古武士(もののふ)
古武士(もののふ) バックナンバー



バックナンバー
9月29日配信 「古武士(もののふ) 第72話 道上の心配」
9月22日配信 「古武士(もののふ) 第71話 道上一時帰国中 武士の目」
9月15日配信 「古武士(もののふ) 第70話 道上一時帰国中 日本での食べ物」
9月8日配信 「古武士(もののふ) 第69話 道上の日本一時帰国」
9月1日配信 「古武士(もののふ) 第68話 10年間の溝」
|
ご登録されたいE-mailアドレスを入力し、送信ボタンを押してください。 |
メルマガ著者紹介
| 道上の独り言【 道上 雄峰 】幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン
バックナンバー
9月29日配信 「古武士(もののふ) 第72話 道上の心配」
9月22日配信 「古武士(もののふ) 第71話 道上一時帰国中 武士の目」
9月15日配信 「古武士(もののふ) 第70話 道上一時帰国中 日本での食べ物」
9月8日配信 「古武士(もののふ) 第69話 道上の日本一時帰国」
9月1日配信 「古武士(もののふ) 第68話 10年間の溝」
古武士(もののふ) 第72話 道上の心配
「古武士(もののふ) 第72話 道上の心配」
道上は相変わらず愚息を叱っていた。出来の悪い愚息に我慢がならなかった。
その眼は本人の意識とは裏腹に迫力ある目であった。まるで憎んでいるかのように。
何故こんな阿呆が息子なのだろうかと歯がゆい思いをぶつけるかのように。
1980年代前半頃のある日道上があまりにも愚息を叱るもので、見かねた次女志摩子が
「お父さん、雄峰は会社も創業しお母さんの面倒も見ているんですよ。」
「麻薬の密輸でもやっているのか。」
これには愚息もひっくり返るほど笑ってしまった。
確かに商品として扱っている貴金属や宝石は、女性にとって麻薬の様な物だ。
しかし愚息は法に触れるようなことは一切やっていない。
しかも母親には生活に十分な金額を20数年間毎月渡していた。
さらに次女志摩子はその倍以上の援助をしており、本当の意味で母親の面倒を見ていた。
このときの志摩子の一言で道上は愚息をあまり叱らなくなった。
しかも愚息が外食の代金を払うことが許されるようになった。
愚息は喜んで毎回美味しい店に案内した。しかし道上は決して喜ばなかった。
愚息が調子にのって高い店ばかり連れて行ったからだ。
「雄峰、勘定を見せろ。」 値段を見せるたびに雄峰は叱られた。
志摩子にも叱られた 「領収書は半値で切ってもらいなさい、何度言ったら分かるの。」
嘘のつけない不器用な雄峰であった。道上の声に金縛り状態になってしまう。嘘などつける訳がない。
蕎麦屋で一人1万2万するような所へ案内する愚息に対して、駄目だと言わんばかりに
「君はこんな事ばかりをやっていて日本の社会で通用すると思っているのか。」
さらに睨みつけながら「絶対にやっていけないぞ。」
愚息は意味が分からなかった。
中華、鮨、蕎麦と色々な店に案内したが叱られなかった店はたった2件しかなかった。
東京六本木にある本むら庵という蕎麦屋と日本で一番高いと言われているやはり六本木にある鮨屋である。
本むら庵は当時決して高そうに見えない店構で値段はリーズナブル。
そこへ二人で行った。
だから道上は気軽に喜んだのか、「此処のお酒は美味しいな。」とにっこり笑った。愚息は嬉しかった。
菊正宗の樽酒だった。蕎麦も4種類ほど食べ、お皿にこぼれる升酒を5杯飲み、その足でまた他の店に食べに行った。
(後に数回一斗ずつほど譲ってもらい、ワインを切らした時に道上は孫娘(志摩子の娘)の夫孝二と二人で毎晩1人一升半から二升飲んだ。)
鮨の方は弟武幸も一緒だったからだろうか、愚息を叱らなかった。
道上が美味しいと言ってくれたので愚息は喜んだ。
愚息は喜びに満ちていた。
腹いっぱい贅沢なもので満たしたいと思うのは下品な事だろうか?
空虚だからなのだろうか。
贅沢よりも中身で勝負できる本物の人間になれということだろうか?
道上は
「茶はさびて心はあつくもてなせよ道具はいつも有合わせにせよ」
と言っていた。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
道上は相変わらず愚息を叱っていた。出来の悪い愚息に我慢がならなかった。
その眼は本人の意識とは裏腹に迫力ある目であった。まるで憎んでいるかのように。
何故こんな阿呆が息子なのだろうかと歯がゆい思いをぶつけるかのように。
1980年代前半頃のある日道上があまりにも愚息を叱るもので、見かねた次女志摩子が 「お父さん、雄峰は会社も創業しお母さんの面倒も見ているんですよ。」
「麻薬の密輸でもやっているのか。」
これには愚息もひっくり返るほど笑ってしまった。
確かに商品として扱っている貴金属や宝石は、女性にとって麻薬の様な物だ。
しかし愚息は法に触れるようなことは一切やっていない。
しかも母親には生活に十分な金額を20数年間毎月渡していた。
さらに次女志摩子はその倍以上の援助をしており、本当の意味で母親の面倒を見ていた。
このときの志摩子の一言で道上は愚息をあまり叱らなくなった。
しかも愚息が外食の代金を払うことが許されるようになった。
愚息は喜んで毎回美味しい店に案内した。しかし道上は決して喜ばなかった。
愚息が調子にのって高い店ばかり連れて行ったからだ。
「雄峰、勘定を見せろ。」 値段を見せるたびに雄峰は叱られた。
志摩子にも叱られた 「領収書は半値で切ってもらいなさい、何度言ったら分かるの。」
嘘のつけない不器用な雄峰であった。道上の声に金縛り状態になってしまう。嘘などつける訳がない。
蕎麦屋で一人1万2万するような所へ案内する愚息に対して、駄目だと言わんばかりに
「君はこんな事ばかりをやっていて日本の社会で通用すると思っているのか。」
さらに睨みつけながら「絶対にやっていけないぞ。」
愚息は意味が分からなかった。
中華、鮨、蕎麦と色々な店に案内したが叱られなかった店はたった2件しかなかった。
東京六本木にある本むら庵という蕎麦屋と日本で一番高いと言われているやはり六本木にある鮨屋である。
本むら庵は当時決して高そうに見えない店構で値段はリーズナブル。
そこへ二人で行った。
だから道上は気軽に喜んだのか、「此処のお酒は美味しいな。」とにっこり笑った。愚息は嬉しかった。
菊正宗の樽酒だった。蕎麦も4種類ほど食べ、お皿にこぼれる升酒を5杯飲み、その足でまた他の店に食べに行った。
(後に数回一斗ずつほど譲ってもらい、ワインを切らした時に道上は孫娘(志摩子の娘)の夫孝二と二人で毎晩1人一升半から二升飲んだ。)
鮨の方は弟武幸も一緒だったからだろうか、愚息を叱らなかった。
道上が美味しいと言ってくれたので愚息は喜んだ。
愚息は喜びに満ちていた。
腹いっぱい贅沢なもので満たしたいと思うのは下品な事だろうか?
空虚だからなのだろうか。
贅沢よりも中身で勝負できる本物の人間になれということだろうか?
道上は
「茶はさびて心はあつくもてなせよ道具はいつも有合わせにせよ」
と言っていた。
古武士(もののふ) 第71話 武士の目
「古武士(もののふ) 第71話 武士の目」
1980年代一時帰国中のある日、
タクシーに東京赤坂見附から乗り、 発進して間もなく学生たちのデモに出くわした。
我々の乗っていたタクシーのフロント・ガラスを大きな旗で覆って、行く手の邪魔をしている。
すると道上、
「雄峰降りてこい」(どかしてこい?)
「お父さん3千人はいますよ」
「何を言っているか。正しければたとえ3千人の敵がいようとも。」
(やはり父は僕を殺そうと思っているんだ)愚息雄峰は思った。
雄峰は全学連や機動隊との喧嘩には慣れていた。
双方ぶつかっている中に飛び込んでどさくさに紛れて両方殴る事が多かった。
そして形勢不利になると逃げた。私服警官に捕まらないように注意しながら。
しかし道上の前では逃げることはできない。
(戦うしかないか・・。)と腹をくくって助手席のドアを開けるなり突然学連の連中が引いて行った。
この奇跡に雄峰はほっとした。
道上の怖さは正しいと思ったら例え1万人の敵が相手でも向かっていく事だった。
それはあくまでも気持ちの上だが、実際雄峰は道上がストリート・ファイトをしている姿を見たことがない。
いつも気合負けして逃げていく輩ばかりであった。
鋭い眼光に皆震え上がった。
しかも正しいと思った事は一歩も譲らない。
道上はチンピラを相手にするようなストリート・ファイターではないが、外国の大会ではプロレスラー、プロボクサーなどとも戦った。
ある日ボルドーのPlace Gambeta(ガンベタ広場)で道上と待ち合わせをしていた時、愚息は見た。
ある店から道上が出て来て大通りを渡った瞬間、2メートルもあろうかという大男が店から出て来て何やら大声で道上に向かってわめきちらしていた。
道上は何だと言わんばかりに大通りを再び渡り店に引き返した。
するとその大男は慌てて店の中に入り、店のドアを閉め、シャッターまで下ろしてしまった。
道上80歳の時であった。
また、同じころ道上が道場の傍の歩道を歩いているとやはり190cmは有ろうかと思われるガラの悪い男性二人が道幅いっぱいに並んで向こうから歩いて来た。
愚息はどうなることかと見守っていたが、道上は一切道を譲らなかった。
相手の男性二人は道上の前で道をあけた。
道上は軟骨が擦り減り、すでに10数センチ身長が縮んで、160cmほどの小兵となっていたが、
目と身体から湧き出る威圧感にどんな男もたじろいてしまう。
穏やかな目、その奥にはストリートファイターも たじろいでしまう迫力が潜んでいた。
一方で女性、老人にはすかさず道を譲った。
強きをくじき弱きを助けるは道上の生き様であったが、長い物には巻かれろに慣れている愚息には理解できなかった。
道上は自分の信念の為にはいつ死んでも良いとの覚悟だったのだろう。
雄峰は杖を突いて歩くのがやっとの80歳の男がどう戦うか見てみたかった。
結婚しなければ上海には行かせない、と外国生活を知る父安太郎に言われた道上。
しかしそれはまだ20歳代の事であり、もちろんその時と今は歳が違う。
道上は昔からこうだったのだろうか?
それともフランスという社会の中で変わったのだろうか?
フランスという国、いやヨーロッパではおとなしく黙っている者は、いいようにどんどん付け込まれてしまう。
しっかり主張しなければとことんやられてしまう。
愚息はフランスで暮らしているうちに道上が変わったと思えてならなかった。
何もそこまで気合入れて生きなくとも・・・。
街を歩いていると突然声をかけられた。
「先生!私は昔先生に習った事があります。先生はこれからどちらに行かれるのでしょうか、是非送らせて下さい。」
遠慮する道上にしつこく哀願する元生徒。
その熱心さに道上は老人となった元生徒の車の助手席に乗り、家の前まで送ってもらった。
到着すると「先生、再会出来た事を大変光栄に思います。有難うございました。」元生徒がうれしそうに言う。
道上は車を降り、深々とお辞儀した後、彼の車が見えなくなるまで手を振って見送った。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第71話 武士の目」
1980年代一時帰国中のある日、 タクシーに東京赤坂見附から乗り、 発進して間もなく学生たちのデモに出くわした。
我々の乗っていたタクシーのフロント・ガラスを大きな旗で覆って、行く手の邪魔をしている。
すると道上、
「雄峰降りてこい」(どかしてこい?)
「お父さん3千人はいますよ」
「何を言っているか。正しければたとえ3千人の敵がいようとも。」
(やはり父は僕を殺そうと思っているんだ)愚息雄峰は思った。
雄峰は全学連や機動隊との喧嘩には慣れていた。
双方ぶつかっている中に飛び込んでどさくさに紛れて両方殴る事が多かった。
そして形勢不利になると逃げた。私服警官に捕まらないように注意しながら。
しかし道上の前では逃げることはできない。
(戦うしかないか・・。)と腹をくくって助手席のドアを開けるなり突然学連の連中が引いて行った。
この奇跡に雄峰はほっとした。
道上の怖さは正しいと思ったら例え1万人の敵が相手でも向かっていく事だった。
それはあくまでも気持ちの上だが、実際雄峰は道上がストリート・ファイトをしている姿を見たことがない。
いつも気合負けして逃げていく輩ばかりであった。
鋭い眼光に皆震え上がった。 しかも正しいと思った事は一歩も譲らない。
道上はチンピラを相手にするようなストリート・ファイターではないが、外国の大会ではプロレスラー、プロボクサーなどとも戦った。
ある日ボルドーのPlace Gambeta(ガンベタ広場)で道上と待ち合わせをしていた時、愚息は見た。
ある店から道上が出て来て大通りを渡った瞬間、2メートルもあろうかという大男が店から出て来て何やら大声で道上に向かってわめきちらしていた。
道上は何だと言わんばかりに大通りを再び渡り店に引き返した。
するとその大男は慌てて店の中に入り、店のドアを閉め、シャッターまで下ろしてしまった。
道上80歳の時であった。
また、同じころ道上が道場の傍の歩道を歩いているとやはり190cmは有ろうかと思われるガラの悪い男性二人が道幅いっぱいに並んで向こうから歩いて来た。
愚息はどうなることかと見守っていたが、道上は一切道を譲らなかった。
相手の男性二人は道上の前で道をあけた。
道上は軟骨が擦り減り、すでに10数センチ身長が縮んで、160cmほどの小兵となっていたが、 目と身体から湧き出る威圧感にどんな男もたじろいてしまう。
穏やかな目、その奥にはストリートファイターもたじろいでしまう迫力が潜んでいた。
一方で女性、老人にはすかさず道を譲った。
強きをくじき弱きを助けるは道上の生き様であったが、長い物には巻かれろに慣れている愚息には理解できなかった。
道上は自分の信念の為にはいつ死んでも良いとの覚悟だったのだろう。
雄峰は杖を突いて歩くのがやっとの80歳の男がどう戦うか見てみたかった。
結婚しなければ上海には行かせない、と外国生活を知る父安太郎に言われた道上。
しかしそれはまだ20歳代の事であり、もちろんその時と今は歳が違う。
道上は昔からこうだったのだろうか?
それともフランスという社会の中で変わったのだろうか?
フランスという国、いやヨーロッパではおとなしく黙っている者は、いいようにどんどん付け込まれてしまう。
しっかり主張しなければとことんやられてしまう。
愚息はフランスで暮らしているうちに道上が変わったと思えてならなかった。
何もそこまで気合入れて生きなくとも・・・。
街を歩いていると突然声をかけられた。
「先生!私は昔先生に習った事があります。先生はこれからどちらに行かれるのでしょうか、是非送らせて下さい。」
遠慮する道上にしつこく哀願する元生徒。
その熱心さに道上は老人となった元生徒の車の助手席に乗り、家の前まで送ってもらった。
到着すると「先生、再会出来た事を大変光栄に思います。有難うございました。」元生徒がうれしそうに言う。
道上は車を降り、深々とお辞儀した後、彼の車が見えなくなるまで手を振って見送った。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第70話 道上一時帰国中 日本での食べ物」
「古武士(もののふ) 第70話 道上一時帰国中 日本での食べ物」
1970年代にはまだ弟武幸が健在だったため毎晩弟を連れ何軒も食べ歩いていた。二人ともよく食べよく飲んでいた。
武幸は末っ子であまり苦労せず育ったためだろうか、身長が183cmあったと記憶している。当時では大男である。
三男の伊勢春は逆に身長は低く、弟武幸、妹のり子をしょっちゅうおぶっていた為に背が伸びなかったと言われている。
次男である道上は、長男亀義には頭が上がらなかったが、人柄も温厚で何処か抜けているところがある武幸に対しては、よく叱っていた。
これも道上の親愛の情かもしれない。
武幸が道上に付き合ってくれる事は次女志摩子、愚息雄峰にとって大変助かることで、二人とも武幸には心から感謝していた。
その頃道上は赤坂東急ホテルを定宿にしていた。
道上は人から食事をおごられる事を好んでいなかった。何処へ食べに行くにも彼が支払っていた。
だから愚息が払おうとするとかえって叱られた。
「お~い、レシートを持って来んか。」
ホテルの一階にあった中華料理屋龍園で食べ、更に赤坂の繁華街へ繰り出した。
飲み歩くのが目的ではなく、食べ歩くのであった。
二人の食べる量も飲む量も半端ではなかった。ゆっくり食べゆっくり飲むため宴は延々と続く。
外食は決まって中華料理であったが、梯子の場合二件目からは弟武幸の案内で和食料理屋にも行った。
しかし洋食は一切口にしなかった。
中華料理が好きとはいえ、やはり日本食に飢えていたのだろうか。
当時フランスではろくな日本料理屋は無く、日本食材も乏しかった。
米も細長いぱさぱさしたもので、南仏で取れる一番安いコメが日本のコメに一番似ていた。
中華料理もヌーベル・シノワの様な懐石風に少しづつ出て来るものを好まず、また飲茶はメリケン粉くさいと言ってあまり好まなかった。
やはり中華料理の醍醐味、大皿で供されたものを食べる事を好んだ。
| 風土 | フランスで自分で作る時は何処でどの様にとれたものかに気遣い、あまりソースで味付けをせず、素材の味を生かしたものに徹底した。
charqueterie (豚肉加工品)、飲みもの、パン以外は全て行きつけの朝市で吟味して買っていた。 生ハムは Bayonne (南西部)から送らせ、鶏はボルドーの郊外の放し飼いのものを買いに行っていた。 鶏肉は多少硬かったが味があった。 ワインもシャトーまで車を飛ばし、買いに行っていた。ワインは作るところから観察していた。 |
| 風味 |
味はよく分かっていたが、味の分析のような事は一切口にしない。それどころか出されたものは必ず食べていた。美味しい時には美味しいと言っていたが、そうでない時には無言で食べていた。
|
| 風景 | やはり一番こだわったのは「誰と食べるか」であった。決して高級なところへは行かなかった。 |
当時日本ではワインはまだ珍しく、殆どの店に置いていなかった。
ワインは1964年の東京オリンピックに向けて各総合商社が大量に輸入したが売れ行きは悪かった。 1973年のオイルショックをきっかけにワインを輸入した大手商社はたたき売りをし、また倉庫代を考えると割に合わないため大量に廃棄処分した。
ワインが本格的に日本に入るようになったのは1980年代後半になってからである。 ワインが手に入らないときは道上は代わりに日本酒を飲んでいた。 1990年代になるとワインが無い時は、日本酒は甘すぎると言って焼酎に切り替えた。
当時赤坂は現在の様に居酒屋、韓国料理屋は少なく、アメリカ系の店が多く連なっていた。 しかも飲み屋の方が多かったが、武幸の誘いにも関わらずクラブの様な飲み屋には一切いかなかった。
そんな赤坂でも気軽な和食屋を弟に教えてもらい通っていた。
道上があまりにも礼儀正しいせいか、どの店でも対応が良かった。
「先生、今日はこんなものが入りました、是非」と言って勧めてもらっていた。
お店の味そのものよりもなじみの店であることを優先していた。
人との触れ合いが何よりの御馳走であったのかもしれない。
魂に栄養を 無言で、美味しいそうに、目は幸せそうだ。
父安太郎の食卓は板の間で正座し、まず安太郎が八方に手を合わせ感謝をする
それから高次元に頂きますと一言、みなは食べ始める。
道上は人恋しかったのか日本が恋しかったのか分からない。
彼の目には昔を思いだしているかのようだった。

![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第70話 道上一時帰国中 日本での食べ物」
1970年代にはまだ弟武幸が健在だったため毎晩弟を連れ何軒も食べ歩いていた。
二人ともよく食べよく飲んでいた。
武幸は末っ子であまり苦労せず育ったためだろうか、身長が183cmあったと記憶している。当時では大男である。
三男の伊勢春は逆に身長は低く、弟武幸、妹のり子をしょっちゅうおぶっていた為に背が伸びなかったと言われている。
次男である道上は、長男亀義には頭が上がらなかったが、人柄も温厚で何処か抜けているところがある武幸に対しては、よく叱っていた。
これも道上の親愛の情かもしれない。
武幸が道上に付き合ってくれる事は次女志摩子、愚息雄峰にとって大変助かることで、二人とも武幸には心から感謝していた。
その頃道上は赤坂東急ホテルを定宿にしていた。
道上は人から食事をおごられる事を好んでいなかった。何処へ食べに行くにも彼が支払っていた。
だから愚息が払おうとするとかえって叱られた。
「お~い、レシートを持って来んか。」
ホテルの一階にあった中華料理屋龍園で食べ、更に赤坂の繁華街へ繰り出した。
飲み歩くのが目的ではなく、食べ歩くのであった。
二人の食べる量も飲む量も半端ではなかった。ゆっくり食べゆっくり飲むため宴は延々と続く。
外食は決まって中華料理であったが、梯子の場合二件目からは弟武幸の案内で和食料理屋にも行った。
しかし洋食は一切口にしなかった。
中華料理が好きとはいえ、やはり日本食に飢えていたのだろうか。
当時フランスではろくな日本料理屋は無く、日本食材も乏しかった。
米も細長いぱさぱさしたもので、南仏で取れる一番安いコメが日本のコメに一番似ていた。
中華料理もヌーベル・シノワの様な懐石風に少しづつ出て来るものを好まず、また飲茶はメリケン粉くさいと言ってあまり好まなかった。
やはり中華料理の醍醐味、大皿で供されたものを食べる事を好んだ。
| 風土 | フランスで自分で作る時は何処でどの様にとれたものかに気遣い、あまりソースで味付けをせず、素材の味を生かしたものに徹底した。
charqueterie (豚肉加工品)、飲みもの、パン以外は全て行きつけの朝市で吟味して買っていた。 生ハムは Bayonne(南西部) から送らせ、鶏はボルドーの郊外の放し飼いのものを買いに行っていた。 鶏肉は多少硬かったが味があった。 ワインもシャトーまで車を飛ばし、買いに行っていた。ワインは作るところから観察していた。 |
| 風味 |
味はよく分かっていたが、味の分析のような事は一切口にしない。それどころか出されたものは必ず食べていた。美味しい時には美味しいと言っていたが、そうでない時には無言で食べていた。
|
| 風景 | やはり一番こだわったのは「誰と食べるか」であった。決して高級なところへは行かなかった。 |
当時日本ではワインはまだ珍しく、殆どの店に置いていなかった。
ワインは1964年の東京オリンピックに向けて各総合商社が大量に輸入したが売れ行きは悪かった。
1973年のオイルショックをきっかけにワインを輸入した大手商社はたたき売りをし、また倉庫代を考えると割に合わないため大量に廃棄処分した。
ワインが本格的に日本に入るようになったのは1980年代後半になってからである。
ワインが手に入らないときは道上は代わりに日本酒を飲んでいた。
1990年代になるとワインが無い時は、日本酒は甘すぎると言って焼酎に切り替えた。
当時赤坂は現在の様に居酒屋、韓国料理屋は少なく、アメリカ系の店が多く連なっていた。
しかも飲み屋の方が多かったが、武幸の誘いにも関わらずクラブの様な飲み屋には一切いかなかった。
そんな赤坂でも気軽な和食屋を弟に教えてもらい通っていた。
道上があまりにも礼儀正しいせいか、どの店でも対応が良かった。
「先生、今日はこんなものが入りました、是非」と言って勧めてもらっていた。
お店の味そのものよりもなじみの店であることを優先していた。
人との触れ合いが何よりの御馳走であったのかもしれない。
魂に栄養を 無言で、美味しいそうに、目は幸せそうだ。
父安太郎の食卓は板の間で正座し、まず安太郎が八方に手を合わせ感謝をする
それから高次元に頂きますと一言、みなは食べ始める。
道上は人恋しかったのか日本が恋しかったのか分からない。
彼の目には昔を思いだしているかのようだった。

![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第69話 道上の日本一時帰国」
「古武士(もののふ) 第69話 道上の日本一時帰国」
道上は正力松太郎氏の招待で日本へ一時帰国して春の武道館での全日本選手権大会を観戦することになった。
正力松太郎氏は九段下にある日本武道館設立に非常に尽力した人物である。道上に会いたがっていた。
それまでちょこちょこ日本へ一時帰国していた道上だが、武道館の全日本選手権後フランスへ帰ると多くの弟子から
「大会は如何でしたか?」と質問攻めになる。
それゆえ毎年全日本に合わせ桜の咲くころに帰国することになった。
1970~1980年代にはまだ数年に1度のペースだったが1990年代になってからは毎年帰って来るようになった。
1970年代後半には新橋第一ホテルに、1980年代前半には赤坂東急ホテルに宿泊していたが、
それ以降は大宮の次女清水志摩子の家に泊まるようになる。
最初は2週間ほどの滞在だったが1990年代からは徐々に1か月が2か月へと期間が延びて行くようになっていった。
招待されたものの大会を見ている道上は決して楽しそうではなかった。
何を思っていたのだろうか。日本柔道の退廃にあきれていたのだろうか?
仕方なく観戦しているようだった。
講道館体制に批判的な人たちの苦心の末実現している観戦である。
1991年4月29日に開催された大会では決勝戦勝利者の取った一本を見てあれは柔道では無いとあきれていた。
1994年4月29日の大会では決勝戦で吉田秀彦は相手の関節技を受け負傷、最後は判定負けした。
道上はポロッと漏らした。「あれは反則技だ。」
愚息が「お父さんどうして反則なのですか」と聞くと、
身振りで「相手の左腕肘関節を下から決めるのはほどけるが、上から決めると外せないため、危険で反則なんだ」と説明した。
愚息の前を決勝戦の副審が道上に一礼して通りすぎようとした時、
すかさず愚息は「あれは反則では無いのですか」と尋ねたが
「いや反則では無い」という返事だった。決勝戦の副審を務めた者が柔道を知らないのである。
ましてや彼らが教えた海外審判の判定に対し誤審云々と言って抗議するのはもってのほかだと愚息は思った。
道上がさらにポロッと漏らした言葉は吉田秀彦を評して「彼は昔の柔道に近い柔道をやっている」
滅多に言わない言葉だけに愚息の心に残った。
愚息が周りを見渡すと1964年東京オリンピックの金メダリスト、アントン・ヘーシンクが彼の妻と座っていた。
道上がいるのを気が付いているはずだが挨拶にも来ない。彼の唯一の恩師に対して。
道上も彼を無視している。
愚息は隣に座っていたスペイン柔道連盟の副会長(最高技術顧問道上の代理)に訊ねた。
ヘーシンクが今日有るのも道上のおかげのはず。
「何故挨拶に来ないんだ」と。
「来れないんだよ!道上先生が怖くて」
「何故?」
「1964年のオリンピック以降彼は殆ど柔道をやっていない。ターザンの映画に出たりプロレスをやったり、恩師の道上先生が恐ろしいはずだ。」
「何故そんな馬鹿げた事をやったの?」
「人間有名になるとそれを維持したいんだ」
一方講道館は1964年の東京オリンピックであまりにも衝撃的な負け方をしたため、ヘーシンクを取り込み、
実は講道館がヘーシンクを見出したのだと世間に思わせたかった。
非常に残念な事だ。なぜなら全世界は道上だと言う事を知っていた。
柔道をあまり知らなかった無名のヘーシンクに指導し、世界チャンピオンの有名人にしたのは道上だと言う事を知らない者はいなかった。
愚息は何を思ったのか、つかつかとヘーシンクの所へ行き、道上があそこに座っていると手のひらをさして伝えた。
愚息はヘーシンクの出方を見たかった。
ヘーシンクは困り果てた顔をし道上の方へ向かった。
細君は事情を知らないのか「道上先生がいらっしゃるの!嬉しい!」と言って一緒に向かった。
ヘーシンクは道上に一礼するなり「先生済みません、ご無沙汰しております」 と言いながらやはり困ったような顔をしていた。
このころ彼はオランダ農林水産省の役員をしながら後にIOC(国際オリンピック委員会委員)のメンバーとなっていた。
青と白の柔道着制にしたのは彼である。
しかも自画自賛というか、後に自分で十段をとった人物である。
生涯を柔道発展のため寄与した道上九段を追い越すことを平気でやってのけた。
愚息は道上に聞いた。
「お父さん、柔道着の色を(白と青に)変える事を講道館は反対していますがお父さんは如何思いますか?」
「いいじゃないか。柔道着はその昔半袖半ズボン状態のものが進化したのだ」
道上はその後のヘーシンクの生き方には何の関心も持っていなかった。
オランダ柔道発展の為、貧しい生い立ちの彼を一躍ヒーローにした。
道上自身はそれに対する何の見返りも望んでいない。
1964年以降の彼にも関心が無い。
来るものは拒まず、去る者を追わず。
そして多くの弟子が道上と共に柔道発展、日本文化の啓蒙にあたった。
ボルドーの道上道場で空手を教えていた梨元さん曰く
先生は「人間は変わる」と、良く仰っていました。
だからこそ瞬間的な事に美が宿る
したがってソクラテスは自身で文章を残さなかった、と言われる。
稀有な思慮深さを持った人は、決して自身の栄光及び勝利に捉われることが無い。
巌流島武蔵の境地。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第69話 道上の日本一時帰国」
道上は正力松太郎氏の招待で日本へ一時帰国して春の武道館での全日本選手権大会を観戦することになった。
正力松太郎氏は九段下にある日本武道館設立に非常に尽力した人物である。道上に会いたがっていた。
それまでちょこちょこ日本へ一時帰国していた道上だが、武道館の全日本選手権後フランスへ帰ると多くの弟子から 「大会は如何でしたか?」と質問攻めになる。
それゆえ毎年全日本に合わせ桜の咲くころに帰国することになった。
1970~1980年代にはまだ数年に1度のペースだったが1990年代になってからは毎年帰って来るようになった。
1970年代後半には新橋第一ホテルに、1980年代前半には赤坂東急ホテルに宿泊していたが、 それ以降は大宮の次女清水志摩子の家に泊まるようになる。
最初は2週間ほどの滞在だったが1990年代からは徐々に1か月が2か月へと期間が延びて行くようになっていった。
招待されたものの大会を見ている道上は決して楽しそうではなかった。
何を思っていたのだろうか。日本柔道の退廃にあきれていたのだろうか?
仕方なく観戦しているようだった。
講道館体制に批判的な人たちの苦心の末実現している観戦である。
1991年4月29日に開催された大会では決勝戦勝利者の取った一本を見てあれは柔道では無いとあきれていた。
1994年4月29日の大会では決勝戦で吉田秀彦は相手の関節技を受け負傷、最後は判定負けした。
道上はポロッと漏らした。「あれは反則技だ。」
愚息が「お父さんどうして反則なのですか」と聞くと、身振りで「相手の左腕肘関節を下から決めるのはほどけるが、上から決めると外せないため、危険で反則なんだ」と説明した。
愚息の前を決勝戦の副審が道上に一礼して通りすぎようとした時、すかさず愚息は「あれは反則では無いのですか」と尋ねたが「いや反則では無い」という返事だった。決勝戦の副審を務めた者が柔道を知らないのである。
ましてや彼らが教えた海外審判の判定に対し誤審云々と言って抗議するのはもってのほかだと愚息は思った。
道上がさらにポロッと漏らした言葉は吉田秀彦を評して「彼は昔の柔道に近い柔道をやっている」
滅多に言わない言葉だけに愚息の心に残った。
愚息が周りを見渡すと1964年東京オリンピックの金メダリスト、アントン・ヘーシンクが彼の妻と座っていた。
道上がいるのを気が付いているはずだが挨拶にも来ない。彼の唯一の恩師に対して。
道上も彼を無視している。
愚息は隣に座っていたスペイン柔道連盟の副会長(最高技術顧問道上の代理)に訊ねた。
ヘーシンクが今日有るのも道上のおかげのはず。
「何故挨拶に来ないんだ」と。
「来れないんだよ!道上先生が怖くて」
「何故?」
「1964年のオリンピック以降彼は殆ど柔道をやっていない。ターザンの映画に出たりプロレスをやったり、恩師の道上先生が恐ろしいはずだ。」
「何故そんな馬鹿げた事をやったの?」
「人間有名になるとそれを維持したいんだ」
一方講道館は1964年の東京オリンピックであまりにも衝撃的な負け方をしたため、ヘーシンクを取り込み、実は講道館がヘーシンクを見出したのだと世間に思わせたかった。
非常に残念な事だ。なぜなら全世界は道上だと言う事を知っていた。
柔道をあまり知らなかった無名のヘーシンクに指導し、世界チャンピオンの有名人にしたのは道上だと言う事を知らない者はいなかった。
愚息は何を思ったのか、つかつかとヘーシンクの所へ行き、道上があそこに座っていると手のひらをさして伝えた。
愚息はヘーシンクの出方を見たかった。
ヘーシンクは困り果てた顔をし道上の方へ向かった。
細君は事情を知らないのか「道上先生がいらっしゃるの!嬉しい!」と言って一緒に向かった。
ヘーシンクは道上に一礼するなり「先生済みません、ご無沙汰しております」 と言いながらやはり困ったような顔をしていた。
このころ彼はオランダ農林水産省の役員をしながら後にIOC(国際オリンピック委員会委員)のメンバーとなっていた。
青と白の柔道着制にしたのは彼である。
しかも自画自賛というか、後に自分で十段をとった人物である。
生涯を柔道発展のため寄与した道上九段を追い越すことを平気でやってのけた。
愚息は道上に聞いた。
「お父さん、柔道着の色を(白と青に)変える事を講道館は反対していますがお父さんは如何思いますか?」
「いいじゃないか。柔道着はその昔半袖半ズボン状態のものが進化したのだ」
道上はその後のヘーシンクの生き方には何の関心も持っていなかった。
オランダ柔道発展の為、貧しい生い立ちの彼を一躍ヒーローにした。
道上自身はそれに対する何の見返りも望んでいない。
1964年以降の彼にも関心が無い。
来るものは拒まず、去る者を追わず。
そして多くの弟子が道上と共に柔道発展、日本文化の啓蒙にあたった。
ボルドーの道上道場で空手を教えていた梨元さん曰く
先生は「人間は変わる」と、良く仰っていました。
だからこそ瞬間的な事に美が宿る
したがってソクラテスは自身で文章を残さなかった、と言われる。
稀有な思慮深さを持った人は、決して自身の栄光及び勝利に捉われることが無い。
巌流島武蔵の境地。

![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
古武士(もののふ) 第68話 10年間の溝
「古武士(もののふ) 第68話 10年間の溝」
道上は当時の日本人としては極めて柔軟な思考を持ち、かつ近代人であった。
しかし日本人特有の照れというものがあった。
愚息は親子の馴れ合いを求めフランスまではるばる時間の穴埋めに渡仏した。
自分が求めるままに。
道上の母リキは父安太郎がアメリカに出稼ぎで不在だった15年間耐えに耐え、しっかりと5人の子供を育てあげた。
文化の違うヨーロッパやアフリカの中で常に戦い生きてきた中、道上はとうとう父安太郎、母リキの死に目にも会えなかった。
その間女房小枝は道上の期待したようには母の面倒を見てはくれなかった。
それどころか愚痴の手紙も送ってきた。
せめて自分のなしえない親孝行を女房に少しでもしてもらいたかった。
その怒り、寂しさを一人で抱えてきた道上。
会いに来た雄峰に自分のその強い思いを抑えきれなかった。
敵だらけの戦いの中で見せた初めての甘えであった。
本音を言う事で雄峰に甘えたのだ。
日本には長幼の序という言葉がある。
生徒は先生に従わなければならない。後輩は先輩に。
ましてや息子は父親に絶対的服従が求められる。
道上はそういった生き方をしてきた。だから打たれ強かった。
それに比べ愚息はどうだったか。
父親が初めて見せる、本来なら喜ぶべき甘えに応える事が出来なかった。
積み重なる思いを抑えてきた道上。
世の中正しい事ばかりがまかり通るわけでは無い。
しかしいかなる試練においても人間は正しく生きる事が求められる。
愚息はこれから日本の社会で生きて行けるのだろうか。
愚息が去って行く姿を不安の眼差しで見送った。
10年と言う歳月。
道上が渡仏して10年もの間 家族とは会えなかった。
この10年の溝を埋める事は出来なかった。
愚息は帰国してすぐ、姉である二女志摩子に事情を報告した。
それを傍らで聞いていた志摩子の夫猛は2階の自分の部屋に戻って泣いた。
やれるだけの事をやって来た(精一杯戦い抜いてきた)道上先生に何故雄峰君は答えてあげてくれないのだろうか。ただ黙って聞いてあげるだけで良い。
道上は決して愚痴ったり個人批判をしたりしない人間だ。
唯一雄峰に見せた甘えに猛は羨ましさ、いや、ジェラシーさえ感じていた。
猛は早稲田大学柔道部出身。身を躱すことには慣れていた。
雄峰には受け身の訓練が足りなかった。
勘当状態で帰国した雄峰を受け入れてくれた猛。
雄峰も義兄猛には強い敬愛の念があった。
20年後、あの時ボルドーの道場に投げ込んだ置手紙を道上から手渡された愚息はかなり居心地の悪さを感じた。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第68話 10年間の溝」
道上は当時の日本人としては極めて柔軟な思考を持ち、かつ近代人であった。
しかし日本人特有の照れというものがあった。
愚息は親子の馴れ合いを求めフランスまではるばる時間の穴埋めに渡仏した。
自分が求めるままに。
道上の母リキは父安太郎がアメリカに出稼ぎで不在だった15年間耐えに耐え、しっかりと5人の子供を育てあげた。
文化の違うヨーロッパやアフリカの中で常に戦い生きてきた中、道上はとうとう父安太郎、母リキの死に目にも会えなかった。
その間女房小枝は道上の期待したようには母の面倒を見てはくれなかった。
それどころか愚痴の手紙も送ってきた。
せめて自分のなしえない親孝行を女房に少しでもしてもらいたかった。
その怒り、寂しさを一人で抱えてきた道上。
会いに来た雄峰に自分のその強い思いを抑えきれなかった。
敵だらけの戦いの中で見せた初めての甘えであった。
本音を言う事で雄峰に甘えたのだ。
日本には長幼の序という言葉がある。
生徒は先生に従わなければならない。後輩は先輩に。
ましてや息子は父親に絶対的服従が求められる。
道上はそういった生き方をしてきた。だから打たれ強かった。
それに比べ愚息はどうだったか。
父親が初めて見せる、本来なら喜ぶべき甘えに応える事が出来なかった。
積み重なる思いを抑えてきた道上。
世の中正しい事ばかりがまかり通るわけでは無い。
しかしいかなる試練においても人間は正しく生きる事が求められる。
愚息はこれから日本の社会で生きて行けるのだろうか。
愚息が去って行く姿を不安の眼差しで見送った。
10年と言う歳月。
道上が渡仏して10年もの間 家族とは会えなかった。
この10年の溝を埋める事は出来なかった。
愚息は帰国してすぐ、姉である二女志摩子に事情を報告した。
それを傍らで聞いていた志摩子の夫猛は2階の自分の部屋に戻って泣いた。
やれるだけの事をやって来た(精一杯戦い抜いてきた)道上先生に何故雄峰君は答えてあげてくれないのだろうか。ただ黙って聞いてあげるだけで良い。
道上は決して愚痴ったり個人批判をしたりしない人間だ。
唯一雄峰に見せた甘えに猛は羨ましさ、いや、ジェラシーさえ感じていた。
猛は早稲田大学柔道部出身。身を躱すことには慣れていた。
雄峰には受け身の訓練が足りなかった。
勘当状態で帰国した雄峰を受け入れてくれた猛。
雄峰も義兄猛には強い敬愛の念があった。
20年後、あの時ボルドーの道場に投げ込んだ置手紙を道上から手渡された愚息はかなり居心地の悪さを感じた。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
メニュー


