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「古武士 (もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」


「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」

2015年3月13日



垂仁天皇の勅命を受けた田道間守【多遅摩毛理(タヂマモリ)】が、
苦労の末に不老不死の霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)【非時香木実<橘>】を常世の国<海の彼方にあるとされた永遠不変・不老長寿の国(奄美大島)>から持ち帰った、その橘が、橘本神社の旧社地「六本樹の丘」に移植されたのである。
橘は日本原産で、九州・四国・紀伊半島に自生していた。

ただヨーロッパではみかんの事をマンダリンと呼んでいる。
Mandarin の語源は 「Man Daren 満大人」という中国語だ。
「満大人」は「満州人の大人(役人)」の意味で、Mandarinとは、本来は清朝の貴族役人が使っていた北京官話(官話は役人言葉・公用語の意味)のことである。

現在の普通話(中国国内で公用語と定められた中国語)が形成されるまでは、北京官話といえば中国の標準語の地位にあった。すなわち満州物とか漢物と表現されている。まあヨーロッパでは日本も中国も一緒くたなのかもしれない。

そんな千夜一夜物語の様に評されているみかんだが 事実 今でもみかんは皮ごと食後に食べると糖尿に効くらしい。 いや他にも多くの効果があるようだ。昔はよく焼いて食べた人もいたそうだ。神が与えた恵みと言っても過言では無い。

漁業以外でもう一つ八幡浜が全国に名を馳せた産業が柑橘農業である。
明治27年(今から120年前)、道上の地元向灘勘定の大家百次郎翁が3000本の温州みかんの苗木を九州から取り寄せたことが柑橘栽培の始まりである。
それも江戸時代後期から各浦々の漁村で何代にも亘って段々畑を開発しサツマイモや麦を栽培していたおかげで柑橘への切り替えが容易だった。

終戦後農地改革を経て向灘の温州みかん栽培は増産の一途をたどる。
みかん畑八幡浜は全国屈指の温州みかんの産地で、中でも東西に延びる向灘地区は海抜300メートルの権現山の頂きまで一段一段石積みをして開墾された段々畑なので とても水はけが良く、しかも全面南向きのため年間積算日照時間が多いことで食味の良いみかんが出来る。

平成2年に宮内庁と愛媛県青果連のご推挙により、今上天皇大嘗祭に供納するみかんを献上したことから日本一と評されるようになった。
しかも 日の丸みかんは千疋屋にしか置いていないと言われていた。

愚息がフランスの柔道チャンピオンB・Sと話したのはフランスへ着いてすぐの事だった。 B・Sは当時日本チャンピオンだった神永5段と練習試合で引き分けるほどのつわものだった。
彼曰く「我々西洋人は上半身において日本人に負けないが、足腰の強さで日本人に負ける」と言っていた。 「日本人は正座するから強いんだ」。 愚息がふと思ったのは日本の便器だった。
日本はフランス(55万平方キロ)の5分の3の面積(36万平方キロ)人口はフランスの倍、しかも国土の83%が山だ。 道上は毎日山を駆け上ったり駆け下りたりした。強靭な筋肉 バネのある体は真にみかん畑によるものだと言っても過言では無い、 と 愚息は思った。

その昔初代若乃花という力士がいた。小兵ながら名横綱だった。
彼は船の冲仲仕をして鍛えられた。重い荷物を持って船に乗り降りする毎日、強く大地を踏む足 30センチ幅の細い掛け板を往来する事によって培われたバランス感覚。八幡浜も冲仲仕の町だった。自然が、仕事が、強靭な身体を育ててくれた。

前田山英五郎 (戦後初の横綱。相撲界の国際化の先駆者。外国人力士第1号の高見山を発掘 )をはじめ、 初代朝汐太郎も八幡浜出身。後4代目朝潮が 朝青龍をも輩出している。
道上の父安太郎もアメリカのアマチュア相撲で連戦連勝の横綱だった。
道上伯の国際感覚も八幡浜だから育ったのだろうか?
みかん山から見下ろす入り江には海外に目を向ける魔物のようなものが潜んでいる。

近年トップブランドと言われる「日の丸みかん」は向灘地区の三つの出荷組合(日の丸、朝日、ム)が合併し出来上がった共撰のことである。 現在は頂上まで農道が整備され国による南予用水事業のおかげで夏期の渇水対策も万全で、昔の人たちの農作業と比較すると夢のような環境になった。
それもこれも「朝は朝星、夜は夜星」と言われるほど夜明け前から日暮れまでご先祖が流した汗と日々の労苦の結晶が現在の基盤を作ったものと言える。
しかし便利になった分だけ現代人は体力が衰えてきているのかもしれない。

さて、みかんの苗木を向灘に取り寄せたことでみかんの父と呼ばれる大家百次郎氏のことは地元の方ならよくご存じのことなのだが、それを愛媛の基幹産業として基礎を固めたのは同じ勘定生まれで道上より12歳年上の岩切徳市氏である。
尋常小学校卒業後1ヘクタールの土地に早くから柑橘栽培に取り組み、みかん園を創りあげた先駆者である。 生食果として商品にならなかった果実をジュースにすることを思いつき豊富なミネラルを育んだ八幡浜ミカンジュースは健康にこだわる多くの方達に愛飲されている。

愚息「お父さん八幡浜みかんは日本一ですよ」「君は何を言っているんだ、世界一だ」
何を言っても世界基準になってしまう道上。
八幡浜は道上にとって思い出の宝庫だった。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士 (もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」


「古武士(もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」

2015年3月6日



道上の生まれ育った八幡浜、
古き良き時代。

古代、豊後佐賀関が大宰府の秘密港だった時代に上陸地点として最も適していたのが八幡浜であったことが史実として記されている。
江戸後期には宇和島藩の秘密港として藩の求めに応じ長崎交易を営む者が生まれた。以降、商人等によって建造された買出船で海産物を持ち出し、帰りには米などを持ち帰る商業活動が興り九州・中国・関西の品物が豊富に集積されていたことが長い間 伊予の大阪と呼ばれていた所以である。

古くから八幡浜が栄えて来たのはリアス式の湾の奥に位置した大時化に強い天然の良港だったこと。豊後水道に面した宇和海という豊饒の海の資源を上手く活用して来たからだ。

そして何よりも日本の三大難所の一つで「速吸瀬戸」の潮の流れを読める海の男衆がいたからだろう。海の男は気性が荒い。八幡浜に与太者は育たなかった。

道上はトロール船を7隻持っていた。1940年代の事だった。

トロール船

食後の会話にはよく八幡浜の話題になった。
八幡浜は戦前まで刺網や四ツ張網によるイワシ網漁が盛んで、漁獲されたホータレ(カタクチイワシ)は煮干しイリコとして中国・兵庫方面へ販路を拡大していた。
1950年代には貧乏人が毎日食する魚の代名詞だったホータレも現在では高級品の一つになった。余談だが指で割いて作るホータレの刺身は実に実に美味い。
大平町にあったうどん屋はイリコで3回出汁をとっていた。
あまりの旨さに北は北海道南は九州から食通が通った。
1960年代一杯15円だった。

また、戦前戦後の食糧難の時代に大切なタンパク源の供給という大きな役割を担っていた政府の臨時措置で許可されていた底引き網漁業は昭和22年に正式な漁業として認められ27統54隻になった。

その後、沿岸漁民との対立が増加し昭和26年には漁業法が改正に伴って減船整理を経て基幹産業として基礎が確立し、四十数年前まで八幡浜と言えばトロール漁業(沖合底引き網漁業)が主役の町として隆盛の時代が続き魚市場は毎朝活気に溢れていた。1950年代八幡浜は西日本有数の漁港として全国に名を轟かせていた。

魚市場

底引き網で水揚げされる魚種は200種類を超え、その多くは一般消費者には見たことも聞いたこともないような魚ばかりだが、それこそが戦後の地域経済の源泉の一つになっていた。フランスでは考えられない程の種類の多さだった。

鯛、平目、海老類に代表される棚ものと言われる高級魚は上送り専門の仲卸業者の手で東京・大阪等の消費地市場で販売されるため売上げを伸ばしたが、水揚げ量的には圧倒的に「つぶし物」かまぼこやちくわの高級原料エソ、グチ、更にてんぷら(最近はじゃこ天と呼ばれている)の下級原料の雑魚であった。

近海で操業する底引き網漁船の漁獲物は全て市場に水揚げされていたため新鮮で安価な雑魚を加工する製造業が栄えたのである。
愚息もトロール船に乗った事があるが塩と油の臭い。
釣りに行くと魚の臭いが加わる。素人はこれで酔ってしまう。

八幡浜を代表する名産品は「かまぼこ」であった。
それは主原料のエソ、グチ、が地元で大量に水揚げされていたからこそである。
のどごしが勝負と言われるほど良いエソを使って作られた蒲鉾は一切れ噛み砕いて飲み込むと違いがわかるのである。
次女志摩子は高校卒業まで八幡浜で過ごした。
今でも八幡浜に帰ると谷本かまぼこ店で大量に買い物をする。

そんな練り製品業界だが今やフレッシュな雑魚を原料にする「じゃこ天」の人気が高い。 使用原料の違いで味が異なるだけに「じゃこ天」も奥が深い。くずし屋さん巡りでもして味の違いを楽しむのも一興だ。

一番のお薦めは地元ではハランボ(学名ホタルジャコ)と呼ばれる小魚を使ったもの。
昔からハランボしか使わない老舗の二宮てんぷらはファンが多い。
定番なら八幡浜港前に在る萩森かまぼこのてんぷらが原料はヒメジ。

ヒメジは最近有名シェフの手でオイルルージュとしてダボス会議のパーティーで振る舞われ高い評価を受けたことがメディアで紹介された金太郎という魚の事だ。
山口県ではヒメジのことを金太郎と呼ぶ。
小魚ではあるが少し大きめのヒメジを三枚に下ろし刺身で食すのは絶品だ。
オイル漬けにして美味いのは当然だろう。

一押しはくずしや鳥津の無添加じゃこ天。
原料はハランボ100%(ホタルジャコ)、つなぎは塩のみと言うこの技術は 二代目康孝氏以外例を見ない。間違いなく価値ある一品である。

また特筆すべきことは日本最初の魚肉ソーセージの開発に成功し製造販売を行った人物がいる。1900年栗ノ浦に生まれた紀伊敏雄氏がその人だ。
1951年に西南開発株式会社を創設、日持ちのしない加工品の中にあって長期保存できる画期的な商品、明治屋スモークミートとして多くの食卓に乗った。

その技術は全国に広がり、昭和40年代の終わりまで国内大手水産会社が軒並み参入し競った時代が懐かしい。 何しろ肉のソーセージは高くて手には入らない時代の苦肉の策だった。

八幡浜の底引き網漁業を支えていたのは「かまぼこ屋さん」や「くずし屋さん」と呼ばれる水産練り製品業者であると同時に、彼らを支えていたのも底引き網漁業であったことを忘れてはならないと思う。
(スケトウダラが主原料になってしまった蒲鉾にはかつてのアイデンティティが見えにくい。互いに無くてはならない存在だと感じる)。


愚息の追言:
道上が話しだすとスケールが大きくなる。日本一はすなわち世界一になってしまう。
「まち、ひと、しごと創生」有識者12人のメンバーの一人である清水志摩子(道上伯次女)は各省庁の官僚の前で 「昔漁師はサラリーマンの6倍の給料は取っていた。 今じゃ油も高くて船も出せない。 政府も支援するべきだ・・・(これ以上は書けない)。」

鞄持ちで同行した弟は顔をひきつらせ、うつむいていた。
この親にしてこの娘有り。
(彼女は清水園代表の他、埼玉観光国際協会会長、全国おかみさん会理事長、陸上自衛隊大宮駐屯協力会会長、元公安委員・・・。)



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士 (もののふ)第54話 家族の団欒」


「古武士(もののふ) 第54話 家族の団欒」

2015年2月27日



カラオケなどで歌を歌うとお腹が空くが、しゃべってもお腹が空きます。 オペラ歌手は体格の良い方が多いが、決して脂肪が声を出すわけでは無い。腹から声を出すとお腹が空く。 その勢いで沢山食べ、身体を動かさなければ当然体重が増える。

フランス料理を食べる時は会話に参加した方が良い。
「しゃべる人」と「聞く人」の構図は無い。
三人いると少なくとも二人はしゃべっている。

そして忘れてはいけないのは最後にチーズを食べる事。
日本人が三日三晩、昔ながらのフランス料理を食べるとダウンしてしまう。
お腹いっぱいでチーズまで胃がもたないのは分かるが、
消化を促すチーズを食べないと消化不良を起こしてしまう。
昔のフランス料理は消化しづらい物が多かった。まるで核融合だ。

道上は言う。
中国で労働者が行く料理屋は脂が重く、4~5時間お腹が空かない。
しかし金持ちが行く店ではレストランを出る時にはもうお腹が空いている。
中華料理は凄い、と。

中国に昔包丁と言う料理人がいて食肉動物の身体の構造に詳しく、
筋、筋肉は外し刃こぼれひとつなく刻んだため刀が長持ちした。 
その後彼に対する尊敬の念をもって”包丁”としてその名が伝わったと道上は話す。
中国の文化は凄いと。

その逸話は後にはこういった言い伝えまで聞こえてきた。
「庖」は調理場を意味する。「丁」は「園丁」や「馬丁」のように、
そこで働く男、つまり庖丁の原義は「料理人」のことである。

『荘子』の「養生主篇」に、魏の恵王の御前で、
ある庖丁(ホウテイ)が見事な刀捌きで牛一頭を素早く解体して見せ、
王を感銘させる記事がある。
彼の使用した料理刀を後に庖丁と称し、これが日本語読みで「ほうちょう」となった。
かつて「庖」が当用漢字外とされたため同音の「包」で代用することが多いが、 本来は「庖丁」。

家族がフランス到着後パリに住んでいた時に、
道上はある日マダガスカルからの帰り、飛行機を乗り継ぎ
マンゴーを持って帰ってきた。
自ら包丁で筋を切り食べさせてくれた。
道上曰く、これは秦の始皇帝すらも食べられなかった世界一美味しい果物だと言っていた。 昔は届く前に腐ってしまっていたからだ。
のち東南アジアで何度かマンゴーを食べたが、
あの時の味のマンゴーに出会ったことがない。

ボルドーの弟子(ロベールさん)に頼んで鶏を用意してパリに持ってきたことが何度かある。 日本とかパリのブロイラーとは似ても似つかない。
広大な土地を走り回っているせいか肉は少々固い。
ただよく噛んでもパサついた味にはならない。
決してつくられた脂身では無い、とうもろこしが主食の鶏だった。
口では上手く表現出来ないが噛めば噛むほど肉の味がした。

日本の鶏、あるいはパリの鶏の3倍の大きさは有ろうか。
それを道上は一人で一羽食べていた。その後一人でおじやを大皿で二杯。 我々家族三人では一羽を食べるのがやっとだった。

一度「それだけしか食べないのかと」言われた愚息がおじやのお代り(二皿目)をしたが消化不良をおこし苦しんだ。 こういった話が毎日聞こえてくる道上家では、道上以外は小食で通した。

道上が持って帰ってくるものの中には、ボルドー地方のセップ(ceps)、 日本で言えば松茸のようなものがあった。日本の松茸にはあまり味が無い。
セップは松茸のような繊細な香りは無いが味はすこぶる美味しい。
オリーブオイルで炒め塩だけで十分美味しい。
パリでのセップはボルドーのセップとは似ても似つかない。
ましてやイタリアのポルチーニとは全く違う。
パリのレストランではボルドーのセップと似ても似つかないものがステーキより高かった。 ボルドー地方のレストランでは地元の美味しいセップが食べ放題の所もあった。 食は地方にあり。

忘れてはいけないのがジャンボン・ド・バイヨーヌ(南西ピレネ近郊)の生ハム。
これもステーキよりも高い、イタリアの生ハムなんかよりも間違いなく美味しい。

大体世界のフランス系植民地は風光明媚で料理が美味しい。
一方イギリス系植民地は人間が暮らすのには必ずしも良い環境ばかりではなかった。
一概には言えないが、フランスとは逆に地下資源が豊富な所が多かった。

フランス料理はメディチ家によってもたらされたと、マンガのような事を言う日本人がいるが、 紀元前、今のフランスあたりに居住していたゴルワ人(ガリア人)達の暮らしは、
ローマ人が驚くほど食が豊富でまさにヨーロッパの中国だった。
貧しい中国人でも美味しい物を食べている姿を彷彿とさせる。
フランスは未だ世界有数の農業国であった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第53話 食卓での会話」


「古武士(もののふ) 第53話 食卓での会話」

2015年2月20日



家族の団欒。
前回もお話ししたように、フランス人は食べるのが早い。 だがよく喋る。
外国人が会話について行けないと退屈でしかも苦痛だ。
パリの夕食は9時に始まり、終わるのが11時半から夜中の1時ごろまでだ。
日本の様にさっさと食べてから飲みに行くような事はしない。

道上家では当然道上の独り舞台。 食後は一人でしゃべっている。
家族は聞いているだけだ。
ボルドーの美味しい赤ワインを飲みながら 世を語る。
家族は水を飲みながら聞く。
話にはしばしば昔の中国が話題にあがる。

戦前は五族協和という言葉があった。
上海の東亜同文書院で教鞭をとっていた孫文も辛亥革命の際には
五族協和を唱えていた。五族とは中国・朝鮮・満州・モンゴル・日本の五カ国。
道上も同校で教鞭をとっていたためかいつも、
日本はもっと中国、朝鮮と仲良くしなければいけない、と言っていた。

確かにパリで韓国人に出会うとよく会釈をされた。
ひょっとして韓国人に間違えられたのかもしれない。
日本人は道ですれ違っても会釈をするものは少なかった。
しかし道上は異常に思えるほど中国人朝鮮人びいきであった。
愚息が韓国へ行った際道上の知人の墓参りをさせられたことが幾度かある。

道上曰く、中国人は三代四代にわたって友情を忘れない。
きっと戦前の中国人又は華僑にそのような人が多かったのかもしれない。

当時日本料理屋はパリに7軒あったが、お互いがお互いの批判をしていた。

パリに100軒はあった中華料理屋は自分の店の定休日には
他の店の案内図を店に貼っていた。 しかも全店で合同仕入れをしていた。
中国人は海外では助け合っていた。 きっと同じ民族なのであろう。
上海、広州、客家(ハッカ)、山東・・・。

パリの中華街は治外法権だ。死人が出ない。百歳を超える人が相当数いる。
フランスの批判はしない。チャイナタウンは別世界だ。
客家の難民がマルセイユに到着後、系図の写しを持っていくと
翌日にはお店を出させてもらえるという噂もあった。
現在も国籍の無い中国人不法就労者はイタリアだけでも
20万人を超えると言われている。フランスはもっと多いはずだ。

道上曰く、 
「中国には400の州があって160の民族がすんでいる大国だ」
「日本には3種類の民族が元だが、その中には南方系もいれば白色系もいる」
「ただ全部大陸からの移民では無く日本から大陸に流れた者も多い」
「文化も大陸から来たものばかりではなく日本から流れたものも多い」
中国の漢字の半分以上は日本当用漢字の逆輸入だ。
「数千年にわたって多くの文化交流があった」

中国の三種の神器である玉鉞(ぎょくえつ)、玉琮(ぎょくそう),玉璧(ぎょくへき)、が  中国に存在すると言う話は聞いたことがない。
後に愚息が見た台湾の故宮に展示してある三種の神器は偽物に見えた。
きっと台湾のどこかに隠しているのだろう。蒋介石が偽物を運ぶはずがない。
ただビックリする事に中国の三種の神器は日本に多く存在する。
愚息の最も尊敬する京都の人物が多く持っていらっしゃる。


中国には易姓革命というものがあり、族誅(ぞくちゅう、中国における古代から続いた同じ名字の一族抹殺)から逃れるため多くの中国貴族が日本へ逃げてきた。
その際三種の神器を持って来たと言われている。
西晋に滅ぼされた呉の生き残りの多くも日本に逃げて来た、 その際
彼等の着ていた服が呉服として日本でも流行った。
易姓戦争を恐れた東洋の者達が日本の天皇家に名字を無くし、
永遠と栄える事を願ったとされている。

先ほどの三種の神器も日本は剣(つるぎ)鏡(かがみ)勾玉(まがたま)だが、
中国での三種の神器は、玉鉞(軍事?斧)、玉琮(祭祀?つつ)、玉璧(財産?鏡?)、 おそらく 魂、霊体、肉体の三位一体の意味だと思われるが、
真に道上が唱えた心、技、体である。
玉鉞 玉璧などは中国でもなかなか採れないと言われている軟玉で出来ている。
ましてや玉琮の玉はアジア広しと言えども日本の糸魚川でしか取れない。  

いかに中国・朝鮮・日本は数千年前もの昔から交流があったか、
日本人はもっと中国・朝鮮と仲良くすべきだとよく聞かされた。
愚息は「このおっさん何を大きなことを言っているのか」といつも思っていた。
世界を股にかけているつもりだろうが、1950年代当時としては納得がいく。

現在も中国人、日本人、朝鮮人は本当にお互い嫌っているのだろうか。
フィクションの多いメディア。そして歴史は作られる。
アジアが仲良くしないで喜ぶ国はどこだろうか。決してロシアでは無い。
道上はアメリカ人の勇敢さに敬服していた。
ただアメリカ合衆国を支配している少数の人達のやり方に我慢がならなかった。
日本の崇高なる文化を潰す意味がどこにあるのか。

たかが200年の歴史しかない現代アメリカの言いなりになっていいのか
日本の政治家は何も考えておらん。

情報と言えば日本から毎月送られて来る文芸春秋のみ。
なのになぜ世界の動きが分かるのか。
自分の信じる道を一心不乱で生きる男には 
史実の裏に隠されている事実が見えるのかもしれない。

日本で政治的な事を話すと世間が笑う。
しかしながら昔の日本人は国家経綸(こっかけいりん)をよく語った。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第52話 フランスとは」


「古武士(もののふ) 第52話 フランスとは」

2015年2月13日



道上の食卓での会話を話す前に 
フランスとはどういった国かを話す必要がある。

当時フランス人はプライドが高く 英語を話せても使わない、
とよく日本人から聞いたが、実はフランス人で英語のできる人は少なかった。
アメリカ人が「東京で北京語を使っても通じない。20億人以上(戸籍を持っていない中国人が6億人と華僑も含める)が喋っている中国語を日本人が喋れないのはおかしい」と言っているようなものである。

確かに開発途上国では英語が使われている国も多いが、
フランスはれっきとした独立大国である。 ましてやどっかの国の様に小学校から英語を必修科目にしようなどまるで植民地を自称するようなものである。

当時フランスにパトワ(方言)が100以上あると言われていた。(1999年では75の方言)。 フランスはベルギー、ルクサンブルグ、ドイツ、スイス、イタリア、アンドラ、スペインの各国に囲まれている。
隣国に接している地域では、双方の方言が共通語であった。

歴史的には第一次世界大戦までの日本は森鴎外、島崎藤村などの時代にドイツに多くを学び、ドイツが敗戦国となってからの日本は兵法や税法をはじめ多くをフランスから学んだという流れがある。

当初フランス語の辞書は一度ドイツ語を経由してから日本語に訳されたために
難しい言語とされた。 フランス文学は難しく読みづらいものだった。
だが、実際にはフランス語は非常に合理的な言葉であり、
フランスの哲学者(パスカルなど)は数学者であることが多い。
それはフランス語が数値にあてはめ易い言葉でもあったためである。

のちに大江健三郎などは「フランス語は合理的かつ論理的に考えやすい。
したがって自分はフランス語で考える事が多い」 とまで言っている。

道上が渡仏した当時フランスの86%は文盲と言われていた。
半分以上のフランス人は小学校を卒業した後、就業していた。
高校卒業(バカロレア)の資格を取る人たちは少なく、ナポレオンが作った8つの高等大学(Grandes Ecoles)などは一学年100人の大学(École polytechnique)もあった。
真にエリート教育の国だった。

イギリス系アメリカ共和党影響下の日本の教育ではあたかも
世界中で英語が使われているように錯覚させられていたが。
アメリカは、もともとフランスの影響下にあったのである。
そこへイギリスが強引に乗り込んで来て、統治した。
後にラファイエットなどフランス人達が(イギリスからの)アメリカ独立を支援したのである。
アメリカのオリジナル憲法はフランス語で書かれている。
カナダも長年にわたってフランス系カナダ人が首相を務めていた。

南米はスペイン、ポルトガルの影響下にあり、アフリカの半分以上は元仏領。
アジアでは中国、インドシナ(ラオス、カンボジア、べトナム)はフランスの影響下、
また中東の多くはフランスの影響下にある。
ヨーロッパに至ってはスカンジナビア以外、北はドイツ語、南はフランス語が通じた国が多い。 つい30年前までは北イタリア、北スペインではフランス語を話せる人達が多かった。 海岸線が世界で一番長い国もフランスだ。コルシカ島、フレンチ・ポリネシア、レユ二オン島(西インド諸島)、フレンチ・カリビアン、などは現在もフランス国である。

エールフランス(Air France) は世界一周出来る唯一の航空会社かもしれない。
パリ発、ロサンゼルス、パぺテ(タヒチ)経由、パリ着。
又はロサンゼルス、ヌメア(ニューカレドニア)経由パリ着。
皆さんがご存知のパぺテ(タヒチ)、東京、パリという風にフランスの航空会社に乗り継いで世界周回旅行が出来る。

いまだにスポーツの世界でも会長はフランス人かフランスの影響下にある人が多い。
フランスは決してファッション、芸術だけの国ではない。
日本人が知る以上に大国である。
誰に言いくるめられたのか知らないが勘違いが多く、
敗戦国の日本と戦勝国のフランスとは大きな違いがあった。

フランスの軍需産業は底知れないほど強力であった。
日本のようにアメリカに傾倒している国ですら所有する75%のヘリコプターはフランス製だ。 原発も、特に放射能処理は世界最大。多くの先端技術をフランスが持っていた。

フランスは唯一アメリカに馬鹿野郎と言えた国である。
ドゴールは大型輸送機を何機も飛ばさせ、ありったけのドル紙幣をアメリカに送り 
ドルは紙切れだ、金に変えよと言ったところ、1971年にニクソンショックが起こった。
そこで金本位制の終わりが告げられた。
当時フランス人、個人の金保有高は世界の半分以上の量であった。

アメリカの共和党がイギリス系だとしたら、
そしてアメリカの民主党がフランス系だとしたら、
100年戦争(1337年~1453年)はまだ終わっていない。

道上はフランスに期待した。
ナポレオン、ドゴールを尊敬した。

ある日「5万の米兵が駐屯している日本はアメリカの属国だ」と道上がつぶやいた事を愚息は聞きのがさなかった。道上は日本文化のレジスタンスか?

ナポレオン

次回は家族の団欒




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」


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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
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「古武士(もののふ) 第51話 パリでの食事」


「古武士(もののふ) 第51話 パリでの食事」

2015年2月6日



パリの市場 パリでの食生活はボルドーと違った。
パリには道上のなじみの食材店は無い。
当時パリの人達は食を重視しなかった。
昼は簡単にキャフェですませ、夜はスープにサラダだけと言う人達が多かった。

今のように三つ星レストランがパリに集中している時代ではなかった。 食は地方に有り。

地方ではないがボルドーのサンジャン駅の裏には牛肉解体場があり、
フランスの牛肉の半分以上が捌かれフランス中に供給されていた。
フランスでは地方の方が食生活は豊かだった。

ボルドーが華々しい時代を経た後、リヨンが頭角を現し、
最近ではヌーベルキュイジーヌはパリが本場となった。
農業が国内総生産の半分を占めた時代から工業のリヨンへ、
そして次第に金融のパリへと食の豊かさが移って行った。

しかし未だに地方には美味しいものが、またレストランが豊富である。
これはフランスの食生活の伝統を表わすものだ。
地域に根付いた美味しい料理と食材がある。  

1964年に家族が来仏した当初は道上がつくっていた事もあったが、
次第に次女志摩子が作るようになった。あわせて買い出しも彼女の役目となった。
女房小枝は酢の物や煮つけといった和食しか作らないため、
年よりじみた料理に思えた。

道上も愚息も志摩子の若々しい料理の方が食べやすかった。
道上がいる時はいつも彼女が作っていた。肉を焼く時だけは道上本人。
後片付けも最初は小枝と志摩子、後に愚息の役目になった。

道上ほど几帳面だと自分の台所は他の者に触られたくはない。
したがって普段使ってない台所には自分も立たない。
この事を愚息は痛いほどわかっていた。

よく招待された時「お手伝いしましょうか」と聞くと 
「助かりますお願いできますか」と言う人と、 「結構です」と言う人がいる。
道上は後者だった。

道上は小枝の食事では物足りなかった。
ちまちました懐石風の料理は道上の好みではなかった。
道上は日本の食事は貧乏人の食べ物だと言っていた。
確かに強靭な身体を支える食べ物では無い。
当時日本での家庭料理は貧しかった。

それに比べフランスの食卓は豪勢だった。
道上の大好きな中華も最近のように小皿で少しづつ出てくると道上は嫌がった。
道上の外食は招待されない限り必ず中華だった。中華料理は華やかだ。

道上の良き時代が彷彿とされると言う事もあるが、
やはり中華料理の華やかさ、そして料理自体が道上に合っていたのだろう。

当時料理と言えば世界での評価は中華料理が1番で、2番目がフランス料理だった。
今でも食通は同じ事を言うだろう。
何しろフランス料理は100種類あると言われているが、
中華料理は400種類以上と言われている。
豚一つとってもフランス、中国は捨てるところがないと言われるほど、
その殆どがあらゆる方法で料理される。
しかも中国は生き物はなんでも料理する。

ところで、フランスの中華料理屋にはろくな紹興酒が置いていない。
あまり出ないからだ。では、何を飲むのか。
中国人も含め皆ワインを飲む。中華料理にはワインが合う。
特にボルドーワインが。

戦前の上海は中国の83%の経済を担っていた。
上海人は着道楽と言われていたが 実は結構な食道楽でもあった。
現在日本にある中華料理の最高峰は上海料理だ。

道上は飲茶の様なメリケン粉臭いちまちましたものよりはしっかりした
大皿の中華料理の方が好きだった。
中華料理はなんでも好きだが、
あえて言えば広東料理が一番好きだったかもしれない。

身体が要求していたのだろう。
道上50代。まだ心も体も若かった。


次回は「食卓での会話」 です。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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