館で、 「道上来仏歓迎柔道大会」が開かれた。
この会場で道上は形と技の実演を行った後、のちのちまで語り継がれる十人掛けを行っている。

十人掛けとは、選ばれた有段者と一人ずつ、十人連続で戦うものである。 途中で敗れたり引き分けたりすると、そこでお終いになる。相手は現時点でのフランス最強の十人だった。 あらかじめ「果たせなければ即帰国」と道上は川石から言い渡されていた。

過去、そして今でも多くの日本人柔道家が挑戦し、誰も果たせなかった十人掛けだった。
その二年前に日本選手権覇者の醍醐敏郎も二日にわたって十人掛けを行っているが彼も果たせなかったひとりである。 中には殺される柔道家もいた。投げ技で首から落とせば受け身が取れず死ぬ場合があるが 日本人柔道家は何人も殺されている。

しかし道上は超満員の観客の「ジャップ殺せ」の大合唱の中、5分40秒でこの十人を倒して見せたのである。 インドシナ戦争で 親兄弟を日本兵に殺された人達も多くいる中での戦いであった。 しかもフランスでの出来事、過去強かったでは通用しない。今強くなければ。

十人目が会場の畳に鳴り響く最後の一本、会場では全観客のスタンディング・オベーション、そして歓声と拍手が鳴りやまなかった。 道上の存在は会場の4300人を威圧していた。日本文化の奥深さを感じさせていた。

中には日本は何故戦争に負けたのだろうと単純な見解を発したものもいた。
道上四十歳になったばかりの事である。

のちにボネモリと川石はそれぞれ、道上を推薦した栗原先生に感謝の手紙を書いたが、 そこではともに、道上はフランス最強選手十人を5分40秒で抜き去り、こともなげに静かに畳の上に立っていた、 と報告されている。




その後も道上は求められると どの国でも百数十回に及んで十人掛けを行った。
その中には十人各自に違う十の技で十本、しかも4分30秒という短時間でのこともあった。 川石は、「もし投げられなかったら柔道生命が危うくなるからやめてくれ」とお願いしたが、 道上は聞く耳を持たなかった。もとより道上は、「負ければ、その場で日本へ帰る」と考えていた。
短い滞在予定だったが、いきなり行って日本人柔道家だからといって素直に従うほど、 フランス人は単純ではない事を知っていたのである。

道上は「フランス人は強いものにしか従わない。最強のものしか尊敬しない。
自分に役立つもの、すぐ利用できるものしか尊重しない」 と感じ取っていた。

指導者として尊敬を勝ち得るには、勝ち続け、自ら垂範することしかなかった。

そして道上は勝ち続けた。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。






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「古武士(もののふ) 第25話 出張講習会の日々」



「古武士(もののふ) 第25話 出張講習会の日々」

2014年8月8日



道上は休む事も無く、出張講習会の日々が続いた。

彼の人気は単に強いと言う事に留まらず、形、技の説明が 科学的かつ数学的で合理的な上、彼の真摯な態度が西洋人にはうけた。

ただ理論のみで終わる西洋人の多い中、心技体は理論だけに留まらず 多大な練習・鍛錬が必要と言う事を身をもって教えた。

ボルドーの部屋は日本流に言うと4畳半ほどの学生アパートだった。
ベット、机、洗面台があるだけで、トイレは共同だった。
風呂は道場のシャワーを使った。ボルドーには珍しく風呂屋があり、 たまにそこへ入りに行ったが、生活費は全て自前で、サンドイッチで腹ごしらえする毎日だった。

日本を出る時に米ドルや日本円を持って行ったが、ほとんど使わなかった。
1年間は何があろうと辛抱するつもりで覚悟を決めていたから、 金が無い事は苦にはならなかった。
柔道連盟の依頼で南西フランス各地へ出かけるときも、旅費は出ない。
行った先で謝礼を渡されるが、びっくりするほどの大金を払ってくれる所もあったり、 ほんの小遣い程度しか払われないところなどさまざまだったが、その大部分は ピンハネされていた。ピンハネしたお金はカジノ賭博で使われた。
日本人の多くは大儲けするとカジノでやられる場合が多かった。
それをしり目に、「しかし一年だ辛抱しよう。」 こうして約束の一年は瞬く間に過ぎた。

昭和29年(1954年)7月ちょうどフランスへ来て一年経ったとき、 フランス柔道連盟の会長のボネモリと技術部長の川石に「帰国したい」 と申し入れると、ボネモリは「みんな非常に喜んでいるので、もう少し滞在を延ばしてほしい」と言う。 川石もフランス柔道最高顧問としてどうしても残ってほしい」と言って慰留する。

道上は約束が違う、報酬も無しにつづける事は出来ない、と伝えたが、その頃フランス柔道連盟は混沌としていた。
日本の講道館柔道を利用して世界柔道連盟を発足し、その地位に座ろうとしているボネモリ・フランス柔道連盟会長。 中々のビジネス采配の出来る川石技術部長の日仏クラブ。 日本から送られて来た講道館グループ率いるフランス講道館技術愛好者連合。 全部で10を超える団体が存在した。

本人が意識するとしないとに拘らず、フランス柔道界対立の構図の中に、 知らず知らず道上は組み込まれて行った。 それらどの団体においても、戦前の本当の柔道を知っている道上は最高無二の手駒であった。 しかも既に道上の名はヨーロッパ中轟いていた。


1952年には五大陸(ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジア、オセアニア)を束ねる形で、 国際柔道連盟が会組された。

まるで家元制度の様に宗家などとうそぶいている講道館は蚊帳の外にされ始めていた。 講道館が反対する女子柔道、男女入り混じっての練習。各国が出す昇段審査基準。 昇段規定などを含め柔道そのものを武道からスポーツへと本質的に変質させている事にまったく気が付かない、 そしてまったく対応しない嘉納履正はじめ講道館。

戦後の日本は 講道館館長、全柔連会長、共に嘉納治五郎の次男で、柔道をやった事のない嘉納履正が独占していた。 しかも柔道は戦後 一 流派の町道場に過ぎない講道館のみが復活を許された。
占領軍によって唯一存在を許され、他の武道は抹殺されたのであった。

道上が日本文化がなくなる事を訴え続ける中 「本家」を自任する講道館は家元意識の上に漫然と胡坐をかいて 国際化と共に当然起こってくる問題に対処す事を怠り、柔道が日本のもので無くなることを黙殺してしまった。
日本の文化が無くなる事を。


次回は「真の柔道とは」



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。






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「古武士(もののふ) 第26話 真の柔道とは」


「古武士(もののふ)第26話 真の柔道とは」

2014年8月15日



道上は「一年の約束だ、そろそろ日本に帰る」と伝えるが一向に、
了解するどころかお前は逃げるのか、と言われる始末だった。

しかも指導依頼は増える一方でオランダ、スペイン、スイス、ベルギーなどのヨーロッパ諸国のほか、 モロッコ、レユニオン島、モーリシャス、セネガル、コート・ジボアール、ザイール、 西インド諸島、フレンチカリビアンのマルテイーニック島、グア・ド・ループ島。

徐々に英語圏にも行き、合計54か国を超える国での指導となった。

それらの国々で最高技術顧問として招請され、 チュニジア、マダガスカル、アルジェリア、と国が独立するたびに初代最高技術顧問に迎え入れられた。

そうすると2~3か月に一度は指導に行かなければいけない。
相変わらずフランス柔道連盟からの報酬は無かった。

道上50代の頃、40度を超える真夏のマダガスカルからパリ・オルリー飛行場へ降り立ち、 愚息が持って行った冬物のコートを着るとそのまま真冬のオランダへ。オランダはマイナス22度。 パリ飛行場トランジットの出来事だが。当時は何十時間もかかる乗り継ぎのプロペラ機だった。

道上の元へ1956年有段者会会長のジャザランが訪ねてきた。
「柔道の昇段審査はまず形をやらせ、そして技術を見る。 そして試合をさせる。
試合成績50に対して形と技術で50。 総合して60%~70%取れればよしとする。

連盟たちは試合だけで昇段させようとしているが、 歳をとってくると技術は進んでも、スピードが落ちて中々チャンスがなくなる。
私たち有段者会は、連盟とどんなに対立してもこの方針を堅持しようと思っています。 道上先生にもご賛同頂きたいのです」
道上の思いをフランス人から伝えられると道上はうなずいた。

ヨーロッパ、ひいては世界での柔道発展は留まる事を知らず、それに対し 日本柔道界の国際性の無さは日本が誇る文化である武道を潰して行った。 柔道が海外で普及し、それを統率して行こうとすれば、権威を押し付けるだけですむはずがない。

こんな中、「道上先生は何メソッドです」と聞いてくる人がいる。
しかし道上はこういった質問にいつもこう答えていた。

「自分がやっているのが柔道だ。どちらのメソッドでもない。それ以外の何ものでもない。」 「柔道とは相手がこうくればこうするというように綿密に組み立てられた非常に合理的なものだ。 そして柔道を通じて修養を積むと言う思想(心構え)が、常に根底に無ければだめだ」

何よりも道上はフランスへ土足で踏み込んで来て独善的に振舞う講道館のやり方、 そしてそれに便乗しようとするボネモリに、腹を立てていたのである。

このままでは日本の武道が無くなる。
フランスに留まってでも真の柔道を広め続けなければいけない。
たとえ自分一人になっても。
道上はフランスに留まらざるを得なくなった。

道上はアナクロ二ズムとも思えるほどに、「一廉(ひとかど)の人物」にこだわった。
一廉の人物になるまでは、故郷の土は踏むまい、家族にも会うまい、そう考えて異国の地で耐え、努力したのだった。

それはまるで八幡浜からアメリカ西海岸にわたった、西井久八をはじめとする多くの移民たちの 心情が乗り移ったかのようだった。


次回は「父 安太郎の死」



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。






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 「古武士(もののふ) 第27話 父 安太郎の死」


「古武士(もののふ) 第27話 父 安太郎の死」

2014年8月22日



フランスの柔道界は大きく二つの協会に分かれて行った。

FFJDA(フランス柔道連盟) とCollege National Des Ceintures Noires( 有段者会)、この分裂は1974年まで続いた。
ジャザラン会長が仕切る有段者会の、昔の柔道を重んじると言う方便に乗せられ、道上は向こう3年間無償で最高技術顧問として手伝う事になった。
しかしその後も道上に報酬が支払われる事は無かった。

道上が有段者会についたことに連盟会長(FFJDA)ボネモリは激怒した。
世界有数の秘密結社の33段階、すなわちトップのボネモリは有りとあらゆる手を使って、 道上を追い落としにかかった。

道上の在仏50年彼はその秘密結社を通じて道上の追い落としは続いた。

時代はアルジェリア独立戦争が続く真っ只中。
「解放戦線狩り」に便乗して 「道上は共産党員だから、国外追放するための証拠をつかめ」 と内務省からボルドーの警察に命令が来た。
日本のフランス大使館を通じて八幡浜まで調査の手が伸びていた。
ヨーロッパでは道上に四六時中尾行が付いていた。

ある日ボネモリは道上にその某秘密結社への入会を勧めた。
道上のボネモリに対しての返事は
「君は何段階なんだね」 、ボネモリ「先生33段階です」
「では34段階であれば受けるとしよう」 「先生33段階しかないのですが」
「ではこの話は無かったことにしてください」
ドゴール大統領からもフランスの憲兵隊員たちへの指導要請があった。
だがこれも断った。
道上は頑なに筋を通すところがあった。 武専に、日本国に。

フランスへ渡った当初78キロあった体重が66キロまで減ってもっともつらい時期でもあった。


そんなやせ我慢が続く中、どうしてもフランスに残っていてほしいと思う弟子たちが、 特にボルドー地方の検察本部長その他の有力者たちが、道上を弁護して回った。
「先生にはもっといてもらいたい。本当の柔道を教えてもらいたい」
「先生を中心とした道場を作るから残って下さい」
道上は迷った。運営の責任者になるとフランス滞在が長期化してしまう。
道上にはいずれアメリカへという夢があった。

そんなある日、リモージュ(フランスの中央に位置する)の講習会に講師で行っていた時である。 突然電話が掛かって来て
「道場の場所が見つかりましたので直ぐにボルドーに来てください」
行ってみるとボルドーの中心に位置するRue Poquelin Moriere だった。
現在の道上道場がある場所である。
それを見て道上の腹は決まった。
道場があるならどこで教えても一緒だ・・・。

当時フランスの法律では、日本人が道場のオーナーになる事は出来ない。
道場を「柔道クラブ・ボルドレー」と名付け、フランス人の弟子たちに 会長、理事長になってもらった。

実際に会員の募集をしてみると511名もの申し込みがあった。
非会員も合わせると千名を超える申し込みであった。
正規の会員登録は 政府公認の組織へライセンスの登録をしなければいけない。
けがの保障問題などを含むのである。

しかし道上の生活は爪に火をともす暮らしだった。
道場の改造費、保証金とお金がかかり、相変わらず各地からの要請も絶えず、 最高技術顧問をしている国々へ出かけなければいけなかった。
そこでアシスタントを三人用意した。



「一廉(ひとかど)の人物」にこだわった道上。
一廉の人物になるまでは、故郷の土は踏むまい、家族にも会うまい。
渡仏して三年、1956年4月。 相変わらず忙しい日々を送っていた道上に、 癌が胃から肝臓にへ転移し重い病の床についていた父・安太郎が危篤に陥ったとの知らせが届いた。

手紙が届いたのはトゥールーズを皮切りに、ボルドー、ビアリッツと、三つの大会が相次いで開かれる直前である。 三つの大会ともに、道上の十人掛けが行われる予定になっていた。 そして誰が無敗の道上の十人抜きを阻止するかが、どの土地でも最大の話題になっていた。

道上がこの地で一廉の柔道指導者として生きて行こうとすれば、
たとえ父が危篤であっても、これらの挑戦を受けないわけにはいかなかった。
道上66キロ、自分への挑戦。その正念場を迎えていた。

病床にあった安太郎は、「伯は帰らないか」「伯は帰らないか」と何度も周囲のものに聞いた。 最後の頃には「伯には会えないなあ」とつぶやいた。

道上は三つの大会で無事十人掛けを戦い抜いたが、最後のビアリッツ(西南仏)での十人掛けの最中、 何人目だったか(六人目?)、相手の手が偶然に自分の頭にあたった。
そのとき、何の脈絡もなく、「あっ、親父が死んだ」と思った。
道上は激しく相手を畳に投げつけた。
この日、4月19日。まさに安太郎が息を引き取ったのだった。

道上は、フランスでの事情をつぶさに書いた長い手紙を、八幡浜に送った。
そしてその手紙は、安太郎の納骨の為に親戚一同が集まっているところに届いた。
安太郎のお骨の前で手紙が読み上げられ、 みな涙した。


次回は「アントン・ヘーシンク」


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士 (もののふ) 第28話 アントン・ヘーシンク」


「古武士(もののふ) 第28話 アントン・ヘーシンク」

2014年8月29日



道上は相変わらず忙しい毎日だった。

そんな中で少しづつ生活も楽になって来た。行く先々での謝礼が増えて来たのと同時に 、日本人によるピンハネも無くなったからである。

だが相変わらず弟子の道場主達の方が収入が多かった。
中にはクルチーヌのように、お金があるのに個人レッスン代を払わない者もいた。 先生今度払いますから、今度払いますから、と言っていたが、彼が後のフランス柔道界の 第一人者になるのだから何をか言わんやです。道上はどの様に思っていたのだろう。

そんな中オランダ柔道連盟の会長からオランダでも教えてほしいとの手紙が届いた。 忙しいからと断ったが、今度は1000km(アムステルダム、ボルドー間)以上の道のりを 自動車で「是非オランダ柔道を発展させて欲しい」と祈願懇願にボルドーの道上道場に訪れる。

丁重にお断りしたが、再度自動車でやって来た。
道上の弱い所をついて来た。道上は頼まれると弱い。

仕方なく、オランダもやって見ようかと思い、昭和30年(1955年)春まだ浅い頃、オランダ柔道連盟の招きで指導に赴いた時だった。 オランダ柔道協会の最高技術顧問として、道上には柔道の技術面のほかに協会幹部からさまざまな相談が持ち掛けられた。 そのもっとも重要な課題は、どうすればオランダにおける柔道人口を増やす事が出来るか、というものであった。

オランダ柔道連盟がこう考えるのは無理もない。この頃のオランダの柔道人口は3,000人ほどだった。 道上は考えた。最もてっとり早い方法は、誰よりも強く誰もが憧れる柔道家を育てる事だった。
オランダにおいてはまだ極端にマイナーな柔道を早急に普及させるには、スーパースターをいち早く作りあげなければならない、と道上は考えた。

見たところその候補は何人かいた。エンシク、バン・イーランド、ロドラッドなど、 その頃ヨーロッパでもっとも柔道人口が多く有望選手が多かったフランスの選手に比肩出来る実力を持った選手もいたのである。

しかし道上はもっと深いところで別のことを考えていた。
大型でスピードを持った未来の大器に、真の実力を培わせること、これであった。 今は荒削りでも、きらりと光る素質を持ち、道上の指導を全面的に受け入れる素直さと猛練習に耐える精神力、 それに何より強くなろうとする強い意志を持つものでなければならなかった。

アントン・ヘーシンクそんな道上の目にとまったのは、アントン・ヘーシンクという顔色の悪い建設労働者の青年だった。

身長が198cm、体重85kgほど、顔が細く、首も手足も長い。 まるでビール瓶のような男だな、と道上は最初に思った。技と言えば内股一本槍でそれもさほど威力があるようには見えなかった。

だが道上は彼のこの青年のスピードに注目していた。指導次第では、この青年は伸びると直感した。

まだ二十歳になったばかりのこの青年が道上の目に留まった最大の理由は、飛び抜けて性格が素直だったからである。

図体が大きいくせに妙にはにかみ屋で、容易に他人と打ち解けようとしない。自己主張が強く我を張る事の多いフランス人などとは、 まったく違うタイプでもあった。

出自や仕事に由来するのか、ヘーシンクの劣等感は、なかなか拭い去ることができなかった。
ヘーシンクがそういう態度をとる理由もやがてわかってきた。
道上が「この青年を集中的に鍛えようと思う」とオランダ柔道連盟幹部達に話した時である。幹部たちは口を揃えていった。
「彼は階層が低いから駄目です」
ヨーロッパはまだ階級社会だったのである。

階層が低いからといわれて道上は、「それならなおさらのこと彼を強くしよう」
こうしてまた無料個人レッスンが始まった。

次回は「ヘーシンクへの指導」



【 道上 雄峰 】
小・中・高とフランス・ボルドーで育つ。
日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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