古武士(もののふ)

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8月4日配信 「古武士(もののふ) 第64話 ボルドーの葡萄酒」

7月28日配信 「古武士(もののふ) 第63話 永住を決める。」

7月21日配信 「古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史」

7月14日配信 「古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史」

7月7日配信 「古武士(もののふ) 第60話 愚息」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



柔道家としてフランスを拠点に半世紀、柔道の指導を通じ、海外に武士道精神を伝えた「道上 伯」の生涯を綴ったメールマガジン

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古武士(もののふ) 第65話 シャトー・ラ・ジョンカード



「古武士(もののふ) 第65話 シャトー・ラ・ジョンカード」

2015年5月15日

道上はボルドーに住むようになってから(1953年)ボルドーの様々な葡萄酒を飲んだ。

家族が渡仏したころもまだシャトー・ラ・ジョンカードではなく、いろいろな葡萄酒を飲んでいた。

買う時はいつも樽で買っていた。パリに来るときにはそれを瓶に詰め替えて紙に包んで大事に運んでいた。

シャトー・ラ・ジョンカードを飲むようになったのはおそらく1970年あたりからだろう。当時フランスで柔道を習うのは生活水準の高い人達が多かった。有料で月謝は決して安くはなかったからだ。

生徒の中にはシャトー(葡萄畑)を持っている人も多かった。

そういった環境の中で道上はシャトー・ラ・ジョンカードを知る。

昔ながらの作り方で丁寧に作られる葡萄酒には力強い味を感じ、道上はすっかり気に入ってしまった。

多くの葡萄酒(ボルドー全ての)を飲んでいたが、シャトー・ラ・ジョンカードと出会ってからは他の葡萄酒はほとんど飲まなくなった。

シャトー・ラ・ジョンカード

シャトー・ラ・ジョンカードは1959年にサテュル二夫妻が荒れ地を耕し作った葡萄畑だ。

既に城もあり、葡萄畑もある程度は存在していた。12世紀からのブドウ畑だ。

それを改良・拡大していった。今は40ヘクタールほどになっている。

道上はシャトー・ラ・ジョンカードへよく通った。

以前にも書いたが田舎が好きなのだろう。また田舎の人達と触れ合うのが楽しかったのだろう。

確かに道上の人生はホテル、飛行機の毎日でのんびりする暇がなかった。

自動車で1時間で行ける田園に囲まれた場所。よほど気に入っていた様だ。

シャトー・ラ・ジョンカードへ行くと歓待してくれる。良い人達だ。

そこで日本の田舎愛媛県の八幡浜をノスタルジックに思い出して居たのであろうか?

シャトー・ラ・ジョンカード

フランス人は冷たい、プライドが高い、調子が良い、うそつきだ・・・。

こんな事を言うのはフランスの田舎を知らない人達だ。

フランスの田舎は素晴らしい。人間が素晴らしい。

だから美味しいものが豊富だ。

道上の葡萄酒の飲み方は歳と共に変わって行った。

もともと食べ方には注意していた。よく噛んで延々と無言で2時間3時間かけて食べるが、飲み方も特別だった。

味わって飲むのは当然だが、まず水を一杯ゆっくり飲む。少し食べ物をお腹に入れてからゆっくり葡萄酒を飲み始める。

食事をしながらそのうち飲む方のペースだけが上がってくる。

道上が83歳のときのこと、一時帰国中にちょうど葡萄酒を切らしていたため毎晩日本酒を飲んでいた。菊正宗の樽酒だったが、一人で一升半から2升を毎晩飲んでいた。

愚息も葡萄酒なら一晩で4~5本飲む事はあったが日本酒を2本(升)飲んだことは無い。

ましてや83歳でだ。歳をとるとお酒も弱くなるものだが。

シャトー・ラ・ジョンカード赤ラベル

道上は最初にシャトー・ラ・ジョンカードPrestige と呼ばれている赤ラベルを飲んでいた。

樹齢55年から~65年の充分に成熟した樹からとれる葡萄で造られた赤ラベルは、75~80%がカベルネ・ソービニオンというタンニン(渋み)のあるボルドー独特の葡萄酒である。

この葡萄酒はお肉の赤身、脂身、塩・コショウの味付けに非常に合う。それらと混ざると口の中で何とも言えない甘さ・旨さを感じる。

しかも新樽で22か月以上寝かせてある。樽香の香りが料理の味わいに華やかさを齎す。

濃縮されたコクのあるしっかりした味わいだから抜栓して翌日飲んだ方が美味しいぐらいだ。

いや、翌々日でも美味しい。すぐ飲む場合でも抜栓後1時間以上経ってから飲むのが望ましい。

非常にバランスの取れた品のある味わい深い葡萄酒である。

60歳代の時に一時日本に帰国した道上を家族は歓待した。

夕方6時に飲みはじめ、飲み終わったのが翌晩の10時。28時間飲みっぱなしであった。

さすがに長女の旦那は慣れないせいか途中寝かせて頂きますとか言って寝室へ行った。

我々にはいつものことだった。

道上一人が延々と飲む。それをわれわれ家族はただ見守り続けるのであった。

当時は弟武幸も健在であったので一緒に外食に行き、4、5件梯子する。

4、5件飲み歩くというのは分かるが食べ歩くのだ。愚息はこれにも付き合わされる。

大宮清水園では料理屋のせいか食べ物はふんだんにある。延々と食べ続け、延々と飲み続ける。

志摩子(次女)も雄峰(愚息)もこうやって我慢という事を覚えた。

道上は70歳過ぎてから一切肉を口にしなくなった。なぜだろう。愚息も分からない。健康の為だろうか?きっとそうだ!

シャトー・ラ・ジョンカード黒ラベル

葡萄酒は徐々にジョンカード紅白ラベルに移行していった。

ジョンカード紅白ラベルはCuvee Reservee と呼ばれ、50%のカベルネ・ソービニオンとやはりボルドー特有のメルロという葡萄の品種50%で作られている。

18か月ほど古樽で寝かせ、そのあと新樽で1年ほど寝かせる。

樹齢は45年から55年のものだ。

抜栓して30分~1時間ほどたってから飲むのが美味しい。抜栓して翌日飲むとさらに美味しい。

赤ラベルに比べコクという面ではやわらかい。非常に飲みやすい葡萄酒だ。

本物の葡萄酒は日持ちする。田舎のキャフエでは樽が置かれていて、そこから飲みたいだけグラスに注いで飲んでいた。

今のワインで同じことをやるとすぐに酸化してしまう。昔ながらの造り方はこうも違ってくる。

シャトー・ラ・ジョンカード白ラベル

晩年はジョンカード黒ラベル Rubi du Prince Noir になった。

カベルネ・ソービニオンが20%、メルロが80%だ。樹齢は35年から~45年。

一年以上古樽で寝かせるが、古樽では樽香の香りはしない。ある意味で本当の葡萄酒だ。

樽香でのごまかしの無い、本当の葡萄酒らしい葡萄酒本来の味わいがある。

食後もつまみなしで飲むには最適だ。

しなやかな口当たり。しっかりとしたフルボディの辛口。 コク、酸味、渋み、バランスが取れていて、若々しい果実味の後に、喉の奥で感じるしっかりとした力強さ。 後味も心地良く、凝縮したアロマが鼻腔へと軽やかに抜けていく。

赤ラベル、紅白ラベルに比べコクと香りという意味では劣るが、メルロが多い分、飲みやすい。

私もこんな事を書いているうちに今晩も飲むぞ!と心に誓ってしまう次第である。

道上はよくこんなことを言っていた。

「最近は量を売るために安い葡萄酒を樽ごと買ってきて混ぜてるものが殆どだ。

これは頭が痛くなるから絶対に飲まない様に」

「シャトー物(Mis en bouteille au chateau シャトー瓶詰めの意)でなければいけない」

食べ物についても酒についても「語る」ことをしない道上ではあったが。

シャトー・ラ・ジョンカードは1989年、フランスでもっとも権威のあるブラインド・テイスティングで1位に何度も輝いた実績がある。

かの有名なペトリュスはそのとき9位。
まさに道上伯とは名伯楽であった。

その葡萄酒が非常に手ごろな値段で飲める。道上にとっては当たり前のことだが今では珍しい存在になった。

ましてや日本では稀有な葡萄酒だ。

フランスではAOC生産地統制称号なるものがあるが、これらを全て兼ね備えている。要するに身元がはっきりしているという事だ。

よく「トレサビリテイー」と言われる時代になったがそれはまさしく、いい加減な葡萄酒が多く売られる世の中になってしまった事を意味する。

ボルドーの葡萄酒(赤)には多くのレスベラトロールが含まれていて認知症・アルツハイマー病の治療予防に役立つと言われている。

道上は90歳で他界したが死ぬまで頭はしっかりしていた。

晩年道上は健康にも気を使っていた。そのために次第に食べ物が変わっていった。

ちなみに愚息が「ワイン」と発すると叱られた。

「葡萄酒かヴァン(Vin)だ!」

だから2022年に道上商事株式会社からVin株式会社と社名を変更した。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

古武士(もののふ) 第64話 ボルドーの葡萄酒



「古武士(もののふ) 第64話 ボルドーの葡萄酒」

2015年5月8日

以前にも書いたが、
道上はヨーロッパと日本の貿易許可書を長年にわたって独占的に持っていた。
猫に小判だったがボルドー中のワイナリーから、先生日本へ輸出して下さいとワインを持ってくる。 ボルドー中のワインは全て飲んだと言っていた。本当だろう。
当時の生産者数は今の10分の1にも満たない数であった。

1990年代のある日、愚息が「お父さん、今ボルドーで高い葡萄酒は3万円以上するのもあるのですよ。」と言ったところ 怒ったような口調で 「そんな事はない!馬鹿な事を言うもんでは無い。」愚息はまた叱られた。
実際にはもっと高いワインもあるがそれ以上の事は言えなかった。

フランスでワインの格付けがどうのこうのなどと言い出したのは1980年代に入ってからのことである。 それまでは安いワインと高いワインの差があまりなかった。
道上に言わせれば、何万円もする葡萄酒があってたまるか、だった。
いったいいつから投機の対象になったのだろう。

1857年オイディユム(うどん粉病)の発生と共に1855年から格付けの一部が始まった。 それに伴って産業革命と共にネゴスィアン(仲間取引業者)が誕生。 彼らによる先物取引が始まったが全くもって一部の業者間のみであって、一般の人間がプリムール(先物の樽買い)がどうこうなどと言うことはなかった。
ちなみに世界で一番最初に先物取引が行われたのは日本で、しかもお米であった。

1980年代から大手格付けワインの値段が吊り上がっていった。
オークションで破格の値段がつき、それらの事柄が宣伝になったのだろう。
世界中が皆ワインを飲んでいたわけではなかった。

ドイツ人はビール、アメリカ人はビールとバーボンそれにジン、ロシア人はウオッカ。 世界で一人頭一番ビールを飲む国がオーストラリアだと言う。

愚息も世界中廻ったがフランス人の様にワインを飲む人種は昔は、いなかった。
貧しいイタリア、スぺインなどではワインを毎食飲む習慣は当時無かった。
全世界の生産量の大部分がフランスで生産され、その半分以上がフランス人の胃袋に入っていたのではないだろうか。

近年ではボルドーよりもブルゴーニュ、と言う声を日本では聞くがブルゴーニュの生産量は赤ワインの場合ボルドーの約30分の1である。
1990年代に突如アメリカの好景気と共に今まで飲んでいなかったアメリカ人たちが飲み始めた。それまではカリフォルニア・ワインなど聞いたことがない。

フランスでは赤ワインと言えばボルドーであった。
変化が起こったのはこねくり回したヌーベル・キュイゼイーヌなるものが誕生してからのことである。 それと酒飲みが少なくなったのであろう。 やはり食べ物の変化と飲酒運転の禁止によるところが大きい。最近ではワインをあまり飲んだことがない人達がワインの批評をする。ソムリエでは無くヨムリエである。

道上は日本人に会うたびにボルドーの葡萄酒を宣伝した。
誰に対しても「葡萄酒は本当に体に良いのですよ。」 まんざら嘘では無い。
戦前からボルドーワインに多いカベルネ・ソービニオン(ブドウの品種)を粉末にして心臓の特効薬として 多くの大手製薬会社が原料として使っている。

40数年前にはスイスの新聞にボルドーの赤ワインを飲んでいる人の83%は癌で死なないという統計も記事として 扱われた。 1939年には北海道大学の高岡道夫博士(教授)がレスベラトロールと言う成分を発見。

アンチエージングに非常に効果があるそうだがカベルネ・ソービニオンの葡萄の皮に近い部分に最も多くのポリフエノールが含まれ、 その中に最も多くのレスベラトロールが含まれていることが公になった。

これらの事は理屈では無くヨーロッパでは常識である。
日本ではなぜかフレンチ・パラドックスと称して一笑に付す。

愚息の取引先イタリアのChiampesan ( キヤンぺザン) 創業者のLino Chiampesan が心臓発作で倒れた時、 フランス嫌いの医者がボルドーの赤ワインを飲むようにと言った。愚息は慌てて彼に120本贈った。

福島の原発事故が起きた時、ウラジオストックでいち早く売り切れたのがキャベツとボルドーの赤ワインだ。
チェルノブイリ原発事故の経験を持つロシアは公式サイトに「放射線治療・予防に良い物は」と題して「ボルドーの赤ワイン、キャベツ」とある。 その後は殆ど日本の物であった。昆布、のり、納豆・・・・・。

道上はそんな細かい事は知ろうとはしないが、皆にボルドー赤ワインがいかに身体に良いかを説いて回った。 まだ日本の初代ソムリエ協会の会長がフランスを知らない時期にだ。

ある日愚息は77本のワインを道上にブラインド・テイステイングさせた。
中華料理屋だったが、 全て見事に当ててしまった。
能書きを全く言わない飲兵衛が実はわかっていたのである。

アントニオ猪木曰く 「出された女と食事は断らない。」
彼から飲みものや食べ物の批評は聞いたことがない。
しかし彼は食通であった。
一般には飲まない人が能書きを言うのではないかと危惧してしまう。

そう言えば道上は
「お話も良いですが、飲もうじゃありませんか。」と言うのが彼の口癖であった。
ワインは文化であり、飲食は神からの授かりものである。
朋(とも)あり遠方より来る。亦(また)楽しからずや。酒を交わし、言葉は交わさず。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第64話 ボルドーの葡萄酒」

2015年5月8日


以前にも書いたが、道上はヨーロッパと日本の貿易許可書を長年にわたって独占的に持っていた。

猫に小判だったがボルドー中のワイナリーから、先生日本へ輸出して下さいとワインを持ってくる。

ボルドー中のワインは全て飲んだと言っていた。本当だろう。

当時の生産者数は今の10分の1にも満たない数であった。

1990年代のある日、愚息が「お父さん、今ボルドーで高い葡萄酒は3万円以上するのもあるのですよ。」と言ったところ怒ったような口調で 「そんな事はない!馬鹿な事を言うもんでは無い。」愚息はまた叱られた。

実際にはもっと高いワインもあるがそれ以上の事は言えなかった。

フランスでワインの格付けがどうのこうのなどと言い出したのは1980年代に入ってからのことである。

それまでは安いワインと高いワインの差があまりなかった。

道上に言わせれば、何万円もする葡萄酒があってたまるか、だった。

いったいいつから投機の対象になったのだろう。

1857年オイディユム(うどん粉病)の発生と共に1855年から格付けの一部が始まった。

それに伴って産業革命と共にネゴスィアン(仲間取引業者)が誕生。

彼らによる先物取引が始まったが全くもって一部の業者間のみであって、一般の人間がプリムール(先物の樽買い)がどうこうなどと言うことはなかった。

ちなみに世界で一番最初に先物取引が行われたのは日本で、しかもお米であった。

1980年代から大手格付けワインの値段が吊り上がっていった。

オークションで破格の値段がつき、それらの事柄が宣伝になったのだろう。

世界中が皆ワインを飲んでいたわけではなかった。

ドイツ人はビール、アメリカ人はビールとバーボンそれにジン、ロシア人はウオッカ。

世界で一人頭一番ビールを飲む国がオーストラリアだと言う。

愚息も世界中廻ったがフランス人の様にワインを飲む人種は昔は、いなかった。

貧しいイタリア、スぺインなどではワインを毎食飲む習慣は当時無かった。

全世界の生産量の大部分がフランスで生産され、その半分以上がフランス人の胃袋に入っていたのではないだろうか。

近年ではボルドーよりもブルゴーニュ、と言う声を日本では聞くがブルゴーニュの生産量は赤ワインの場合ボルドーの約30分の1である。

1990年代に突如アメリカの好景気と共に今まで飲んでいなかったアメリカ人たちが飲み始めた。

それまではカリフォルニア・ワインなど聞いたことがない。

フランスでは赤ワインと言えばボルドーであった。

変化が起こったのはこねくり回したヌーベル・キュイゼイーヌなるものが誕生してからのことである。

それと酒飲みが少なくなったのであろう。

やはり食べ物の変化と飲酒運転の禁止によるところが大きい。

最近ではワインをあまり飲んだことがない人達がワインの批評をする。ソムリエでは無くヨムリエである。

道上は日本人に会うたびにボルドーの葡萄酒を宣伝した。

誰に対しても「葡萄酒は本当に体に良いのですよ。」

まんざら嘘では無い。

戦前からボルドーワインに多いカベルネ・ソービニオン(ブドウの品種)を粉末にして心臓の特効薬として多くの大手製薬会社が原料として使っている。

40数年前にはスイスの新聞にボルドーの赤ワインを飲んでいる人の83%は癌で死なないという統計も記事として扱われた。

1939年には北海道大学の高岡道夫博士(教授)がレスベラトロールと言う成分を発見。

アンチエージングに非常に効果があるそうだがカベルネ・ソービニオンの葡萄の皮に近い部分に最も多くのポリフエノールが含まれ、その中に最も多くのレスベラトロールが含まれていることが公になった。

これらの事は理屈では無くヨーロッパでは常識である。

日本ではなぜかフレンチ・パラドックスと称して一笑に付す。

愚息の取引先イタリアのChiampesan ( キヤンぺザン) 創業者のLino Chiampesan が心臓発作で倒れた時、フランス嫌いの医者がボルドーの赤ワインを飲むようにと言った。愚息は慌てて彼に120本贈った。

福島の原発事故が起きた時、ウラジオストックでいち早く売り切れたのがキャベツとボルドーの赤ワインだ。

チェルノブイリ原発事故の経験を持つロシアは公式サイトに「放射線治療・予防に良い物は」と題して「ボルドーの赤ワイン、キャベツ」とある。

その後は殆ど日本の物であった。昆布、のり、納豆・・・・・。

道上はそんな細かい事は知ろうとはしないが、皆にボルドー赤ワインがいかに身体に良いかを説いて回った。

まだ日本の初代ソムリエ協会の会長がフランスを知らない時期にだ。

ある日愚息は77本のワインを道上にブラインド・テイステイングさせた。

中華料理屋だったが、全て見事に当ててしまった。

能書きを全く言わない飲兵衛が実はわかっていたのである。

アントニオ猪木曰く 「出された女と食事は断らない。」

彼から飲みものや食べ物の批評は聞いたことがない。

しかし彼は食通であった。

一般には飲まない人が能書きを言うのではないかと危惧してしまう。

そう言えば道上は 「お話も良いですが、飲もうじゃありませんか。」と言うのが彼の口癖であった。

ワインは文化であり、飲食は神からの授かりものである。

朋(とも)あり遠方より来る。亦(また)楽しからずや。酒を交わし、言葉は交わさず。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

古武士(もののふ)第 63話 永住を決める。



「古武士(もののふ) 第63話 永住を決める。」

2015年5月1日

結局家族は皆日本へ帰ってしまった。
道上は家を買おうと思った。 フランスに永住する決心をしたのだろう。
1970年代の事だった。

当時フランスは自国の植民地が次々と独立し 以前のような好景気は無くなっていた。 城を維持できず手放す者もかなりいたので相当な数が余っていた。
ホテル又はレストランの営業権を持たないシャト―はただ同然のものも多かった。
そのかわり京都の重要建造物のように、保全のために毎年巨額のお金をかけて修復しなければいけなかったりする。

道上はフランスの田舎が大好きだった。
休みの日になると折り畳み式の椅子を自動車に乗せ、 一人ピクニックを楽しんだ。
小川のせせらぎに耳を傾け遠い八幡浜を思い浮かべたのだろう。
シャトーを買う事にした。

その旨弟子たちに伝えたところ、思いもよらないことに弟子全員から猛反対にあった。 「先生、僕たちはどうなるのですか?30キロも40キロも離れたところに住まわれたら歩いて先生宅に遊びに行けないではないですか」
「道場から歩いて行ける距離にしてください」。
道上は町のちまちました所に住むよりも広い田舎の方が良かったのだが、
皆からそこまで言われたら仕方がないかと城はあきらめた。

道上は治安の為ボルドー警視庁の真ん前 Rue Casteja (通り)のアパート(日本でいうところのマンション)を購入した。 足腰の鍛錬のため、あえてエレベータの無い3階(日本では4階)建ての最上階ワンフロアーを現金(たんす預金)で買った。
そのとたん国税が入った。現金で買う人は珍しい。
今では格付け(重要文化建築)になっているアパートだった。
そのアパートには毎晩ひっきりなしに弟子が遊びに来た。

きつい練習の後、皆で酒を囲む。
これが道上にとっても弟子にとっても最高の時間だ。
弟子と言っても40歳代50歳代の師範ばかりだが、皆道上のファンだった。
道上の柔道のみならず、人物、生き方に憧れを持つものばかりであった。
道上に柔道を習った、道上を知っている、は皆の誇りであった。
誰もが父親の様に慕っていた。

道上は70歳まで乱取りをしたが(練習試合)皆にとっても真剣勝負だった。
右足親指の内側楔状骨が飛び出し、左上腕二頭筋腱が切れたが、それでも乱取りをやっていた。 手術したものの今度は右の上腕二頭筋腱が切れた。
それも手術でつなぎ、また乱取りをやっていた。柔道は身体に負担が多い。

だが本人は苦痛のなかやっていたわけではなく、至って楽しんでいる様子だった。
武道とは命のやり取りが前提にある。 「一本」すなわち死を表すものであり。
そこには「有効」、「効果」などと言うものは存在しない。
健康を考えるスポーツとは違う次元のものである。
それを練習で行うと身体に無理が来るのも当然だろう。
晩年道上は愚息にポロッと漏らした
「お金の為にやっているんではないんだ。健康の為にやっているんだ」
道上は戦う事が自分の生きざまだった。

ある日道場を出ると道上の自動車と前後の自動車が10cm程度しかない間隔で停められていた。前後の自動車を押してしか出られない。
「雄峰!自動車を持ち上げて出すぞ」 
「いやお父さん僕は腰が痛くて出来ないです」
「情けないな~」 
愚息は心で呟いた。70歳代後半の男がそんな負荷をかけたら膝に良いわけがない。 道上の膝は既にすり減っていて軟骨が無くなっていた。 
歩くと古希古希(コキコキ)と音がする。
そこまでしなくてもよいだろうと愚息は思った。

出張の無い日は早朝から炊事、洗濯、食事を済ませ
rue Poquelin Moliere(通り) の道上道場へ通う毎日だった。

ボルドーの道場の前で


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第63話 永住を決める。」

2015年5月1日


結局家族は皆日本へ帰ってしまった。

道上は家を買おうと思った。

フランスに永住する決心をしたのだろう。

1970年代の事だった。

当時フランスは自国の植民地が次々と独立し 以前のような好景気は無くなっていた。

城を維持できず手放す者もかなりいたので相当な数が余っていた。

ホテル又はレストランの営業権を持たないシャト―はただ同然のものも多かった。

そのかわり京都の重要建造物のように、保全のために毎年巨額のお金をかけて修復しなければいけなかったりする。

道上はフランスの田舎が大好きだった。

休みの日になると折り畳み式の椅子を自動車に乗せ、一人ピクニックを楽しんだ。

小川のせせらぎに耳を傾け遠い八幡浜を思い浮かべたのだろう。

シャトーを買う事にした。

その旨弟子たちに伝えたところ、思いもよらないことに弟子全員から猛反対にあった。

「先生、僕たちはどうなるのですか?30キロも40キロも離れたところに住まわれたら歩いて先生宅に遊びに行けないではないですか」

「道場から歩いて行ける距離にしてください」。

道上は町のちまちました所に住むよりも広い田舎の方が良かったのだが、皆からそこまで言われたら仕方がないかと城はあきらめた。

道上は治安の為ボルドー警視庁の真ん前 Rue Casteja (通り)のアパート(日本でいうところのマンション)を購入した。

足腰の鍛錬のため、あえてエレベータの無い3階(日本では4階)建ての最上階ワンフロアーを現金(たんす預金)で買った。

そのとたん国税が入った。現金で買う人は珍しい。

今では格付け(重要文化建築)になっているアパートだった。

そのアパートには毎晩ひっきりなしに弟子が遊びに来た。

きつい練習の後、皆で酒を囲む。

これが道上にとっても弟子にとっても最高の時間だ。

弟子と言っても40歳代50歳代の師範ばかりだが、皆道上のファンだった。

道上の柔道のみならず、人物、生き方に憧れを持つものばかりであった。

道上に柔道を習った、道上を知っている、は皆の誇りであった。

誰もが父親の様に慕っていた。

道上は70歳まで乱取りをしたが(練習試合)皆にとっても真剣勝負だった。

右足親指の内側楔状骨が飛び出し、左上腕二頭筋腱が切れたが、それでも乱取りをやっていた。

手術したものの今度は右の上腕二頭筋腱が切れた。

それも手術でつなぎ、また乱取りをやっていた。柔道は身体に負担が多い。

だが本人は苦痛のなかやっていたわけではなく、至って楽しんでいる様子だった。

武道とは命のやり取りが前提にある。

「一本」すなわち死を表すものであり。

そこには「有効」、「効果」などと言うものは存在しない。

健康を考えるスポーツとは違う次元のものである。

それを練習で行うと身体に無理が来るのも当然だろう。

晩年道上は愚息にポロッと漏らした

「お金の為にやっているんではないんだ。健康の為にやっているんだ」

道上は戦う事が自分の生きざまだった。

ある日道場を出ると道上の自動車と前後の自動車が10cm程度しかない間隔で停められていた。

前後の自動車を押してしか出られない。

「雄峰!自動車を持ち上げて出すぞ」 

「いやお父さん僕は腰が痛くて出来ないです」

「情けないな~」 

愚息は心で呟いた。70歳代後半の男がそんな負荷をかけたら膝に良いわけがない。

道上の膝は既にすり減っていて軟骨が無くなっていた。 

歩くと古希古希(コキコキ)と音がする。

そこまでしなくてもよいだろうと愚息は思った。

出張の無い日は早朝から炊事、洗濯、食事を済ませ rue Poquelin Moliere(通り) の道上道場へ通う毎日だった。

ボルドーの道場の前で


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史



「古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史」

2015年4月24日

ボルドーワインの発展を説明するものとして、ボルドーだけの500年に渡る特権があった。 この特権はイギリス国王によって与えられ、フランス国王によって承認された。

1241年から1773年までの毎年1月1日から12月25日までの間、
ボルドー以外の地域が起源のワインは一切ボルドーの港からの輸出を許可されなかった。 他のワインの輸出には6日だけが与えられたが、言いかえればそれは不可能だった。ボルドー独占の時代であった。

と言うのも仮にワインが満足いくものでなければ、ボルドーワイン生産者は他の地域のワインを購入し、自分たちの生産物に混ぜることが認められていたのだ。
5世紀もの間、ボルドーのワインだけがボルドー港から輸出できていたのだ。
17世紀まではワインは若いまま飲まれるもので半年以上保管されるものではなかった。

17世紀には、オランダ人のeaux de vie(フルーツ・ブランデーの一種)への関心が高まり、ボルドーが辛口の白ワインを供給する後押しをした。 17世紀末から18世紀初頭には、ボルドーワインの商人が川の右岸の堤防に沿って陣取り、Chartronsと言う特別区画が生まれた。 そのため、ワインは品質とともに、高貴さという言葉を手にした。
極上のボルドーワインは、18世紀に入って瓶ボトルの出現とともに、特にイングランドへ輸出され始めた。
その頃からハイソサエテイーと言われる層で多く飲まれるようになっていったのだった。

ボルドーワインの成功とその比類なき味とを等しく説明するのは、次の3つの要素の結合による。土壌、気候、そしてブドウの木自体である。
ボルドーの重い土は雨水を素早く吸収する密な砂利の地層である。
自身の生育に必要な栄養素を見つけるため、ブドウの木は深い根を張る必要がある。ブドウの木はつまりストレスを与えられているわけだが。 原理の上ではストレスを受けるということはポジティブではないが、ストレスを受けていないブドウの木は良いブドウの実をつけず、つまり良いワインを作れない。 気候については、快適な温度と湿度が味と香りを高めるためのブドウのゆっくりとした熟成を容易にする。

ブドウの木の種類についても、完全にこの地域に合うものであった。
そして 美味しいワインがドンドンとイギリスへ運ばれていった。
其処から後にはアメリカそしてイギリス植民地へと運ばれていったのだった。

ボルドー当時から商業港としてヨーロッパの中でボルドーが最も栄えた。

マルセイユが地中海の玄関口として北アフリカを統括し、ボルドーがブラック・アフリカを統括した。 その為多くの奴隷がボルドー港に入って来た。

その繁栄によって今でもボルドーはブルジョワの町と言われている。
日本はイギリス系アメリカの影響下にあるが イギリスだけが世界に影響力を持っているのではなく、フランスはイギリス以上に世界に影響力を持ち続けた。
それを日本人は知らない。

ガローヌ川面白い事にボルドーはガローヌ川に面した建物よりも、(公共的建物以外は)一歩裏に入った建物の方が立派な造りが多い。

それはガローヌ川に面していると固定資産税が高いので金持ちはあえてすぐ裏に豪邸を建てて行った。
まるで京都のようだ。

京都は祇園あたりに行くと道幅が狭く、道路に面した広さにより税が課されていたという事を聞いたことがある。 道路から見た1階建ての家が中に入ると実は5階建てで、裏の通りまでうなぎの寝床の様に長い造りになっている建物もあった。

ボルドーの地方を大まかに言うとジロンド県アキテーヌ地方とも言う。
ジロンド地方の人をジロンダンと言うが、フランス革命では薩長同盟の様な役割を果たした。 ジロンダンは相当暴れまくった。誇り高い騎士が多かった。
ダントン、ロベスピエールの時代。いつも団長の左に座っていたのがジロンダンだ。
その時から左派右派という言葉が誕生した。

その誇りを持った地域性はいまだに存在する。
前市長のシャバンデルマスは衆議院議長2回、総理大臣を2回歴任し、しかも大変なスポーツマンであった。 自身でもラグビーをやっていて、ボルドーはサッカーも強く、多少なりとも乱暴なイメージすらあった。
共和党ドゴール大統領、ポンピドゥー大統領に続きシャバンデルマス大統領というのが最有力候補だったが、 その後に続くはずのパリ市長シラクの裏切りによって民主党のジスカール・デスタンが大統領になった。 それからと言うものボルドー市は急に冷え込んで行った。これは1970年代の出来事であった。

ちなみに数年前のボルドー市長、アラン・ジュペ(総理大臣2回)もシラク元大統領の裏切りにあったが、巻き返しを図り次期大統領候補と言われた。

このようにしてフランスは各市長が大きな権限を持っている。
大統領と言えどもおいそれと勝手に国内を行き来できない。
必ず行く先の市長へのあいさつが欠かせない。
道上はナポレオン、ドゴールをこよなく愛し、シャバンデルマス市長とは親しさの中にも互いに敬意を表しあう仲であった。

ブルゴーニュでは大きな葡萄畑の事をドメイヌと評する。
南仏に行くとコート(丘と言う意味だが)。これら全てブドウ畑所有の屋号だ。
では何故ボルドーではシャトーと言われるのだろうか?
それは殆どのブドウ畑に城があったからだ。
日本では金持ちを表現するのに蔵が立つと言うが、それは米。
フランスでは城を持つと言う。
それは多くの葡萄酒を寝かせる酒蔵を持つという事に他ならない。
すなわちそれが富の象徴だ。
それだけボルドーには多くのシャトー(城)が存在したのだった。

(通称アキテーヌ皇女)アリエノールが残した富はフランスの食の文化でもあった。
ボルドーから南南東へ約150kmにぺリゴールが在る。
フォアグラ・トリュフ・セップ・パテ・リエット、珍味ぞろいだ。
西へ54kmにアルカッション。アランドロン、サルコジ元大統領も別荘を持っているフランス有数の避暑地。
以前にも書いたが、其処の湾での生牡蠣養殖はフランスの83%を供給している。
西南西へ250km行くとバイヨーヌ。生ハムの美味しい所だ。
これら全てがアキテーヌ地方。
食生活の貧しいイギリスに食とは何たるかを伝えたのだった。

イギリスでは豚をピッグと言うが食べる場合はフランス語のポークと言う。
イギリスではもともと豚を食べていなかったからだ。
ぶどうは英語でグレープと言うが、これはフランス語のグラップを英語読みしただけだ。 そのグラップがドーバー海峡を渡ると乾燥してしまい、乾燥したぶどうを英語ではレーズンと呼ぶ。フランス語のレザンの英語読みだ。

サンジャン・ボルドー駅の裏には食肉解体場があり、最近までフランスの消費牛肉の半分を供給していた。 アントロコットはアントロコット・ボードレーズといって世界的に有名だ。
愚息が小学校の課外授業で解体場に行くと作業場の人たちが色々と教えてくれた。 牛肉にはメルロが合うよ!羊とかジビエにはカベルネ・ソービニオンが合うんだ、とか、 肉は解体して3週間ぐらい寝かせてから出荷するのが美味しいんだが今じゃ2週間もすると出荷してしまって嘆かわしいと!とか。
これも随分と昔の話だから、今では一週間くらいで出荷しているはずだ。

道上にはボルドーの水が合っていたのだろう。
居を定めてから50年という長い歳月、ボルドーに住み続けたのだから。
それは食だけではない。人間だ。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第62話 ボルドーの近代史」

2015年4月24日


ボルドーワインの発展を説明するものとして、ボルドーだけの500年に渡る特権があった。

この特権はイギリス国王によって与えられ、フランス国王によって承認された。

1241年から1773年までの毎年1月1日から12月25日までの間、ボルドー以外の地域が起源のワインは一切ボルドーの港からの輸出を許可されなかった。

他のワインの輸出には6日だけが与えられたが、言いかえればそれは不可能だった。ボルドー独占の時代であった。

と言うのも仮にワインが満足いくものでなければ、ボルドーワイン生産者は他の地域のワインを購入し、自分たちの生産物に混ぜることが認められていたのだ。

5世紀もの間、ボルドーのワインだけがボルドー港から輸出できていたのだ。

17世紀まではワインは若いまま飲まれるもので半年以上保管されるものではなかった。

17世紀には、オランダ人のeaux de vie(フルーツ・ブランデーの一種)への関心が高まり、ボルドーが辛口の白ワインを供給する後押しをした。

17世紀末から18世紀初頭には、ボルドーワインの商人が川の右岸の堤防に沿って陣取り、Chartronsと言う特別区画が生まれた。

そのため、ワインは品質とともに、高貴さという言葉を手にした。

極上のボルドーワインは、18世紀に入って瓶ボトルの出現とともに、特にイングランドへ輸出され始めた。

その頃からハイソサエテイーと言われる層で多く飲まれるようになっていったのだった。

ボルドーワインの成功とその比類なき味とを等しく説明するのは、次の3つの要素の結合による。土壌、気候、そしてブドウの木自体である。

ボルドーの重い土は雨水を素早く吸収する密な砂利の地層である。

自身の生育に必要な栄養素を見つけるため、ブドウの木は深い根を張る必要がある。ブドウの木はつまりストレスを与えられているわけだが。

原理の上ではストレスを受けるということはポジティブではないが、ストレスを受けていないブドウの木は良いブドウの実をつけず、つまり良いワインを作れない。

気候については、快適な温度と湿度が味と香りを高めるためのブドウのゆっくりとした熟成を容易にする。

ブドウの木の種類についても、完全にこの地域に合うものであった。

そして 美味しいワインがドンドンとイギリスへ運ばれていった。

其処から後にはアメリカそしてイギリス植民地へと運ばれていったのだった。

ボルドー

当時から商業港としてヨーロッパの中でボルドーが最も栄えた。

マルセイユが地中海の玄関口として北アフリカを統括し、ボルドーがブラック・アフリカを統括した。

その為多くの奴隷がボルドー港に入って来た。

その繁栄によって今でもボルドーはブルジョワの町と言われている。

日本はイギリス系アメリカの影響下にあるが イギリスだけが世界に影響力を持っているのではなく、フランスはイギリス以上に世界に影響力を持ち続けた。

それを日本人は知らない。

ガローヌ川

面白い事にボルドーはガローヌ川に面した建物よりも、(公共的建物以外は)一歩裏に入った建物の方が立派な造りが多い。

それはガローヌ川に面していると固定資産税が高いので金持ちはあえてすぐ裏に豪邸を建てて行った。

まるで京都のようだ。

京都は祇園あたりに行くと道幅が狭く、道路に面した広さにより税が課されていたという事を聞いたことがある。

道路から見た1階建ての家が中に入ると実は5階建てで、裏の通りまでうなぎの寝床の様に長い造りになっている建物もあった。

ボルドーの地方を大まかに言うとジロンド県アキテーヌ地方とも言う。

ジロンド地方の人をジロンダンと言うが、フランス革命では薩長同盟の様な役割を果たした。

ジロンダンは相当暴れまくった。誇り高い騎士が多かった。

ダントン、ロベスピエールの時代。いつも団長の左に座っていたのがジロンダンだ。

その時から左派右派という言葉が誕生した。

その誇りを持った地域性はいまだに存在する。

前市長のシャバンデルマスは衆議院議長2回、総理大臣を2回歴任し、しかも大変なスポーツマンであった。

自身でもラグビーをやっていて、ボルドーはサッカーも強く、多少なりとも乱暴なイメージすらあった。

共和党ドゴール大統領、ポンピドゥー大統領に続きシャバンデルマス大統領というのが最有力候補だったが、その後に続くはずのパリ市長シラクの裏切りによって民主党のジスカール・デスタンが大統領になった。

それからと言うものボルドー市は急に冷え込んで行った。これは1970年代の出来事であった。

ちなみに数年前のボルドー市長、アラン・ジュペ(総理大臣2回)もシラク元大統領の裏切りにあったが、巻き返しを図り次期大統領候補と言われた。

このようにしてフランスは各市長が大きな権限を持っている。

大統領と言えどもおいそれと勝手に国内を行き来できない。

必ず行く先の市長へのあいさつが欠かせない。

道上はナポレオン、ドゴールをこよなく愛し、シャバンデルマス市長とは親しさの中にも互いに敬意を表しあう仲であった。

ブルゴーニュでは大きな葡萄畑の事をドメイヌと評する。

南仏に行くとコート(丘と言う意味だが)。これら全てブドウ畑所有の屋号だ。

では何故ボルドーではシャトーと言われるのだろうか?

それは殆どのブドウ畑に城があったからだ。

日本では金持ちを表現するのに蔵が立つと言うが、それは米。

フランスでは城を持つと言う。

それは多くの葡萄酒を寝かせる酒蔵を持つという事に他ならない。

すなわちそれが富の象徴だ。

それだけボルドーには多くのシャトー(城)が存在したのだった。

(通称アキテーヌ皇女)アリエノールが残した富はフランスの食の文化でもあった。

ボルドーから南南東へ約150kmにぺリゴールが在る。

フォアグラ・トリュフ・セップ・パテ・リエット、珍味ぞろいだ。

西へ54kmにアルカッション。アランドロンやサルコジ元大統領も別荘を持っているフランス有数の避暑地。

以前にも書いたが、其処の湾での生牡蠣養殖はフランスの83%を供給している。

西南西へ250km行くとバイヨーヌ。生ハムの美味しい所だ。

これら全てがアキテーヌ地方。

食生活の貧しいイギリスに食とは何たるかを伝えたのだった。

イギリスでは豚をピッグと言うが食べる場合はフランス語のポークと言う。

イギリスではもともと豚を食べていなかったからだ。

ぶどうは英語でグレープと言うが、これはフランス語のグラップを英語読みしただけだ。

そのグラップがドーバー海峡を渡ると乾燥してしまい、乾燥したぶどうを英語ではレーズンと呼ぶ。フランス語のレザンの英語読みだ。

サンジャン・ボルドー駅の裏には食肉解体場があり、最近までフランスの消費牛肉の半分を供給していた。

アントロコットはアントロコット・ボードレーズといって世界的に有名だ。

愚息が小学校の課外授業で解体場に行くと作業場の人たちが色々と教えてくれた。

牛肉にはメルロが合うよ!羊とかジビエにはカベルネ・ソービニオンが合うんだ、とか、肉は解体して3週間ぐらい寝かせてから出荷するのが美味しいんだが今じゃ2週間もすると出荷してしまって嘆かわしいと!とか。

これも随分と昔の話だから、今では一週間くらいで出荷しているはずだ。

道上にはボルドーの水が合っていたのだろう。

居を定めてから50年という長い歳月、ボルドーに住み続けたのだから。

それは食だけではない。人間だ。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史



「古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史」

2015年4月17日



35年前愚息雄峰の事を友人に「彼はボルドーの田舎者」と言って紹介された。
25年前TV大阪社長からTV東京の番組アナウンサーの方に、「ボルドーで幼年時代を過ごした男」と紹介され、その時彼女に「わ~素敵~」と言われた。

確かに30年前からのワイン・ブームでボルドーも有名になった。日本の赤ワインの90%はボルドー産だった。 だがボルドーが1914年、1940年の二度にわたってフランスの首都だった事を多くの日本人は知らない。

ボルドーのワインの歴史は、フランスの歴史と非常に強く結びついている。
ある文献によると、ローマ人がゴールを征服した時(※)に、ブルディガラ(ボルドーの旧名)の地で ブドウ園を見つけたとされている。 (※フランスの旧国名、ゴロワ(ガリア)人はゴールの住人) ブドウ園の存在は、ワインを輸出する港の存在へと大きくつながっていく。

紀元1世紀ごろ、ボルドーのワインはイングランドを含むローマ帝国全土に輸出されていた。 ゴロワ人は大酒飲みだと見られていたので、ローマ人はそのワインを薄めるために水を加えていた。
当時まだ瓶が無い時代、ワインは陶器に詰められ馬車で運ばれていたが、舗装されていない道でよく割れた。 その為に陸路よりも水路が利用されたため川辺にワイナリーが発展を遂げた。

bordeauxボルドーはジロンド川という大河が大きく航海船の運航に寄与した。

上流へ75キロ遡るとドルドーニュゥ川と、ガローヌ川に分かれるが、その川沿いにボルドーという町が繁栄していく。
その分かれ目にブール( Bourg)という地がある 現在のコート・ド・ブール地区である。

セルト(ケルト)人兵士によって運ばれて来た葡萄が改良され、寒さにも強いビテイス・ビテュリカ(Vitis Biturica) というカベルネの元祖のような葡萄によって作られた。
道上が愛飲し続けたChâteau La Joncarde は このコート・ド・ブールを代表するものである。




特筆すべきは 12世紀に、アリエノール・ダキテーヌ(今のボルドー地方)皇女がパリのフランス・ルイ国王と結婚する。 さて、敬虔王ルイに対しアリエノールは奔放な性格。二人の性格はやはり合わず、離婚。 どうやらフランス国王は今で言う草食人間だったようだ。
ところがなんと3ヵ月後にアリエノールは11歳も年下のアンジュー伯アンリと恋に落ち、わずかの間に電撃婚してしまう。 そして2年後、アンジュー伯アンリはイングランド王をも継承し、プランタジネット朝の始祖となるヘンリー2世に即位した 。
アリエノールはフランス王妃の後、イングランド王妃となり、2つの王朝の王妃を経験した稀有な存在となった。

この結婚によって、アリエノールは実家の領有地であるピレネーから北はスコットランドに接するまでの広大な領土を王と共に治めることになり、 ボルドーのワインは瞬く間にイギリスに広がっていった。
それまで不味いワインを飲んでいたイングランド人は、ボルドーのワインに大喜びしたということであった。 この歴史的出来事がボルドーのワインの名声を高めるのに一役買ってくれたというわけである。

この時期の輸出は、後に国際的な容量の単位となる、900リットルの樽でなされていた。重さはなんと999キログラム。 1トンという単位はここで生まれた。
トン(Ton ) とはフランス語で樽を意味する.小さな樽 トノ ( Tonneau )。
この時期のボルドーワインの一番の顧客はイングランド人だった。
12世紀の時点ですでにフランスよりも外国に多くワインを売っていたのだ。
全数量の85%がイングランドと北欧の国々へ輸出されていた。
ボルドーの葡萄園にクラレットと名付けた(※)のはイングランド人だ。
※Bordeaux clairetの名称は、クラレットへの敬意の形だ。
クラレットは薄い透明感のあるワインでロゼワインなども含む。

ヘンリー2世とアリエノールは多くの子供をもうけたが、イギリスとフランスの広大な領地を管理するヘンリー2世とエレオノールは別居が多く、後に離婚。
父母両陣営に分裂した子供を巻き込んでの王位継承の確執を引き起こした。

最終的には二人の愛が冷めた頃に生まれ、父であるヘンリー2世に溺愛されたジョンがプランタジネット朝を継いだが、 彼は失政王・失地王として有名になった。なぜならイングランドにおける大陸の領土をことごとく失ったから。 しかしその反面、ボルドーを手厚く優遇したため、ボルドーにとっては大恩人と言えるであろう。

実のところアリエノールはロワールのアンジューにほとんど滞在し、吟遊詩人など宮廷文化の華を開かせた。 ヘンリー2世も元はアンジューのル・マン出身。
おそらくブルゴーニュやシャンパーニュ地方のワインを愛するフランス王に対して、アリエノールやヘンリー2世はロワールワインを愛飲していたのではないだろうか。

カペー朝のシャンパーニュ、アキテーヌ公のボルドーと南西地域、アンジュー伯のロワール。 どれもワインの産地ばかり。
フランスの歴史とワインの深いつながりを感じざるをえません。

次週は近代のボルドーをお伝えします。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第61話 ボルドーの歴史」

2015年4月17日


35年前愚息雄峰の事を友人に「彼はボルドーの田舎者」と言って紹介された。

25年前TV大阪社長からTV東京の番組アナウンサーの方に、「ボルドーで幼年時代を過ごした男」と紹介され、その時彼女に「わ~素敵~」と言われた。

確かに30年前からのワイン・ブームでボルドーも有名になった。日本の赤ワインの90%はボルドー産だった。

だがボルドーが1914年、1940年の二度にわたってフランスの首都だった事を多くの日本人は知らない。

ボルドーのワインの歴史は、フランスの歴史と非常に強く結びついている。

ある文献によると、ローマ人がゴールを征服した時(※)に、ブルディガラ(ボルドーの旧名)の地で ブドウ園を見つけたとされている。(※フランスの旧国名、ゴロワ(ガリア)人はゴールの住人)

ブドウ園の存在は、ワインを輸出する港の存在へと大きくつながっていく。

紀元1世紀ごろ、ボルドーのワインはイングランドを含むローマ帝国全土に輸出されていた。

ゴロワ人は大酒飲みだと見られていたので、ローマ人はそのワインを薄めるために水を加えていた。

当時まだ瓶が無い時代、ワインは陶器に詰められ馬車で運ばれていたが、舗装されていない道でよく割れた。

その為に陸路よりも水路が利用されたため川辺にワイナリーが発展を遂げた。

bordeaux

ボルドーはジロンド川という大河が大きく航海船の運航に寄与した。

上流へ75キロ遡るとドルドーニュゥ川と、ガローヌ川に分かれるが、その川沿いにボルドーという町が繁栄していく。

その分かれ目にブール( Bourg)という地がある 現在のコート・ド・ブール地区である。

セルト(ケルト)人兵士によって運ばれて来た葡萄が改良され、寒さにも強いビテイス・ビテュリカ(Vitis Biturica) というカベルネの元祖のような葡萄によって作られた。

道上が愛飲し続けたChâteau La Joncarde は このコート・ド・ブールを代表するものである。

特筆すべきは12世紀に、アリエノール・ダキテーヌ(今のボルドー地方)皇女がパリのフランス・ルイ国王と結婚する。

さて、敬虔王ルイに対しアリエノールは奔放な性格。二人の性格はやはり合わず、離婚。

どうやらフランス国王は今で言う草食人間だったようだ。

ところがなんと3ヵ月後にアリエノールは11歳も年下のアンジュー伯アンリと恋に落ち、わずかの間に電撃婚してしまう。

そして2年後、アンジュー伯アンリはイングランド王をも継承し、プランタジネット朝の始祖となるヘンリー2世に即位した。

アリエノールはフランス王妃の後、イングランド王妃となり、2つの王朝の王妃を経験した稀有な存在となった。

この結婚によって、アリエノールは実家の領有地であるピレネーから北はスコットランドに接するまでの広大な領土を王と共に治めることになり、ボルドーのワインは瞬く間にイギリスに広がっていった。

それまで不味いワインを飲んでいたイングランド人は、ボルドーのワインに大喜びしたということであった。

この歴史的出来事がボルドーのワインの名声を高めるのに一役買ってくれたというわけである。

この時期の輸出は、後に国際的な容量の単位となる、900リットルの樽でなされていた。重さはなんと999キログラム。1トンという単位はここで生まれた。

トン(Ton ) とはフランス語で樽を意味する.小さな樽 トノ ( Tonneau )。

この時期のボルドーワインの一番の顧客はイングランド人だった。

12世紀の時点ですでにフランスよりも外国に多くワインを売っていたのだ。

全数量の85%がイングランドと北欧の国々へ輸出されていた。

ボルドーの葡萄園にクラレットと名付けた(※)のはイングランド人だ。

※Bordeaux clairetの名称は、クラレットへの敬意の形だ。クラレットは薄い透明感のあるワインでロゼワインなども含む。

ヘンリー2世とアリエノールは多くの子供をもうけたが、イギリスとフランスの広大な領地を管理するヘンリー2世とエレオノールは別居が多く、後に離婚。

父母両陣営に分裂した子供を巻き込んでの王位継承の確執を引き起こした。

最終的には二人の愛が冷めた頃に生まれ、父であるヘンリー2世に溺愛されたジョンがプランタジネット朝を継いだが、彼は失政王・失地王として有名になった。なぜならイングランドにおける大陸の領土をことごとく失ったから。

しかしその反面、ボルドーを手厚く優遇したため、ボルドーにとっては大恩人と言えるであろう。

実のところアリエノールはロワールのアンジューにほとんど滞在し、吟遊詩人など宮廷文化の華を開かせた。

ヘンリー2世も元はアンジューのル・マン出身。

おそらくブルゴーニュやシャンパーニュ地方のワインを愛するフランス王に対して、アリエノールやヘンリー2世はロワールワインを愛飲していたのではないだろうか。

カペー朝のシャンパーニュ、アキテーヌ公のボルドーと南西地域、アンジュー伯のロワール。

どれもワインの産地ばかり。フランスの歴史とワインの深いつながりを感じざるをえません。

次週は近代のボルドーをお伝えします。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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