古武士(もののふ)
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6月30日配信 「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
6月23日配信 「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人編。」
6月15日配信 「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
6月9日配信 「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
6月2日配信 「古武士(もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」
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| 道上の独り言【 道上 雄峰 】幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン
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6月30日配信 「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
6月23日配信 「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人編。」
6月16日配信 「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
6月9日配信 「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
6月2日配信 「古武士(もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」
「古武士 (もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
突然日本から電報が届いた。
志摩子の夫、清水猛に日本へ帰るようにという内容だった 。
当時清水園と言えば 関東一円で最も大きな料亭だった。
1万坪を優に超える広大な敷地には滝があり 、部屋は全て離れの一軒家。
高床式になっていてその下を池がめぐっていた。
当時埼玉県警にいた亀井静香(国会議員)は
その床に潜み右翼たちの会話を盗み聞きしようと試みたそうだ。
その女将の相続をめぐって 孫の猛は日本に 帰らなければいけなくなった。
そうなると 道上家の中心だった志摩子、清水猛、娘清水美津里、の3名がいなくなる。 在仏道上家の崩壊である。道上は猛に思い留まらせるよう必死で説得にかかった。
清水猛は清水園存続の為必死で道上の説得にあたった。
清水猛は人柄もよく 、しかもなかなか忍耐強い男だった。
幾度となく繰り返される道上の引き留めには大変苦労したが、長男でほかに男兄弟のいない彼は 苦しみながらも粘り強く道上を説得した。 半年後には道上もようやくあきらめ帰国を了解する。1969年の事だった。
清水猛在仏2年強、清水志摩子在仏5年。いろいろなことがあった。
1968年のパリ5月革命も経験した。交通遮断。食料は途絶える。
もちろん猛にとって大好きな煙草も買えない。
何といっても 道上の浦島太郎の様な生き方、何もわからないフランスでの生活。
全てが未経験の事だった。 いつも道上家の張りつめた雰囲気(怖陰気)が、
猛が同居することによってひと時の春だった。
男尊女卑の道上家では、愚息は道上から毎日手刀(3本指先)で頭をどつかれた。
毎日指折り数えたが、猛が来てからもついにどつかれない日は無かった。
3本指を手首のスナップだけで 愚息の額をどつく。
その瞬間頭がくらくらする。 もどしたり下痢したりする愚息だった。
道上は志摩子や特に猛には優しかった。
しかし猛は言った 「男には将来の為 強くなければいけないと言う理由から厳しくなる。 女性はいつかは巣立っていくから 甘い。雄峰君が羨ましい」と。
そんな志摩子も一度だけ道上にひっぱたかれたことがある。
家族の団欒の中でまだ猛が来仏していない頃、日本での噂の話になった 。
道上にはフランスに女がいるというものだ。
一度もフランスへ来た事も無い人達のやっかみの噂である。
一方女房小枝には 日本で男がいるとの噂を 道上が切り出した。
その時軽蔑したような顔で 志摩子はせせら笑った。
その瞬間道上の平手打ちが飛んだ。
志摩子はおよそ5分にわたって道上をにらみ続けた。
道上が「お父さんには数十万の弟子が居るが お父さんをにらんだのは君一人だ」。
いろいろなことがあった。
愚息もフランスの水が合わなかったようだ 。
日本に帰りたくてハチャメチャをやってのけた。
彼には猛のように道上を説得する力は無かった。
もともと相手にされていなかったからだ。
志摩子は現在清水園の代表として忙しい毎日を送っている。
疲れが溜まりすぎると、誰にも知らせずパリへ飛ぶ。
パリの街角にたつカフェで1人のんびり猛との思い出にふける。
昔のパリ、カフェは座って通る人達を眺めるだけで飽きなかった。
猛はカフェで過ごすのが大好きだった。
世界中の人たちがいろいろな格好で自己顕示する。見ているだけで飽きない。
当時のスティリストのデザインはストリート・ファッションのパクりだった。
街で流行ったものを2年後にバリ・コレが世界に発信する。
橋の欄干にもたれ遠くを見つめる外国人たち。
その目線の先は祖国に残した家族恋人達であろうか。
哀愁漂う光景を目にする一方、
抱き合い永遠の愛の誓いを表現する若者たちの姿が心に残る。
誰もが恋人を連れて必ずパリに来るぞと心に誓う。
愛する人、愛する家族、愛する母国と心から向き合えるのがパリなのだろうか。
手をつないで歩く老夫婦が美しい。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第59話 家族の団欒は永遠ではなかった。」
突然日本から電報が届いた。
志摩子の夫、清水猛に日本へ帰るようにという内容だった 。
当時清水園と言えば 関東一円で最も大きな料亭だった。
1万坪を優に超える広大な敷地には滝があり 、部屋は全て離れの一軒家。
高床式になっていてその下を池がめぐっていた。
当時埼玉県警にいた亀井静香(国会議員)は その床に潜み右翼たちの会話を盗み聞きしようと試みたそうだ。
その女将の相続をめぐって 孫の猛は日本に 帰らなければいけなくなった。
そうなると 道上家の中心だった志摩子、清水猛、娘清水美津里、の3名がいなくなる。
在仏道上家の崩壊である。道上は猛に思い留まらせるよう必死で説得にかかった。
清水猛は清水園存続の為必死で道上の説得にあたった
清水猛は人柄もよく 、しかもなかなか忍耐強い男だった。
幾度となく繰り返される道上の引き留めには大変苦労したが、長男でほかに男兄弟のいない彼は 苦しみながらも粘り強く道上を説得した。
半年後には道上もようやくあきらめ帰国を了解する。1969年の事だった。
清水猛在仏2年強、清水志摩子在仏5年。いろいろなことがあった。
1968年のパリ5月革命も経験した。交通遮断。食料は途絶える。
もちろん猛にとって大好きな煙草も買えない。
何といっても 道上の浦島太郎の様な生き方、何もわからないフランスでの生活。
全てが未経験の事だった。
いつも道上家の張りつめた雰囲気(怖陰気)が、 猛が同居することによってひと時の春だった。
男尊女卑の道上家では、愚息は道上から毎日手刀(3本指先)で頭をどつかれた。
毎日指折り数えたが、猛が来てからもついにどつかれない日は無かった。
3本指を手首のスナップだけで 愚息の額をどつく。
その瞬間頭がくらくらする。
もどしたり下痢したりする愚息だった。
道上は志摩子や特に猛には優しかった。
しかし猛は言った 「男には将来の為 強くなければいけないと言う理由から厳しくなる。
女性はいつかは巣立っていくから 甘い。雄峰君が羨ましい」と。
そんな志摩子も一度だけ道上にひっぱたかれたことがある。
家族の団欒の中でまだ猛が来仏していない頃、日本での噂の話になった 。
道上にはフランスに女がいるというものだ。
一度もフランスへ来た事も無い人達のやっかみの噂である。
一方女房小枝には 日本で男がいるとの噂を 道上が切り出した。
その時軽蔑したような顔で 志摩子はせせら笑った。
その瞬間道上の平手打ちが飛んだ。
志摩子はおよそ5分にわたって道上をにらみ続けた。
道上が「お父さんには数十万の弟子が居るが お父さんをにらんだのは君一人だ」。
いろいろなことがあった。
愚息もフランスの水が合わなかったようだ 。
日本に帰りたくてハチャメチャをやってのけた。
彼には猛のように道上を説得する力は無かった。
もともと相手にされていなかったからだ。
志摩子は現在清水園の代表として忙しい毎日を送っている。
疲れが溜まりすぎると、誰にも知らせずパリへ飛ぶ。
パリの街角にたつカフェで1人のんびり猛との思い出にふける。
昔のパリ、カフェは座って通る人達を眺めるだけで飽きなかった。
猛はカフェで過ごすのが大好きだった。
世界中の人たちがいろいろな格好で自己顕示する。見ているだけで飽きない。
当時のスティリストのデザインはストリート・ファッションのパクりだった。
街で流行ったものを2年後にバリ・コレが世界に発信する。
橋の欄干にもたれ遠くを見つめる外国人たち。
その目線の先は祖国に残した家族恋人達であろうか。
哀愁漂う光景を目にする一方、 抱き合い永遠の愛の誓いを表現する若者たちの姿が心に残る。
誰もが恋人を連れて必ずパリに来るぞと心に誓う。
愛する人、愛する家族、愛する母国と心から向き合えるのがパリなのだろうか。
手をつないで歩く老夫婦が美しい。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人 編。」
「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人 編。」
家族団欒での話題は八幡浜から日本人へ。
1960年代には日本人観光客も増えてきた。
珍しくパリで日本人と出くわす事もあった。海外渡航の自由化がやって来た。
まだ100ドル(36,000円)しか持ち出せなかったが、旅行者は腹巻に何十万と持って渡航した。闇ドルに変えフランスに到着後フランに変えると30%ほど手数料で無くなってしまっていた。
まだ海外ツアーが無く殆どが個人旅行であった。
日本では海外旅行の経験がないのにある事ない事書いた人達の本を販売していた。
その本を読んで間違った先入観で旅行していた日本人が多かった。
怖いのはパリでは年間10万人の人間が失踪していたことなどを知らないということだ。
中には日本人もいて北アフリカへ行くとまだ人身売買が盛んにおこなわれていた。
道上は家族に気を付けろとの注意をたびたびしていた。
道上家には「旅券をとられた人を何日か泊めてやってくれないか」
との電話が大使館から何度もかかってくる。
仕方なく泊めてあげると何日も居座る。
中には1年以上いたものもいる。
当然ただ飯だが日本へ帰国後も手紙一つよこさない。
日本人の印象は我々の中でも悪くなる一方だった。
レストランでは1人か2人で食事をする分にはおとなしく、
上目づかいできょろきょろ周りを見ながら食べている。
これが4~5人で食べるとなるとやたらと大声でしゃべり、笑い、周りに迷惑だ。
東洋人には厳しい目で見る一方、白人には媚びる。
当時パリで見かける日本人は、男性の方が多かった。
しょぼくれた格好でカメラを2台肩からぶら下げ、
膝を曲げて頭を振りながら歩いていた。
そのような姿を道上は、情けないという表情で見ていた。
外出の際も女房の着物(女房には着物を要求した)が婆くさいと「残って居なさい」と言われてしまう。 身だしなみや風貌にはかなり気を使っていた。
明治時代にヨーロッパへやって来た侍たちは果たしてどうだったか。
きっと威風堂々としていたはずだ。
愚息も旗を持った農協の団体旅行客に遭遇すると困っていた。
天下のシャンゼリゼ通りに茣蓙(ござ)を敷き座っている姿を見たフランス人同級生から尋ねられる。
「あれは日本人ですか?」
「いやべトナム人だ。」
当時フランスに多かった東洋人と言えば中国人とベトナム人だった。
家族もフランス人にはよく中国人と間違えられた。
1960年代の後半になってやっと
「日本人ですか?ベトナム人ですか?」
という聞きかたをされるようになった。
いずれにせよ日本人であることを否応無しに意識させられた。
そういった時代だった。
フランスはまだ豊かだった。
体育の先生がフランスの植民地(特にアフリカ諸国)に転勤になると、
彼の銀行口座には毎月3倍の給料が振り込まれ、現地では医者も住まいも無料で利用できた。
しかも当時の医者や学校の先生の給料はもともと高く、悠々自適の暮らしだった。
現地で柔道場を開くと、生徒からの月謝だけで道上の3倍ほどの年収になっていた。
ちなみに今はフランスの学校の先生は食べていけないくらい薄給だ。
実は日本の企業でも海外へ転勤になると日本での3倍から4倍の給料が支給された。
ただフランスなどヨーロッパ先進国では物価も日本の3倍から4倍だった。
道上の日本人批判は
「何故あんなにだらしのない風貌なのだ。
日本人としてもっと堂々としてもらいたい。」
という思いからだった。当時の日本人は海外へ行っても外国人が自分たちの事をどのように見ているかなど考える人はいなかった。
国内旅行の延長のつもりで国が違えばマナーも違うということも知らなかった。
しかも旅の恥はかき捨てのつもりだった。
日本に帰ると真逆の事を話していたのだろう。
道上の日本人像は誇り高くあるべきだと言うものだ。、
「欧米人は100年前まで食事は手づかみで食べていた。
東洋では箸というものが数千年も前から使われている。
日本人はもっと誇りを持たなければいけない。」
小さなことだが、道上は相手が握りこぶしで咳払いした手で
握手を求められようものなら すかさずノーと言って拒んだ。
「日本人はもっとイエス・ノーをはっきり言わなければいけない」
咳払いはハンカチをあてるべきであると。
謙虚な人間であったが礼節を人一倍重んじる道上の前ではフランス人も緊張した。
買い物へ行っても店員がいい加減な事を言うと道上に叱られていた。
とにかく存在感のある人間だった。
日本人はもっと世界に通用する人間になってほしいとの願いからだったが、
愚息には疲れるおっさんだった。
叱られる時にいつも
「君はそんな事では日本では生きていけない。日本では通用しない」と言われる。
このおっさん日本を知らない、と愚息は心でつぶやいた。
道上の真意についていける者はまだ少なかった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第58話 家族の団欒 日本人 編。」
家族団欒での話題は八幡浜から日本人へ。
1960年代には日本人観光客も増えてきた。
珍しくパリで日本人と出くわす事もあった。
海外渡航の自由化がやって来た。
まだ100ドル(36,000円)しか持ち出せなかったが、旅行者は腹巻に何十万と持って渡航した。
闇ドルに変えフランスに到着後フランに変えると30%ほど手数料で無くなってしまっていた。
まだ海外ツアーが無く殆どが個人旅行であった。
日本では海外旅行の経験がないのにある事ない事書いた人達の本を販売していた。
その本を読んで間違った先入観で旅行していた日本人が多かった。
怖いのはパリでは年間10万人の人間が失踪していたことなどを知らないということだ。
中には日本人もいて北アフリカへ行くとまだ人身売買が盛んにおこなわれていた。
道上は家族に気を付けろとの注意をたびたびしていた。
道上家には「旅券をとられた人を何日か泊めてやってくれないか」
との電話が大使館から何度もかかってくる。
仕方なく泊めてあげると何日も居座る。
中には1年以上いたものもいる。
当然ただ飯だが日本へ帰国後も手紙一つよこさない。
日本人の印象は我々の中でも悪くなる一方だった。
レストランでは1人か2人で食事をする分にはおとなしく、 上目づかいできょろきょろ周りを見ながら食べている。
これが4~5人で食べるとなるとやたらと大声でしゃべり、笑い、周りに迷惑だ。
東洋人には厳しい目で見る一方、白人には媚びる。
当時パリで見かける日本人は、男性の方が多かった。
しょぼくれた格好でカメラを2台肩からぶら下げ、 膝を曲げて頭を振りながら歩いていた。
そのような姿を道上は、情けないという表情で見ていた。
外出の際も女房の着物(女房には着物を要求した)が婆くさいと「残って居なさい」と言われてしまう。
身だしなみや風貌にはかなり気を使っていた。
明治時代にヨーロッパへやって来た侍たちは果たしてどうだったか。
きっと威風堂々としていたはずだ。
愚息も旗を持った農協の団体旅行客に遭遇すると困っていた。
天下のシャンゼリゼ通りに茣蓙(ござ)を敷き座っている姿を見たフランス人同級生から尋ねられる。
「あれは日本人ですか?」
「いやべトナム人だ。」
当時フランスに多かった東洋人と言えば中国人とベトナム人だった。
家族もフランス人にはよく中国人と間違えられた。
1960年代の後半になってやっと 「日本人ですか?ベトナム人ですか?」
という聞きかたをされるようになった。
いずれにせよ日本人であることを否応無しに意識させられた。
そういった時代だった。
フランスはまだ豊かだった。
体育の先生がフランスの植民地(特にアフリカ諸国)に転勤になると、 彼の銀行口座には毎月3倍の給料が振り込まれ、現地では医者も住まいも無料で利用できた。
しかも当時の医者や学校の先生の給料はもともと高く、悠々自適の暮らしだった。
現地で柔道場を開くと、生徒からの月謝だけで道上の3倍ほどの年収になっていた。
ちなみに今はフランスの学校の先生は食べていけないくらい薄給だ。
実は日本の企業でも海外へ転勤になると日本での3倍から4倍の給料が支給された。
ただフランスなどヨーロッパ先進国では物価も日本の3倍から4倍だった。
道上の日本人批判は「何故あんなにだらしのない風貌なのだ。
日本人としてもっと堂々としてもらいたい。」
という思いからだった。当時の日本人は海外へ行っても外国人が自分たちの事をどのように見ているかなど考える人はいなかった。
国内旅行の延長のつもりで国が違えばマナーも違うということも知らなかった。
しかも旅の恥はかき捨てのつもりだった。
日本に帰ると真逆の事を話していたのだろう。
道上の日本人像は誇り高くあるべきだと言うものだ。
「欧米人は100年前まで食事は手づかみで食べていた。
東洋では箸というものが数千年も前から使われている。
日本人はもっと誇りを持たなければいけない。」
小さなことだが、道上は相手が握りこぶしで咳払いした手で握手を求められようものならすかさずノーと言って拒んだ。
「日本人はもっとイエス・ノーをはっきり言わなければいけない」
咳払いはハンカチをあてるべきであると。
謙虚な人間であったが礼節を人一倍重んじる道上の前ではフランス人も緊張した。
買い物へ行っても店員がいい加減な事を言うと道上に叱られていた。
とにかく存在感のある人間だった。
日本人はもっと世界に通用する人間になってほしいとの願いからだったが、 愚息には疲れるおっさんだった。
叱られる時にいつも 「君はそんな事では日本では生きていけない。日本では通用しない」と言われる。
このおっさん日本を知らない、と愚息は心でつぶやいた。
道上の真意についていける者はまだ少なかった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士 (もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
道上の八幡浜自慢はまだ続く。
江戸後期からイワシ漁が盛んだったことは前述の通りだが、買出船交易で持ち出した産物の一つはイワシの魚油製造の過程で出来るしぼり粕だ。イワシの油粕が綿花の肥料に適していたことから当時綿花の産地であった播州播磨地方へ移出、 代わりに篠巻を買い取り農漁家の副業として糸を紡がせた。
海上にシルクロードならぬコットンロードが生まれたのである。
確かに八幡浜人はおしゃれだった。
当初マニファクチャーが多かったが日清戦争時の好景気に異常な発展を遂げ、 資産も充実し設備改善のための資金や、蓄えを作ることができた。 併せて品質向上のために努力を重ね昭和初期まで織物の産地として栄えたのも八幡浜の一面である。
特に大正時代に第一次世界大戦で英国製品の東洋市場への輸出が途絶えると、代わって我が国の綿布が進出するようになった。 当地方でも輸出向けの大正布を製織し神戸の貿易商によって東南アジア方面へ盛んに輸出された。
中でも英国製品に似た縞三綾(しまみつあや)は現地での評判が頗る良く、 昭和の金融恐慌でも輸出が伸び綿業界はアジア、アフリカ、ヨーロッパ、 中南米へと販路を拡大する中で、当地の良品質の縞三綾は南方諸地域への輸出を伸ばした。
長きに亘り高品質製品として信頼を勝ち得て来られたのは苦境にあっても捨てない八幡浜人の弛まぬ向上心と努力の為せるところだと感じて止まない。
個人企業として日本最大規模の漁業会社に成長させた業界の雄もいた。
昭和18年から多角経営に乗り出し、海運業、機船底引き網漁業を始める。
終戦後、昭和27年に下関を拠点とした以東底引き、更に長崎を拠点に以西底引き網漁業に進出。 その後多くは下関の以東底引きを、国の漁業調整事業に乗り釧路を拠点としてオホーツク海、ベーリング海で操業する北洋大型トロールに転換。
更に南方遠洋トロールに進出し大西洋ラスパルマスを基地にスペイン領サハラ沖でタコ、イカ漁の操業を始めるなどした。
道上はヨーロッパのみならずアフリカの殆どの国へ柔道普及のため出向いた。
その中でもイル・ドラ・レユニオン島、マダガスカル島は真にアフリカの南端であった。
1950年代のある日道上がマダガスカル島の桟橋を歩いていたところ、
向こうから日本人らしき船乗りが歩いて来た。 当時外国で日本人は珍しかった。
道上が「日本の方ですか」と声をかけた。
「はいそうですが。」
「お国はどちらですか。」
首を傾げながら「愛媛県の八幡浜です」。
すかさず道上は「八幡浜のどちらですか」
「八幡浜のどちらですか?・・?向灘組です」
「飲みに行こう」
こうして朝まで飲んだそうだ。
偶然という事もあるだろうが、地の果てまで漁に行っていた事が窺える。
宇和紡績会社は明治20年創業の、四国初の紡績業。工場の自家発電が、四国初の電灯となった。 愛媛県で一番最初に銀行が出来、愛媛蚕種も明治17年蚕種製造開始。現在も西日本で唯一蚕種製造を行っている。
1927年創業のお菓子の国「あわしま堂」は西日本最大級の生産量を誇る。
唐饅(とうまん)、タルトは今でも懐かしい。 蝋座、晒し座、締り役、鬢付け油は全国シェアを握っていた。
八幡浜では身体がデカければ褒められ、酒が強いと豪傑、勉強が出来るとペテン師と極端なことを言う。 だがそれは漁師であって、商才に長け、先見の明があり、目は常に外地に向けていた人も多かった。
そんな資質を持つせいか。
西井久八は明治11年横浜港を出港したアメリカ移民の先駆者であった事は以前にも記述。 アメリカ西海岸に日本人移民が多かったのは彼によるところが大きい。
また、飛行機の父と言われている二宮忠八は、ライト兄弟が空を飛んだ年の12年前に大型模型ではあったが動力飛行実験を成功させた。
何故ここまで道上は八幡浜を話すのか。
ヨーロッパは宣伝の国だ。その内わかるでは世界に通用しない。
自分の家庭にまで戦車で乗り込まれ蹂躙された人が多くいる国、それがフランスだ。 周りを6か国に囲まれ、自分たちのアイデンティティを常に表現するのがひしめき合っているヨーロッパの常だ。
日本しか知らない愚息たちには何を息巻いているかがよく分からなかった。
なんとなくわかったのは、道上が常に世界規模で考え意識しているということを。
もっと日本人は頑張らなければ世界に取り残されて行く。
柔道も例外では無い。
との思いだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒 八幡浜製造業編。」
道上の八幡浜自慢はまだ続く。
江戸後期からイワシ漁が盛んだったことは前述の通りだが、買出船交易で持ち出した産物の一つはイワシの魚油製造の過程で出来るしぼり粕だ。
イワシの油粕が綿花の肥料に適していたことから当時綿花の産地であった播州播磨地方へ移出、 代わりに篠巻を買い取り農漁家の副業として糸を紡がせた。
海上にシルクロードならぬコットンロードが生まれたのである。
確かに八幡浜人はおしゃれだった。
当初マニファクチャーが多かったが日清戦争時の好景気に異常な発展を遂げ、 資産も充実し設備改善のための資金や、蓄えを作ることができた。
併せて品質向上のために努力を重ね昭和初期まで織物の産地として栄えたのも八幡浜の一面である。
特に大正時代に第一次世界大戦で英国製品の東洋市場への輸出が途絶えると、代わって我が国の綿布が進出するようになった。
当地方でも輸出向けの大正布を製織し神戸の貿易商によって東南アジア方面へ盛んに輸出された。
中でも英国製品に似た縞三綾(しまみつあや)は現地での評判が頗る良く、 昭和の金融恐慌でも輸出が伸び綿業界はアジア、アフリカ、ヨーロッパ、 中南米へと販路を拡大する中で、当地の良品質の縞三綾は南方諸地域への輸出を伸ばした。
長きに亘り高品質製品として信頼を勝ち得て来られたのは苦境にあっても捨てない八幡浜人の弛まぬ向上心と努力の為せるところだと感じて止まない。
個人企業として日本最大規模の漁業会社に成長させた業界の雄もいた。
昭和18年から多角経営に乗り出し、海運業、機船底引き網漁業を始める。
終戦後、昭和27年に下関を拠点とした以東底引き、更に長崎を拠点に以西底引き網漁業に進出。
その後多くは下関の以東底引きを、国の漁業調整事業に乗り釧路を拠点としてオホーツク海、ベーリング海で操業する北洋大型トロールに転換。
更に南方遠洋トロールに進出し大西洋ラスパルマスを基地にスペイン領サハラ沖でタコ、イカ漁の操業を始めるなどした。
道上はヨーロッパのみならずアフリカの殆どの国へ柔道普及のため出向いた。
その中でもイル・ドラ・レユニオン島、マダガスカル島は真にアフリカの南端であった。
1950年代のある日道上がマダガスカル島の桟橋を歩いていたところ、 向こうから日本人らしき船乗りが歩いて来た。
当時外国で日本人は珍しかった。
道上が「日本の方ですか」と声をかけた。
「はいそうですが。」
「お国はどちらですか。」
首を傾げながら「愛媛県の八幡浜です」。
すかさず道上は「八幡浜のどちらですか」
「八幡浜のどちらですか?・・?向灘組です」
「飲みに行こう」
こうして朝まで飲んだそうだ。
偶然という事もあるだろうが、地の果てまで漁に行っていた事が窺える。
宇和紡績会社は明治20年創業の、四国初の紡績業。工場の自家発電が、四国初の電灯となった。
愛媛県で一番最初に銀行が出来、愛媛蚕種も明治17年蚕種製造開始。現在も西日本で唯一蚕種製造を行っている。
1927年創業のお菓子の国「あわしま堂」は西日本最大級の生産量を誇る。
唐饅(とうまん)、タルトは今でも懐かしい。
蝋座、晒し座、締り役、鬢付け油は全国シェアを握っていた。
八幡浜では身体がデカければ褒められ、酒が強いと豪傑、勉強が出来るとペテン師と極端なことを言う。
だがそれは漁師であって、商才に長け、先見の明があり、目は常に外地に向けていた人も多かった。
そんな資質を持つせいか。
西井久八は明治11年横浜港を出港したアメリカ移民の先駆者であった事は以前にも記述。
アメリカ西海岸に日本人移民が多かったのは彼によるところが大きい。
また、飛行機の父と言われている二宮忠八は、ライト兄弟が空を飛んだ年の12年前に大型模型ではあったが動力飛行実験を成功させた。
何故ここまで道上は八幡浜を話すのか。
ヨーロッパは宣伝の国だ。その内わかるでは世界に通用しない。
自分の家庭にまで戦車で乗り込まれ蹂躙された人が多くいる国、それがフランスだ。
周りを6か国に囲まれ、自分たちのアイデンテイテイを常に表現するのがひしめき合っているヨーロッパの常だ。
日本しか知らない愚息たちには何を息巻いているかがよく分からなかった。
なんとなくわかったのは、道上が常に世界規模で考え意識しているということを。
もっと日本人は頑張らなければ世界に取り残されて行く。
柔道も例外では無い。
との思いだった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士 (もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
垂仁天皇の勅命を受けた田道間守【多遅摩毛理(タヂマモリ)】が、
苦労の末に不老不死の霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)【非時香木実<橘>】を常世の国<海の彼方にあるとされた永遠不変・不老長寿の国(奄美大島)>から持ち帰った、その橘が、橘本神社の旧社地「六本樹の丘」に移植されたのである。
橘は日本原産で、九州・四国・紀伊半島に自生していた。
ただヨーロッパではみかんの事をマンダリンと呼んでいる。
Mandarin の語源は 「Man Daren 満大人」という中国語だ。
「満大人」は「満州人の大人(役人)」の意味で、Mandarinとは、本来は清朝の貴族役人が使っていた北京官話(官話は役人言葉・公用語の意味)のことである。
現在の普通話(中国国内で公用語と定められた中国語)が形成されるまでは、北京官話といえば中国の標準語の地位にあった。すなわち満州物とか漢物と表現されている。まあヨーロッパでは日本も中国も一緒くたなのかもしれない。
そんな千夜一夜物語の様に評されているみかんだが 事実 今でもみかんは皮ごと食後に食べると糖尿に効くらしい。 いや他にも多くの効果があるようだ。昔はよく焼いて食べた人もいたそうだ。神が与えた恵みと言っても過言では無い。
漁業以外でもう一つ八幡浜が全国に名を馳せた産業が柑橘農業である。
明治27年(今から120年前)、道上の地元向灘勘定の大家百次郎翁が3000本の温州みかんの苗木を九州から取り寄せたことが柑橘栽培の始まりである。
それも江戸時代後期から各浦々の漁村で何代にも亘って段々畑を開発しサツマイモや麦を栽培していたおかげで柑橘への切り替えが容易だった。
終戦後農地改革を経て向灘の温州みかん栽培は増産の一途をたどる。
八幡浜は全国屈指の温州みかんの産地で、中でも東西に延びる向灘地区は海抜300メートルの権現山の頂きまで一段一段石積みをして開墾された段々畑なので
とても水はけが良く、しかも全面南向きのため年間積算日照時間が多いことで食味の良いみかんが出来る。
平成2年に宮内庁と愛媛県青果連のご推挙により、今上天皇大嘗祭に供納するみかんを献上したことから日本一と評されるようになった。
しかも 日の丸みかんは千疋屋にしか置いていないと言われていた。
愚息がフランスの柔道チャンピオンB・Sと話したのはフランスへ着いてすぐの事だった。 B・Sは当時日本チャンピオンだった神永5段と練習試合で引き分けるほどのつわものだった。
彼曰く「我々西洋人は上半身において日本人に負けないが、足腰の強さで日本人に負ける」と言っていた。 「日本人は正座するから強いんだ」。 愚息がふと思ったのは日本の便器だった。
日本はフランス(55万平方キロ)の5分の3の面積(36万平方キロ)人口はフランスの倍、しかも国土の83%が山だ。 道上は毎日山を駆け上ったり駆け下りたりした。強靭な筋肉 バネのある体は真にみかん畑によるものだと言っても過言では無い、 と 愚息は思った。
その昔初代若乃花という力士がいた。小兵ながら名横綱だった。
彼は船の冲仲仕をして鍛えられた。重い荷物を持って船に乗り降りする毎日、強く大地を踏む足 30センチ幅の細い掛け板を往来する事によって培われたバランス感覚。八幡浜も冲仲仕の町だった。自然が、仕事が、強靭な身体を育ててくれた。
前田山英五郎 (戦後初の横綱。相撲界の国際化の先駆者。外国人力士第1号の高見山を発掘 )をはじめ、 初代朝汐太郎も八幡浜出身。後4代目朝潮が 朝青龍をも輩出している。
道上の父安太郎もアメリカのアマチュア相撲で連戦連勝の横綱だった。
道上伯の国際感覚も八幡浜だから育ったのだろうか?
みかん山から見下ろす入り江には海外に目を向ける魔物のようなものが潜んでいる。
近年トップブランドと言われる「日の丸みかん」は向灘地区の三つの出荷組合(日の丸、朝日、ム)が合併し出来上がった共撰のことである。 現在は頂上まで農道が整備され国による南予用水事業のおかげで夏期の渇水対策も万全で、昔の人たちの農作業と比較すると夢のような環境になった。
それもこれも「朝は朝星、夜は夜星」と言われるほど夜明け前から日暮れまでご先祖が流した汗と日々の労苦の結晶が現在の基盤を作ったものと言える。
しかし便利になった分だけ現代人は体力が衰えてきているのかもしれない。
さて、みかんの苗木を向灘に取り寄せたことでみかんの父と呼ばれる大家百次郎氏のことは地元の方ならよくご存じのことなのだが、それを愛媛の基幹産業として基礎を固めたのは同じ勘定生まれで道上より12歳年上の岩切徳市氏である。
尋常小学校卒業後1ヘクタールの土地に早くから柑橘栽培に取り組み、みかん園を創りあげた先駆者である。 生食果として商品にならなかった果実をジュースにすることを思いつき豊富なミネラルを育んだ八幡浜ミカンジュースは健康にこだわる多くの方達に愛飲されている。
愚息「お父さん八幡浜みかんは日本一ですよ」「君は何を言っているんだ、世界一だ」
何を言っても世界基準になってしまう道上。
八幡浜は道上にとって思い出の宝庫だった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第56話 家族の団欒 八幡浜農業 柑橘 編。」
垂仁天皇の勅命を受けた田道間守【多遅摩毛理(タヂマモリ)】が、苦労の末に不老不死の霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)【非時香木実<橘>】を常世の国<海の彼方にあるとされた永遠不変・不老長寿の国(奄美大島)>から持ち帰った、その橘が、橘本神社の旧社地「六本樹の丘」に移植されたのである。
橘は日本原産で、九州・四国・紀伊半島に自生していた。
ただヨーロッパではみかんの事をマンダリンと呼んでいる。
Mandarin の語源は 「Man Daren 満大人」という中国語だ。
「満大人」は「満州人の大人(役人)」の意味で、Mandarinとは、本来は清朝の貴族役人が使っていた北京官話(官話は役人言葉・公用語の意味)のことである。
現在の普通話(中国国内で公用語と定められた中国語)が形成されるまでは、北京官話といえば中国の標準語の地位にあった。
すなわち満州物とか漢物と表現されている。
まあヨーロッパでは日本も中国も一緒くたなのかもしれない。
そんな千夜一夜物語の様に評されているみかんだが 事実 今でもみかんは皮ごと食後に食べると糖尿に効くらしい。
いや他にも多くの効果があるようだ。
昔はよく焼いて食べた人もいたそうだ。
神が与えた恵みと言っても過言では無い。
漁業以外でもう一つ八幡浜が全国に名を馳せた産業が柑橘農業である。
明治27年(今から120年前)、道上の地元向灘勘定の大家百次郎翁が3000本の温州みかんの苗木を九州から取り寄せたことが柑橘栽培の始まりである。
それも江戸時代後期から各浦々の漁村で何代にも亘って段々畑を開発しサツマイモや麦を栽培していたおかげで柑橘への切り替えが容易だった。
終戦後農地改革を経て向灘の温州みかん栽培は増産の一途をたどる。
八幡浜は全国屈指の温州みかんの産地で、中でも東西に延びる向灘地区は海抜300メートルの権現山の頂きまで一段一段石積みをして開墾された段々畑なので とても水はけが良く、しかも全面南向きのため年間積算日照時間が多いことで食味の良いみかんが出来る。

平成2年に宮内庁と愛媛県青果連のご推挙により、今上天皇大嘗祭に供納するみかんを献上したことから日本一と評されるようになった。
しかも 日の丸みかんは千疋屋にしか置いていないと言われていた。
愚息がフランスの柔道チャンピオンB・Sと話したのはフランスへ着いてすぐの事だった。
B・Sは当時日本チャンピオンだった神永5段と練習試合で引き分けるほどのつわものだった。
彼曰く「我々西洋人は上半身において日本人に負けないが、足腰の強さで日本人に負ける」と言っていた。
「日本人は正座するから強いんだ」。 愚息がふと思ったのは日本の便器だった。
日本はフランス(55万平方キロ)の5分の3の面積(36万平方キロ)人口はフランスの倍、しかも国土の83%が山だ。
道上は毎日山を駆け上ったり駆け下りたりした。
強靭な筋肉 バネのある体は真にみかん畑によるものだと言っても過言では無い、と 愚息は思った。
その昔初代若乃花という力士がいた。小兵ながら名横綱だった。
彼は船の冲仲仕をして鍛えられた。
重い荷物を持って船に乗り降りする毎日、強く大地を踏む足 30センチ幅の細い掛け板を往来する事によって培われたバランス感覚。
八幡浜も冲仲仕の町だった。自然が、仕事が、強靭な身体を育ててくれた。
前田山英五郎 (戦後初の横綱。相撲界の国際化の先駆者。外国人力士第1号の高見山を発掘 )をはじめ、初代朝汐太郎も八幡浜出身。
後4代目朝潮が 朝青龍をも輩出している。
道上の父安太郎もアメリカのアマチュア相撲で連戦連勝の横綱だった。
道上伯の国際感覚も八幡浜だから育ったのだろうか?
みかん山から見下ろす入り江には海外に目を向ける魔物のようなものが潜んでいる。
近年トップブランドと言われる「日の丸みかん」は向灘地区の三つの出荷組合(日の丸、朝日、ム)が合併し出来上がった共撰のことである。
現在は頂上まで農道が整備され国による南予用水事業のおかげで夏期の渇水対策も万全で、昔の人たちの農作業と比較すると夢のような環境になった。
それもこれも「朝は朝星、夜は夜星」と言われるほど夜明け前から日暮れまでご先祖が流した汗と日々の労苦の結晶が現在の基盤を作ったものと言える。
しかし便利になった分だけ現代人は体力が衰えてきているのかもしれない。
さて、みかんの苗木を向灘に取り寄せたことでみかんの父と呼ばれる大家百次郎氏のことは地元の方ならよくご存じのことなのだが、それを愛媛の基幹産業として基礎を固めたのは同じ勘定生まれで道上より12歳年上の岩切徳市氏である。
尋常小学校卒業後1ヘクタールの土地に早くから柑橘栽培に取り組み、みかん園を創りあげた先駆者である。
生食果として商品にならなかった果実をジュースにすることを思いつき豊富なミネラルを育んだ八幡浜ミカンジュースは健康にこだわる多くの方達に愛飲されている。
愚息「お父さん八幡浜みかんは日本一ですよ」
「君は何を言っているんだ、世界一だ」
何を言っても世界基準になってしまう道上。
八幡浜は道上にとって思い出の宝庫だった。
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士 (もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」
「古武士(もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」
道上の生まれ育った八幡浜、
古き良き時代。
古代、豊後佐賀関が大宰府の秘密港だった時代に上陸地点として最も適していたのが八幡浜であったことが史実として記されている。
江戸後期には宇和島藩の秘密港として藩の求めに応じ長崎交易を営む者が生まれた。以降、商人等によって建造された買出船で海産物を持ち出し、帰りには米などを持ち帰る商業活動が興り九州・中国・関西の品物が豊富に集積されていたことが長い間 伊予の大阪と呼ばれていた所以である。
古くから八幡浜が栄えて来たのはリアス式の湾の奥に位置した大時化に強い天然の良港だったこと。豊後水道に面した宇和海という豊饒の海の資源を上手く活用して来たからだ。
そして何よりも日本の三大難所の一つで「速吸瀬戸」の潮の流れを読める海の男衆がいたからだろう。海の男は気性が荒い。八幡浜に与太者は育たなかった。
道上はトロール船を7隻持っていた。1940年代の事だった。

食後の会話にはよく八幡浜の話題になった。
八幡浜は戦前まで刺網や四ツ張網によるイワシ網漁が盛んで、漁獲されたホータレ(カタクチイワシ)は煮干しイリコとして中国・兵庫方面へ販路を拡大していた。
1950年代には貧乏人が毎日食する魚の代名詞だったホータレも現在では高級品の一つになった。余談だが指で割いて作るホータレの刺身は実に実に美味い。
大平町にあったうどん屋はイリコで3回出汁をとっていた。
あまりの旨さに北は北海道南は九州から食通が通った。
1960年代一杯15円だった。
また、戦前戦後の食糧難の時代に大切なタンパク源の供給という大きな役割を担っていた政府の臨時措置で許可されていた底引き網漁業は昭和22年に正式な漁業として認められ27統54隻になった。
その後、沿岸漁民との対立が増加し昭和26年には漁業法が改正に伴って減船整理を経て基幹産業として基礎が確立し、六十数年前まで八幡浜と言えばトロール漁業(沖合底引き網漁業)が主役の町として隆盛の時代が続き魚市場は毎朝活気に溢れていた。1950年代八幡浜は西日本有数の漁港として全国に名を轟かせていた。

底引き網で水揚げされる魚種は200種類を超え、その多くは一般消費者には見たことも聞いたこともないような魚ばかりだが、それこそが戦後の地域経済の源泉の一つになっていた。フランスでは考えられない程の種類の多さだった。
鯛、平目、海老類に代表される棚ものと言われる高級魚は上送り専門の仲卸業者の手で東京・大阪等の消費地市場で販売されるため売上げを伸ばしたが、水揚げ量的には圧倒的に「つぶし物」かまぼこやちくわの高級原料エソ、グチ、更にてんぷら(最近はじゃこ天と呼ばれている)の下級原料の雑魚であった。
近海で操業する底引き網漁船の漁獲物は全て市場に水揚げされていたため新鮮で安価な雑魚を加工する製造業が栄えたのである。
愚息もトロール船に乗った事があるが塩と油の臭い。
釣りに行くと魚の臭いが加わる。素人はこれで酔ってしまう。
八幡浜を代表する名産品は「かまぼこ」であった。
それは主原料のエソ、グチ、が地元で大量に水揚げされていたからこそである。
のどごしが勝負と言われるほど良いエソを使って作られた蒲鉾は一切れ噛み砕いて飲み込むと違いがわかるのである。
次女志摩子は高校卒業まで八幡浜で過ごした。
今でも八幡浜に帰ると谷本かまぼこ店で大量に買い物をする。
そんな練り製品業界だが今やフレッシュな雑魚を原料にする「じゃこ天」の人気が高い。 使用原料の違いで味が異なるだけに「じゃこ天」も奥が深い。くずし屋さん巡りでもして味の違いを楽しむのも一興だ。
一番のお薦めは地元ではハランボ(学名ホタルジャコ)と呼ばれる小魚を使ったもの。
昔からハランボしか使わない老舗の二宮てんぷらはファンが多い。
定番なら八幡浜港前に在る萩森かまぼこのてんぷらが原料はヒメジ。
ヒメジは最近有名シェフの手でオイルルージュとしてダボス会議のパーティーで振る舞われ高い評価を受けたことがメディアで紹介された金太郎という魚の事だ。
山口県ではヒメジのことを金太郎と呼ぶ。
小魚ではあるが少し大きめのヒメジを三枚に下ろし刺身で食すのは絶品だ。
オイル漬けにして美味いのは当然だろう。
一押しはくずしや鳥津の無添加じゃこ天。
原料はハランボ100%(ホタルジャコ)、つなぎは塩のみと言うこの技術は 二代目康孝氏以外例を見ない。間違いなく価値ある一品である。
また特筆すべきことは日本最初の魚肉ソーセージの開発に成功し製造販売を行った人物がいる。1900年栗ノ浦に生まれた紀伊敏雄氏がその人だ。
1951年に西南開発株式会社を創設、日持ちのしない加工品の中にあって長期保存できる画期的な商品、明治屋スモークミートとして多くの食卓に乗った。
その技術は全国に広がり、昭和40年代の終わりまで国内大手水産会社が軒並み参入し競った時代が懐かしい。 何しろ肉のソーセージは高くて手には入らない時代の苦肉の策だった。
八幡浜の底引き網漁業を支えていたのは「かまぼこ屋さん」や「くずし屋さん」と呼ばれる水産練り製品業者であると同時に、彼らを支えていたのも底引き網漁業であったことを忘れてはならないと思う。
(スケトウダラが主原料になってしまった蒲鉾にはかつてのアイデンティティが見えにくい。互いに無くてはならない存在だと感じる)。
愚息の追言:
道上が話しだすとスケールが大きくなる。日本一はすなわち世界一になってしまう。
「まち、ひと、しごと創生」有識者12人のメンバーの一人である清水志摩子(道上伯次女)は各省庁の官僚の前で 「昔漁師はサラリーマンの6倍の給料は取っていた。 今じゃ油も高くて船も出せない。 政府も支援するべきだ・・・(これ以上は書けない)。」
鞄持ちで同行した弟は顔をひきつらせ、うつむいていた。
この親にしてこの娘有り。
(彼女は清水園代表の他、元埼玉観光国際協会会長、全国おかみさん会理事長、陸上自衛隊大宮駐屯協力会会長、元公安委員・・・。)
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |
「古武士(もののふ) 第55話 家族の団欒 八幡浜。」
道上の生まれ育った八幡浜、古き良き時代。
古代、豊後佐賀関が大宰府の秘密港だった時代に上陸地点として最も適していたのが八幡浜であったことが史実として記されている。
江戸後期には宇和島藩の秘密港として藩の求めに応じ長崎交易を営む者が生まれた。
以降、商人等によって建造された買出船で海産物を持ち出し、帰りには米などを持ち帰る商業活動が興り九州・中国・関西の品物が豊富に集積されていたことが長い間 伊予の大阪と呼ばれていた所以である。
古くから八幡浜が栄えて来たのはリアス式の湾の奥に位置した大時化に強い天然の良港だったこと。
豊後水道に面した宇和海という豊饒の海の資源を上手く活用して来たからだ。
そして何よりも日本の三大難所の一つで「速吸瀬戸」の潮の流れを読める海の男衆がいたからだろう。
海の男は気性が荒い。八幡浜に与太者は育たなかった。
道上はトロール船を7隻持っていた。1940年代の事だった。

食後の会話にはよく八幡浜の話題になった。
八幡浜は戦前まで刺網や四ツ張網によるイワシ網漁が盛んで、漁獲されたホータレ(カタクチイワシ)は煮干しイリコとして中国・兵庫方面へ販路を拡大していた。
1950年代には貧乏人が毎日食する魚の代名詞だったホータレも現在では高級品の一つになった。
余談だが指で割いて作るホータレの刺身は実に実に美味い。
大平町にあったうどん屋はイリコで3回出汁をとっていた。
あまりの旨さに北は北海道南は九州から食通が通った。
1960年代一杯15円だった。
また、戦前戦後の食糧難の時代に大切なタンパク源の供給という大きな役割を担っていた政府の臨時措置で許可されていた底引き網漁業は昭和22年に正式な漁業として認められ27統54隻になった。
その後、沿岸漁民との対立が増加し昭和26年には漁業法が改正に伴って減船整理を経て基幹産業として基礎が確立し、六十数年前まで八幡浜と言えばトロール漁業(沖合底引き網漁業)が主役の町として隆盛の時代が続き魚市場は毎朝活気に溢れていた。
1950年代八幡浜は西日本有数の漁港として全国に名を轟かせていた。

底引き網で水揚げされる魚種は200種類を超え、その多くは一般消費者には見たことも聞いたこともないような魚ばかりだが、それこそが戦後の地域経済の源泉の一つになっていた。
フランスでは考えられない程の種類の多さだった。
鯛、平目、海老類に代表される棚ものと言われる高級魚は上送り専門の仲卸業者の手で東京・大阪等の消費地市場で販売されるため売上げを伸ばしたが、水揚げ量的には圧倒的に「つぶし物」かまぼこやちくわの高級原料エソ、グチ、更にてんぷら(最近はじゃこ天と呼ばれている)の下級原料の雑魚であった。
近海で操業する底引き網漁船の漁獲物は全て市場に水揚げされていたため新鮮で安価な雑魚を加工する製造業が栄えたのである。
愚息もトロール船に乗った事があるが塩と油の臭い。
釣りに行くと魚の臭いが加わる。素人はこれで酔ってしまう。
八幡浜を代表する名産品は「かまぼこ」であった。
それは主原料のエソ、グチ、が地元で大量に水揚げされていたからこそである。
のどごしが勝負と言われるほど良いエソを使って作られた蒲鉾は一切れ噛み砕いて飲み込むと違いがわかるのである。
次女志摩子は高校卒業まで八幡浜で過ごした。
今でも八幡浜に帰ると谷本かまぼこ店で大量に買い物をする。
そんな練り製品業界だが今やフレッシュな雑魚を原料にする「じゃこ天」の人気が高い。
使用原料の違いで味が異なるだけに「じゃこ天」も奥が深い。くずし屋さん巡りでもして味の違いを楽しむのも一興だ。
一番のお薦めは地元ではハランボ(学名ホタルジャコ)と呼ばれる小魚を使ったもの。
昔からハランボしか使わない老舗の二宮てんぷらはファンが多い。
定番なら八幡浜港前に在る萩森かまぼこのてんぷらが原料はヒメジ。
ヒメジは最近有名シェフの手でオイルルージュとしてダボス会議のパーティーで振る舞われ高い評価を受けたことがメディアで紹介された金太郎という魚の事だ。
山口県ではヒメジのことを金太郎と呼ぶ。
小魚ではあるが少し大きめのヒメジを三枚に下ろし刺身で食すのは絶品だ。
オイル漬けにして美味いのは当然だろう。
一押しはくずしや鳥津の無添加じゃこ天。
原料はハランボ100%(ホタルジャコ)、つなぎは塩のみと言うこの技術は 二代目康孝氏以外例を見ない。間違いなく価値ある一品である。
また特筆すべきことは日本最初の魚肉ソーセージの開発に成功し製造販売を行った人物がいる。
1900年栗ノ浦に生まれた紀伊敏雄氏がその人だ。
1951年に西南開発株式会社を創設、日持ちのしない加工品の中にあって長期保存できる画期的な商品、明治屋スモークミートとして多くの食卓に乗った。
その技術は全国に広がり、昭和40年代の終わりまで国内大手水産会社が軒並み参入し競った時代が懐かしい。
何しろ肉のソーセージは高くて手には入らない時代の苦肉の策だった。
八幡浜の底引き網漁業を支えていたのは「かまぼこ屋さん」や「くずし屋さん」と呼ばれる水産練り製品業者であると同時に、彼らを支えていたのも底引き網漁業であったことを忘れてはならないと思う。
(スケトウダラが主原料になってしまった蒲鉾にはかつてのアイデンティティが見えにくい。
互いに無くてはならない存在だと感じる)。
愚息の追言:
道上が話しだすとスケールが大きくなる。
日本一はすなわち世界一になってしまう。
「まち、ひと、しごと創生」有識者12人のメンバーの一人である清水志摩子(道上伯次女)は各省庁の官僚の前で 「昔漁師はサラリーマンの6倍の給料は取っていた。
今じゃ油も高くて船も出せない。 政府も支援するべきだ・・・(これ以上は書けない)。」
鞄持ちで同行した弟は顔をひきつらせ、うつむいていた
この親にしてこの娘有り。
(彼女は清水園代表の他、元埼玉観光国際協会会長、全国おかみさん会理事長、陸上自衛隊大宮駐屯協力会会長、元公安委員・・・。)
![]() | 【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |


