RSS

古武士(もののふ) バックナンバー



柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」


メルマガ購読お申込みはこちら







メルマガ著者紹介


道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



「古武士 (もののふ) 第28話 アントン・ヘーシンク」


「古武士(もののふ) 第28話 アントン・ヘーシンク」

2014年8月29日



道上は相変わらず忙しい毎日だった。

そんな中で少しづつ生活も楽になって来た。行く先々での謝礼が増えて来たのと同時に 、日本人によるピンハネも無くなったからである。

だが相変わらず弟子の道場主達の方が収入が多かった。
中にはクルチーヌのように、お金があるのに個人レッスン代を払わない者もいた。 先生今度払いますから、今度払いますから、と言っていたが、彼が後のフランス柔道界の 第一人者になるのだから何をか言わんやです。道上はどの様に思っていたのだろう。

そんな中オランダ柔道連盟の会長からオランダでも教えてほしいとの手紙が届いた。 忙しいからと断ったが、今度は1000km(アムステルダム、ボルドー間)以上の道のりを 自動車で「是非オランダ柔道を発展させて欲しい」と祈願懇願にボルドーの道上道場に訪れる。

丁重にお断りしたが、再度自動車でやって来た。
道上の弱い所をついて来た。道上は頼まれると弱い。

仕方なく、オランダもやって見ようかと思い、昭和30年(1955年)春まだ浅い頃、オランダ柔道連盟の招きで指導に赴いた時だった。 オランダ柔道協会の最高技術顧問として、道上には柔道の技術面のほかに協会幹部からさまざまな相談が持ち掛けられた。 そのもっとも重要な課題は、どうすればオランダにおける柔道人口を増やす事が出来るか、というものであった。

オランダ柔道連盟がこう考えるのは無理もない。この頃のオランダの柔道人口は3,000人ほどだった。 道上は考えた。最もてっとり早い方法は、誰よりも強く誰もが憧れる柔道家を育てる事だった。
オランダにおいてはまだ極端にマイナーな柔道を早急に普及させるには、スーパースターをいち早く作りあげなければならない、と道上は考えた。

見たところその候補は何人かいた。エンシク、バン・イーランド、ロドラッドなど、 その頃ヨーロッパでもっとも柔道人口が多く有望選手が多かったフランスの選手に比肩出来る実力を持った選手もいたのである。

しかし道上はもっと深いところで別のことを考えていた。
大型でスピードを持った未来の大器に、真の実力を培わせること、これであった。 今は荒削りでも、きらりと光る素質を持ち、道上の指導を全面的に受け入れる素直さと猛練習に耐える精神力、 それに何より強くなろうとする強い意志を持つものでなければならなかった。

アントン・ヘーシンクそんな道上の目にとまったのは、アントン・ヘーシンクという顔色の悪い建設労働者の青年だった。

身長が198cm、体重85kgほど、顔が細く、首も手足も長い。 まるでビール瓶のような男だな、と道上は最初に思った。技と言えば内股一本槍でそれもさほど威力があるようには見えなかった。

だが道上は彼のこの青年のスピードに注目していた。指導次第では、この青年は伸びると直感した。

まだ二十歳になったばかりのこの青年が道上の目に留まった最大の理由は、飛び抜けて性格が素直だったからである。

図体が大きいくせに妙にはにかみ屋で、容易に他人と打ち解けようとしない。自己主張が強く我を張る事の多いフランス人などとは、 まったく違うタイプでもあった。

出自や仕事に由来するのか、ヘーシンクの劣等感は、なかなか拭い去ることができなかった。
ヘーシンクがそういう態度をとる理由もやがてわかってきた。
道上が「この青年を集中的に鍛えようと思う」とオランダ柔道連盟幹部達に話した時である。幹部たちは口を揃えていった。
「彼は階層が低いから駄目です」
ヨーロッパはまだ階級社会だったのである。

階層が低いからといわれて道上は、「それならなおさらのこと彼を強くしよう」
こうしてまた無料個人レッスンが始まった。

次回は「ヘーシンクへの指導」



【 道上 雄峰 】
小・中・高とフランス・ボルドーで育つ。
日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




▲ページ上部へ


「古武士(もののふ) 第29話 ヘーシンクへの指導」



「古武士(もののふ) 第29話 ヘーシンクへの指導」

2014年9月5日



道上の里は愛媛県の八幡浜市。
当時命を張って海と闘う荒くれ者の漁師町だ った。

道上の先祖はその町の大網元だった。 そこでは学歴はあまり関係がなく、腕っ節の強い大男が羨まれた。 道上は身長173cmと当時としては決して小さい方ではなかったが、柔道界では大きい方ではなかった。
ましてや人生の半分以上を海外で過ごした道上は、パワーを備えた大男が機敏かつ切れのある絶対的な強さで謙虚に存在する、 そういった西洋人を育ててみたかったのかもしれない。

道上の妻小枝は164.8cmあり、当時では大女だった。
600mの全日本チャンピオンでベルリンオリンピックの総監督として指名があったほどである。 その大女に上海時代ハイヒールを履かせ、一緒に出掛ける事が多かったようだ。

ヘーシンクはスピードがあった。これは性格と情熱によるところが大きい。
とはいっても技に切れがない、基礎体力が脆弱。しかしこれはどうにかなる。素直さを持ち合わせているからだ。 技は一本槍。これも素晴らしい。

晩年道上は、フランス人はどうしても頭から入る者が多く、オランダ人は一つの事を教えるとずうっとやめろと言うまでやり続ける者が多かったと言っている。 道上の信条でもある心技体をオランダ人の方が受け止めやすかったのかもしれない。

ヘーシンクは道上に「家に招待したいが貧しく、狭いところに住んでいるので先生を招待できません」と詫びるような青年だった。 道上は「そんなことは心配するな。みんなそういう時代があるのだから」といって慰めるのだった。
日本人の道上に対しては、とくに遠慮がちであった。道上はつとめて近づいて打ち解けようとするのだが、 道上の顔を見ただけで緊張のあまり顔をこわばらせる。道上も最初はヘーシンクのこんな態度を扱いかねた。

ヨーロッパで柔道が急速に普及していった背景には、大雑把に言って小さい者が大きな者を倒せるという神秘性、それに護身術という実利性、 更にこれがもっとも大きな理由だが、柔道の「道」の中に騎士道や禅に通じる精神性が注目されたということがあると思う。 ヨーロッパはまだまだ階級社会だったのである。

そんな中で貧乏なヘーシンクが強くなれば、より多くの青年に希望と勇気を与え、 柔道人口は一気に増えるに違いないと道上は考えた。

「一丸となって優秀な選手を育てよう。それには彼が最も適任だ。わたしは本物の柔道をオランダの選手に教えたいのだ」 とオランダ柔道連盟幹部を説き続け、この方針が受け入れられなければオランダから引き揚げる、とまでいって説得を続けた。
ヘーシンクを酷評し続けていた幹部も、道上の強硬方針を容れて徐々に協力的になっていった。 以来、道上はヘーシンクを本気で鍛えるようになった。

ヘーシンクは道上の見るところ、荒削りだが攻撃力が有った。 そして何より、強くなってやろうという旺盛な闘争心を内に秘めていた。 闘争心の源は、貧しさから抜け出そうとするハングリー精神のように思えた。

教え始めてみると、ヘーシンクは道上の教えなら何でもしたがう、いたって素直な弟子だった。 「柔道の練習はもちろんだけれども身体づくり一つにしても、何か始めるときには必ず私の承諾を求めてから実行する、 という素直さが素晴らしいと思った」 と道上は振り返って言う。

道上がオランダを訪れるのは2カ月に一度。行った時は20日間みっちり指導するのが通例だった。 これは他の諸国から、特にフランスからは多大な妬みを買うこととなる。

ヘーシンクは貧しいため、毎日34kmの道のりを自転車で通う生活だったが、少しお金が出来ても脚力鍛練の為、道上は彼に自転車で通わせた。 そんな中で道上はまず力を入れたのがランニングだった。ひたすら走るのではなく、緩急をつけたインターバル走法がとり入れられた。 (これは高知高校教師時代、弟の武幸を鍛えた時に使った手法)

また、サッカーをすることによって反射運動に適応させ、足関節を鍛えた。125kgのダンベルを瞬時に持ち上げる練習、 これを左右に勢いよく振って相手の崩しの練習をするなど、ウエイト・トレーニングでひ弱だった彼の基礎体力作りを始めた。 バーベル、ダンベル、エキスパンダーなどを使って基礎体力の養成と引手の練習を兼ねた。

さらに道場に鉄棒をわたし、それに顎を引っかけて首の筋肉を鍛えた。レスリングを取り入れ、水泳をするなど、 あらゆることをして頑強な身体を作り上げていった。こういった訓練法は当時にはなかった。
いかに武専と言うところが科学的かつ人体の学びが有ったかであり、柔軟な発想力を学ばせる土壌があったかである。

「彼は日曜日になるとほとんど友人や弟子たちと山に登り、切り倒された大木をころがしたり、ボールを蹴り合ったりしながら新鮮な空気を吸い、 体力作りと雑念を遠ざけ、週が明けると再び俗界に戻るということを繰り返してきた。
武専時代を彷彿とさせる。

道上の指導は瞬く間にヘーシンクを強く、逞しく変えていった。

40代 オランダにて


次回は「頭角を現し始めたヘーシンク」



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




▲ページ上部へ


「古武士(もののふ) 第30話 頭角を現し始めたヘーシンク」


「古武士(もののふ) 第30話 頭角を現し始めたヘーシンク 」

2014年9月12日



ヘーシンクは道上指導のもと、ヨーロッパでも頭角を現し始めた。
道上は「雰囲気に浸ってこい」と日本での第一回世界選手権にヘーシンクを送り込んだ昭和31年(1956年)、 道上の指導を受け始めてから丸一年経ち、ヘーシンクは三段になっていた。 準決勝で吉松吉彦七段にわずか47秒で投げ飛ばされた。

その二年後、つまり道上の指導を受けるようになってから三年経て開かれた第二回世界選手権大会にも 送り込まれた。ヘーシンク五段。 この時オランダ柔道連盟は、ヘーシンクはじめ選手たちの日本への旅費を用意できず、やむなく道上は柔道の模範演技、乱取りなどの講習会を一般に公開して旅費を捻出することにした。

この公開には、「世界一強い男」道上の模範演技とあって多くの一般民衆が見学に詰めかけた。 勿論そこにはオランダの強豪に対する10人掛けもあり、あまりの様式美と技の切れの良さで素人でも感動してしまう程であった。有料で公開されたデモンストレーションは大成功を納め、そこで得た収益でヘーシンクたちは東京へ向かったのである。

右から2番目がヘーシンク
道上は全員の旅費滞在費を用意するなりヘーシンクの日本での練習先の交渉を終え、 ヘーシンクには「大会では思う存分畳の上で暴れてこい」と言って送り出した。
そしてこうつけ加えた。
「大会前の練習ではとくに気をつけて、相手にこちらの技を研究されないようにしろ」と釘をさした。 しかし道上が心配したように準々決勝で内股を返されて敗れた。
日本の高段者に研究されていたのである。

醍醐敏郎は、 「二年後に再び開かれた第二回大会では、見違えるほどの進歩をみせており、山舗(やましき)選手には積極的に攻めて返し技で敗れはしたが、 日本柔道界に与えた彼の脅威感は、かなり大きいものとなっていた」
(「日本柔道への処方箋」文藝春秋昭和37年2月号)。

だがこの試合を含め、第二回世界選手権は、初めて判定に疑惑が抱かれることになった。 ヘーシンク戦で山舗は内股を連発された後「体落とし」でバッタリと手をついている。 しかし審判はこれを技の効果とは判断せず、そのまま試合が続けられた。 その後ヘーシンクの「内股」を返した山舗の技を、審判は「一本」と宣して試合が終わったのである。

だが多くの専門家は、これはせいぜい「技あり」程度だろうと言う。 もし山舗の「内股返し」が「技あり」だとすると、ヘーシンクの「体落とし」も「技あり」にしていいはずだと。

第一回世界大会では日本人同士が決勝戦を戦った事でも分かるように、外国人選手との間には歴然たる実力差が有り、 疑惑の判定など起こりようもなかった。

しかし第二回大会ではヘーシンク五段、同じく道上の弟子たち、フランスのパリゼ四段、そしてクルティーヌも四段になっており、 彼我の実力は急速に接近しつつあった。
審判は全員、日本人の八、九段の高段者だったが、シドニー・オリンピックとは逆に、 日本人選手に甘すぎるのではないか、との声がひそかに囁かれたのである。

パリゼは前述の山舗と三位決定戦で対戦した。パリゼは右の「一本背負い」を武器に、十分間の試合時間いっぱい攻め続けた。 これに対して山舗はまったく精彩を欠いた試合ぶりだった。だが日本審判は、終始押され続けた山舗に、「優勢勝」を与えたのだ。

このように 外国選手と日本人選手の実力差が小さくなり、日本選手の技には「一本」に足りないのに待ってましたとばかり 「一本」と言い、「技あり」を連発する日本人審判に対して、ヨーロッパ柔道連盟を中心に、露骨な不満の声が噴出した。 国際試合では、もっと明確な判定基準が必要だという声は、外国ばかりか日本国内からも起こったのである。

もともと柔道は体重差を認めず、「投げ技」「固め技」による「一本」という明確な技の効果によって、勝敗を決めるものであった。 実力を十分発揮させるために、一回では勝負はつけず、必ず二本勝負とされた。 二本先に取ったほうが勝ちで、剣道にはこれが残っている。
試合時間いっぱい、明確な技がかからなかった場合(一本取らなければ)、全部引き分けだった。 審判が紅白の旗を持つようになったのは戦後からである。

この時から「優勢勝」が生まれ、一道場独占による柔道の衰退と本来の武道的色彩が失われて行くことになったのである。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




▲ページ上部へ


前号へ | 次号へ

「古武士(もののふ) 第31話 道上の訴え」


「古武士(もののふ)第31話 道上の訴え」

2014年9月19日



第三回世界大会は昭和36年(1961年)パリで行われた。
この大会に備え道上はヘーシンクを日本に2か月間送り込んだ。
警視庁武道館(当時水道橋に在った)日本の第一線級の柔道家と稽古に励み自信を深めさせる目的であった。

そして旧知の仲の天理教の中山正善真柱(教祖しんばしら)に「出来ればヘーシンクを私のところによこしてくれないか」と頼まれた。 中山正善は武専の先輩、そして柔道部監督が武専の四期後輩松本安市。 中山先輩の申し出を快諾した。(当時の大学柔道は東の明治、西の天理大だった)。

道上の「日本の柔道に慣れてこい、そのかわりこちらの手の内は見せないで日本選手の研究は怠らず」 道上の綿密な練習計画に沿って練習場所、内容が決められたものだった。 最大のライバルに手の内を見せない事はもちろん、 相手のヘーシンク対策を逆手にとる技とタイミングを身体に叩き込むことを最大の目的にしていた。
今回ヘーシンクはこの注意をよく守り、そして大いに自信をつけた。

道上は技術を生かすには精神力と体力が欠かせない。体力は単に体重の重さや力の強さでは無く、 筋力の強靭さ、弾力、スピードを生み出す反射能力などで、その体力をいかに技術面で生かすかが課題だった。 つまり技術を百パーセント生かすためには、どこの筋肉の強い働きが必要か絶えず研究し続けたのである。

単身日本へわたって二か月後、オランダに帰ってきたヘーシンクをみて、道上は一瞬、思わず自分の目を疑った。 「これがあの弱気な、劣等感のかたまりみたいだった青年なのかという驚きだった。悠揚迫らざる態度、落ち着いた挙措、 自信あふれる十分な貫禄、それはすでにして選手権者のものとしてのそれではないか。 私は、この時、よし勝てるぞ、との自信をしっかり抱いた」 と道上はこの時の様子を述懐している。
パリで開かれる第三回世界選手権大会まであと8カ月だった。

この年(1961)はヘーシンクの成長の他に、道上にとっても充実した年であった。 ボルドーの道場運営は順調だったし、何よりも渡仏以来初めて八年ぶりに日本の土を踏んだ。 西インド諸島マルテイニックでの一か月に及ぶ講習を終えてロサンゼルスに寄り、兄と会ったあとのことである。

こうして八年ぶりに家族や旧友とのひと時を楽しんだ道上だったが、心は晴れなかった。 国際化とともに、ヨーロッパ柔道は審判規定、段位認定、体重制などあらゆる面で武道からスポーツへ変質しつつあるのに、 「本家」を自認する講道館はそのことの意味に何も気付いていない。
トレーニング法、昇段規定等どれをとってもこのままでは本格柔道は「本家」日本から消えてなくなるだろうし、 残るとすればヘーシンクらのヨーロッパかもしれない。

スポーツ柔道になったらなったで、日本はヨーロッパ勢の決めたルールに黙って従っていくしかなくなるだろう。 ヨーロッパの急激な変化に気付かず、安易に段位を発行し続けるだけの講道館=全柔連の、一日も早い改革が必要のはずだった。

実はこの帰国を機会に、道上は多くの柔道関係者に会い、真の強さを反映するような段位の与え方やスポーツ柔道から本格柔道へ改革するため 審判規定等の改訂などについて、熱心に訴えている。

関係者の多くは講道館館長・嘉納履正に面会することをすすめた。
第三回世界選手権大会に先立って七か月前の昭和36年5月、道上は嘉納履正に面会を求めていたが、三回目の申し込みでようやく面会できることとなった。

次回は「嘉納履正 との面会」



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




▲ページ上部へ


「古武士(もののふ) 第32話 嘉納履正 との面会」



「古武士(もののふ)第32話 嘉納履正との面会」

2014年9月26日



柔道の未来を危惧する道上は三回の面会申し込みのすえ、ようやく嘉納履正講道館館長と面会出来ることになった。 しかし、嘉納は表敬訪問と勘違いしたかのごとく、20分でそそくさと席を立った。

道上には、ヨーロッパ柔道界の趨勢、段位の問題、そして何よりも柔道そのもののあり方など、語るべきことは山ほどあった。 が、嘉納は、「6月初めにアテネのIOC(国際オリンピック委員会)総会出席後、フランスへ回るから、その時十分話し合おう。自分の方から連絡する」 と言って、会見を打ち切った。

道上から見れば、嘉納履正は柔道の経験が浅い事はともかく、全柔連会長として国際柔道界に対して何の発言力、指導力も発揮できないことが歯がゆかったのである。 履正の父・嘉納治五郎は少なくとも、国際社会に対して積極的に発言して政治力を発揮し、それ故に指導者としての敬意を受ける事が出来た。
道上自身も終生、深い敬意を失わなかった。

それに引き換え履正(さらに履正の後を継いだ行光)は、柔道そのものにみるべきものがない上に、国際的な政治力すらない。 彼らの人柄は別として、また百歩譲って、本人というより側近の怠慢であることを認めるにせよ、 それに安住して置かれた立場の責任を果たし得ないことへの道上の失望は大きかった。

激動のヨーロッパ柔道界で戦っている道上と、御家元制度などと称して胡坐をかいている履正との隔たりは大きかった。

六月初旬、失意のうちにすでにフランスへ帰っていた道上の耳に、嘉納たち一行がフランス、ベルギーを旅行中である、という情報が入った。 ところがいつまで待っても何の連絡もなかった。

それどころか、嘉納たちが帰国してしばらく経って、オランダ柔道連盟から道上に一通の質問書が届いた。 あるオランダ人が嘉納の側近および講道館のヨーロッパ派遣員とベルギーで会ったが、その時に話された内容が事実かどうか、問い合わせたものだった。
「道上は講道館の正式な免許を持っているものではない。今春講道館館長を訪問してきたが、門前払いを食った者である」という話の真意を訪ねた上、 「オランダ柔道連盟が今後も引き続き道上を最高技術顧問にし続けるのであれば、講道館はオランダ柔道連盟に対して一切の援助を与えない。 道上を最高技術顧問から外せば、神永のような優秀な指導者を派遣する」ということだった。

明らかに成長著しいオランダ柔道連盟、特にヘーシンクと道上との分断を狙ったゆさぶりである。 道上は怒りに震えながらも、誠実に質問状に答えた。
そして、「講道館がそのような方針なら、自分はいつでも当連盟と縁を切ることにやぶさかでない。オランダ柔道連盟が正しく発展することのみを祈っている」と記し、サインした。

連盟の幹部やヘーシンクをはじめとした選手たちは、
「オランダ連盟は、過去において一度も講道館から援助を受けたことはない。それをなんだ、オランダ連盟に対して今後一切の援助を与えないとは。 言いたいやつには言わしておきましょう。

私たちは講道館から学ぶものは、何一つない。 日本の柔道で学ぶものがあるとすれば、警視庁武道館に残る武士道そのもののような鍛錬、言葉で言い表せないあの緊張した雰囲気のほかにはないのです。

私たちはここにあの雰囲気を作り、あのような気持ちになって修行し、必ず選手権を獲得し、いたずらに政治をもてあそぶ連中に反省を求めることにしましょう。」 と逆に道上を励ました。

そしてオランダで、また道上の住むボルドーの道上道場で、世界選手権を目指して鍛錬に鍛錬を重ねたのである。

オランダ柔道家と雑談

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




▲ページ上部へ


ページトップへ