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古武士(もののふ) バックナンバー




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5月20日配信「古武士(もののふ) 第12話 上海」

5月13日配信「古武士(もののふ) 第11話 結婚」

5月6日配信「古武士(もののふ) 第10話 高知高校」

4月29日配信「古武士(もののふ) 第9話 武専卒業」

4月22日配信「古武士(もののふ) 第8話 武専入学」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



「古武士(もののふ) 第12話 上海」


「古武士(もののふ) 第12話 上海」

2014年5月9日



旧上海の街が見えるホテルの部屋から本日2014年5月6日、上海のホテルの部屋でこのメルマガを書いています。

2年に一度のペースで上海に来ていますが、あまり変わり映えしない中国です。 よく皆さんが上海は変わったと言いますが、確かに値段は変わりました。

外観も変わりましたが、実はこの60年中身は全く変わっていない。 2年前に比べると自動車は新しく綺麗になり、台数も増え、中心部から15キロの飛行場へ行くのに1時間もかかる混雑ぶり。 ただ人間は変わっていない。

5日の夜、6日の夜と1980年代後半から1990年代前半まで日本に留学していた中国人青年実業家2人と食事をとる。

新しく塗り替えられた東亜同文書院の玄関5月6日の昼間に交通大学へ行った。 交通大学というと江沢民も卒業した大学だ。

昔この中に東亜同文書院大学があった。 門は新しく塗り替えられていて、東亜同文書院校舎も図書館になっていた。

東亜同文書院とは 異国に建設された日本の学校として、当時世界的に注目されていた。 生徒は日本人、中国人、朝鮮人もいて、孫文も教鞭をとったという。 まさに東洋一の学校であった。 そこに道上伯は予科教授、学部講師そして学生生徒主事として招聘された。

現在の図書館清国は1840年のアヘン戦争・1850年の太平天国の乱以来、軍備が強力な割には内政が腐敗混乱し、 英・仏・独・露の四か国に勝手気ままに侵略されていた。

植民地主義の毒牙に対抗しようとして設立されたのが日清貿易研究所(東亜同文書院の前身)である。

20世紀を目前とする頃には列強国の中国に対する領土拡大の野心がますます露骨になってゆき、 アメリカもフィリピン、サモアなど南シナ海、南太平洋につぎつぎと海軍基地を建設するに至って、 日本ではアジアの安全に対する危機意識がにわかに高まっていった。

ペリー来航からわずか40年、黒船の脅威は未だに記憶から去らず、 列強に蹂躙される中国の惨状は日本にとっても他人事とは思えなかったのである。

この研究所は日清戦争後に、中国を考える東亜会(おもに政治家、言論人、学者が構成メンバー。

有力メンバーには清朝打倒を目指す孫文らの革命派を支援する活動家も多かった)と、 同文会(時の貴族委員、近衛篤麿を中心に清国の張之洞、劉坤一らが 「情意を疎通し、商工貿易の発達を助成する」ことを目的としてつくられる)の 二つの会が合併し、明治34年(1901年)8月に東亜同文書院が発足することにより引き継がれる。

日本人は努力して事を成就し、しかも黙して語らない。 日本人は公に発表することを望まず、また名声をほしがらない。 ただ人に知れずに、将来のために備え、誰にも本心を知られたがらない。
これが東亜同文書院を貫いている精神であった。 しかも中国人街にあって、そこだけが周りとは無縁の自由な学園を頑なに守っていた。  

昭和15年(1940年)に赴任した道上は忙しかった。 柔道は学部、予科ともに正課で、一学年170~180人。柔道教師は道上一人しかいなかった。 このため月曜日から金曜日までは午前2時間、午後3時間、授業にかかりきりになる。 放課後は2~3時間柔道部の指導にあたる。
こちらは土日も関係なく毎日のことで特別な時にしか休みは無い。

道上の住居は一戸建てでキャンバス内に在った。 今流に言うと3LDKで畳が二間、他はフローリングという間取りだった。 そんな校内を雄峰はどのあたりが住居だったのかと今日も歩いてみた。
しかし今は新しいビルが立ち並び、正確な場所さえも分からない。

当時上海だけで中国経済の83%を担っていた。 フランス人シェフが上海に来るとフランス国の約3倍の給料を貰っていたという。 当時の2国間の物価を考えると何十倍に匹敵する。
上海は世界一の街。上海バンスキング、夜の街、ジャズ、キャバレー、何でもござれ!
フランス租界で道上伯はワインを嗜んだ。

そんな素晴らしい街での生活を来週お届けします。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ)第11話 結婚」


「古武士(もののふ) 第11話 結婚」

2014年5月2日



上海へ行くには 二つの関門が有った。
旧制高知高校在職二年になろうとしていた頃、
校長は長岡から山内雄太郎に代わっていた。
山内は哲学専攻の几帳面で官僚的な男だった。

道上伯が退職願いを 出したところ
「せめて3年間勤めてほしい。だからあと一年間はいてくれ」
「石倉(最初の校長)さんとは 二年の約束だった」
「そんな約束は聞いていない。どうしても辞めると言うなら懲戒免職にするぞ」
「懲戒免職が怖くて人生が渡れるか」

他の教職員の慰留にも首を縦に振らず、伯は退職した。
そのとき懲戒免職になったのかどうかは今でも分からない。

次に父安太郎の説得である。
父安太郎は上海へ行くなら結婚して、妻を連れて行けと言う。
折から第一次、第二次上海会戦、(上海事変)、南京侵攻、
北支での戦闘の激化と日中戦争は激しさを増していた。

せめて女房でも連れて行けば無茶な事はやらないだろうと言う親心だったが、伯は困ってしまった。
一番弱い所を突かれてしまった。
結婚しても良い年回りだったが伯には全くその気は無かった。

しかし安太郎は強硬だった。伯が単身で上海へ行くなら勘当だと息巻いた。
当然数々の栄誉を得て、有名であった伯には嫁の来手には不自由しなかった。
いかに当時柔道家の社会的地位が高かったのかがわかる。
養子に欲しがる旧家も多かった。
女性に関して初心だった伯は両親の思わぬ強制に頭を痛めていた。
そんな時に友人の体育教師から思わぬ紹介が有った。

高知県の副知事の長女で背は高く(164.7cmだったということだから当時としてはかなりの高身長)、 伯と同じ1912年生まれ。 名古屋の私立金城女学校在学中陸上選手として200m、400m、走り幅跳びなどで注目を集め、 体育専門学校では600mの日本記録保持者で、のちにベルリン・オリンピックの 総監督への打診があったほどの本格的アスリートだった。
しかも金城女学院の院長に成ってくれとの誘いの最中であった。

(ちょっと変な話:近森小枝は金城女学館で1933年から1938年まで教鞭をとって居た。
その生徒の中にキムジョンスクと言うおとなしい女性が居た。小枝は彼女の担任教師だった。
彼女は、後に金・正日と言う子供を授かった。ニューオータニの同窓会には自動車の送り迎え付きで小枝は行ったが、北朝鮮のマスゲームには招待されながらも行かなかった。)

住まいは高知市内の広い洋館。
食事の際には上女中が御膳で三回に分けて料理を運んでいた。
大阪城の家老の末裔で天皇家との血縁でも有ったそうだ。
典型的な「お嬢様」である。

後に伯があまり良い所の娘は貰わないように、と言ったか言わなかったか、
愚息雄峰は憶えていない。

ただ彼女の父親は毎朝四時に起床し、畑仕事をしてから県庁に出勤していた。
十分なお金が有るにもかかわらず質素で勤勉な人であった。
実直に働く父親の姿を見るに至って伯は深く感じ入っていた。
そして、こういった人の娘ならと ようやく結婚に踏み切った。

道上家の両親の許可も出て高知、八幡浜両方で披露宴を挙げ いよいよ上海へ。
1940年の5月だった。 そんなスピード結婚で良かったのか?
3月退職、4月結婚、5月上海。

伯は愚息雄峰と会うたびに、あるいは電話をするたびに必ず
「子供はまだか?」と言った。
雄峰「まだ女性が見つからない」 
伯「女なんか誰でも良いんだ!」
本当にそうだろうか? ついに愚息雄峰の子供を見る事無く、あの世に行った。
今さらながら父に子供を見せられなかった事を雄峰は後悔している。

ところで、雄峰は父伯と一緒に外食する際には中華しか食べたことが無い。
伯はよほど中国の思い出が良かったのだろう。
文化大革命後の中国には何度誘っても行きたがらなかった。
きっと良き日の思い出を崩したくなかったのだろう。
道上のロマンチックな一面何だろうか?

さて来週はいよいよ初の外国生活上海である!!!






【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第10話 高知高校」


「古武士(もののふ) 第10話 高知高校」

2014年4月25日



卒業を間近に控えた伯のもとに、四か所の就職口が寄せられた。
学校を出ても容易に就職ができない時代に感謝すべき事ではあったがしかし、伯の心は動かない。

伯の頭には海外に行く事しか関心が無い。
まずアメリカの兄の所へ行ってそこにしばらく滞在して、
それから人生設計をそこで立てると言うのが伯の年来の計画だった。

時は昭和十二年、近衛内閣が発足し、直後に中国で蘆溝橋(ロコウキョウ)事件が勃発した。
そんな時代のなか卒業を前にしたある日、伯は校長室へ呼ばれた。
そこには旧制高知高校の校長石倉小三郎(1881-1965)が待ち構えていた。

是非正課の柔道と柔道部の指導をお願いしたいという赴任の要請であった。
伯は即座に断った。 何処で伯の活躍を見聞きしたのか、石倉の伯への執念は強く、
間を置かず二度、三度と尋ねて来る。
その度に校長室での押し問答であった。

最後に武専校長は伯に言った。
「君のことを四年間も武専は面倒を見たのだ。一度ぐらいは校長の言うことを聞け!」

とうとう伯は折れた。

「それほどまでに私の事を必要としてくださるのなら、
二年間で良ければ行きましょう」
二年も勤めれば義務は果たせるだろうとの考えだった。

武専の卒業生は柔道教師として旧制中学校へ赴任するものは多かったが、
上級の高校への赴任はきわめて珍しかった。

昭和十三年(1937)四月、道上伯二十五歳の春だった。

於 高知市 昭和13年 初夏

旧制高校を卒業すれば、よほどのことが無い限り旧帝国大学に進学が出来たから
高知高校は言わばエリート集団の学校である。
そのような学校が新進気鋭の道上伯に柔道部、
ひいては全学生の指導を依頼したのであった。

当時の柔道部OBは伯が道場に現れた初日のことを次のように語った。

「凄い先生が来ると評判で、みんな興味津々で見ていました。
道上先生が柔道着に着替えて入ってくると、一人身体の大きいものが、
お手並み拝見とばかりに『お願いします!』と言って先生の前に進み出た。

先生は無言で頷くと、その男の前に立って相手の柔道着の両襟をひょいと掴んだ。
間もなくその男がそのまま膝を折って崩れ落ちた。 立ったまま絞め落とされてしまっていた。
こりゃ噂以上に凄いと、みんな居住まいを正して緊張しました」

伯が赴任した時には校長は石倉小三郎から長岡寛統に代わっていた。
伯が赴任してすぐ、新校長と新しい職員の歓迎会が 得月楼で行われた。
得月楼は「陽暉楼」という映画の舞台にもなった高知一の料亭である。

長岡新校長は日本有数の酒豪が揃う土佐(一人当たりの酒消費量が日本一)でも
群を抜く「五升先生」と呼ばれるほどの酒豪だった。

乱れ飛んだ宴席の中で長岡は伯に「君は全然乱れないなあ」
端然と座していつまでも飲み続ける、そんな武道家らしい伯の飲みっぷりが気に入ったようだった。
そのまま二人で徹夜で飲んだ。
(愚息曰く「父道上伯が生涯にわたって酒で乱れた姿を見たことが無い)

翌朝長岡は全校教師と学生を集め400メートルのトラックを走れと命じた。
当然自分自身が先頭を切って走った。それに伯は続いた。

走りながら並走する道上に長岡が言った。
「君とは気が合いそうだ。また飲もう」 そうしてほぼ毎晩得月楼へ繰り出し、
休日には釣り船を出して釣りをしながら朝方まで飲んだ。

ある日のこと、伯はある小料理屋のカウンターで一人飲んでいた。
隣に座っていた、がっしりとした男が突然伯の頬を強く殴った。

伯は知らん顔をしていたが、その男はもう一度強く殴ってきた。
それでも伯が平然としていると、今度は立ち上がって殴りかかって来た。
素早くその男の腕を掴み、「どうしたんですか」と尋ねる。 

周りの人たちはみんなで「そうだよ見ていたよ、若い人殴っちゃいなさいよ!」と騒ぎ出した。
よく聞くとその男は憶えていないと言う。酒乱である。
その数日後、伯に丁重な詫び状が到着した。
その本人からだった。 高知警察署長と書かれてあった。

伯は皆に好かれた。だが身内には厳しく接した。
10歳離れた弟の武幸を高知に呼び寄せ面倒をみることになったが、
毎朝五時に起床させ、少しでも遅れると拳骨がとんだ。
ストップ・ウオッチで時間を計りながら走らせる。
遅いと拳骨がとぶ。 さらに毎日猛勉強させ、そのかいあって見事高知高校に入学させた。

愚息雄峰も父伯と会って叩かれなかった日は18歳になるまで無かった。
その後?18歳以降叩かれることがなくなったのは、
雄峰が単身で日本へ帰ったからである。

ただ、その武幸は父安太郎からの仕送り、アメリカの長男からの仕送り、
伯からの多大なお小遣いをもらっていた。
ちなみに愚息雄峰は父から小遣いを貰ったことが無い。

伯が赴任して二年近く経った。
県の高専大会に出れば一回も勝てなかった高知高校も、
その頃には黒帯を二十人以上も擁し、
全国高専大会でも堂々と戦える部へと鮮やかに生まれ変わったのである。

そこには伯が、正課では柔道の合理性や楽しさに重点を置いた穏やかで優しい指導を心掛け、
多くの部員を集め、部活動においては徹底した基礎訓練、
そして練習量がものを言う寝技を教え込んだからに他ならない。

この頃に恩師田畑昇太郎から耳寄りな話が寄せられてきた。
中国上海にある東亜同文書院大学に教員として行かないか、と言う話である。

かねてから海外に出たいと考えていた伯にとっては願っても無い話である。
アメリカでスタートを切りたいと思っていた伯だが、上海は世界随一の国際都市である。


次回は「結婚」



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第9話 武専卒業」


「古武士(もののふ) 第9話 武専卒業」

2014年4月18日



道上伯は決して贅沢な家庭の育ちでは無かったが、
父 安太郎の学問に対する見識と家族愛によって
学費や生活費は有り余るほど十分な仕送りがなされた。
そういった意味においては他の学生に比べ、伯は比較的恵まれていた。

入学時には五歳離れたアメリカ在住の兄から祝いとして150ドルが送られて来た。
昭和九年の事だから当時のレートで1ドル3.45円と計算しても150ドルと言ったら
517.5円になる。 そのほかにも節目節目に送金してくれた。
武専の授業料が年間55円だったから4年間の授業料を払っても有り余る金額だ。

しかし毎日勉学と柔道の練習に明け暮れていた伯にとっては宝の持ち腐れであり、
もともとお金に無頓着なものだからせいぜい上質の着物を誂(あつら)え、
たまに、うまいものをたらふく食べて栄養を摂るぐらいだった。

同じ下宿の武専生が伯の着物が上等なのに目を付け、
勝手に質に入れて流してしまっても、 笑い飛ばしていたそうだ。

その50年後のある日、愚息の雄峰は京都の祇園を父伯と歩いていた。
「お父さん、あの万茶屋( 一力茶屋 )知ってますか?」
「ああ知っている」
「お父さんあそこは有名ですよ」
「昔から有名だ」
「高くて、その昔大石内蔵助が通っていたところですよ」
「ああ! 武専の生徒で総長の字を上手に真似る者が居て、『この子達を宜しく頼む』という 手紙を書いて送っておく。それでお父さんの着物を質に入れたお金でよく飲みに行ったもんだ」

雄峰は愕然とする。
京都を多少は知っているつもりでいたが上には上がいた。
祇園の一力茶屋と言えば一流の芸妓さんが呼べて5万や10万では遊べない。
勿論一見さんでは入れてももらえない。

話を戻そう。
二年生の一学期に伯は四段に昇段した。それと同時に主将に推された。
武専では二年生からはキャプテン制度が設けられて順位が実力でどんどん変わる。
そんな中でも二年生の主将は異例中の異例であった。

ところが順風満帆に見えた学生生活の中で、伯にとって生涯一番の危機が訪れる。
稽古中に仲間の一人が伯の足の上に落ち、伯は右膝の半月板の靭帯を切断してしまったのだ。
それでも練習を続け、稽古が終わってから骨接ぎに担ぎ込まれたが、
引っ張っても木槌で叩いても、 伯の膝は伸びなくなっていた。

別の医者に担ぎ込まれたが、そこでも数人の手で身体と足を牽引しても膝は伸びず、
翌日伯の膝は丸太の様に腫れ上がった。
今度は京都大学の医学部に行って治療を受けた。
医者は注射器で水を抜いて「患部をギプスで固定して、柔道の稽古は六か月休め」と言った。

ギプスをはめては練習が出来ない。
ギプスを断って、3日に一度水を抜き、それを11回続けた。
患部をチューブで固定し痛みに耐えた。

何としても主将の責任を果たしたいと考えての事だった。
それでも一か月半は練習を休まざるを得なかった。
以来伯の右膝は、九十度以上曲がらなくなった。

この時を除いて伯は順位を下げた事は無く、武専在学中を主将で通した。

三年生になるとあらゆる面で快適になる。
長幼の序の厳しい武専では、一年生と二年生は四六時中先輩の目を意識して いなければならない。
掃除や先輩の稽古後の道着干しなどは率先してやらなければならないため、
普段の気遣いは大変なものがあった。
三年生になって一切の雑事から解放された伯は一層稽古に励むが、
相変わらず膝は自由にならなかった。

そんなある日、日本の四天王と言われた栗原民雄武専教授が職員室へ行く道中ニコニコして歩いておられた。 周りの先生が栗原先生よほど嬉しい事がおありですか、と尋ねられた時に 「今日はうれしくて何とも顔がほころびます。
道上がですね、私の事を押さえ込み、一本取りましたよ。
ここまで来たかと。人生最良の日ですな!」 とおっしゃった。

他の先生からこの話を聞かされた伯は、この先生の恩に報いなければと思った。
そして形で出来る事はもちろん、その思いを生涯持ち続けた。

四年の一学期に伯は五段に昇段した。
その頃は既に武専の先生達も伯には敵わなくなっていた。日本中、伯に敵うものはいなくなった。

伯が生涯一度も試合で敗北が無かったのは単なる負けず嫌いだからではない。
武専の先生方に対する尊敬と責任感である。
日本の誇りを地に落としてはならないの一念であった。

東京遠征の時、武専チームは講道館にも対戦を申し出たが、
講道館はぶざまな結果を避け対戦を断った。 その時の面会で嘉納治五郎は「これからは君たち若者が率先して海外へ赴き、
柔道を世界に普及してほしい」と語った。

伯は内心深く頷いた。
卒業すればいよいよ念願の海外へ、アメリカの兄のもとへ。
胸の高まりを抑えきれない伯に卒業の季節が迫って来た。


次回は高知高校



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第8話 武専入学」


「古武士(もののふ) 第8話 武専入学」

2014年4月11日



1933年(昭和八年)道上伯は武専(大日本武道専門学校)と立命館を受験した。
立命館も武専も合格したものの、入学の段階で武専では待ったがかかった。
二歳の時 自宅の庭から崖下の道路に転落した後遺症で、
助膜炎の古傷が検査フイルムに影として残ってしまったことが引っ掛かったのだ。

師の田畑は「一年間様子を見よう」と言った。
一年間柔道を続けて問題が無いようであったら 翌年には入学を許すと言う事になった。

こうして伯は当時法律専門学校であった立命館へ 一年間通うこととなった。
立命館は田畑が 講師として柔道を教えに行っている学校だった。
実技、筆記ともに抜群の成績で合格していただけに残念ではあったが、
法律の勉強をするのも悪くないと考えていた。

伯は学校内では1934年に剛柔唐手(空手の旧称)を大日本武徳会に登録した開祖、宮城長順と一緒に空手もやっていた。 後に剛柔流を含む四大空手の一つである和道流空手から、伯は八段を授与される。 このころ合気道の開祖植芝盛平とも親交があった。

大日本武徳会は116ある柔術各流派(町道場の講道館も含む)を束ねていた。
したがって剣道と共に、すべての武道は大日本武徳会から誕生したと言っても過言ではない。

伯は1934年に二度目の受験で楽々と武専に合格した。この時すでに21歳だった。
受験者650人のうち合格定員20名という日本一の狭き門を二番での合格であった。
実技一番、学科二番。

武専は平安神宮の中にあったため、通学は下宿先の吉田から聖護院を経て徒歩10分程度だ。 途中先輩たちに会おうものなら走って近づき、大声で御挨拶をする。長幼の序の徹底した学校だった。

武専という文字の入った校章を中央に配した角帽をかぶり、着物に袴、足袋に高下駄をつっかけて、 時には雪駄、とおしゃれな武専では、二年からはインパネス(和服用コート)を羽織る。
礼儀正しく、京都市民からは尊敬され、地回りも道をあける正義の味方の通学だった。

武専時代一年生は必ず先輩達と同じ下宿所だった。
毎週正課だけで56時間の授業の上、厳しい教育は校外の生活にも及び、少しでも瑕疵が有れば躊躇なく放校された。

24時間の監視下である。 夕食の用意 風呂での洗い、奉公に洗濯。 授業が終われば道場掃除、それから先輩たちの道着を洗って乾かす。 日常生活や練習態度の注意(制裁)後の事だった。

だから伯は料理も洗濯も上手だった。余りにも洗濯の仕上がりの良さに、
フランスで「先生は何処の洗濯屋に出しているのですか」と尋ねられることがよくあった。

「海老」という、抑え込まれた時に相手をひっくり返すための練習がある。
畳の上で肩を軸にしてコンパス回りをし、右肩から左肩と軸を変えながら道場を何十往復もする。 技の打ち込みでも何十往復。気が遠くなるような練習量だ。
さらに時間外は下宿の庭や山に登って 独り自主練習をする。
硬い食物が消化できないほど身体は悲鳴を上げていた。

練習の厳しさで毎年夜逃げする者や、時には死人が出ると言われたほどの学校であった。
伯も疲れきって死ぬかと思ったことが有り、その時に初めて悟りの様なものを感じたそうだ。

苦しみの五段階と言われるものがあったという。
フランスに住んでいたころ、デュポンのライターの火を自分の手に当て、
熱いと思わなければ火傷はしないと言って見せられた事が何度かあった。

剣道の素振り一万回、蹴り突きの練習一万回と毎日やっているうちに別次元に入って行く感覚が有ったそうだ。 後年、「道上には後ろに目が付いている」とよく言われたものだった。
もちろん後ろが見えるということではなく、背後の気配を感じ、その気配の分析まで瞬時に出来たということだ。

「武道を奨励し武徳を涵養」することを目的に作られた学校は、
生徒だけではなく、先生方はさらに上を行くほどの凄まじさであった。

磯貝一柔道主任教授を始め、田畑昇太郎の投げる稽古に投げられる稽古、
どんな所から落ちても四つん這いになって着地する。
栗原民雄は武専の直ぐ上にある吉田山に毎朝登り、立ち木や大きな石に挑んで独り稽古で身体を鍛えた。 このため吉田山で枯れた木を見たら栗原の打ち込みの跡だと分かった。
誰もが認める日本で最も強い柔道家であった。
最強の柔道家は猛烈な稽古、それも独り稽古で自らを鍛え上げ、人の倍以上の練習をした。
彼ら三人が柔道の正しき「形」の全ての考案者であった。

後に三人とも十段を授与されている。 礼儀正しく、何者に対してでも敬語を使った。
道上伯も生涯相手が誰であれ敬語を使った。
人を呼び捨てにしたり横柄な物言いをする姿を誰も見たことが無い。やはり武専の影響か?

あまりの激しい練習の結果か、武専の生徒で体重が80kgを超える者がいなかったそうだ。
勿論身長が180cmを超える者は沢山いたが、なぜか体重は80kg以上にならない。
今の柔道家はズングリムックリしていて余計な肉が付きすぎている印象だが、
武専では重いと技の切れが無く、練習にもついていけなかったそうだ。

ボクシングで世界チャンピオンになる選手が(ヘビー級を除き)皆細い身体をしているのが分かりやすいかと思う。 チャンピオンになってピ-クが過ぎるころから筋肉隆々になってゆく。
下手な筋肉が付くと動きが遅くなりすぎ、ましてやガニ股などありえなかった。

武道のすべての動きは内股だ。 競走馬や100メートル等の短距離走などを正面からとらえた画像で見ると分かる。 まるで10センチほどの幅を両足をクロスしながら引っ張られるが如く走っている。

プロが見ればすぐ分かる。正しい動きは「様式美」そのものなのだ。

ましてや武専は、全ての武道を統括し、科学的かつ合理的に融合し進化させて行った。
科学的に合理的に。真の武道の、神髄が見えよう。
これを日本の文化と言わなくて何が文化か。


次回は 高学年の武専



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幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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