古武士(もののふ)

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5月12日配信 「古武士(もののふ) 第52話 フランスとは」

5月5日配信 「古武士(もののふ) 第51話 パリでの食事」

4月28日配信 「古武士(もののふ) 第50話 手紙」

4月21日配信 「古武士(もののふ) 第49話 お正月」

4月14日配信 「古武士(もののふ) 第48話 朝市」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン

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「古武士(もののふ) 第52話 フランスとは」


「古武士(もののふ) 第52話 フランスとは」

2015年2月13日



道上の食卓での会話を話す前に 
フランスとはどういった国かを話す必要がある。

当時フランス人はプライドが高く 英語を話せても使わない、
とよく日本人から聞いたが、実はフランス人で英語のできる人は少なかった。
アメリカ人が「東京で北京語を使っても通じない。20億人以上(戸籍を持っていない中国人が6億人と華僑も含める)が喋っている中国語を日本人が喋れないのはおかしい」と言っているようなものである。

確かに開発途上国では英語が使われている国も多いが、
フランスはれっきとした独立大国である。 ましてやどっかの国の様に小学校から英語を必修科目にしようなどまるで植民地を自称するようなものである。

当時フランスにパトワ(方言)が100以上あると言われていた。(1999年では75の方言)。 フランスはベルギー、ルクサンブルグ、ドイツ、スイス、イタリア、アンドラ、スペインの各国に囲まれている。
隣国に接している地域では、双方の方言が共通語であった。

歴史的には第一次世界大戦までの日本は森鴎外、島崎藤村などの時代にドイツに多くを学び、ドイツが敗戦国となってからの日本は兵法や税法をはじめ多くをフランスから学んだという流れがある。

当初フランス語の辞書は一度ドイツ語を経由してから日本語に訳されたために
難しい言語とされた。 フランス文学は難しく読みづらいものだった。
だが、実際にはフランス語は非常に合理的な言葉であり、
フランスの哲学者(パスカルなど)は数学者であることが多い。
それはフランス語が数値にあてはめ易い言葉でもあったためである。

のちに大江健三郎などは「フランス語は合理的かつ論理的に考えやすい。
したがって自分はフランス語で考える事が多い」 とまで言っている。

道上が渡仏した当時フランスの86%は文盲と言われていた。
半分以上のフランス人は小学校を卒業した後、就業していた。
高校卒業(バカロレア)の資格を取る人たちは少なく、ナポレオンが作った8つの高等大学(Grandes Ecoles)などは一学年100人の大学(École polytechnique)もあった。
真にエリート教育の国だった。

イギリス系アメリカ共和党影響下の日本の教育ではあたかも
世界中で英語が使われているように錯覚させられていたが。
アメリカは、もともとフランスの影響下にあったのである。
そこへイギリスが強引に乗り込んで来て、統治した。
後にラファイエットなどフランス人達が(イギリスからの)アメリカ独立を支援したのである。
アメリカのオリジナル憲法はフランス語で書かれている。
カナダも長年にわたってフランス系カナダ人が首相を務めていた。

南米はスペイン、ポルトガルの影響下にあり、アフリカの半分以上は元仏領。
アジアでは中国、インドシナ(ラオス、カンボジア、べトナム)はフランスの影響下、
また中東の多くはフランスの影響下にある。
ヨーロッパに至ってはスカンジナビア以外、北はドイツ語、南はフランス語が通じた国が多い。 つい30年前までは北イタリア、北スペインではフランス語を話せる人達が多かった。 海岸線が世界で一番長い国もフランスだ。コルシカ島、フレンチ・ポリネシア、レユ二オン島(西インド諸島)、フレンチ・カリビアン、などは現在もフランス国である。

最近までエールフランス(Air France) は世界一周出来る唯一の航空会社かもしれない。
パリ発、ロサンゼルス、パぺテ(タヒチ)経由、パリ着。
又はロサンゼルス、ヌメア(ニューカレドニア)経由パリ着。
皆さんがご存知のパぺテ(タヒチ)、東京、パリという風にフランスの航空会社に乗り継いで世界周回旅行が出来る。

いまだにスポーツの世界でも会長はフランス人かフランスの影響下にある人が多い。
フランスは決してファッション、芸術だけの国ではない。
日本人が知る以上に大国である。
誰に言いくるめられたのか知らないが勘違いが多く、
敗戦国の日本と戦勝国のフランスとは大きな違いがあった。

フランスの軍需産業は底知れないほど強力であった。
日本のようにアメリカに傾倒している国ですら所有する75%のヘリコプターはフランス製だ。 原発も、特に放射能処理は世界最大。多くの先端技術をフランスが持っていた。

フランスは唯一アメリカに馬鹿野郎と言えた国である。
ドゴールはポンピドゥーに大型輸送機を何機も飛ばさせ、ありったけのドル紙幣をアメリカに送り 
ドルは紙切れだ、金に変えよと言ったところ、1971年にニクソンショックが起こった。
そこで金本位制の終わりが告げられた。
当時フランス人、個人の金保有高は世界の半分以上の量であった。

アメリカの共和党がイギリス系だとしたら、
そしてアメリカの民主党がフランス系だとしたら、
100年戦争(1337年~1453年)はまだ終わっていない。

道上はフランスに期待した。
ナポレオン、ドゴールを尊敬した。

ある日「5万の米兵が駐屯している日本はアメリカの属国だ」と道上がつぶやいた事を愚息は聞きのがさなかった。道上は日本文化のレジスタンスか?

ナポレオン

次回は家族の団欒




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第52話 フランスとは」

2015年2月13日


道上の食卓での会話を話す前にフランスとはどういった国かを話す必要がある。

当時フランス人はプライドが高く 英語を話せても使わない、とよく日本人から聞いたが、実はフランス人で英語のできる人は少なかった。

アメリカ人が「東京で北京語を使っても通じない。20億人以上(戸籍を持っていない中国人が6億人と華僑も含める)が喋っている中国語を日本人が喋れないのはおかしい」と言っているようなものである。

確かに開発途上国では英語が使われている国も多いが、フランスはれっきとした独立大国である。

ましてやどっかの国の様に小学校から英語を必修科目にしようなどまるで植民地を自称するようなものである。

当時フランスにパトワ(方言)が100以上あると言われていた。(1999年では75の方言)。

フランスはベルギー、ルクサンブルグ、ドイツ、スイス、イタリア、アンドラ、スペインの各国に囲まれている。

隣国に接している地域では、双方の方言が共通語であった。

歴史的には第一次世界大戦までの日本は森鴎外、島崎藤村などの時代にドイツに多くを学び、ドイツが敗戦国となってからの日本は兵法や税法をはじめ多くをフランスから学んだという流れがある。

当初フランス語の辞書は一度ドイツ語を経由してから日本語に訳されたために難しい言語とされた。

フランス文学は難しく読みづらいものだった。

だが、実際にはフランス語は非常に合理的な言葉であり、フランスの哲学者(パスカルなど)は数学者であることが多い。

それはフランス語が数値にあてはめ易い言葉でもあったためである。

のちに大江健三郎などは「フランス語は合理的かつ論理的に考えやすい。

したがって自分はフランス語で考える事が多い」とまで言っている。

道上が渡仏した当時フランスの86%は文盲と言われていた。

半分以上のフランス人は小学校を卒業した後、就業していた。

高校卒業(バカロレア)の資格を取る人たちは少なく、ナポレオンが作った8つの高等大学(Grandes Ecoles)などは一学年100人の大学(École polytechnique)もあった。

真にエリート教育の国だった。

イギリス系アメリカ共和党影響下の日本の教育ではあたかも世界中で英語が使われているように錯覚させられていたが。

アメリカは、もともとフランスの影響下にあったのである。

そこへイギリスが強引に乗り込んで来て、統治した。

後にラファイエットなどフランス人達が(イギリスからの)アメリカ独立を支援したのである。

アメリカのオリジナル憲法はフランス語で書かれている。

カナダも長年にわたってフランス系カナダ人が首相を務めていた。

南米はスペイン、ポルトガルの影響下にあり、アフリカの半分以上は元仏領。

アジアでは中国、インドシナ(ラオス、カンボジア、べトナム)はフランスの影響下、また中東の多くはフランスの影響下にある。

ヨーロッパに至ってはスカンジナビア以外、北はドイツ語、南はフランス語が通じた国が多い。

つい30年前までは北イタリア、北スペインではフランス語を話せる人達が多かった。

海岸線が世界で一番長い国もフランスだ。コルシカ島、フレンチ・ポリネシア、レユ二オン島(西インド諸島)、フレンチ・カリビアン、などは現在もフランス国である。

最近までエールフランス(Air France) は世界一周出来る唯一の航空会社かもしれない。

パリ発、ロサンゼルス、パぺテ(タヒチ)経由、パリ着。

又はロサンゼルス、ヌメア(ニューカレドニア)経由パリ着。

皆さんがご存知のパぺテ(タヒチ)、東京、パリという風にフランスの航空会社に乗り継いで世界周回旅行が出来る。

いまだにスポーツの世界でも会長はフランス人かフランスの影響下にある人が多い。

フランスは決してファッション、芸術だけの国ではない。

日本人が知る以上に大国である。

誰に言いくるめられたのか知らないが勘違いが多く、敗戦国の日本と戦勝国のフランスとは大きな違いがあった。

フランスの軍需産業は底知れないほど強力であった。

日本のようにアメリカに傾倒している国ですら所有する75%のヘリコプターはフランス製だ。

原発も、特に放射能処理は世界最大。多くの先端技術をフランスが持っていた。

フランスは唯一アメリカに馬鹿野郎と言えた国である。

ドゴールは大型輸送機をポンピドゥーに何機も飛ばさせ、ありったけのドル紙幣をアメリカに送り、ドルは紙切れだ、金に変えよと言ったところ、1971年にニクソンショックが起こった。

そこで金本位制の終わりが告げられた。

当時フランス人、個人の金保有高は世界の半分以上の量であった。

アメリカの共和党がイギリス系だとしたら、そしてアメリカの民主党がフランス系だとしたら、100年戦争(1337年~1453年)はまだ終わっていない。

道上はフランスに期待した。

ナポレオン、ドゴールを尊敬した。

ある日「5万の米兵が駐屯している日本はアメリカの属国だ」と道上がつぶやいた事を愚息は聞きのがさなかった。道上は日本文化のレジスタンスか?

ナポレオン

次回は家族の団欒


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

「古武士(もののふ) 第51話 パリでの食事」


「古武士(もののふ) 第51話 パリでの食事」

2015年2月6日



パリの市場 パリでの食生活はボルドーと違った。
パリには道上のなじみの食材店は無い。
当時パリの人達は食を重視しなかった。
昼は簡単にキャフェですませ、夜はスープにサラダだけと言う人達が多かった。

今のように三つ星レストランがパリに集中している時代ではなかった。 食は地方に有り。

地方ではないがボルドーのサンジャン駅の裏には牛肉解体場があり、
フランスの牛肉の半分以上が捌かれフランス中に供給されていた。
フランスでは地方の方が食生活は豊かだった。

ボルドーが華々しい時代を経た後、リヨンが頭角を現し、
最近ではヌーベルキュイジーヌはパリが本場となった。
農業が国内総生産の半分を占めた時代から工業のリヨンへ、
そして次第に金融のパリへと食の豊かさが移って行った。

しかし未だに地方には美味しいものが、またレストランが豊富である。
これはフランスの食生活の伝統を表わすものだ。
地域に根付いた美味しい料理と食材がある。  

1964年に家族が来仏した当初は道上がつくっていた事もあったが、
次第に次女志摩子が作るようになった。あわせて買い出しも彼女の役目となった。
女房小枝は酢の物や煮つけといった和食しか作らないため、
年よりじみた料理に思えた。

道上も愚息も志摩子の若々しい料理の方が食べやすかった。
道上がいる時はいつも彼女が作っていた。肉を焼く時だけは道上本人。
後片付けも最初は小枝と志摩子、後に愚息の役目になった。

道上ほど几帳面だと自分の台所は他の者に触られたくはない。
したがって普段使ってない台所には自分も立たない。
この事を愚息は痛いほどわかっていた。

よく招待された時「お手伝いしましょうか」と聞くと 
「助かりますお願いできますか」と言う人と、 「結構です」と言う人がいる。
道上は後者だった。

道上は小枝の食事では物足りなかった。
ちまちました懐石風の料理は道上の好みではなかった。
道上は日本の食事は貧乏人の食べ物だと言っていた。
確かに強靭な身体を支える食べ物では無い。
当時日本での家庭料理は貧しかった。

それに比べフランスの食卓は豪勢だった。
道上の大好きな中華も最近のように小皿で少しづつ出てくると道上は嫌がった。
道上の外食は招待されない限り必ず中華だった。中華料理は華やかだ。

道上の良き時代が彷彿とされると言う事もあるが、
やはり中華料理の華やかさ、そして料理自体が道上に合っていたのだろう。

当時料理と言えば世界での評価は中華料理が1番で、2番目がフランス料理だった。
今でも食通は同じ事を言うだろう。
何しろフランス料理は100種類あると言われているが、
中華料理は400種類以上と言われている。
豚一つとってもフランス、中国は捨てるところがないと言われるほど、
その殆どがあらゆる方法で料理される。
しかも中国は生き物はなんでも料理する。

ところで、フランスの中華料理屋にはろくな紹興酒が置いていない。
あまり出ないからだ。では、何を飲むのか。
中国人も含め皆ワインを飲む。中華料理にはワインが合う。
特にボルドーワインが。

戦前の上海は中国の83%の経済を担っていた。
上海人は着道楽と言われていたが 実は結構な食道楽でもあった。
現在日本にある中華料理の最高峰は上海料理だ。

道上は飲茶の様なメリケン粉臭いちまちましたものよりはしっかりした
大皿の中華料理の方が好きだった。
中華料理はなんでも好きだが、
あえて言えば広東料理が一番好きだったかもしれない。

身体が要求していたのだろう。
道上50代。まだ心も体も若かった。


次回は「食卓での会話」 です。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第51話 パリでの食事」

2015年2月6日


パリでの食生活はボルドーと違った。

パリには道上のなじみの食材店は無い。

当時パリの人達は食を重視しなかった。

昼は簡単にキャフェですませ、夜はスープにサラダだけと言う人達が多かった。

パリの市場

今のように三つ星レストランがパリに集中している時代ではなかった。

食は地方に有り。

地方ではないがボルドーのサンジャン駅の裏には牛肉解体場があり、 フランスの牛肉の半分以上が捌かれフランス中に供給されていた。

フランスでは地方の方が食生活は豊かだった。

ボルドーが華々しい時代を経た後、リヨンが頭角を現し、 最近ではヌーベルキュイジーヌはパリが本場となった。

農業が国内総生産の半分を占めた時代から工業のリヨンへ、 そして次第に金融のパリへと食の豊かさが移って行った。

しかし未だに地方には美味しいものが、またレストランが豊富である。

これはフランスの食生活の伝統を表わすものだ。

地域に根付いた美味しい料理と食材がある。

1964年に家族が来仏した当初は道上がつくっていた事もあったが、 次第に次女志摩子が作るようになった。あわせて買い出しも彼女の役目となった。

女房小枝は酢の物や煮つけといった和食しか作らないため、 年よりじみた料理に思えた。

道上も愚息も志摩子の若々しい料理の方が食べやすかった。

道上がいる時はいつも彼女が作っていた。肉を焼く時だけは道上本人。

後片付けも最初は小枝と志摩子、後に愚息の役目になった。

道上ほど几帳面だと自分の台所は他の者に触られたくはない。

したがって普段使ってない台所には自分も立たない。

この事を愚息は痛いほどわかっていた。

よく招待された時「お手伝いしましょうか」と聞くと 「助かりますお願いできますか」と言う人と、 「結構です」と言う人がいる。

道上は後者だった。

道上は小枝の食事では物足りなかった。

ちまちました懐石風の料理は道上の好みではなかった。

道上は日本の食事は貧乏人の食べ物だと言っていた。

確かに強靭な身体を支える食べ物では無い。

当時日本での家庭料理は貧しかった。

それに比べフランスの食卓は豪勢だった。

道上の大好きな中華も最近のように小皿で少しづつ出てくると道上は嫌がった。

道上の外食は招待されない限り必ず中華だった。中華料理は華やかだ。

道上の良き時代が彷彿とされると言う事もあるが、 やはり中華料理の華やかさ、そして料理自体が道上に合っていたのだろう。

当時料理と言えば世界での評価は中華料理が1番で、2番目がフランス料理だった。

今でも食通は同じ事を言うだろう。

何しろフランス料理は100種類あると言われているが、 中華料理は400種類以上と言われている。

豚一つとってもフランス、中国は捨てるところがないと言われるほど、 その殆どがあらゆる方法で料理される。

しかも中国は生き物はなんでも料理する。

ところで、フランスの中華料理屋にはろくな紹興酒が置いていない。

あまり出ないからだ。では、何を飲むのか。

中国人も含め皆ワインを飲む。中華料理にはワインが合う。

特にボルドーワインが。

戦前の上海は中国の83%の経済を担っていた。

上海人は着道楽と言われていたが 実は結構な食道楽でもあった。

現在日本にある中華料理の最高峰は上海料理だ。

道上は飲茶の様なメリケン粉臭いちまちましたものよりはしっかりした 大皿の中華料理の方が好きだった。

中華料理はなんでも好きだが、 あえて言えば広東料理が一番好きだったかもしれない。

身体が要求していたのだろう。

道上50代。まだ心も体も若かった。

次回は「食卓での会話」 です。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

「古武士(もののふ) 第50話 手紙」


「古武士(もののふ) 第50話 手紙」

2015年1月2日



「古武士」は当初30話で終わる予定だったのですが
100話まで書けと多くの方に叱咤され、ご迷惑をおかけします。


道上は 2,000~4,000通の年賀状を手書きで毎年送っていた。
几帳面な性格から来るのだろうか、銀のパーカー万年筆で1枚1枚丁寧に書かれた字は、やはり昔の人は達筆だったと思わせる。 記憶力と几帳面さが人格には不可欠の様にみえた。
道上はことあるごとに愚息に「手紙を書け、手紙を書け」としつこく言った。
しかし愚息との意識のギャップは100年以上もあった。
愚息は既にパソコンの時代を夢見ていた。
仕方なく道上に手紙を書こうものなら赤字で誤字脱字の修正が送り返されてくる。
その度に愚息に緊張が走った。

小枝は書道の先生をしたほどであったが決して魂のこもった字を書いていたわけでは無い。 ただ しばしば日本向けに送る道上の手紙を代筆をしていた。
小枝はお正月ともなるとルーブル博物館、大使館、ニナリッチのウインドウ等々と大忙しでお花を飾っていた。

ヨーロッパの人々はクリスマス・カード、年賀状を書く。
そして日本の暑中見舞いの代わりにバカンス先から思い出カードを送っていた。
道上にとって書く事は仕事の一環でもあった。
弟子たちはそれらの手紙を宝物のように大事にしていた。

フランス人は頭でっかちで やたらと見て覚えたがる頭先行型の習性があるが、 道上はそれを良しとせず、ビデオ撮りを一切させずに身体で覚えるよう指導した。
一方取られた写真には求めに応じてサイン、また一言添えた。
愚息やその他の子供たちに渡す手帳には必ず一言書かれていた。
「少年よ大志を抱け」あるいはゲーテの一節から「勇気はもっとも重要な要素だ」

毎日日記を事細かくつける事はもちろん、日々の手帳にはびっしりと細かく色々な事が書かれていた。 それらの事始めがお正月である。
道上の前には年の膨大なスケジュールが待ち構えていた。
それを事細かく分析し処理していた。
次女志摩子、愚息雄峰にはあまりにも真面目すぎる父親だった。

手帳

次回は「パリでの食事」


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第50話 手紙」

2015年1月2日


「古武士」は当初30話で終わる予定だったのですが100話まで書けと多くの方に叱咤され、ご迷惑をおかけします。

道上は 600~800通の年賀状を手書きで毎年送っていた。

几帳面な性格から来るのだろうか、銀のパーカー万年筆で1枚1枚丁寧に書かれた字は、やはり昔の人は達筆だったと思わせる。

記憶力と几帳面さが人格には不可欠の様にみえた。

道上はことあるごとに愚息に「手紙を書け、手紙を書け」としつこく言った。

しかし愚息との意識のギャップは100年以上もあった。

愚息は既にパソコンの時代を夢見ていた。

仕方なく道上に手紙を書こうものなら赤字で誤字脱字の修正が送り返されてくる。

その度に愚息に緊張が走った。

小枝は書道の先生をしたほどであったが決して魂のこもった字を書いていたわけでは無い。

ただ しばしば日本向けに送る道上の手紙を代筆をしていた。

小枝はお正月ともなるとルーブル博物館、大使館、ニナリッチのウインドウ等々と大忙しでお花を飾っていた。

ヨーロッパの人々はクリスマス・カード、年賀状を書く。

そして日本の暑中見舞いの代わりにバカンス先から思い出カードを送っていた。

道上にとって書く事は仕事の一環でもあった。

弟子たちはそれらの手紙を宝物のように大事にしていた。

フランス人は頭でっかちで やたらと見て覚えたがる頭先行型の習性があるが、

道上はそれを良しとせず、ビデオ撮りを一切させずに身体で覚えるよう指導した。

一方取られた写真には求めに応じてサイン、また一言添えた。

愚息やその他の子供たちに渡す手帳には必ず一言書かれていた。

「少年よ大志を抱け」あるいはゲーテの一節から「勇気はもっとも重要な要素だ」

毎日日記を事細かくつける事はもちろん、日々の手帳にはびっしりと細かく色々な事が書かれていた。

それらの事始めがお正月である。

道上の前には年の膨大なスケジュールが待ち構えていた。

それを事細かく分析し処理していた。

次女志摩子、愚息雄峰にはあまりにも真面目すぎる父親だった。

手帳

次回は「パリでの食事」


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

「古武士(もののふ) 第49話 お正月」


「古武士(もののふ) 第49話 お正月」

2014年12月26日



道上の家族はお正月となるとパリの家に集まっていた。
長女はアメリカ、道上はボルドーで弟子達と新年祝賀会を開くのが通例であった。
ボルドーには当時日本人がやっていた日本料理屋が1件あった。
そこで弟子たちと雑煮を食べたり、また余興として餅つきなどもやっていた。

当然道場では寒稽古の真っ最中。
ボルドーで柔道をやる者にとって柔道とは人生そのものであった。
政府からの援助などなく、実費で賄っていくのであるから思いは強い。

この時のために各国から柔道家が集まる。
夏の講習会とともに柔道はもちろんのことだが
道上に会いにくる意味合いが大きかった。
道上は人が好きだった。弟子は友であった。 
遠方より友来たり。そこには家族が介入する余地はなかった。
同じ空間を共にする事こそが何よりの喜びだった。
しかもそこには言葉はいらなかった。

一方パリでは緊張から解放された道上小枝、清水志摩子(旧姓 道上志摩子)、清水猛、道上雄峰(愚息)達が、だらしのない解放されたひと時を過ごしていた。
愚息にとってこの時ほど幸せを感じる事はなかった。
やはり当時外国での生活は苦しかった。
何か事が起こると日本の様にスムーズに解決する事はなかった。
これが外国だった。

道上小枝は相変わらず生け花をヨーロッパに広めなければと頑張っていた。
志摩子は外国でいかに子育てをするか試行錯誤の毎日。
清水猛は尊敬する道上から解放され一休み。この時は酒を飲まなかった。
愚息はいつも外国を意識して自分がのびのびと生きていけない中、パリは別の空間だった。 国家の違いを意識する事も無く、まるで天国のようだった。
お正月とは神が与えてくれる命の洗濯の場であった。


次回は「手紙」です。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。




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「古武士(もののふ) 第49話 お正月」

2014年12月26日


道上の家族はお正月となるとパリの家に集まっていた。

長女はアメリカ、道上はボルドーで弟子達と新年祝賀会を開くのが通例であった。

ボルドーには当時日本人がやっていた日本料理屋が1件あった。

そこで弟子たちと雑煮を食べたり、また余興として餅つきなどもやっていた。

当然道場では寒稽古の真っ最中。

ボルドーで柔道をやる者にとって柔道とは人生そのものであった。

政府からの援助などなく、実費で賄っていくのであるから思いは強い。

この時のために各国から柔道家が集まる。

夏の講習会とともに柔道はもちろんのことだが道上に会いにくる意味合いが大きかった。

道上は人が好きだった。弟子は友であった。

遠方より友来たり。そこには家族が介入する余地はなかった。

同じ空間を共にする事こそが何よりの喜びだった。

しかもそこには言葉はいらなかった。

一方パリでは緊張から解放された道上小枝、清水志摩子(旧姓 道上志摩子)、清水猛、道上雄峰(愚息)達が、だらしのない解放されたひと時を過ごしていた。

愚息にとってこの時ほど幸せを感じる事はなかった。

やはり当時外国での生活は苦しかった。

何か事が起こると日本の様にスムーズに解決する事はなかった。

これが外国だった。

道上小枝は相変わらず生け花をヨーロッパに広めなければと頑張っていた。

志摩子は外国でいかに子育てをするか試行錯誤の毎日。

清水猛は尊敬する道上から解放され一休み。この時は酒を飲まなかった。

愚息はいつも外国を意識して自分がのびのびと生きていけない中、パリは別の空間だった。

国家の違いを意識する事も無く、まるで天国のようだった。

お正月とは神が与えてくれる命の洗濯の場であった。

次回は「手紙」です。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

「古武士(もののふ) 第48話 朝市」


「古武士(もののふ) 第48話 朝市」

2015年1月30日



ボルドーでの道上は毎日自炊であった。
週に3回広場に朝市が立つ。何十年も通い詰めた「なじみ」の店でいつも買っていた。
“Place Des Martyrs De La Resistance”の出来事だった。


なじみのおばさんからは
「先生お元気ですか、いつもありがとうございます。この前新聞で先生を拝見しましたよ」 「先週は家族と一緒に先生をテレビで拝見しましたよ」。

ボルドーだと“Place Des Martyrs De La Resistance ”に市場が立つ。
当時は週3回。

買いそびれると八百屋、魚屋は別としてBoucherie で牛肉類、 Charcuterie は豚肉をはじめ牛肉、馬肉以外のパテ、リエットとなんでも売っていた。

Chevaline は馬肉。
フランスで強い人気を保持していた。
馬肉は熱が出ると肉で頭を冷やしその肉を食べると身体が温まる。
しかもコレステロールの少ない赤身肉だ。
そしてBoulangerieの 熱々で美味しいパンは
朝の5時過ぎからお店が開いていた。

しかし道上はパン以外殆ど朝市で買っていた。
肉はいつもの肉屋で2~3キロを週2~3回。
しかし50歳代後半になると一回買ったもので1週間持たせたそうだ。
と言うよりも2~3キロを週3回も食べなくなっていた。
そのことをアシスタントの清水猛に漏らす。
皆は道上を怪物だと思い続けていた。

野菜はじゃがいもにニンジンを圧力鍋で蒸す。身体が肉を必要とするが、
肉は毒素が多い。 その毒素を和らげてくれるのがじゃがいもだ。
じゃがいもが南米から伝わってくるまでヨーロッパでは14世紀15世紀と戦争をするたびに数十万人の民が餓死した。
南米から伝わって来たじゃがいも、とうもろこし、トマトはいずれも肥沃ではない土地でも作れた。 特に西南の地アキテーヌ(ボルドー地方)は湿地帯でピレネ山脈に向かって約400キロにわたりとうもろこしを植え、松林を作った。

しかもじゃがいもは肉には欠かせない。
日本ではよく胃が痛い時にキャベツと言うがじゃがいもの皮をむき、生でかじってみて下さい。 十二指腸、胃潰瘍 驚くほど痛みが止まります。是非一度試してみて下さい。 ヨーロッパではじゃがいもは欠かせない存在となっています。

消化を助ける必需品であるじゃがいもを道上は殆ど蒸した状態で食べていた。
自宅でじゃがいものフライを食べている姿は見たことがない。
牛肉は赤身肉を(saignant血の滴る)ミデイアム・レアで見事なほど綺麗に脂を取り除き肉の部分だけを食べていた。
身体が欲求していたのだろうが、不必要なものは食べなかった。
そしてラディッシュを塩で、レタスをレモンとオリーブオイルで
その後だしを取って作ったオジヤを食べる。
その後チーズからフルーツにコーヒー。デザートはあまり食べなかった。

その食卓に欠かせなかったのがシャトー・ラ・ジョンカード(ボルドー・赤ワイン)。
白、シャンパーニュを飲んでる姿は見たことがない。
しかも流し込むのではなく、味わってゆっくりと飲んでいた。
まるで食する事は仕事の一環のようでもあった。

時にはマナーについても語った。
フランス人は料理を流し込む。日本人の様に喰らい込むのではなく、
音を立てないで食するのだと。 そのせいかフランス人はあまり歯が減らない。
よく噛まないのだ。フランス人の消化能力は驚きに値する。
道上の歯は長さが三分の二に成っていた。顎は異常なほど発達していた。
よく噛むからだ。 愚息は噛み過ぎると味が無くなるのではと懸念していた。

ナプキンで洋服をカバーするのは子供のやることだ。
フランス人は左ひざに乗せるだけ。 飲んだ後拭くのではなく 飲む前に拭くのだ。
グラスに食べたものの匂いが残らないように。
本当は下品だが口に未だ食べ物が残っているうちにワインを飲んだ方が美味しい。 口に残っている食べ物の余韻が残っているうちにワインを飲むとその味わいが料理一つ一つと混ざりそれが美味しい、 と言いつつ、決して愚息にはワインを飲ませてくれなかった。 その反動で愚息は隠れてよく飲んでいた。

ささっと食事をかっ込んでごろ寝をするのが常である愚息にとって、
道上との食事は一番の苦痛だった。 道上との食は儀式だった。
もし道上に好き嫌いを言おうものなら食事は抜きになってしまう。
食べ物をこぼすと拾って食べる、でなければ食事は抜き。
ご飯粒をこぼせば目がつぶれると言われた時代の人間だった。
肘は身体から離れず、腰掛にもたれず、まっすぐの姿勢での食べ方は
フランス人もエレガントだと言って絶賛していた。様式美は食事にも表われていた。

料理作り、食事その一挙手一投足は無駄がなく、皿に盛られた料理は何回口に運んで食べるのかが分かるほどだった。 洗い物も素早く洗えるような計算された使い方であり、当然のことながら流しに皿、鍋が積み上げ置かれている事は一度も見たことがない。

特別なお客様がお見えにならない限り、あまりこねくり回した料理ではなく、
非常にシンプルで消化のしやすい物を作って食べていた。

そのかわり食材にはこだわっていた。
肉は解体して3週間たったもの、野菜は朝採ったものか夜とったものかまで気にしていた。 偶には直接口に入れ味見していた。朝物と夜物では味が違った。
だから味付けはシンプルだった。美味しい塩に美味しいコショウで十分だった。
当時は全てがオーガニックだった。

「どうだお父さんの料理は美味しいだろう」
世辞の言えない愚息もこの時ばかりは、
「はい、本当に美味しいです」
毎回毎回、料理を作っているところと後片づけを立って横で見ていないといけないのが無ければ、と心の中で呟いた。

料理は美味しかった。だがいつも緊張の連続だった。
あまりにも無駄のない動きをするものだから・・・。

いつの世も偉大な親を持つと子供は苦労する。

次回は「お正月」です。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。






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「古武士(もののふ) 第48話 朝市」

2015年1月30日


ボルドーでの道上は毎日自炊であった。

週に3回広場に朝市が立つ。何十年も通い詰めた「なじみ」の店でいつも買っていた。

“Place Des Martyrs De La Resistance”の出来事だった。

なじみのおばさんからは 「先生お元気ですか、いつもありがとうございます。この前新聞で先生を拝見しましたよ」

「先週は家族と一緒に先生をテレビで拝見しましたよ」。

ボルドーだと“Place Des Martyrs De La Resistance ”に市場が立つ。

当時は週3回。

買いそびれると八百屋、魚屋は別としてBoucherie で牛肉類、 Charcuterie は豚肉をはじめ牛肉、馬肉以外のパテ、リエットとなんでも売っていた。

Chevaline は馬肉。

フランスで強い人気を保持していた。

馬肉は熱が出ると肉で頭を冷やしその肉を食べると身体が温まる。

しかもコレステロールの少ない赤身肉だ。

そしてBoulangerieの 熱々で美味しいパンは 朝の5時過ぎからお店が開いていた。

しかし道上はパン以外殆ど朝市で買っていた。

肉はいつもの肉屋で2~3キロを週2~3回。

しかし50歳代後半になると一回買ったもので1週間持たせたそうだ。

と言うよりも2~3キロを週3回も食べなくなっていた。

そのことをアシスタントの清水猛に漏らす。

皆は道上を怪物だと思い続けていた。

野菜はじゃがいもにニンジンを圧力鍋で蒸す。身体が肉を必要とするが、肉は毒素が多い。

その毒素を和らげてくれるのがじゃがいもだ。

じゃがいもが南米から伝わってくるまでヨーロッパでは14世紀15世紀と戦争をするたびに数十万人の民が餓死した。

南米から伝わって来たじゃがいも、とうもろこし、トマトはいずれも肥沃ではない土地でも作れた。

特に西南の地アキテーヌ(ボルドー地方)は湿地帯でピレネ山脈に向かって約400キロにわたりとうもろこしを植え、松林を作った。

しかもじゃがいもは肉には欠かせない。

日本ではよく胃が痛い時にキャベツと言うがじゃがいもの皮をむき、生でかじってみて下さい。

十二指腸、胃潰瘍 驚くほど痛みが止まります。是非一度試してみて下さい。

ヨーロッパではじゃがいもは欠かせない存在となっています。

消化を助ける必需品であるじゃがいもを道上は殆ど蒸した状態で食べていた。

自宅でじゃがいものフライを食べている姿は見たことがない。

牛肉は赤身肉を(saignant血の滴る)ミデイアム・レアで見事なほど綺麗に脂を取り除き肉の部分だけを食べていた。

身体が欲求していたのだろうが、不必要なものは食べなかった。

そしてラディッシュを塩で、レタスをレモンとオリーブオイルでその後だしを取って作ったオジヤを食べる。

その後チーズからフルーツにコーヒー。デザートはあまり食べなかった。

その食卓に欠かせなかったのがシャトー・ラ・ジョンカード(ボルドー・赤ワイン)。

白、シャンパーニュを飲んでる姿は見たことがない。

しかも流し込むのではなく、味わってゆっくりと飲んでいた。

まるで食する事は仕事の一環のようでもあった。

時にはマナーについても語った。

フランス人は料理を流し込む。日本人の様に喰らい込むのではなく、 音を立てないで食するのだと。

そのせいかフランス人はあまり歯が減らない。

よく噛まないのだ。フランス人の消化能力は驚きに値する。

道上の歯は長さが三分の二に成っていた。顎は異常なほど発達していた。

よく噛むからだ。

愚息は噛み過ぎると味が無くなるのではと懸念していた。

ナプキンで洋服をカバーするのは子供のやることだ。

フランス人は左ひざに乗せるだけ。

飲んだ後拭くのではなく 飲む前に拭くのだ。

グラスに食べたものの匂いが残らないように。

本当は下品だが口に未だ食べ物が残っているうちにワインを飲んだ方が美味しい。

口に残っている食べ物の余韻が残っているうちにワインを飲むとその味わいが料理一つ一つと混ざりそれが美味しい、

と言いつつ、決して愚息にはワインを飲ませてくれなかった。

その反動で愚息は隠れてよく飲んでいた。

ささっと食事をかっ込んでごろ寝をするのが常である愚息にとって、 道上との食事は一番の苦痛だった。

道上との食は儀式だった。

もし道上に好き嫌いを言おうものなら食事は抜きになってしまう。

食べ物をこぼすと拾って食べる、でなければ食事は抜き。

ご飯粒をこぼせば目がつぶれると言われた時代の人間だった。

肘は身体から離れず、腰掛にもたれず、まっすぐの姿勢での食べ方は フランス人もエレガントだと言って絶賛していた。様式美は食事にも表われていた。

料理作り、食事その一挙手一投足は無駄がなく、皿に盛られた料理は何回口に運んで食べるのかが分かるほどだった。

洗い物も素早く洗えるような計算された使い方であり、当然のことながら流しに皿、鍋が積み上げ置かれている事は一度も見たことがない。

特別なお客様がお見えにならない限り、あまりこねくり回した料理ではなく、 非常にシンプルで消化のしやすい物を作って食べていた。

そのかわり食材にはこだわっていた。

肉は解体して3週間たったもの、野菜は朝採ったものか夜とったものかまで気にしていた。

偶には直接口に入れ味見していた。朝物と夜物では味が違った。

だから味付けはシンプルだった。美味しい塩に美味しいコショウで十分だった。

当時は全てがオーガニックだった。

「どうだお父さんの料理は美味しいだろう」

世辞の言えない愚息もこの時ばかりは、

「はい、本当に美味しいです」

毎回毎回、料理を作っているところと後片づけを立って横で見ていないといけないのが無ければ、と心の中で呟いた。

料理は美味しかった。だがいつも緊張の連続だった。

あまりにも無駄のない動きをするものだから・・・。

いつの世も偉大な親を持つと子供は苦労する。

次回は「お正月」です。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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